• ベストアンサー

数助詞と抽象化

Piedpipingの回答

回答No.5

#2です。 たぶんそういう反応をされるであろうと想像しておりました。 >我々の思考法は、知らず知らずの間に自分の埋め込まれた文化および言語に途方もなく制約されているものだと私は考えます。 これをサピア-ウォーフの仮説(Sapir-Whorf hypothesis)といいます。 http://en.wikipedia.org/wiki/Sapir-Whorf_hypothesis http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%81%AE%E4%BB%AE%E8%AA%AC 今でも文科系の人には根強い考え方なのですが、物理学の方とは思いもよりませんでした。 それはさておき。 サピアもウォーフも1940年代までの人です。 1960年代に認知科学が誕生し、その後急速な発展を遂げました。 その一翼を担ったのが言語学です。 その成果は 1.人間の言語は驚くほど似ているということ、 2.言語は模倣や伝統によって習得するのではなく、生得的認知能力によって獲得するものであること、 3.今まで見たことも聞いたこともない文を発したり、理解したり、この文は正しいとかおかしいとか判断できること などなどです。 もちろん、確固たる定説はまだありません。 ある人は、普遍的な文法が生まれたときから備わっており、そこから個別言語を獲得すると考え、またある人は普遍的な認知能力から個別言語の文法を獲得すると主張しています。 いずれにせよ、普遍的認知あっての言語です。 言語があって認知が生ずるのではありません。 人間の認知能力を超えることは何語を話す人であれ、理解することはできませんし、人間の認知の範囲内のことであれば、何語を話す人であっても理解できます。 Laws of Nature もしかり。もし言語によって認知が規定されるのであれば、日本人や中国人はそもそも理解できないはず。それが理解できる以上、論理が破綻しているのではないでしょうか? サピア-ウォーフの仮説の仮説の証拠としてよく出されるのが色彩名称とか(言語によって色彩を表す語の種類や数が違う)、日本語では水とお湯を区別するが英語は water しかないとか、素朴すぎる議論が多いばかりか、エスキモー語には「雪」に関する単語が何百とあるというデマまで跋扈する現状を憂いています。 先の回答といい、今回の回答といい、あるいは刺激的すぎて質問者様の感情を害しているのではないかと危惧しておりますが、そのような状況をお含みおきくださり、ご容赦願えれば幸甚です。

cyototu
質問者

お礼

#2さん 上の文は始めお礼欄に書き込んだのですが、長過ぎると文句が出てしまったので、補足欄に移動しました。 参考になりました。有り難うございます。

cyototu
質問者

補足

感情を害してなど居りませんのでご安心下さい。私の師であった著名な方が日本語訳にすると「驚きは創造の源である」という墓碑銘を残しております。私が考えたことがないような意見は、是非聞いておきたいです。 現在の物理学者の巨人でワインバーグという方と、プリゴジンという方がいらっしゃいます。ワインバーグは、今までの物理学をとことん押し進めて、ある統一理論を作り、ノーベル賞をもらっています。プリゴジンは散逸構造理論というものを造り上げ、やはりノーベル賞をもらっています。この散逸構造理論によって、とてつもなく多くの粒子が集まっている複雑な系では、その複雑さゆえに時間に過去から未来への向きがあらわれ、そのことから物理学の基本法則に矛盾なく複雑多様な構造が自発的にできることが可能であることを示しました。一言でいうと、この世の中では、どのような機構で構造が顕われて来るのかということを説明する理論です。生命現象もその散逸構造の一つの現れであろうというのが、現在の物理学者の多数派を占める意見となって来ています。私の所属する大学で、この二人を含めて「創造性」をテーマにした講演会がありました。 先ず、ワインバーグは 「物理学には創造はない、我々は、そこに既にあるものを発見するだけである」 との、物理学者達の伝統的な主張をしました。 次に、プリゴジンは 「我々に無関係に存在しているものがあるという物の見方は、星や銀河や単純な機械等、極端に単純な事象については良い近似になっているであろう。しかし、我々を含めた複雑系では、それをどのように認識するかは、その人の埋め込まれた文化や歴史に強く依存している。現に、散逸構造理論によって説明される化学反応系のパターンや火山岩の中にできる複雑な模様、植物の分布相のパターン、バイオリズム等々では、その形態の出現に、過去の歴史が強く影響していることが判っているではないか。我々の言語を使って自然を認識する場合も同様であると考える。我々は自然を発見しているのではなくて、発明しているのではないか」 との主張を展開しました。 考えてみると、昔ギリシャの偉大な彫刻が 「私は美しい体の彫刻を造り出しているではない。すでに石の中に存在していものを掘り出しているだけだ」 と言っていましたね。今ではそのようなことを言う芸術家はないないでしょう。彼等は必ず、造り出しているのだと主張するでしょう。 プリゴジンの話を聞いた時「自然科学は芸術に2千5百年も遅れているのか、自然科学は最近ようやく複雑系を議論できるようになって、やっと芸術家達の認識に到達し始めたのか」と思いました。 >1960年代に認知科学が誕生し、その後急速な発展を遂げました。 とおっしゃいますが、その時点ではまだ、散逸構造理論による全く新しい認識法を人類が作り出していなかった時代ですね。現在では、生物系に起こる空間的構造や、バイオリズムなどの時間的構造ばかりでなく、都市の発展の機構、社会発展の機構、漁船団やアリの集団の捕獲機構の研究等々、人文科学系の分野でも散逸構造理論に基づいた量的分析がもの凄い勢いで研究されています。 もし未だに言語学の方で散逸構造理論からの視点で研究を始めている方がいらっしゃらなかった、私には驚きです。貴方の上に挙げた1、2、3の成果は、複雑系の複雑さを許容しつつそのまま認識するという最近の物理学の視点ではなく、その複雑な事象を思い切って単純化した場合に残るものは何かと言う、散逸構造理論の出現以前の物理学の見方の立場で得られた成果ではないかと、素人ながら直感いたします。どうでしょうか。 物理学でも、そのように単純化したものから得られる情報は途轍もなく重要ですが、散逸構造理論の発展は、我々の世界を理解するにはそのもっと先に、それにもまして重要な認識の仕方があることを教えてくれました。 言語学についてずぶの素人ですので、なにか頓珍漢なことを言っていたら、唐人の寝言と聞き流して下さい。

関連するQ&A

  • 数詞と抽象化の関係

    私の経験した限り数詞を付ける民族は少ないようです。例えば、日本では人の数は「5人」で、「5本」とは言いません。ところが英語では人でも鉛筆でもfiveです。中国語はどうなのでしょうか。 さて質問です。数学で言う「数」とは、その集合が持っているあらゆる個性や特徴を消去しても残っているある性質に名付けた、大変抽象的な概念なのですが、日本人はそこまで抽象化出来なかったようです。そこで、抽象化からの不安を取り除くために付いたのが「数詞」ですね。この点では、日本人は抽象化が苦手なようですね。それにもかかわらず、日本人には世界的な数学者が排出している理由が、私には未だに良く判りません。 ご意見をお聞かせ下さい。

  • 日本語の助詞のつかい方で質問があります。(  )の中に助詞を入れてくだ

    日本語の助詞のつかい方で質問があります。(  )の中に助詞を入れてくだ 日本語の助詞のつかい方で質問があります。(  )の中に助詞を入れてください。 どうしてその助詞を選んだかも説明してくだされば、助かります。 よろしくお願いします。 1)アラスカとハワイとどちらのほうが寒いですか? アラスカ(   )寒いです。 2)コーヒーとお茶と、どちらの方をよく飲みますか? コーヒーの方(   )よく飲みます。 3)コーヒーとお茶と、どちらの方をよく飲みますか? コーヒーの方(   )よく飲みます。 <-強調したいとき。

  • 助詞の「は」について

    日本語の質問です。 「は」という助詞が有りますよね? これは主に主語に付きますが、主語じゃないものに対しても付けることは出来ますよね? (例) 彼はその本の内容をしっているが、一方あの本の内容は知らない。 上の例文で、「あの本の内容」は主語ではありませんが、助詞の「は」が付いているので 一応確認しておこうと思いました。 宜しくお願いします。

  • 助詞の「で」について 教えください。 

    日本語の助詞「で」について教えてください。 外国人の友人に質問されたのですが、分からず困っています。 「本は一冊1000円です。 2冊で2000円です。」という文があった場合、 一冊や1つの場合に、「で」がつかないのはなぜでしょうか? この場合の「で」の用法についても教えていただけませんか? どうぞ、よろしくお願いいたします。

  • 助詞「が」の使い方について

    日本語を教えている者なんですが、助詞「が」について疑問がありまして質問させていただきます。 (背伸びをしてフェンスの向こう側を見ようとしている友達に向かって言う文として) 1.「向こう側が見える?」 2.「向こう側、見える?」 この1と2でどちらが適切でしょうか? また、もし1が不適ということであれば、その理由はなぜなのかもあわせてお願いします。

  • この文の中で、どんな助詞を使うべきでしょうか。

    いつもお世話になり、ありがとうございます。 決心を表明する時の言葉:「日本語の勉強頑張ります!」の中で、「勉強」の後にどんな助詞を使うべきでしょうか。もちろん、「日本語の勉強頑張ります!」そのまましても大丈夫ですが、やはり細かいところの助詞を皆さんにご確認していただきたいのです。もしも「勉強」の後に助詞を入れば、下記の言葉のなかで、どちらが良く使われていますか。 1.日本語の勉強を頑張ります! 2.日本語の勉強に頑張ります! 3.日本語の勉強は頑張ります! なお、質問文の中で、何か間違えているところがありましたら、ご添削していただければも非常に幸いです。 以上、宜しくお願い致します。

  • なぜ数学の問題文は抽象的な言い回しが多いんですか?

    数学の問題文は抽象的な言い回しが多いような気がします。 読解力のないわたしがバカだと言われればそれまでですが 日本語で読んでも意味不明な抽象化された文言が多い気がします。 たとえば高校数学の二次関数でよくある「すべてのxの・・・」とか。 実際、抽象的な日本語の同じ問題をそれぞれの国の言語の意味で出した場合、中国や韓国、アメリカはこんな難しい言い回しで問題文を書いてるんでしょうか? もし外国では日本語での意味合いの難しさほど、難しい言い回しをしていないなら日本語だから難しく感じるって損だなって思います。 そうなら日本人って損です。

  • 助詞の接続について

    皆さん、 こんばんは、白いマラサイです。 今回助詞と助詞の接続について質問です。皆さん是非ご回答お願いします。 「てから」のような、接続助詞「て」に格助詞「から」を接続ことが2つ助詞を連結することによって、「ある事柄をした以降」という意味を表し、「には」のほうが「に」と「は」を連結することで、「何かを強調する」の意味を表す。 このような助詞を連結ことは、何かルールがありますか、例えば、連結できる助詞がただ全体として一部に過ぎない、あるいは、一定の順番を従わなければなりませんか。 すみませんが、日本語が下手なので、皆さん是非お願いします。

  • 助詞についての質問です。

    助詞についての質問です。 日本語の母国語話者ですが、助詞の使い方について考えていたら、何が正しいのか分からなくなってきました。 「東京で家族と住んでいます」この文章は正しい気がします。しかし、「東京で住んでいます」はどうでしょう。正しい文章ですか? また、「東京に住んでいます」という文章は正しいように思えますが、「東京に家族と住んでいます」はどうでしょう。正しい文章ですか? 考えれば考えるほど、自分の言語感覚に自信が持てなくなってきました。

  • 上手く表現できない,この違和感

    番組で,日本語を習い始めた外国人の方が,下記の文を,日本語で このように表現され ━━━━━━━━━━━━━━ ・I bought two books and five pencils. ・わたしはに冊の本と,ご本のえんぴつを買いました。 【私は2冊の本と,5本の鉛筆を買いました。】 ━━━━━━━━━━━━━━ 日本人の私は…言い様のない違和感を,感じました。 英文の時は,数字を言語のままで表現しても違和感ないですが, 何故,和文にした途端に 漢数字,または算用数字で表現しないと,違和感を感じてしまうのでしょうか?