• 締切済み

正論に対して「世間で通用しないぞ」

humihumihumiの回答

回答No.6

こんばんは。 質問者様に逆に質問したくなります。 正論ってなんでしょうか? 殺人がダメというのは正論なのでしょうか? 私は違うと思います。 世間がダメだというから殺人はだめなのだと思います。 江戸時代以前の仇討とかはある意味認められているじゃないですか? 現代で仇討は認められていませんよね? 世間=正論 というのは時代、場所で変わるものだと思います。 日本の戦時中に赤札で徴収されるのは世間ですよね。 だけど、民族を守るために戦争に行くのは正論だと思いませんか? (時代が違うせいで色々あるとは思いますが) 我儘な人に対しては正論で通すというよりも 完膚なきまでに言い負かすしかないと思います。 正論というよりは相手に対して完璧な理論武装して言い負かすというのが 現状では正しい気がします。

yamsaru
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 そうですね、正論の根拠そのものが、時代によって変わるものです。 そこのところは、まったく同意です。 今よく考えてみると、私の聞きたかったことはNo.1やNo.3の方への お礼に書いた内容だと気づきました。 つまり 「正論に反抗する人は、なぜ堂々と議論せずに、横柄にふるまうのか?」 ということでした。 分かりにくい質問で、申し訳ありませんでした。

関連するQ&A

  • 色んな矛盾を孕む宗教は、どうして信仰を集めるのか?

    天動説から地動説が主流になって、 1992年にようやくカトリック教は、天動説の誤りを認めて地動説を受け入れました。 このとき、カトリック教の信者は、カトリック教に対して不信感を抱かなかったのでしょうか? さすがに「神の存在は嘘だった!」とまではいかなくとも、なんらかの疑いの目は持たなかったのでしょうか。 それともそんな疑問さえ持たないぐらいに、洗脳を受けているものなのでしょうか。 天動説に関して神が大地を固定した、みたいな話を聞きました。 地動説を認めたとき、カトリック教はどう言い訳したんでしょう? そもそも神様に関するストーリーが、宇宙を知らないどころか海の向こうさえ知らない存在の視点で書かれているのが滑稽な気がします。 彼らの言う「世界」に地球の外は含まれていないというか、考慮されていないようで、まるで地球の外どころか海の向こうさえ知らない、当時の文明でわかる範囲を基準に一般人が考えた小説みたいですよね。 どれも神様とやらの所業は、なぜか人間に合わせたものばかりな気がします。 他にも探せば「人間の想像力らしさ」が多く見つかると思いますが、それでいてどうして人々は宗教を信じてしまうのでしょうか。 科学的根拠や歴史を無視してでも、見たこともない人伝てとも言える空っぽな言葉に信頼を置くのでしょうか。彼らには勘違いや偶然といった概念はないのでしょうか。 人が不可解な事象に不安や恐怖をいだき、それを解消するために理由や正体を求め、わからないから「想像」で非科学的な存在を使った結論に甘えて妥協してしまう。それが原因なのでしょうか?

  • 「エジプト人の子供の奴隷」追加

    「国語表現」の  論理 の question  です。 「エジプト人の子供の奴隷」 について、以下のように考えました。 ご検討ください。 エジプト人の子供の奴隷 「の」は、体言を承けて体言に係る、という働きをします PのQのR は、 「PのQの、R」 のとき、Pの は Qに係ります。 「Pの、QのR」 のとき、Pの は Rに係ります。 次に、PのQ が P かつ Q を意味するとき 「P の Q」 は 「Q のP」と 同じ意味になります。 次に、「PのQ」の「Pの」 が adjective である(PであるQの)とき  (P の Q) は1語として働きます。 2語ずつの関係を確認しておきます。   「エジプト人 かつ 子供」  「子供 かつ エジプト人」 のとき    「エジプト人の子供」 と 「子供のエジプト人」 は 同意 です。 「エジプト人 かつ 奴隷」  「奴隷 かつ エジプト人」 のとき    「エジプト人の奴隷」 と 「奴隷のエジプト人」 は 同意 です。 「子供 かつ 奴隷」  「奴隷 かつ 子供」 のとき    「子供の奴隷」 と 「奴隷の子供」 は 同意 です。  そして これらすべてが、「真」であるとき    「エジプト人」「子供」「奴隷」は論理学的に命題となりますから、「PのQのR」 のどれに代入しても 「真」になります。しかし「P の 子供」「P の 奴隷」は複数の意味があるので、命題になりません。  「P の 子供」は「(Pが親) である 子供」の意味のとき、    「P の (生んだ 子供) 」 と置き換えることができます。この場合「うむ」は古くから使われた「むす」という動詞を使った方がいいでしょう。また有史以前には出産は女性の神秘として崇められましたから、女の「子」は特に「むす-め(女)」、そして男の「子」は単に「むす-こ(子)」です。したがって「P の 子供」は「P の (むすめ か むすこ)」と置き換えられます。  「P の 奴隷」は「(Pが主人) である 奴隷」の意味のとき、    「P に仕える奴隷 」 と置き換えることができます。 エジプト人の子供の奴隷  (エジプト人の子供)の奴隷 幼年エジプト人で かつ 奴隷身分の人            (エジプト人の(娘か息子))である奴隷身分の人            幼年エジプト人に仕える奴隷            (エジプト人の(娘か息子))に仕える奴隷  エジプト人の(子供の奴隷)  エジプト人に仕える幼年奴隷               幼年に仕えるエジプト人奴隷  

  • ふと漏らした言葉は本心ですか

    世間の風潮として、何かのはずみでふと漏らした一言はその人の本心だとされることが多いように感じます。 口下手な私からすると、ぼそっとつぶやいた一言とかならまだわかりますが、言い間違いや感情の高ぶりによる勢いで言ってしまうこともあるのではないか、むしろそういった方が多いのではないかなと思っています。 感情が高ぶっての勢い任せの発言は、たしかに本心ではありますが、それがその人の普段から考えているから出てくる言葉だという論理は本当なのだろうか? と、そういった場面に出くわすたびに考えてしまいます。 皆さんはどう思いますか?

  • 一流大学を出て、一流会社に勤めることがエリートだ。みたいな風潮があるよ

    一流大学を出て、一流会社に勤めることがエリートだ。みたいな風潮があるような雰囲気を感じるのですが それはつまり社会の中では 「頭の良い人が偉い」 「お金を持っている人が偉い」 という基準が通用しているためですか? 福祉の現場などで働く人々は体力仕事で大変ですが 立派な仕事だと思いますが それでも社会の中で偉いとされるのはそういったエリート組であるのはなぜですか?

  • 時代てナニ?

     西本聖の真実というドキュメントで、現役時代に嫌われていた要因を本人が語っていました  その中に「集団行動に合わせない」ことをあげていました。  みんなで飲みにいこうと誘われても、断り一人練習をするという姿勢が周囲が毛嫌いしたそうです    しかし、「当時は許されない時代だったけど、今ではそういう選手の自主性が許されるような時代になりましたよね」と語っていましたが、何故月日が流れることで、選手がチーム内で取るべき行動の基準が変わったんでしょうか?    別に西本聖の例だけではなく、その他社会の風潮・慣習もとても疑問です。これを論理的に理解するにはどうしたらいいでしょうか?    

  • 正論なのか曲論なのか?

    ・AとBは普段は連絡をあまり取らない近親者です。 ・AはBのメルアド1しか知らない。 ・AはBの携帯や固定電話へ電話しても普段つながらない事を経験している。 ・Bの妻や廻りの人間もつながりにくいと思っている。 ・Bには携帯メールアドレスはない。 AからBのメルアド1に土曜日10時半ごろメールし、返信を要求。 土曜の夜になっても返事がこないので、Bの妻に確認のメールをした。 結局夜中の12時過ぎにAの妻の携帯へ、メルアド2にメールするようにメールがあったが妻は寝ていたため、朝連絡を受けたが最初のメールの回答はない。 Bいわく 「メルアド1のメールは普段使っていないから見ない。 メールはメルアド2の方へ送るように。 日曜日の夜(夜中12時過ぎ)に【Aの妻】にそのようにメールしているはず。 メールはあくまでも連絡の補助手段の位置付けだから、緊急、至急の場合は 固定電話があるんだから、そっちへ連絡すべし。」 AはBがメルアドを変えたから受信していなかったのかと思い、 AはBに「変更したなら言っておくべきだ」と指摘。 またAは日曜日か月曜日にでも用件が済めばいいと思っているので、緊急を用していない。 Bが言うには。 「メールアドレスを変更したのではない。 もともと使っていたアドレスの一つを教えていたにすぎない。 通常の連絡手段のためではなく、容量の大きいデータを授受をするために 一番性能のよいpcのアドレスを教えたにすぎない。 いつ、だれに、どのアドレスを教えているのかなんで管理していないだろ、普通。 どうしても伝えたいなら、送る前に確認すればいい。 または送った後でも、返信がないようなら固定電話へ連絡すればいい。 伝わらないのは送る側の責任。 受ける側は見られない以上、何もできない。 受ける側から見れば、何も起きていないに等しい。 メールはあくまでも連絡の補助手段。絶対ではない。 いろんな事情で見られない事もあるわけだ。 いつ、新しいアドレスが増えて、そっちを使っているかもしれないんだし。 今の時代、ちょくちょくアドレスが変わるのは少なくない。 いちいち、過去に伝えていた人全員に変更のお知らせはしていない。 普段見ていないメールアドレスはいつになっても見るわけがない。 見ていない以上、返信できるわけない。 使っていないアドレスは、いろんな理由があるわけで、pcが壊れている場合だってあるし、 具合が悪くて起動してもフリーズして見られない場合もあるわけだから、少なくとも普段使っている メールアドレスには届いていなかったから、普段使っているメルアド2へ送れと言っているわけだ。」 と言う。 Aは送ったメールはBのメルアド1に行っているのだから、見ていないBが悪いと言う。 一言「申し訳ない」という気持ちがないのか指摘。 また、Bが言うには。 「論理的思考ができないやつだな。 相手が使用していないアドレスへ送って、相手が見ていないからといって相手の非を主張するやつのことを世間では何ていうか教えておいてやろう。 「勘違いくそやろう」って言うんだよ。 メールがいつも見るアドレスへ届いていて、それを見ていないならいざしらず、 または見ていて返信していないならいざしらず。 顧客へ送ったアドレスが古いアドレスで相手が見ていなかったら顧客へ文句を言うのか? 相手は伝わるまでは送る側の責任ということがわかっていなければ平行線だからこれ以上話しても無駄だ。 普段頻繁にメールをやり取りしている相手ならいざしらず、その他大勢の全員へアドレス変更のお知らせしているやつはいるのか? 携帯メールがつながらなくても、固定電話なら連絡できる確率が高いことを知らないのか。 世間にはまだまだ携帯メール使っていない人はたくさんいる。 連絡手段は固定電話がある。どうしても連絡取る必要があるなら電話すればいい。 アドレス変更を伝えるのは仕事関係で重要な人とか頻繁に連絡を取り合う友人のみで、全員には変更届けしないのが普通。」 いろいろ書いてしまいました・・・というより文章コピペしてしまいましたが・・・。 結局、AからのメールはBに送信済で、Bは何らかの原因でそのメールを見れず、 見れなかった事に謝罪の念もなく、上記のような自論を言っているのですが、これは正論なのでしょうか?曲論なのでしょうか?ご意見承りたいと思います。

  • 日本人奴隷の調教の仕方

    日本経済は急激に縮小中で、勤労者賃金も第2次安倍晋三政権中に第2次大戦後最大の下げ幅を記録し、最早大多数の日本人が世界基準から見れば貧困層を形成する時代がもうすぐやって来そうです。 日本人奴隷化の時代がやって来ます。 古来から日本は奴隷大国として知られ、半島・大陸国家に貢物として多数の日本人奴隷を献上してきましたし、近世においてもバテレンが多数の日本人にキリスト教による調教を施し無抵抗従順化した完全奴隷を半島・大陸に売りさばいで巨額の利益を上げていました。 明治時代以降は天皇崇拝思想を元に教育勅語等により滅私奉公・富国強兵・鬼畜米英・行ってくるぞと勇ましくと戦闘奴隷を大量生産し湯水のごとくに命を浪費させました。 そして現代においては、まず自民党が政治的に国民を奴隷化調教し、国民を「下々の人達」と呼ぶ漢字文盲の財務大臣は「日本人は民度が高い」と吹聴し奴隷適正大なることを誇りながらこの奴隷国民には「ナチスを見習って」政治的扇動を実施すればなんでもごり押しできるとしてました。 経済的には竹中平蔵初めとする世間知らずの富裕層中心主義者たちが、法を都合よく変えつつ貧しい人々の奴隷化を推進しております。 現総理大臣の菅義偉も奴隷原理主義者の一員です。 奴隷適性高い日本人にどのような調教が施されてきたか、現在施されているか、教えてください。若しくは薄々感づいていることが有ったら教えてください。 我々が奴隷的境遇から抜け出すためにも。奴隷的境遇から人々を救い出すためにも。

  • 求められる人材

    今の時代、求められる人材ってどんな人材でしょう。 しぶとい人でも、鈍感の場合もあります。 状況がわかる人ほど、やりたくないといいます。 また、出たい出たいというほど、似合わないときが多い時があります。 反対に、嫌だというほど、求められるときもあります。 また、今は世界に通用する人が求められるとも言います。 どういう、基準で求める人材を欲しいですか? 会社としても。

  • 世間で通用しない人間

    高校生です どういう人間は 世間で通用しないんですか

  • エントリーシートの添削をお願いします。

    学生時代に力を入れたことと、何を学んだかです。以下が私が作成したものです。  私が学生時代に最も打ち込んだことは、化粧品の営業アルバイトです。 私はこのアルバイトを通して、説明力が大切だということを学びました。具体的には、結論を 論理的に分かりやすく話すだけでは、相手は理解できても納得や同意まではしてもらえない ということです。それは、相手は自分にとってのメリットや恩恵が感じられなければ、また自分 への配慮が感じられなければ、どんなに正論でも一方的なものとして受け止められてしまうか らです。それを避けるために結論と理由を簡潔に述べ、相手が具体的に想像できるメリットを 説明します。その後自分がどうして欲しいと思っているかを述べ、最後に相手への配慮を示す 一言で締めることで相手の立場に立って考えていることをアピールできます。私はこのアルバ イトを大学在学中は続けるつもりで、今後も説明力を磨き続けていきます。 よろしくお願いします。