#17です。ありがとうございます。佐藤公一さんのPDFはダウンロードしました。こういうのはけっこう好物です(^^)。
次にまず補足というか、お詫びです。前回の私の回答の、
>>渦動理論は《デカルト力学》なんですよ。・・・これらを論証出来たのは、約50年後のニュートンだけです。
は、自分の妄想です。ニュートンはホイヘンスの事も当然知ってましたので、もしニュートンがこう考えていたら筋は通るよなぁ~と思っていた事を、調子に乗って書いちゃいました。従って、
>>・・・しかし間違いなりにもデカルトが、定性的には惑星運動の傾向と、「斥力としての」重力を説明できたのには、後から見ればそんな裏事情があります。
は明らかに言い過ぎです。デカルトの線運動量はベクトルではないので、渦動論でデカルトが行ったのは流量保存則に似た定性的な論証です。流体力学の流量保存則は、質量輸送法則といってもそんなに間違いではありません(質量はベクトルでないスカラーという意味です)。イメージは沸くでしょうか?(^^;)。
本題です。このまま行ってしまって良いのか?という疑問がわいたので、これをUPします。
このUPまで色々書きましたが、デカルトを凄いとは言ったかも知れませんが、デカルトが正しいとは一回も言っていないはずです。凄いとは、「良くもまぁ~ここまで考えたものね。ただし内容は別として・・・」という事です。
自分もあなたと同じように、「デカルトはそんなに大した事言ってないじゃない」という印象が出発点でした。にも関わらず、あんなに影響力を持ったのはどうしてだ?と、デカルトの事を調べ出しました。ただし哲学,人文系成果は自分の埒外です。物理理論への貢献だけに興味がありました。その結果、彼は人気者になれるだけの要素をかなり持っていたのだ、という事がわかりました。それがこのUPに至るまでに書いてきた事です。デカルト理論の正否とは無関係な話をしてきた、と個人的には思っています。
以上の断り書きは了承されたと仮定し、PDFに関して書きます。書きますが現時点の状況では余り突っ込んでも仕方ないと思えますので、次にとどめます。
何でもかんでも知っていたというつもりはないですが、PDFの内容くらいの事は過去に調べてお応えしています。デカルトの運動量保存則は確かに間違い(不十分)ですが、その概念はそれでも後世に大きな影響を与えました。
ライプニッツの批判はもっともですが、ライプニッツのモナド論にだって、デカルトと同じくらいに受け入れ難いところはあります。
同じ仮定のもとに、前回のお礼に関して書きます。
>私たちが今日、運動量保存則として知っているものは、デカルトのそれではなく、ホイヘンスの運動量保存則のもののようですね。
大学の物理学の先生なども、結構、間違って覚えているらしい。
そして、「デカルトが運動量保存則を発見した」と大々的に宣伝している。
・・・知ってました。というか、それくらいデカルトは影響力を持っちゃったんですよ・・・(^^;)。
>デカルト大先生の運動量は、「大きさと方向を持ったベクトルでなく、大きさだけを持つスカラーであるというような」というそんな可愛いレベルの間違いではなく、致命的な間違いを犯している。
・・・そうなんですが、それでも大先生の運動量は流行ってしまった・・・(^^;)。
>デカルト先生、どうやら、物質の衝突の実験をして、自身の説が正しいかどうかの確認をしていない。
アリストテレスとあまり変わっていない。
科学的実証精神が欠如している(笑)。
だからそう言ったじゃないですか(#16)。「デカルトの渦動理論が現実と合わないのは随所に指摘されていたにも関わらず、ニュートン理論が事実の説明において着々と成功を納めていたにも関わらず」、大先生以外の説明方式を、いっさい認めなかったデカルト派には、大先生の欠陥がそのまま引き継がれています。
>・・・あなたは「デカルトって、そんなに偉い人だったのかなあ」と言いましたが、偉い人だったのです。
ここまで来ると「偉い」の意味が微妙ですよね。内容の正否を根拠に、それも現在の理論基準に照らしてデカルトを判断するなら、全く偉くないです。
でも別の評価基準もあります。例えば「言いだしっぺとしての偉さ」です。フランス啓蒙主義の百科全書派の百科全書の中に、次の趣旨のような一文があるそうです。
・デカルトは確かに間違っていた。しかし当時としては最良のものを彼は造った。それだけは認めよう.
上記意見に、自分は賛成なんですよ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ でも別の評価基準もあります。例えば「言いだしっぺとしての偉さ」です。フランス啓蒙主義の百科全書派の百科全書の中に、次の趣旨のような一文があるそうです。 ・デカルトは確かに間違っていた。しかし当時としては最良のものを彼は造った。それだけは認めよう. 上記意見に、自分は賛成なんですよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 詳しくは分からないながら 納得の行く見方ではないかと思いました。 《何ごとも最初がむつかしい》という感慨を交えた見方です。この点には 敬意を表さねばならないとは ――デカルトとは別にですが――前々から思って来ましたから。 すっきりしました。ありがとうございます。 いまひとつお聞きしておきたいということがあるとしたら それは今回に触れておられないアリストテレス関連です。 ちょうど直前のNo.18・あめんほてぷさんとのやり取りで はなはだ非自然科学的な考えではありますが アウグスティヌスのアリストテレス批判を載せました。 大地と天空とのあいだの四層とそしてさらにその上の五番目の天の問題。 五番目の天なる視点から見れば あとの四つの層はみな一様・無差別として見ることが出来るのではないか。こういう批判点・論点です。 つまり コギトについて アウグスティヌスからその《あやまつ(欺かれる)なら われあり》なる命題を焼き直してそれを得た(cf. No.8補足欄)のなら このアリストテレス批評についても《活用・応用》すればよかったのにと言えると思うのですが どうでしょうかねぇ。 つまり全体として言って: デカルトについては 果敢にフロンティアを開拓した功績がある。 ただし デカルトあるゆえに ニュートンがあり得たと言うところまでには行かない。 塀の向こうに落ちて行くことはなく ニュートンの側・こちら側に戻って来る。 総評・総括をどうぞ。 なお やはり直前の回答のなかであめんほてぷさんが アリストテレス関連でその《目的論・目的意識ということ》について でーでーてーさんはどうお考えですかと尋ねておられますよ。