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数助詞と抽象化

Piedpipingの回答

回答No.2

日本人/日本語は論理的ではないとか、抽象化が苦手だとか言うのは全くの迷信で、ナンセンスです。エスキモーは「雪」に関する単語が何百とあるというのと同じ都市伝説に過ぎません。 人間の認知能力は言語に左右されません。何語を話そうが紫外線は見えませんし、超音波は聞こえません。 人間の才能も言語に左右されません。何語を話そうが絵のうまい人はうまいし、音痴はいます。 閑話休題。 多くのヨーロッパの言語では可算名詞と不可算名詞を区別します。可算名詞についてはさらに単数と複数を区別します。 可算名詞にはそのまま数字をつけますが、不可算名詞をどうしても数えたいときには助数詞をつけます。 a grain of sand 「一粒の砂」 a piece of luck 「一つの幸運」 これに対して日本語は全ての名詞を一緒くたにして、言い換えれば「抽象化」して、一つの鋳型(テンプレート)にいれます。すなわち「数詞+助数詞+名詞」です。 テンプレートは言語学的には「大変抽象的な概念なのですが、欧米人はそこまで抽象化出来なかったようです。そこで、抽象化からの不安を取り除くために付けたのが「可算/不可算の区別」ですね。この点では、欧米人は抽象化が苦手なようですね。それにもかかわらず、欧米人には世界的な数学者が排出している理由が、私には良く判りません。」 助数詞のみを取り上げて、日本語は抽象化が不十分だというのはナンセンスです。

cyototu
質問者

お礼

抽象化の形態にはいろいろありますが、その一つとして、その事象の本質を表すキーワード(願わくは一言で)を探り当てるというものがあると思っております。貴方の言う「鋳型」という概念もその例の一つでしょう。その点で数学についての抽象化能力の有る無しを凝縮するキーワードは「数助詞」ではないと言う事ですね。私もそれを感じていたからこそ、この質問をしました。 数学における抽象化能力の有る無しを凝縮するキーワードがもし在るのなら、それは何か、私には興味が有ります。 鋳型を作る行為は抽象化の一種であるとは、面白い捉え方ですね。参考になりました。有り難うございます。

cyototu
質問者

補足

>人間の認知能力は言語に左右されません。 その意見には、賛成出来ません。私は物理学者ですが、欧米人の「Laws of Nature」と言う概念は、日本人のそれとは驚く程違います。彼等はこの概念を言葉通り「自然の法律」と認識しています。ご存知のように、「Law School」は「法則学校」ではなくて、「法律学校」です。日本人にとって「自然」とは「自ら然りと収まるところに自然と収まる」自然体の存在であり、「規則」に従っているようでは自然ではないと思っています。欧米人が我々日本人には理解出来ない方法で自然を捉えている根拠はユダヤ=キリスト教の一神教に基づいた世界観にある、というのが私の持論です。 言葉とはその文化特有の歴史や世界観に影響されて発展して来たはずです。「Laws of Nature」という言葉を初めて聞いたときの江戸後期の蘭学者の驚きと苦悩が「自然の法則」という言葉に如実に現れていると思っております。 因に、中国人の友人に聞いた所、彼等も「自然の法律」とは余りにも馬鹿げた表現なので「自然の定律」と言う具合に、欧米人が「Law」一言で一緒くたにしているのを、「法律」と「定律」とに使い分けているそうです。 我々の思考法は、知らず知らずの間に自分の埋め込まれた文化および言語に途方もなく制約されているものだと私は考えます。 人類史の中でも、旧石器時代のように地球のどこから出て来る石器もほとんど同じような形をしている、すなわちある種の統一ないし均質な形態から、新石器時代のように、アフリカ,中国,南米等々、場所によって特殊で個性がある石器を産み出すようになったのが、人類の進歩でした。このことは、進歩とは均質から不均質へ、一般ないし統一から特殊へと進むものであることを教えてくれています。 「自己」から「家族」へ、「家族」から「町や村」へ、「町や村」から「国」へ、「国」から「世界ないし人類」へ、と言うのが認識の進歩の方向ではなくて、その反対の流れを辿り、最終的には「自己」の正しい認識に辿り着くけるようになるのが、進歩の方向だと思います。そして、その方向のみが「多様性」を善しと認めることが出来る方向だと思います。 このように考えると、自分の埋め込まれた文化の持つ言語によらないような人類に共通な概念は、その概念体系のなかで下位に位置する単純な概念だと思います。別の言い方をすると、そのような単純なことを探ることだけで、人間が判るようになるとは思えません。 言語に左右される認知能力を探ることは遥かに難しいことですが、だからこそ複雑多様で底の深い人間の面白さを楽しむことが出来るようになるのだと、私は考えています。

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