• ベストアンサー

コトバは 虚構ではないのか?

kannzou001の回答

回答No.11

はい、そうです。 言葉は、シルシであり方便、補助線です。 全ての言葉は真実そのものは示していません。 それは、百聞は一見にしかずと言うもので、見た真実を100%言葉で言い表す事は不可能と言う事からも証明されています。 「《まんじゅう》がある」と言う言葉は概ね皆、どう言う事か分かります。 しかし、「《まんじゅう》と言ったって いろんなまんじゅうがある」と貴方が仰った通りです。 「まんじゅう」と言う言葉は、饅頭と言う真実を示します。しかし、人間はその饅頭と言う言葉を、自分の経験からイメージされる「まんじゅう」と言う虚構でその情景を理解します。 返答文にあった通り「主観の真実は 虚構としてのコトバを介して伝えられる。」と言う事です。

bragelonne
質問者

お礼

 かんぞう001さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  なんだか茶の木畠に迷い込んだような。なんですが かんぞう001さんは 明確に《虚構》説でしょうか。  コトバはシルシであり ひとつに 必ずしもホントウのことを伝えるわけではないことと もうひとつに コトバじたいがすでに多義的であること このふたつは 大方のみとめるところだと思います。  問題は その仮象的な複雑な構造を超えて――もしくは 対話者双方のそれぞれ《コトバ表現に対する主体性》がその入り組んだ虚構を許容し得て―― それでも主体の本意とそしてシルシとしてのコトバとは かろうじてでも対応関係をたもっているか? ではないかと思います。  たとえば こうです。  ★ 全ての言葉は真実そのものは示していません。  ☆ であっても それでもその《虚構の仕組み》の中で 表現主体がひとつのシルシ(つまりコトバ)をえらびこれを使ったとしたなら そのかぎりで――という意味は 主体とその手段との関係がそれとして成り立ったかぎりで―― きちんとした《きづな》は 出来ている。と見たほうがよい。かも知れません。  きわめてあやうい虚構の仕組みの中で それでもツナワタリをするかのように 《コトバと意味とは 発信者の心を過不足なくはこぶ》ことが出来るかも知れません。よね?  つまり  ★ 「《まんじゅう》と言ったって いろんなまんじゅうがある」  ☆ という多義性の構造を 言語主体が許容して その中から 一対一の《コトバ‐意味》対応を成り立たせているかも知れません。  あっ そうか。つまり  ★ 「まんじゅう」と言う言葉は、饅頭と言う真実を示します。しかし、人間はその饅頭と言う言葉を、自分の経験からイメージされる「まんじゅう」と言う虚構でその情景を理解します。  ☆ というように 《一対一の〈コトバ‐意味〉対応》の実現可能性をみとめつつ しかもそのときにも 言語主体のあいだでそれぞれがまともな対話者であっても それでも善意の勘違いや誤解は生じ得る。こうも考えられますね。  ★ 自分の経験からイメージされる「まんじゅう」と言う虚構  ☆ ゆえに 悪意無き誤解は あり得ますね。  ということは コトバの起源やそのときの成り立ちがいかにあったにせよ――ことだま(事‐魂 または 言‐魂)といった基礎があったにせよ―― 言語の使用の歴史をつうじては その二次的な成り立ちに過ぎないとしても コトバ=虚構という見方が出来上がってしまった。こうではないか?  つまり あらためてまとめるなら:  (あ) 言語については そのコトバの発信および受信のそれぞれ主体が コトバの選択意志をしっかりとしたものとして保つなら 互いにその《コトバ‐意味》の対応関係を心に保つことが出来る。であろう。  (い) ただ その対応関係すらもが けっきょくコトバじたいの性質から 真偽や多義性から成る虚構の仕組みと はげしく接して わたりあっている。わたりあった結果 (あ)の《本意》を保持し得る対応関係を実現することが出来るものと思われる。  (い)‐a  コトバに固有の虚構の仕組みとは (あ)の主体間における《コトバ‐意味》の対応関係が それぞれが善意のままであっても 破られるような勘違いや誤解が生じ得るというまでの自由度のことである。《選択意志》を堅く保っても その意志にかかわらず起こり得ると思われる。《いろんなまんじゅうがある》から。不可抗力である。  すなわち  ★ 返答文にあった通り「主観の真実は 虚構としてのコトバを介して伝えられる。」と言う事です。  ☆ と言えると同時に この主観真実をコトバに乗せて運ぶというコミュニケーションでは その虚構なる自由度を主体それぞれが許容しつつ 《コトバ‐意味》なる対応を保持し得るかも知れない。そういう きづなが人びとの共生にあっては 成り立ち得るかも知れない。  かな?  ・・・・・  (おあとがよろしいようで)    

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