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数助詞と抽象化

この質問は以前に数学欄でも質問したのですが、哲学に興味を持っておられる方のご意見も承りたくて、再録いたします。 私の経験した限り数助詞を付ける民族は少ないようです。例えば、日本では人の数は「5人」で、「5本」とは言いません。ところが英語では人でも鉛筆でもfiveです。そしてfive pencils (5の鉛筆)とは言っても「5本の鉛筆」と、わざわざ「本」を付けません。 (私は知識が皆無なのですが、中国語と韓国語には数助詞があるとか。) さて質問です。数学で言う「数」とは、その集合が持っているあらゆる個性や特徴を消去しても残っているある性質に名付けた、大変抽象的な概念なのですが、日本人はそこまで抽象化出来なかったようです。そこで、抽象化からの不安を取り除くために付けたのが「数助詞」ですね。この点では、日本人は抽象化が苦手なようですね。それにもかかわらず、日本人には世界的な数学者が排出している理由が、私には未だに良く判りません。 ご意見をお聞かせ下さい。

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  • ベストアンサー
  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

「日本人はそこまで抽象化出来なかったようです。」 というか私も認識力の違いだとおもいますよ。日本人しか知りませんが日本人は物理・数学・哲学なんでもいいんですがそれはそれなりに消化してしまう恐るべき認識力を持っていますね。数学の5と物理の5と数え方の5と別々にそのまま認識してしまうのですね。共通化しないと認識できないということではないですね。私も外国に長くいましたが西洋人やユダヤ系の人々の認識力の狭さ(偏狭さ)にはまいりましたね。 逆に西洋人の思考パターンは単純なのであわすことは簡単にできますし、行動予想も至極簡単ですね。これは抽象化しているからでしょうかね。逆に日本人の行動パターンは西洋人には理解できないようですね。 回答者さんのなかにテンプレートに何でもいれるというのがありますが、何でもそのまま認識できるというのはとくに工学分野で役にたつ能力ですね。物理や数学も高度になればなるほど接続という概念が必要になりますが日本人は特性としてこの接続という概念、つまり高度な認識力を持っていると思いますね。数学問題の多くも日本人が持ち込んだ接続概念で解決していますね。 つまり、日本人は抽象化が下手ということではなくその必要がないほど認識力があるんじゃないかな。

cyototu
質問者

お礼

#6さん。お礼が長くなってしまったので補足欄を借りてお礼させて頂きます。 参考になる物の見方,有り難うございます。

cyototu
質問者

補足

私の直感が当たりました。こういう質問は数学欄で聞くよりも哲学欄で聞いた方が、いろいろな意見が出て来るので、教わることがありますね。 「抽象化」と「認識力」を使い分けるとは、参考になるご意見です。 私は研究生活の中で、抽象化能力があるかないかが創造過程の生産性を決定的している思うようになりました。抽象化はそんなに自明なことではありません。例えば、チンパンジーは多分3本の枝切れと3個の小石の間に「3」と言う共通した性質があることは理解出来ると思いますが、それと3本のバナナの間に共通性があるとは思えないのではないかと、勝手に想像しています。なぜならば、バナナは食べられるが、上の2つの物は食べられないからです。 西洋人の「鋳型はめ込み」行為の単純さの指摘も、参考になりました。 工学の対象とする物は人間が作った物ですから、それが何故そのように機能するかの理解に関しては、工学者は完全に理解しています。その場合には、単純化され過ぎた「鋳型はめ込み」でも判ってしまうのですね。物理の対象は人工ではなくて自然ですので、判っていないことだらけです。ですからほとんどの場合、物理学者は自分で何を言っているのか判らないで喋っています。にもかかわらず、自分が正しいと感じている直感を何とか表現しようとしています。 「接続」というのも面白い発想ですね、鋳型そのものに頼るだけではなく、鋳型と鋳型の間の関係なり、相関なりまで考慮に入れないと、判った気になれないと言う心持ちが「接続」にこだわる理由でしょうか。 貴方のご意見を読んでいて思い付いたことがあります。私は若い頃、抽象化とは個々の具体的な事象から、共通項としての何かを認識する過程、すなわち具象=>抽象の方向が抽象化であると捉えていました。しかし研究生活や優れた方々の講義を通して、実はその逆の方向,すなわち抽象=>具象を認識する能力が、抽象化には決定的であることが判るようになって来ました。例えば、数学では「コンパクトな集合」という抽象的な概念があるのですが、ほとんどの数学者はその意味を数学の定義通りに抽象的なものとして理解しているように見えました。ところが、世界的に優れた寄与をした方の講義を聞いていたら、コンパクトと聞くとボールを思い浮かべるのだそうです。それは空間の中にこじんまり纏まっています。それを聞いた時、今まで抽象的な言葉でけむに巻かれたような気がして一向に体得出来なかったコンパクトの概念が、いっぺんに判ったようになった気がしました。優れた研究者に共通した資質は、抽象化された概念に対応する具体的な例を幾つも数え上げることができることにあることに気が付きます。 そこで、日本人と数助詞について思い付いたのは次の通りです。数助詞は「数」という抽象化された概念に対応する具象例を簡単に思い浮かべる助けをしている物ではないのか。具象=>抽象の方向ばかりでなく、抽象=>具象も認識するという本当の意味の抽象化を理解し易くしているのでないか。そう言う意味で「接続」も同じような役割を演じているのはなか、というものです。

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その他の回答 (8)

  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.9

この御質問、やはりオモシロいので、また参加させてくださいネ。(ANo.7です) >数学で言う「数」とは、その集合が持っている あらゆる個性や特徴 を消去しても残っているある性質 私は先の投稿で「分類」(できる)ということを挙げてみましたけれど、よく考えてみると「分類」すること自体、「抽象化」を伴う作業なんですよね。つまり数助詞(助数詞)を使うということは、「何が」「どのようなものが」という「具象」の枠のなかにおいて抽象化を図っていることになる。 これには、漢字の影響が大きいのではと思います。漢字は、もともと絵のようなものから発展してきたそうですから。 たとえば1本2本の「本」、これは長い物、細長い棒状のものを表すようですし 鏡などを数えるときの「面」、これは平たいものを表現しているようです。 そのほかでは、動物は「匹」、大型動物なら「頭」、鳥は「羽」… 『ウィキペディア(Wikipedia)』:東アジア言語  によれば 数助詞・単位語:日中韓越及び東南アジア大陸部・島嶼部の言語は数助詞すなわち単位語がよく発達している。(名詞と数助詞の関係は厳密ではなく、この点では他の言語よりも分析的ではない。) 分類毎に数え方を変える方式はこの地域の他に南北アメリカ大陸の西側の原住民に共通である。この事から数助詞の発達は環太平洋地域の特徴といえる。 ということです。 前回、数学カテゴリでなさったという御質問『数詞と抽象化の関係』もザッと拝見してみました。 >英語では、 How many cats did you see? と聞かれた、 I saw two. も I saw two cats. も正式な表現です。 この >I saw two cats. これは、むしろ、あまり抽象化しているとは言えない表現のようにも思えます。 ANo.8のかたのお話と合わせ、質問者様御自身、仰っていらっしゃることですが >5秒+5g は意味がありません。 実際問題、全く種類や分野が違うものの枠を取っ払い、すべて一緒くたにして数えてしまうというようなことは、日常生活のレベルににおいても、まずしない(しても意味がない)ことだと思います。 ちょっとオモシロいサイトがありました。 ~中国語の助数詞の主な役割が 後に続く名詞の形状を予告しておくことによって思考回路の流れをスムースにする点にあるということ http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2007&d=0502&f=column_0502_004.shtml ~蝶の数え方は「頭」なんだそうです。 何故、「頭」なのかというと、標本体としての数え方なのだそうです。 http://www.alpha-net.ne.jp/users2/nabikobi/kazu.html 南方熊楠先生のことは私も、かねて聞き及んでおりますが、このかたの場合は、脳生理学的見地から見て、むしろ異常性があったと言えるかもしれませんね。それにしても、こういうタイプのかたは、日本人であれ、どこの国の人であれ、なかなか出現するものではないように思います。でも、できれば我が日本から、また、このようなかたが現れてほしいものですね。 『南方曼荼羅』、興味を持ちました。ちょっと調べてみます。

cyototu
質問者

お礼

お礼が遅れて申訳ございませんでした。 面白いご意見を頂けて、この質問をした甲斐があります。 >後に続く名詞の形状を予告しておくことによって思考回路の流れをスムースにする点にある その通りだと思います。#6さんのお礼にも述べておいたのですが、数助詞は抽象化=>具象化の思考回路の流れをスムースにしてくれるので、抽象化の本当の意味での機能を完結するための巧妙な装置だと思います。 重ねてお礼を申し上げます。

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  • Mr_Holland
  • ベストアンサー率56% (890/1576)
回答No.8

 近所の小学生の子どもにとのやりとりで気づいたことです。  算数の文章題で「リンゴ3個とミカン2個があります。合わせていくつですか?」が分からないというのです。理由は「リンゴはリンゴであり、ミカンはミカンなのだから足せないでしょ」とのこと。話をよくよく聞いて分かったのですが、その子には「人が5人、鉛筆が5本、合わせていくつ?」と聞かれるぐらい、おかしな話として捉えられるようなのです。確かに、この子のいうことはある意味もっともなのですが、抽象化には壁がある状態です。  しかし、だからといって計算能力が劣っているということはなく、むしろ優れているといえるほど早く正確で、より高度な概念の負の数や分数に関わるようなことも口にします。  小学生レベルの話では無理があるかもしれませんが、「抽象化」と「抽象化された概念(抽象概念)を扱う力」というのは別物のように思われます。

cyototu
質問者

お礼

面白い経験を教えてくれて、有り難うございます。私は物理屋ですが、物理の研究を進める時に「物理的次元」(物理的単位とも言う)というのが本質的に重要な役割をします。5秒+5g は意味がありません。そこで、計算の途中でこのような単位の矛盾が出て来たら、計算のどこかで間違いをしたことの証拠になります。 したがって物理的次元の認識は膨大な計算をするときの大変頼りになる検証法を提供してくれます。物理学者にとっても「リンゴ3個とミカン2個があります。合わせていくつですか?」は何と答えて良いか分からなくなってしまうような微妙な質問になっているみたいです。 >「抽象化」と「抽象化された概念(抽象概念)を扱う力」というのは別物のように思われます。 なるほど。 有り難うございます。

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  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.7

私は、こうした問題にトンと疎く、考えたこともありませんでしたが、それだけに、ちょっとオモシロい御質問だなあと思いながら眺めておりました。 実際 >にもかかわらず、日本人には世界的な数学者が排出している のであれば、御質問で挙げられた疑問は外れているということになるのでしょうか。「数学者」というものにとって、どういった要素が重要なところであるのかは存じませんが。 日本では昔から「一木一草に神やどる」という言われかたがあるのが、何となく思い出されました。 抽象化とは即ち捨象ですね。抽象化が苦手とするなら、その「捨象」部分を捨てきれないということになりましょうか。とは言え、どう捨象するかということには或る種、賭けめいた面が伴うように思います。 「数助詞(助数詞)」を用いるとは「何が」「どのようなものが」いくつあるのかということですから、つまり「分類」ということを重視しているということになると思えます。 数というものは分類を精緻にしようとすればするほど要請されてくるものではないですか。 そして分類とは区別や差異をつけられるということですね。これも度を越してくると「重箱の隅をつつく」などと言われたりする。 或る意味、日本人は繊細・細やかな反面、往々にして欧米人等に比べ大胆な発想力、ダイナミックな推進力に欠けがちであるという批判があることも思い出されました。

cyototu
質問者

お礼

>抽象化とは即ち捨象ですね。 >どう捨象するかということには或る種、賭けめいた面が伴うように思います。 賛成です。 貴方ばかりでなく、他の方も >日本では昔から「一木一草に神やどる」 に類するご意見を頂きました。一考に値すると思いました。 >日本人は繊細・細やかな反面、往々にして欧米人等に比べ大胆な発想力、ダイナミックな推進力に欠けがちである。 私も一般的にはそんなものかなと思いますが、日本人にも凄い方がいらっしゃいますよ。私は明治大正昭和初期に活躍した、生物学者で日本民俗学者でもある南方熊楠の大ファンです。彼は欧米語以外、漢文、日本古文、仏典を自由にこなし、Scienceという英国の超一流の学術雑誌に、日本人で最も多くの論文を載せた方です。未だにその記録は破られていません。彼の書いた本物の履歴書は内容が破天荒です。それはまた日本で一番長い履歴書と言われています。真言宗高野派管長の土宜法竜宛書簡に書いた南方曼荼羅は哲学的にも興味のある内容です。彼が辞世の句として残した都々逸、   見えぬ山路を越え往くときにゃ鳴かぬ烏の声もする もハチャメチャです。彼の大胆な発想力、ダイナミックな推進力は欧米人でも舌を巻くはずです。 ご意見参考になりました。有り難うございます。

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回答No.5

#2です。 たぶんそういう反応をされるであろうと想像しておりました。 >我々の思考法は、知らず知らずの間に自分の埋め込まれた文化および言語に途方もなく制約されているものだと私は考えます。 これをサピア-ウォーフの仮説(Sapir-Whorf hypothesis)といいます。 http://en.wikipedia.org/wiki/Sapir-Whorf_hypothesis http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%81%AE%E4%BB%AE%E8%AA%AC 今でも文科系の人には根強い考え方なのですが、物理学の方とは思いもよりませんでした。 それはさておき。 サピアもウォーフも1940年代までの人です。 1960年代に認知科学が誕生し、その後急速な発展を遂げました。 その一翼を担ったのが言語学です。 その成果は 1.人間の言語は驚くほど似ているということ、 2.言語は模倣や伝統によって習得するのではなく、生得的認知能力によって獲得するものであること、 3.今まで見たことも聞いたこともない文を発したり、理解したり、この文は正しいとかおかしいとか判断できること などなどです。 もちろん、確固たる定説はまだありません。 ある人は、普遍的な文法が生まれたときから備わっており、そこから個別言語を獲得すると考え、またある人は普遍的な認知能力から個別言語の文法を獲得すると主張しています。 いずれにせよ、普遍的認知あっての言語です。 言語があって認知が生ずるのではありません。 人間の認知能力を超えることは何語を話す人であれ、理解することはできませんし、人間の認知の範囲内のことであれば、何語を話す人であっても理解できます。 Laws of Nature もしかり。もし言語によって認知が規定されるのであれば、日本人や中国人はそもそも理解できないはず。それが理解できる以上、論理が破綻しているのではないでしょうか? サピア-ウォーフの仮説の仮説の証拠としてよく出されるのが色彩名称とか(言語によって色彩を表す語の種類や数が違う)、日本語では水とお湯を区別するが英語は water しかないとか、素朴すぎる議論が多いばかりか、エスキモー語には「雪」に関する単語が何百とあるというデマまで跋扈する現状を憂いています。 先の回答といい、今回の回答といい、あるいは刺激的すぎて質問者様の感情を害しているのではないかと危惧しておりますが、そのような状況をお含みおきくださり、ご容赦願えれば幸甚です。

cyototu
質問者

お礼

#2さん 上の文は始めお礼欄に書き込んだのですが、長過ぎると文句が出てしまったので、補足欄に移動しました。 参考になりました。有り難うございます。

cyototu
質問者

補足

感情を害してなど居りませんのでご安心下さい。私の師であった著名な方が日本語訳にすると「驚きは創造の源である」という墓碑銘を残しております。私が考えたことがないような意見は、是非聞いておきたいです。 現在の物理学者の巨人でワインバーグという方と、プリゴジンという方がいらっしゃいます。ワインバーグは、今までの物理学をとことん押し進めて、ある統一理論を作り、ノーベル賞をもらっています。プリゴジンは散逸構造理論というものを造り上げ、やはりノーベル賞をもらっています。この散逸構造理論によって、とてつもなく多くの粒子が集まっている複雑な系では、その複雑さゆえに時間に過去から未来への向きがあらわれ、そのことから物理学の基本法則に矛盾なく複雑多様な構造が自発的にできることが可能であることを示しました。一言でいうと、この世の中では、どのような機構で構造が顕われて来るのかということを説明する理論です。生命現象もその散逸構造の一つの現れであろうというのが、現在の物理学者の多数派を占める意見となって来ています。私の所属する大学で、この二人を含めて「創造性」をテーマにした講演会がありました。 先ず、ワインバーグは 「物理学には創造はない、我々は、そこに既にあるものを発見するだけである」 との、物理学者達の伝統的な主張をしました。 次に、プリゴジンは 「我々に無関係に存在しているものがあるという物の見方は、星や銀河や単純な機械等、極端に単純な事象については良い近似になっているであろう。しかし、我々を含めた複雑系では、それをどのように認識するかは、その人の埋め込まれた文化や歴史に強く依存している。現に、散逸構造理論によって説明される化学反応系のパターンや火山岩の中にできる複雑な模様、植物の分布相のパターン、バイオリズム等々では、その形態の出現に、過去の歴史が強く影響していることが判っているではないか。我々の言語を使って自然を認識する場合も同様であると考える。我々は自然を発見しているのではなくて、発明しているのではないか」 との主張を展開しました。 考えてみると、昔ギリシャの偉大な彫刻が 「私は美しい体の彫刻を造り出しているではない。すでに石の中に存在していものを掘り出しているだけだ」 と言っていましたね。今ではそのようなことを言う芸術家はないないでしょう。彼等は必ず、造り出しているのだと主張するでしょう。 プリゴジンの話を聞いた時「自然科学は芸術に2千5百年も遅れているのか、自然科学は最近ようやく複雑系を議論できるようになって、やっと芸術家達の認識に到達し始めたのか」と思いました。 >1960年代に認知科学が誕生し、その後急速な発展を遂げました。 とおっしゃいますが、その時点ではまだ、散逸構造理論による全く新しい認識法を人類が作り出していなかった時代ですね。現在では、生物系に起こる空間的構造や、バイオリズムなどの時間的構造ばかりでなく、都市の発展の機構、社会発展の機構、漁船団やアリの集団の捕獲機構の研究等々、人文科学系の分野でも散逸構造理論に基づいた量的分析がもの凄い勢いで研究されています。 もし未だに言語学の方で散逸構造理論からの視点で研究を始めている方がいらっしゃらなかった、私には驚きです。貴方の上に挙げた1、2、3の成果は、複雑系の複雑さを許容しつつそのまま認識するという最近の物理学の視点ではなく、その複雑な事象を思い切って単純化した場合に残るものは何かと言う、散逸構造理論の出現以前の物理学の見方の立場で得られた成果ではないかと、素人ながら直感いたします。どうでしょうか。 物理学でも、そのように単純化したものから得られる情報は途轍もなく重要ですが、散逸構造理論の発展は、我々の世界を理解するにはそのもっと先に、それにもまして重要な認識の仕方があることを教えてくれました。 言語学についてずぶの素人ですので、なにか頓珍漢なことを言っていたら、唐人の寝言と聞き流して下さい。

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noname#42771
noname#42771
回答No.4

>抽象化の作業があったと思います。  そうですね、その通りです。日本人がその昔抽象化したのは、鉛筆をひっくるめたものですね。数そのものを抽象化したのではありません。  私は「数の抽象化」の発想が無かったと言ったのであって、「抽象化」の発想が無かったとは言ってません。  でも今では数的学習などのお陰で、余裕で抽象化出来ると思われます。それは“素質”ではなくて、単にその昔発想が無かっただけじゃないでしょうか?  詳しくは分かりませんが、何らかの文化的背景により、そういう考え方の“くせ”になったに過ぎないのではないでしょうか。

cyototu
質問者

お礼

鉛筆をひっくるめて抽象化した、とは面白い発想だと思いした。 考え方のくせ、という表現も面白いです。 参考になりました。有り難うございます。

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noname#42771
noname#42771
回答No.3

 日本語の助数詞が成立した頃は、数の抽象化という考え方(発想)が無かったに過ぎないだけではないでしょうか?。数の概念さえ知れば、なんて事無いでしょう。例えば日本語の決まりが変わって「5の鉛筆」が正式になったとしても、余裕で通じるじゃありませんか。そう考えると、日本人が数の抽象化が苦手であるとは思えないのです。  日本ではその昔、数の抽象化という発想が無かっただけで、日本人が素質的に数の抽象化が苦手な訳ではない、という事じゃないでしょうか。

cyototu
質問者

お礼

言葉が成立するためには、抽象化の作業が必然です。ですから、どんな民族でも、またどんな古い時代でも、言葉を使っていた限りそれを認識しようがしまいが抽象化の作業があったと思います。 有り難うございました。

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回答No.2

日本人/日本語は論理的ではないとか、抽象化が苦手だとか言うのは全くの迷信で、ナンセンスです。エスキモーは「雪」に関する単語が何百とあるというのと同じ都市伝説に過ぎません。 人間の認知能力は言語に左右されません。何語を話そうが紫外線は見えませんし、超音波は聞こえません。 人間の才能も言語に左右されません。何語を話そうが絵のうまい人はうまいし、音痴はいます。 閑話休題。 多くのヨーロッパの言語では可算名詞と不可算名詞を区別します。可算名詞についてはさらに単数と複数を区別します。 可算名詞にはそのまま数字をつけますが、不可算名詞をどうしても数えたいときには助数詞をつけます。 a grain of sand 「一粒の砂」 a piece of luck 「一つの幸運」 これに対して日本語は全ての名詞を一緒くたにして、言い換えれば「抽象化」して、一つの鋳型(テンプレート)にいれます。すなわち「数詞+助数詞+名詞」です。 テンプレートは言語学的には「大変抽象的な概念なのですが、欧米人はそこまで抽象化出来なかったようです。そこで、抽象化からの不安を取り除くために付けたのが「可算/不可算の区別」ですね。この点では、欧米人は抽象化が苦手なようですね。それにもかかわらず、欧米人には世界的な数学者が排出している理由が、私には良く判りません。」 助数詞のみを取り上げて、日本語は抽象化が不十分だというのはナンセンスです。

cyototu
質問者

お礼

抽象化の形態にはいろいろありますが、その一つとして、その事象の本質を表すキーワード(願わくは一言で)を探り当てるというものがあると思っております。貴方の言う「鋳型」という概念もその例の一つでしょう。その点で数学についての抽象化能力の有る無しを凝縮するキーワードは「数助詞」ではないと言う事ですね。私もそれを感じていたからこそ、この質問をしました。 数学における抽象化能力の有る無しを凝縮するキーワードがもし在るのなら、それは何か、私には興味が有ります。 鋳型を作る行為は抽象化の一種であるとは、面白い捉え方ですね。参考になりました。有り難うございます。

cyototu
質問者

補足

>人間の認知能力は言語に左右されません。 その意見には、賛成出来ません。私は物理学者ですが、欧米人の「Laws of Nature」と言う概念は、日本人のそれとは驚く程違います。彼等はこの概念を言葉通り「自然の法律」と認識しています。ご存知のように、「Law School」は「法則学校」ではなくて、「法律学校」です。日本人にとって「自然」とは「自ら然りと収まるところに自然と収まる」自然体の存在であり、「規則」に従っているようでは自然ではないと思っています。欧米人が我々日本人には理解出来ない方法で自然を捉えている根拠はユダヤ=キリスト教の一神教に基づいた世界観にある、というのが私の持論です。 言葉とはその文化特有の歴史や世界観に影響されて発展して来たはずです。「Laws of Nature」という言葉を初めて聞いたときの江戸後期の蘭学者の驚きと苦悩が「自然の法則」という言葉に如実に現れていると思っております。 因に、中国人の友人に聞いた所、彼等も「自然の法律」とは余りにも馬鹿げた表現なので「自然の定律」と言う具合に、欧米人が「Law」一言で一緒くたにしているのを、「法律」と「定律」とに使い分けているそうです。 我々の思考法は、知らず知らずの間に自分の埋め込まれた文化および言語に途方もなく制約されているものだと私は考えます。 人類史の中でも、旧石器時代のように地球のどこから出て来る石器もほとんど同じような形をしている、すなわちある種の統一ないし均質な形態から、新石器時代のように、アフリカ,中国,南米等々、場所によって特殊で個性がある石器を産み出すようになったのが、人類の進歩でした。このことは、進歩とは均質から不均質へ、一般ないし統一から特殊へと進むものであることを教えてくれています。 「自己」から「家族」へ、「家族」から「町や村」へ、「町や村」から「国」へ、「国」から「世界ないし人類」へ、と言うのが認識の進歩の方向ではなくて、その反対の流れを辿り、最終的には「自己」の正しい認識に辿り着くけるようになるのが、進歩の方向だと思います。そして、その方向のみが「多様性」を善しと認めることが出来る方向だと思います。 このように考えると、自分の埋め込まれた文化の持つ言語によらないような人類に共通な概念は、その概念体系のなかで下位に位置する単純な概念だと思います。別の言い方をすると、そのような単純なことを探ることだけで、人間が判るようになるとは思えません。 言語に左右される認知能力を探ることは遥かに難しいことですが、だからこそ複雑多様で底の深い人間の面白さを楽しむことが出来るようになるのだと、私は考えています。

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回答No.1

私は数学は苦手かつ心理学に長けてもいませんので、お手柔らかに。 日本において「五人」は「五人」であって、 飽くまで「五」と「人」ではないのだと思います。 何故そうなのかといえば、 これは日本人の物事の考え方の特殊性にあるように思います。 幅広く云えば、漢字とかなを使い分ける文化性も関連するでしょう。 むしろ物事の認識過程において、日本人においては数よりも数助詞になる 名詞の方にウェイトを置く癖があるかと思います。 しかし両者は繋がっており、「五人」から「人」を奪ってしまえば、 その現象自体成り立たないような思考ができるのだと思います。 質問に照らすならば「抽象化」されたもの自体そのまま受け入れられる 包容性というべきかも知れません。 西洋においては「二元論」的にはっきり事物を分けて判断します。 「五」は「五」であって「人」は「人」、それ故、 「人」が「五」あるから「五人」となるのでしょう。 「five pencils」というスペルがそれの良い例でしょう。 しかし世の中すべてがすべて数字のように割り切れるものではありません。 例えば、医療の問題で「脳死」など様々な倫理的問題をばらまいています。 どちらが優れているかという論拠では浅いと思います。 中国や韓国については全く分かりません。 以上です。

cyototu
質問者

お礼

貴方の論述のキーワードを列挙すると、 「日本人の物事の考え方の特殊性」 「漢字とかなの使い分け」 「日本人は数よりも数助詞なる名詞の方にウェイトを置く」 「包容性」 「西洋における二元論」 が浮かんで来ました。その意味を咀嚼してみます。 有り難うございます。

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    助詞についての質問です。 日本語の母国語話者ですが、助詞の使い方について考えていたら、何が正しいのか分からなくなってきました。 「東京で家族と住んでいます」この文章は正しい気がします。しかし、「東京で住んでいます」はどうでしょう。正しい文章ですか? また、「東京に住んでいます」という文章は正しいように思えますが、「東京に家族と住んでいます」はどうでしょう。正しい文章ですか? 考えれば考えるほど、自分の言語感覚に自信が持てなくなってきました。

  • 上手く表現できない,この違和感

    番組で,日本語を習い始めた外国人の方が,下記の文を,日本語で このように表現され ━━━━━━━━━━━━━━ ・I bought two books and five pencils. ・わたしはに冊の本と,ご本のえんぴつを買いました。 【私は2冊の本と,5本の鉛筆を買いました。】 ━━━━━━━━━━━━━━ 日本人の私は…言い様のない違和感を,感じました。 英文の時は,数字を言語のままで表現しても違和感ないですが, 何故,和文にした途端に 漢数字,または算用数字で表現しないと,違和感を感じてしまうのでしょうか?