• ベストアンサー

コトバは 虚構ではないのか?

0fool0の回答

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.8

さて、先ほど詫びを入れたので、ちょっと勢いが出ませんが・・・ >☆ コトバ論にとって 一般性に欠けるという意味です。あるいはつまり この《コトバは 虚構ではないか?》のこたえとしては 一面にしかかかわっていないという意味です。 確かに一般性には欠けますかね。 しかし磨かれた言葉で、時の重みに耐えてきた力が有ります。 これは私の考えかもしれませんが、言葉は増やしても意味は減ると考えます。 「少年よ大志を抱け」この言葉にはこの様に続きがあります「この老人の様に」 いい言葉ですが、後半はやはり時に磨かれ、前半が鋭く輝いています。 一人が考えた言葉はやはり、その人向けの言葉です。 幾人もの命を経た言葉は、その命を宿していると私は考えます。

bragelonne
質問者

お礼

 No.6のこまあす88さんは コトバと意味との対応が――実質的にか虚構としてか いづれかにおいて しかも―― ウソとホントウとの二重性において成り立っていると言いました。そうわたしが 受け取りました。  今回のこのご回答は さらにそこから《多方向性》があるという見方であるようです。  すなわち 今度は話し手(書き手)の側から 聞き手(読み手)の側に視点を移して  ○ 聞き取り読み取る側からすれば 《ウソとホントウとの二重性》が 読み手によって違いが現われる。しかも 同じひとりの読み手にとっても ときと場合とにより 違って来得る。  ということは 《コトバと意味との対応》が 縦横あるいは斜め(?)にいろんなかたちで 出来上がることがありうる。    のだろうか?  時代を経た場合には またまた違った読み方が成される。か!  どなたか まとめてくれませんか。

関連するQ&A

  • 《神》という言葉は 《方便》だ。

     《神》という言葉は 《方便》である。  《神》という漢字  《かみ》という日本語・その発音 みな方便だ。  《補助線》である。《神》を知る上で引いた補助線でしかない。  補助線は 神本体ではない。    タトエであり 仮りの表現であり シルシである。    方便として用いているに過ぎない。  これを問います。どうでしょう。

  • 言葉とは何か

    「言葉」とはなんなのでしょうか? 結論から言いますと、 「音声表現による事物表象の表現」 というようなところでしょうか? そこで疑問なのは、結局は「音声」ですよね。 例えば「貴様」とか[KISAMA]という3音節の「響き」です。 この同じ音波の集合体を聞いて、戦前ちょっと前くらいまでは丁寧語だと認識した。それが同じものを聞いて喧嘩売りの表現になった。 その「響き」は同じで、「意味」を変遷させていった。 つまり、その「音声」の背後に広がる「意味」の世界を人は圧倒的に問題にするわけですが、逆に言うとそれほど「音声」そのもののほうにはかまわないわけです。それでいいのでしょうか? 補足として、日本語ではこの音声の精神が「韻」を踏めないために浸透しにくいということがあると思います。これが欧印語圏ですと、韻を踏めますので、日本語よりも、言葉の「音声」面を考慮するが、本当に日本はこういう意味で詩作精神が死んでいますよね。 私はそう感じているのですが、どういうものでしょうか?

  • ネイティブの人が言葉の意味を調べるとき

    日本人が分からない言葉を調べる時に、 例えば「電卓」という言葉を聞いて意味が分からなければ、聞いたままの音から「でんたく」というように文字として認識して国語辞典等で調べると思うのですが(日本語だと音と文字を1対1で対応する事が可能)、これが英語を母国語とする人の場合はどうなるのでしょうか。 知らない単語の読み(音)から正しいスペルが分かり、それを元にスペルから辞書等で調べるのでしょうか。 それとも、音からスペルが分からなくても調べることのできる辞書のようなものがあるのでしょうか。

  • イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり同時に人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。経験事象としての光やそれを本質的に見させる光――おおむね 理性ないし精神――であるだけで終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあてこれを照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その聖霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。  そうして この質問はいちど問うています。それでもなお問いたいというそのわけは こうです。     (κ) もし虚構ではなく まさしく歴史事実であるとした場合 あるいはその史実を捉えた人間の心の真実であるとした場合 そうだとすると いづれの場合でもその事実認識や心の真実として イエス・キリストというコトが 人間の思考によって規定されてしまわないか? 神は 人間の思考によって捉えられうるか? 経験合理性の知識体系の中におさまるものであるのか?   という問いをつけ加えたいからです。よろしくどうぞ。    

  • イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • 「400字詰原稿用紙換算」の意味

    「400字詰原稿用紙換算」という言葉についてですが、 例えば「100枚以内」だとしたら、 単純に原稿用紙に書いて100枚以内になるものなのか、 その小説の言葉の文字数を指して100枚以内になるものなのか、 (「100枚以内」ということを、文字にすると「40000字以内」ととらえると、 普通に原稿用紙に書いたら101枚になってしまう作品でも 文字数なら40000字以内におさめられるという事として) どちらの意味が正解になるのでしょうか。

  • イエスという人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは医学や科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • トレード・トリートの言葉の意味

    経済の話のときに、英語らしきトレード・トリートという言葉がでました。これはどういう意味ですか? 文としてはこの前に、時代は変わってきている。変化には迅速に対応しないと・・・というような内容があってそのあとに・・・ >だから遅けりゃ遅いほど、トレード・トリートになるというふうに考えるべきだ。 というトレード・トリートがつくのですがどういう意味ですか? そもそも、このトレード・トリートの読み(音声きいているだけなので)間違ってますか? 調べると、ハロウィンの言葉ででてくるのですが・・・?

  • 「言葉」と「記号」の違いについて

    【文字】 (1)「〔絵と違って〕言葉・言語音を目に見える形に記号化したもの」~新明解国語辞典第四版「文字」 (2)「文字(もじ)とは、言葉(言語)を伝達し記録するために線や点を使って形作られた記号のこと。」~ウィキペディア「文字」 【記号】 (3)『「記号」は広く、言語・文字・各種のしるし・身振りなどを含む。学問の用語としても用いる。~コトバンク「記号」 (1)(2)のことから「文字」は「絵」とは違うようです。 「文字は絵と対比して記号として定義されます。」という回答もありました。 つまり文字は「言葉、言語(音)を表す記号」のようです。 ここで記号とでてきましたが情報伝達手段である「言葉」(言語、文字、手話など)はすべて記号ですからこれらの記号の定義は広義としても捉えていると思いますし、(3)も広義の意味です。 残された表記は「絵」「図形」「符合」などがありますが、これは狭義の「記号」としてよいのでしょうか?

  • トーマス・マンの言葉の出典がわかりません。

    以下の言葉は、トーマス・マンのものとしてよく引用されていますが、どんな作品の中のどんな文脈で書かれているのかを知りたく思います。作品名と何章のどの部分とお教えいただけば、翻訳書で探しますが、もしできましたら、ドイツ語原文の抜粋を参照できるとありがたいのですが……。もちろん、判明するものだけでも結構です。 ◆「小説家は銀行家のような風体をしていなくてはならぬ」(または「小説家は銀行員のような生活を送らなければならない」) ◆「いま私のいちばん好きな仕事は、夜、星空を眺めることです。なぜといって、この地上から、また人生から目をそらすのに、これほど良い方法はないから」  ◆「政治を軽蔑するものは、軽蔑すべき政治しか持つことができない」 ◆「他人の感情生活に想像力をはたらかせて、それを察知する技術、つまり、共感というものは、自我の限界を打破するという意味で賞賛すべきものであるばかりでなく、自己保存の欠くべからざる手段なのである。(「ヨゼフとその兄弟たち」?)