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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:より良い社会とは)

より良い社会とは

heartmindの回答

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  • heartmind
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回答No.14

貴重なご意見ありがとうございます。 『協調性』と『皆仲良く』の重要性は、多分「三人寄れば文殊の知恵」 の重要性を成功体験させる意図があるかもしれません。 分け隔てなく仲良くすることは相性や価値観の違いがあるので不可能 だと思いますが、ロールプレイングとして体験することにより、 全体的な有益性をやはり体感させる意図がありそうです。 また、表面的な好き嫌いで感覚に頼るだけの人間関係を築くよりも、 人間に対する公正な配慮を心がける為の教育だったのかもしれません。 しかし、それが子供心にもストレスになるほどの緊張感を生むような ことだったのなら問題かもしれません。 ただその教育方針によるストレスなのかどうなのかあとふと思ったの は 「自分が仲間外れにならないように皆と仲良くしない」 という気持ちというのは、どちらかというと教育方針そのものが原因 というより、とにかくそういう方針で作られた空気を乱さないように という、皆我慢してやってるんだから勝手なことはできないという ところからきてるのではないでしょうか。 例えば教育方針が、個性を重んじる方向に極端に行き過ぎていた場合も 皆我慢して、頑張って個性的にふるまっているのに勝手に人の真似する ようなことはできないとなるのではないでしょうか。 なので、いじめを生むほどの緊張感というのは、極端な教育方針に 偏り過ぎてしまった為に、自然な人間の感情を否定し過ぎたという ことかもしれません。 教育は人間を育てることなので、理想をもとに理念があるのはしかた の無いことだと思います。なのでどういう理念をもってしても、 現実社会とギャップはつきものだと思います。 『平等』という理想そのものは、そんなに悪くは無いんじゃないかと 個人的には思っいますが、 それが「緊張感を伴うストレスを感じるほどの極端さだった」というの が、すいませんが、まだピンときてません。 厳しい罰則規定があったとかなんでしょうか。

moumou92
質問者

お礼

ご回答いただき、ありがとうございます。

moumou92
質問者

補足

返答がすっかり遅くなってしまって、すみません。 >例えば教育方針が、個性を重んじる方向に極端に行き過ぎていた場合も >皆我慢して、頑張って個性的にふるまっているのに勝手に人の真似する >ようなことはできないとなるのではないでしょうか。 私たちが子供の頃も没個性が問題になっていたことがありましたが、そこのところが私の 一番理解しがたいところで、果たして個性のない人間がいるのかどうか。 もしこの社会で個性がない人間がいると考える人間がいるなら、それは一人の人間の中にある 独自性を発見する感受性がないということにはならないでしょうか。私は今まで生きてきて、 個性がない人間に出会ったことはないです。個性がないとは一体何なのだろうかと思います。 私は中学の頃の放課後に残って合唱したりするのがすごく嫌でした。皆で協調して歌を歌うと 一つになれるみたいな幻想があるんだろうと思われますが、酷く表面的で全く楽しくなくて、 教師からはそれを楽しいと思えないのは精神的にゆがんでいるので、自分が正してあげないと みたいな感じで本当に煩わしく憂鬱でした。 当時は自分でも自分は酷く変わっているんだと思っていました。皆で歌を歌って楽しいのは、 お互いに解りあえていると思える人だから楽しいのであって、お互いが理解し合おうともしてい ない人と歌っても全く楽しくなく、正直不快でした。何かの宗教を押し付けられているかのよ うな、気持ちの悪いものがありました。 そもそも中学生と言えば思春期で、自我を確立することが必要な時期に、わざわざ皆と同じこと をさせるのがいいこととは思えません。日本人はとかくアイデンティティがないと言われていま すが、教育にアイデンティティを確立させるようなものが全くと言ってないように思えます。 資本主義社会が極まってきて、これからは個人の力が試される時代になるのに、アイデンティティ がないのではいくら知的能力を高めても国際社会で全く歯が立たないということにならないかな とも思いますし。 自分と同じだから理解し合うことができるということは、自分と同じ人は理解できない、理解し なくてもいいんだということにならないでしょうか。それなら相手と違っていても理解しようと する心を育んだ方が社会に出たときに役に立つと思います。相手を思いやる気持ちを、感受性を 豊かにするような教育の方がいいのではないかと思いました。

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