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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:より良い社会とは)

より良い社会とは

このQ&Aのポイント
  • 子供の頃から平等教育に疑問を感じているが、大人になっても平等の素晴らしさが理解できない。
  • 高校・大学の教育では実践的な教育が必要であると考えるが、平等を教育に取り入れている理由は道徳教育の一環である可能性がある。
  • 平等や死刑反対論者には情緒的な思考力が欠けているような印象があり、自己批判のできない人もいる。

質問者が選んだベストアンサー

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  • heartmind
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回答No.14

貴重なご意見ありがとうございます。 『協調性』と『皆仲良く』の重要性は、多分「三人寄れば文殊の知恵」 の重要性を成功体験させる意図があるかもしれません。 分け隔てなく仲良くすることは相性や価値観の違いがあるので不可能 だと思いますが、ロールプレイングとして体験することにより、 全体的な有益性をやはり体感させる意図がありそうです。 また、表面的な好き嫌いで感覚に頼るだけの人間関係を築くよりも、 人間に対する公正な配慮を心がける為の教育だったのかもしれません。 しかし、それが子供心にもストレスになるほどの緊張感を生むような ことだったのなら問題かもしれません。 ただその教育方針によるストレスなのかどうなのかあとふと思ったの は 「自分が仲間外れにならないように皆と仲良くしない」 という気持ちというのは、どちらかというと教育方針そのものが原因 というより、とにかくそういう方針で作られた空気を乱さないように という、皆我慢してやってるんだから勝手なことはできないという ところからきてるのではないでしょうか。 例えば教育方針が、個性を重んじる方向に極端に行き過ぎていた場合も 皆我慢して、頑張って個性的にふるまっているのに勝手に人の真似する ようなことはできないとなるのではないでしょうか。 なので、いじめを生むほどの緊張感というのは、極端な教育方針に 偏り過ぎてしまった為に、自然な人間の感情を否定し過ぎたという ことかもしれません。 教育は人間を育てることなので、理想をもとに理念があるのはしかた の無いことだと思います。なのでどういう理念をもってしても、 現実社会とギャップはつきものだと思います。 『平等』という理想そのものは、そんなに悪くは無いんじゃないかと 個人的には思っいますが、 それが「緊張感を伴うストレスを感じるほどの極端さだった」というの が、すいませんが、まだピンときてません。 厳しい罰則規定があったとかなんでしょうか。

moumou92
質問者

お礼

ご回答いただき、ありがとうございます。

moumou92
質問者

補足

返答がすっかり遅くなってしまって、すみません。 >例えば教育方針が、個性を重んじる方向に極端に行き過ぎていた場合も >皆我慢して、頑張って個性的にふるまっているのに勝手に人の真似する >ようなことはできないとなるのではないでしょうか。 私たちが子供の頃も没個性が問題になっていたことがありましたが、そこのところが私の 一番理解しがたいところで、果たして個性のない人間がいるのかどうか。 もしこの社会で個性がない人間がいると考える人間がいるなら、それは一人の人間の中にある 独自性を発見する感受性がないということにはならないでしょうか。私は今まで生きてきて、 個性がない人間に出会ったことはないです。個性がないとは一体何なのだろうかと思います。 私は中学の頃の放課後に残って合唱したりするのがすごく嫌でした。皆で協調して歌を歌うと 一つになれるみたいな幻想があるんだろうと思われますが、酷く表面的で全く楽しくなくて、 教師からはそれを楽しいと思えないのは精神的にゆがんでいるので、自分が正してあげないと みたいな感じで本当に煩わしく憂鬱でした。 当時は自分でも自分は酷く変わっているんだと思っていました。皆で歌を歌って楽しいのは、 お互いに解りあえていると思える人だから楽しいのであって、お互いが理解し合おうともしてい ない人と歌っても全く楽しくなく、正直不快でした。何かの宗教を押し付けられているかのよ うな、気持ちの悪いものがありました。 そもそも中学生と言えば思春期で、自我を確立することが必要な時期に、わざわざ皆と同じこと をさせるのがいいこととは思えません。日本人はとかくアイデンティティがないと言われていま すが、教育にアイデンティティを確立させるようなものが全くと言ってないように思えます。 資本主義社会が極まってきて、これからは個人の力が試される時代になるのに、アイデンティティ がないのではいくら知的能力を高めても国際社会で全く歯が立たないということにならないかな とも思いますし。 自分と同じだから理解し合うことができるということは、自分と同じ人は理解できない、理解し なくてもいいんだということにならないでしょうか。それなら相手と違っていても理解しようと する心を育んだ方が社会に出たときに役に立つと思います。相手を思いやる気持ちを、感受性を 豊かにするような教育の方がいいのではないかと思いました。

その他の回答 (13)

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.13

学校教育の目的は仰る通り子供の能力をのばすことだと思います。 しかし、クラシックなコミュニタリアニズムにおいては、 「のびたの癖に生意気だ」という、のびたは、のびたの役割を すればよいという理屈はその目的と合いません。 できれば、のびたもすねおやジャイアンやできすぎのスキルを 身につけるチャンスをあまねく与え、大人になった時にどの役割 が適しているかを選択するシステムの方が合理的です。 クラシックなコミュニタリアニズム教育の反省が極端な平等主義 に反動となっているのかもしれません。 ところで個人的に気になるのは、 >小・中学校の教育で感じていた閉塞感 とはどういったことなのかを知りたいのですが、もしよろしければ 教えていただけるとありがたいおですが。

moumou92
質問者

お礼

ご回答いただき、ありがとうございます。

moumou92
質問者

補足

具体的に閉塞感とは、『協調性』と『皆仲良く』を強いられる雰囲気です。 通信簿などに書かれるのですが、子供ながらに皆と分け隔てなく仲良くすることは果たして 可能なのだろうかと思っていました。大人でも難しい。もしそれが可能であるなら、世の中 から嫁姑問題は根絶されているだろうし、世界から戦争もなくなっていると思います。 そんな難しいことを常に要求されて、結構ストレスでした。 学校の先生が本当に生徒皆に対して分け隔てなく接せられているのかどうかということも問 われます。でも人間なので皆に分け隔てなくと言うのは無理な気がします。 クラスにはいつもちょっとした緊張感がありました。とにかく皆と仲良くしないといけない。 自分が仲間外れにならないように。ただ合わない人とも交流しないといけない環境なので、 ストレスからか時々小さないじめがありました。その手のいじめは割と皆なにかしらで経験 したことがあるのではないかと思います。 高校生になると、気が合う人としか仲良くできなくても非難されないから一気に楽になりましたが。 小・中学生の頃はとにかく息苦しかったです。小さな子供を持つ母親の一番の悩みが「ママ友 とうまく付き合えるかどうか」というのは、子供の頃仲良くすることを強いられ、大人になる とそういう義務から免除されてたのがまた子供の頃のように皆と仲良くできないと人として ダメ人間の烙印を押されるのではないかと不安を感じるのではないでしょうか。大人でも皆で 仲良くしなきゃダメなんだと思うことはストレスなのに、子供なら尚更な気がします。 きっと学校の先生は良かれと思ってできるだけ『平等』になるようにしているのでしょうが、 私は平等思想がそんなに素晴らしい思想だとは思えなくて。日本人には合わないのではない でしょうか。 日本人は元々とにかく色んなことに感謝する信仰心を持っていて、海や山に対して感謝したり、 ご飯が食べられることに対して感謝したり、自分が生きていることに感謝したり、とにかく 何にでも有り難いと思える民族だったはず。感謝や謙譲の心が日本人を支えてきたのに、 『平等』という思想に置き換えられ何物にもあまり感謝しなくなっているのでは思えます。

  • idonoyoko
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回答No.12

誰もの命を何よりも優先に考えることの価値と、 他と違うことにこその人間の素晴らしさと、 どちらが重いと御思いでしょうか。

moumou92
質問者

お礼

ご回答いただき、ありがとうございます。

moumou92
質問者

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二つの言葉の違いがよくわかりませんでした。 重いと思いで韻を踏んでますね。失礼しました。

noname#194996
noname#194996
回答No.11

これまでの多くの回答者様の傾聴に値するご意見を拝聴しておりましたが、学校教育に対するご質問者様の疑問などに関して、、些少ながら私なりの思いを付け加えさせていただきたいと思います。 私自身現在行われています日本の教育、特に高校までの教育について疑問に思ったことはありません。 人間は皆”生まれながらにして平等だ”という思想は重要なものであり、いくら強調しても過ぎることはないと思います。しかしそれだけが今の教育で突出して過度に強調されているとは考えていません。 私なりに思っていることは、社会でのそういった常識的に必要な知識と知育は、人間が心から皆平等なのだと理解できるために必要不可欠なものではないかということです。しかし、インドの階級制度などにみられるような深刻な問題は今の日本社会にはあまりないと思えます。現在までの日本が階級社会でないことは常識だと私は思っています。 昔から日本人は「赤子と地頭には勝てぬ」というような諺にみえるように人間の平等意識をしっかり理解しており、したがって今の平等教育はむしろ特殊な被差別意識の払拭に重点が移されているように思えます。 質問者様が危惧しておられるのはいわゆる”悪平等”と言われているもので、多分その弊害がたとえば首相の短期交代などに現れているのかと考えますが、確かに今の社会が特にマスコミのうすっぺらな論評などに見られることはあろうかと思います。また一面では社会主義の行き過ぎから生活保護過程の増加にもつながっているのでしょう。それらは私も日本の悪い点でと思いますが、一面それは民主主義というもののの本質的な欠点ともいえるもので、今後徐々に修正されていくのではないかとも思います。 >他と違うことにこそ人間の素晴らしさがあると思うのですが、 これには私も同感です。 日本は現在でも芸能界をはじめ、充分すぎる自由があり、多様な社会だと私は思っています。これは基本的に日本社会がびょうどうであればこその現象ではないかと思っています。 相当質問者様の論旨からはずれたかもしれません。 何らかのご参考になればと思い書かせてたただきました。

moumou92
質問者

お礼

ご回答いただき、ありがとうございます。

moumou92
質問者

補足

>人間は皆”生まれながらにして平等だ”という思想は重要なものであり、いくら強調しても >過ぎることはないと思います。 私も人間は平等であるべきというのは全くその通りだと思います。ただ、強調しても過ぎるこ とがないというのは本当でしょうか。もし本当に平等思想が素晴らしいものなら、何故ソ連や 中国や北朝鮮はあんなにも貧しい国になってしまったのでしょうか。貧しい国がたまたま社会 主義国だったのでしょうか。 もし人間が物体のない魂だけの存在であるなら、それは間違いなく平等な存在なのだと思いま す。でも私たちは現実問題、食べ物を食べないと生きていけません。身体があるというのは そういうことです。教育とは生きていくときに役立つものである必要があるということが一つ と。 あともう一つは、平等が行き過ぎていて、それが逆に皆と同じでないと受け入れられない、 排他的な社会を作りだしているのではないかということです。私が子供の頃も学校にそのよう な風潮があったのですが、少し前にYK(空気読めない)という言葉が流行った時、今でも そのような風潮が変わってないんだなと思いました。逆にそのような風潮が強まっている感 じもあります。 >今の平等教育はむしろ特殊な被差別意識の払拭に重点が移されているように思えます。 もしそうであるなら、平等よりも違う価値観も受け入れることができる柔軟性こそ子供には 必要なのではないでしょうか。 生活保護家庭の増加と教育の関係性はちょっとわかりませんが。健康なのに仕事ができない 社会から排除されているように感じている若者が増えていることは、教育と何の関係性もない とは言い切れないのではないでしょうか。 私は平等の精神性も人間には必要であると思います。が、現実問題人間には平等なところは 何一つない。顔の美醜も能力も体力も育つ環境も全てが同じところはなく、乗り越えるべき 課題は個々で違っています。教育とは現実に立ち向かう勇気を与えてくれるものであって 欲しいと思うのです。 一人一人の子供の素晴らしさに気づくことよりも、皆が同じになってくれた方が管理する側 としては簡単なんだと思います。平等ももちろん大切だと思いますが、現実的に子供に夢や 希望も与えられるそんな教育、そんな社会になって欲しいと思ったのです。

回答No.10

kigurumiさんへ >なんで彼らは悪魔を2000年間も支持し、巨大化することを援助してきたんでしょうね? 圧倒的権力を持つ存在を仮定して考える。つまり権力のプロパガンダを真に受けるから つじつまが合わなくなるのだと思います。 教皇といえども多数の信者の意識的・無意識的総意を無視することができない存在でしかないのではないでしょうか。 >その献金された金は麻薬業界や大量破壊兵器やポルノ業界の株の購入につかわれ おそらく、教団にぶらさげっている企業が系列化されていて、それらの従業員に信者が多くいて、同時に、有力者ごとに派閥化され、派閥内で情の関係が生まれていると思います。 そして、教皇になるためには自派閥の企業と従業員の支持を固めるために養わなければならない。そのためには効率のよい投資先が必要だっただけでは。 家族に質の良い生活をさせる為に、穀物や資源投機にまわり貧しい人を苦しめることには目をつぶって投資ファンドに出資したり、家族の為に買い占めたりするのと同じでしょう。 いろいろ背負うと高潔な人間も宿命的に堕落します。 まあ、能力以上に背負うから駄目なんだという意見もありますが・・・ まあ、特定の人種や宗教が邪悪というわけでもないでしょう。 圧倒的な武器や地位をもてば、どんな人種も人間も簡単に邪悪になるんじゃないでしょうかね。ご存知だとは思いますが、スタンフォードの心理実験ですね。

moumou92
質問者

お礼

ご回答いただき、ありがとうございます。

moumou92
質問者

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>まあ、特定の人種や宗教が邪悪というわけでもないでしょう。 そうですね。真面目に信仰して(自分で良いと思えるところを信じ)、幸せになっている人 もいると思います。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.9

>ただコントロールされててもそれで皆が幸せになれる方にコントロールされていればいいのですが。 はい、私も不平等ではないのなら、それはそれで支配されていてもいいと思っています。 プラトンは、ごく一部の人のみイデア界を知覚することができ、その人の言うとおりのことをやっていれば、イデア界を知覚することができない人も、善のみをやり、良い人間として人生を全うできるとした。 イデア界というのは普遍性の善の世界のこと。 微塵も悪が無い世界です。 人間はもともとイデア界にいたが有限の肉体に入ったために、イデア界でのこと=まったくの善 がわからなくなったとした。 イデア界は普遍で変化しないが、肉体は滅びるので、肉体に宿った段階で悪を引き起こすものとなったという考えです。 しかも善がなんたるかわからないから、自分がやっていることが善なのか悪なのか比較しようもなくわからないってわけです。 そうなると よかれと思ってやっていることすら 悪の可能性もある。 しかしごく一部の人は有限の肉体に入りながらも、イデア界を知覚することができ、それを比較して今の行為が善か悪かわかるので、悪を行わずに済み、判断できるそのごく一部の人の命令とおりにやっていれば、善がなんたるかわからず悪をやってしまうこともなくなる ってわけです。 この考えがキリスト教になりました。 教皇のみ神の言葉を聞くことができるので、教皇が言うことにしたがってさえいれば、信者は悪を行うことなく、死後天国 つまり イデア界に戻れる という考え。 教皇はイデア界を知ることができるってのが前提でなりたつ理論。 教皇は神の地上の体現者であり、神とまったく同じことをする 神の振る舞いとおりにする というのが前提です。 コンドームは禁止し、なるだけセックスは控え子供を持たないようにすること。 できれば一生童貞でいるのが望ましい。 どうしても子供が欲しい場合は、セックスをしてもいいが、悪を行ったことになるので、ざんげのため、全身を鞭で打ち反省をしなければならない。 レイプされて妊娠した場合は、それは神がレイプ魔に「あの女を犯して身ごもらせろ」と命令したからなので、レイプ魔の子供を妊娠したものは、神からの贈り物を愛し大事に育て、レイプ魔の特徴を持つ人間を祝福 つまり 増やさなければならない。 というわけで、教皇の支配するローマ・カトリックではレイプはOK、犯されて妊娠したものは堕胎が許されない。 レイプ魔の子孫を反映させ神の計画に賛同しなければならない、となっているんです。 裏をかえせばそういうことです。 おかしいじゃないか・・・ と思いますが、信者はまったくの善がなんたるかわからないのだから、当然神の御意思もわからないので、おかしいと思っても、神のご意思に従い女を犯したくなったら犯し、犯された女は神に選ばれたとして喜んで出産しレイプ魔の子供を大事に育てるべきなのだそうです。 ここまでくると よほどのアホではない限り、神の名を騙り人々を自分の利益のために利用する大悪党だと見抜けないはずがない。 が、死んでも肉体が腐敗しないものは奇蹟を起こしたものだと福列されているが、実際は表面に蝋が塗ってあり内部は腐敗しており、人々を騙しているって見抜けず、嘘を真実だと信じているドアホウもいる。 自分も死後肉体が腐らず天国にいきたいと、詐欺師たちに献金し、その献金された金は麻薬業界や大量破壊兵器やポルノ業界の株の購入につかわれ、それらの業界を超え太らせている つまり 自分も悪を助長することに金を使っていると見抜けないドアホウ信者もかなり多い。 善の集団どころか悪を引き起こし、悪を超え太られるためにせっせと献金するドアホウ信者。 悪魔の手下たち。 残念ながら彼らは自分が悪をやっていると馬鹿すぎるからわからない。 「イデア界がなんたるか知らないくせに 俺たちはポルノと麻薬と核兵器を超え太らせ、まったくの善の世界を築こうとしているのだ」と言われても、、、馬鹿じゃない限り、その悪の手下の信者たちこそが、頭がおかしいと見抜ける。 イデア界がどんなものか知る必要もなく心で善悪はわかる。 で、なんで2000年間も人々は悪を超え太らせることをせっせとしつづけたのか、私は疑問なんです。 西洋の人々がアジアの人々に比べてものすごく知能が低く心が無いロボットだとは思えない。 なんで彼らは悪魔を2000年間も支持し、巨大化することを援助してきたんでしょうね? 世界不思議のひとつです。

moumou92
質問者

お礼

ご回答いただき、ありがとうございます。

moumou92
質問者

補足

わかります。不合理に金を稼ぎたいときや戦争したいとき利用されますね。 ただ皆が急にもうキリスト教はやめたとなると、次に一体何を信仰すべきかという問題が あります。新興宗教に流れるか。それはそれでどうなんだろうという感じですね。 自分自身を信じることができたら、人間がそれ程までに強くなり、自分の頭で物事を 考えることができるようになれば、騙されることもないのかもしれませんね。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.8

#3です。 >ただ、トヨタの重役が公立の小・中学校に通っていたかどうかは微妙ですね。 私の高校時代(公立)の友人はトヨタのトップクラスの重役ですが、その方は公立の小・中学校に通っていました。

moumou92
質問者

お礼

ご回答いただき、ありがとうございます。

moumou92
質問者

補足

確かに公立の小・中学校に通ってたのかもしれませんが、私が知りたいのはどちらかと 言うと、人に対する思いやりが平等思想でしか養われることができないのかどうかとい うことなんです。

回答No.7

No.2です。お礼ありがとうございます。 >(1)地球環境の限界が現実的なものであるかどうかの疑問。ただの杞憂ではないかと。 >(2)ボーダーレス化やグローバルが実際に市民的主体であるかどうかの疑問 >(3)欧米の支配の客体であったアジアというのも、日本の一般市民が欧米の支配を現実的 に感じているかどうかの疑問、欧米の支配を感じているのは一体誰なのかという疑問 リンク先の内容は、現在進行中の上記の事柄の説明は、過去の事柄の説明に対して歯切れが悪いですね。その歯切れの悪さが質問者さんの疑問を生んでいるような気がします。 個人的意見ですが (1)は地球環境というより、大規模な世界戦争というものが起こせなくなり世代交代や基幹産業の交代、政治機構の革新が進まぬまま新しい事態に対応しなければならないことに原因があると思います。まあ、戦争が無いのはいいのですが戦争に依存していた部分を手当てしないといけないのでしょうね。 (2)の市民的主体というのはグローバルエリートを指すものだと思います。 まあ、グローバル経済の基盤はアメリカが政治力と軍事力で提供したものですから アメリカの衰退とともにグローバル経済も変質するものと思います。

moumou92
質問者

お礼

ご回答いただき、ありがとうございます。

moumou92
質問者

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民衆の不安を煽って、自分たちに都合の良い何かをしたい人がいるんだろうなと思いました。

回答No.6

良い社会を考えるときには、助け合いの成り立つ社会か、奪い合いでしか成り立たない社会かを考えるのが重要だと思います。 大陸の国々で国境を接して異民族が共存し、国境を越えて多民族が合流しているところでは、どうも、助け合いよりも奪い合いが優先の社会に成りがちではないでしょうか。アメリカ合衆国、南米諸国、中国、ドイツなど、強い民族が弱い民族とまじりあえば必ずと言って良いほど奪い合いが起き、支配民族と被支配民族ができる。場合によっては支配民族に対して被支配民族が逆襲する(ドイツでおきたユダヤ人排斥)。 その点、日本は、過去にアイヌなどの少数民族の扱いで問題を起こしたかもしれませんが、概ね、同じ民族が助け合って生きている。平等かといえば、個人の遺産相続を認める社会ですから、経済的に平等ではありえないし、経済が不平等であるかぎり、教育や学問だって平等にはならない。相対優位の世代間拡大再生産が起きている。 でも、大災害など、助け合いが必要になったときに自然に助け合いができる社会を維持している。 他の国では、「大災害とは奪い合いが出来るチャンス」だとばかりに、暴動が起き、略奪が起きる社会もある。 日本以外の島国を見るとどうでしょうか。 イギリス人に侵略・征服される前のスリランカやニュージーランド、アメリカ人に征服される前のフィリピン、そして中国人に支配される前の台湾など、島国は民族が助け合いながら生きてきたのではないでしょうか。 この世にアングロサクソンと中国人がいなければどんなに良い社会になったか、などと言っているのではありませんよ。 アングロサクソンや中国人がいなければ、ゲルマンや日本人が同じことをしているかも知れませんからね。 良い社会=助け合いの成り立つ社会=島国、という安易な連想なのですが、あながち外れていないと思います。 しかし、世の中はボーダーレスで、島国に住んで居っても、国際競争の弱肉強食、奪い合い、Winner takes allの世界になってしまった。 島という物理的な国境で守られる社会から、物理的な国境以外で守られる助け合いの社会、国境を越えたギルドやネットワークなどで、助け合うことが重要になります。 残念なことに、物理的な境界で仕切られた島国の中は段々と奪い合いの社会に移行してゆくような気がしています。

moumou92
質問者

お礼

ご回答いただき、ありがとうございます。

moumou92
質問者

補足

社会が拡大して新しい繋がりができることは、閉塞的な社会を打破するのに役立つ のかもしれませんが、もう少し国内での繋がりも欲しいところです。 奪い合いの社会・・・。私も日本がこのままこの方向性で行くなら、食べることにも 事欠くような、不景気なんて生易しかったなんていうような社会になるのではと少し 不安を感じています。治安の悪化で銃の所持が許されたり。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

平等教育ですか。 ○何か平等についての誤解があるようですね。平等には二通りの使いかたがあるのですね。 一つ目は、機会の平等(チャンスを平等に与えるという意味です。) 二つ目は、結果の平等(結果が平等であるべきという意味です。) 学校教育は結果の平等を担保してはいないはずですね。結果平等であれば全員100点もらえますからね。 学校教育で言うところの義務教育は、機会の平等を担保しているのですね。ある程度の年齢までは教育の義務を負わせるという形ですが、全ての子供に教育の機会を与えているということですね。 でも結果の平等は押し付けていないはずですよ。小学・中学・高校にも私学はありますし、どこの高校を出ても大学入試の難関はありますよね。 社会主義国家にしても全員が役人や指導者になれるわけでもないので完全に結果平等とはなっていませんね。 つまり、義務教育というのは社会生活を営むための最低限の知識を養う場所ですから、ある程度金太郎飴のようになってもしかたがないという考えかたが根底にあるのですね。でも実際は機会を与えているだけで結果の平等など求めてはいないということは高校・大学、社会人となるにつれわかるはずですよ。 なぜなら、本来、自由な国家ですからね。自由は結果の不平等を必ず生みますからね。 勉強しようがしまいが結果の不平等はついてまわるのですね。何年か後には隣に座っていた算数もできなかった同級生が大手チエン店の大社長になったりね。でもどのような結果が訪れようとも少年時代同じ学校で部屋で学んだということは大切な時間になると思いますよ。 才能があるとかないとかは少年時代は忘れてもいいのではないかとも思いますね。ただ、特に才能のある子で義務教育がわずらわしいのであれば学校へ行く必要もないでしょう。義務教育とはそういう子供のためにはできていないということですね。エジソンやヘレンケラーも学校には行っていませんしね。 私も義務教育時代に良き思いではありませんね。小学時代は良く廊下に立たされましたから。 でもね、機会の平等は大切なことなのです。といいたいのですね。

moumou92
質問者

お礼

ご回答いただき、ありがとうございます。

moumou92
質問者

補足

>でも実際は機会を与えているだけで結果の平等など求めてはいないということは >高校・大学、社会人となるにつれわかるはずですよ。 高校や大学で気づける人はいいと思います。ただ義務教育は小学6年・中学3年 を足して9年間ととても長いです。高校3年・大学4年と合わせて7年。 大学まで行って気づける人はいいですが、義務教育だけの人や高校の3年の間に 自分で気づくようにとは少し酷なのではないかと思えます。 学校ではことあるごとに平等(社会主義的)と教わってきたのに社会に出たら急に 合理的なの資本主義社会になるのです。それなら初めからもっと社会で生き残る ために必要なことを教えるべきではないでしょうか。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.4

集団が家族だけなら、その家族の長が決めたことが集団のルールになりますよね。 しかし 複数の家族が集まる集合体だと、家長の数だけ正しさが生じる。 それでは困るので、家長の中からさらに長を選び、その人の判断を集団全体の善だとするわけです。 ハンムラビ法典のハンムラビも、集団におけるルールを設定した。 そのハンムラビ法典を吟味し、細かいところを自分の民族に即したものに改変したものがユダヤ人の律法。 改めてルールってものを制定したわけです。 日本も漠然としていたものを整理して、聖徳太子とかが作っていったわけです。 さらに後の人が加えたり修整したりしていった。 現代の哲学は、前に時代に正しいとされたものを吟味し修正するという作業になっている。 ですから法律も哲学なわけです。 日本でビデオ規格でVHSとベータ戦争があったそうです。 そのとき松下幸之助の哲学により、VHSの方に彼は軍配を上げた。 <VHSは質が悪いが安く作れる、商品価格が安ければそれだけ消費者は喜ぶ、ゆけに安く作れるVHSの方がより多くの人に益を与えられる> メインは消費者で、消費者の益を考えたわけで、価格が安いほうが多くの人が手に入れられる、優秀な高い商品より性能は悪いが多くの人が買える商品が社会にとって利益をもたらす という考え。 死刑制度は、反省の色がまったく無い人に下されますよね。 昨日、秋葉原の通り魔事件で死刑判決が出た。 刑務所に入っている人の多くは脳に障害を持っていると思える。 秋葉原の通り魔事件の犯人も、脳に障害があったと思える。 ただし、今の段階ではアメリカもそうですが、研究がまだ途中段階なので、犯罪を起こす予備軍がどういう脳かは把握しているが、トリガーまでコントロールすることを政府はできないので、犯罪予備軍がトリガーにより犯罪をおかさざるを得なかった場合、それはその個人に責任があるとしているので、脳に障害があるからといって減刑にはしない。 私が怖いと思えたのは、社会をコントロールするごく少数の人が存在すること。 ウーマン・リブはCIAが引き起こしたものらしい。 ウーマン・リブ活動をする女性たちに資金を渡し、雑誌社に取り上げさせ、ウーマン・リブを大きくしたらしい。 虐げられた女性たちに人権を与えるため? いえ 政府が税金を多く取れるようにするため。 それまでは女性は家にいて子育てしていたわけです。 男が社会に出て働いて税金を納めていたわけです。 もし女性が男女平等、男と肩を並べて働く、男と同じ仕事内容なら同じ賃金をもらう ってなると、今まで国民の半分の男からしか税金を取れなかったのに、残り半分からも税金を取れるようになりますよね。 母親が仕事に出ている間、子供たちは政府が預かって、政府が望むような人になるように政府が学校で教育をする。 母親に教育させない。 政府が望む人に政府が子育てをする。 その子が大きくなったら育て親の政府の言うことをもっともだと何の疑問も持たずに従ってくれる。 アメリカに小学校の途中から親の転勤でずっと渡っていた人が、大学留学で日本にやってきて、日本は変だと指摘する。 日本人は変だと思わないことを変だと言う。 あまり前 常識が アメリカと日本の教育では違うから。 なにかあったとき、親に意見を求めず、同じ教育を施された人に意見を求める。 その方が理解できるから。 そんなことを考えると、当たり前だと思ってること、常識、共通了解って、いったいどこから来てるのか、本当にそれは正しいことなのか に疑問を抱くようになる。 が、しかし、自分も政府によって教育を受けているので、説明をするとき政府によって受けた教育から説明をするしかないわけで。 しかも、すごく納得いくもので、やっぱり教育は正しかったと思うわけで。 それともうひとつは、一滴の水は腐るが、大量の水が絶対に腐らないとは言えないが、非常に腐りにくいってこと。 だから、多くの人が教育を受けて正しいと思って受け入れたことは、自分も正しいと思う以上 やはり正しいのではないかと思える。 で、「これからの正義の話をしよう」を聞くと、人によって正しさが違い、違いがある人々が、それぞれ干渉せずに別々に暮らす社会より、違いがあるものが同じ社会で暮らすほうが、発展があるって述べていた。 ぶつかりあうことで、正義に向かうって考えみたい。 これがコミュニタリアンの考えらしいです。

moumou92
質問者

お礼

ご回答いただき、ありがとうございます。

moumou92
質問者

補足

コントロールは絶対されてますね。ただコントロールされててもそれで皆が 幸せになれる方にコントロールされていればいいのですが。

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