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コトバは 虚構ではないのか?

urigadai2013の回答

回答No.12

古代ギリシャのプラトンの対話篇「クラテュロス」で、言語は対象と必然的な結びつきがあるか否かをめぐって論争し、クラテュロスは「名は体を表す」といって言葉は物の本性に基づき、必然的であるという考えを表明し、一方ヘルモゲネスは言葉と対象との間には必然的な結びつきはなく、ただ習慣があるだけだ、といいました。 だから、言葉には実質があるかないかについては古代ギリシャから論議されていたことが分かります。 また、中世には「言霊論」といって、言葉には「魂」がこもっている、といって言葉を使って人を呪ったり、呪術に使いましたから、言葉には「霊力」があると思われていました。 古代ギリシャでは、だいたい言葉は「ミメーシス(模倣)」といって、言葉は対象を「模倣する」、つまり言葉と対象とのつながりには必然性がある、だから正しい言葉と間違った言葉があると考えられていました。 このことは古代中国でも同じです。 中国では対象の「体を表す」言葉を「正名」といい、対象を正しくあらわさない言葉を「仮名」といっていました。 日本で「ひらがな」を発明した時に念頭にあったのは、中国の「仮名」だったと思います。 つまり「仮名」は「仮りの名」であり、「正名」ではないという理解です。 しかし、20世紀になってこの言葉と対象との結びつきは必然的ではなく、恣意的であるといってソシュールによって言語学に革命がもたらされました。 かれはいいます、 「言語と対象、イニフィアンのシニフィエの間には恣意性しかない」「言語は差異と差異からなる示差的な体系である」「語と語とのネガティヴな差異から意味が生じる」 つまり「音「ネコ」と対象「猫」との間にはなんらの必然的な結びつきはなく、それを「ウマ」といっても「イヌ」といっても良い。 ただ、長年「猫」を「ネコ」と呼んできたから習慣でそこに必然的な結びつきがあるように見えているにすぎない。 また、語は単独では意味を持たず、他の語との差異から意味が生じるというのは、例えば将棋を考えると分かります。 歩だとか桂馬は、将棋という全体のゲームの中でどのような役割を持つかによって意味が生じるので、それ単独では意味がないのだ。 言葉というものは一つ一つの言葉に意味があって、それが集まって出来たものではなく、まず全体としての言語システムがあって、その中でどのような役割を持つかによって意味を持ってくる。 ふつう私たちは言葉というものを一つ一つ物に対して名前を付けてゆき、それが集まったものを言語体系だと思っていますが、ソシュールはそれを否定したことになります。 言語は物を表わしたり、人間の感情を表現したりするものですから、虚構(フィクション)ではありませんが、言葉と対象との結びつきには必然性はなく、恣意的だということです。

bragelonne
質問者

お礼

 うりがだい2013さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですか。  つまり いくつかの《対応(または非対応)》の関係があり得るということでしょうか。  1. 言語主体における《コトバ‐意味》の対応        発信人と受信人とに それぞれコトバに対する主体性があって かつ互いのシンライカンケイ(または 共生性)が基礎にあれば 意外と このきづな とも呼びうる対応関係は 保持され得るかも知れない。  2. その対応関係の破れは 善意の主体によっても 勘違いや誤解として起こり得る。    それは 人それぞれが環境と経験などが違うから どうしても互いの共通のコトバ理解が望めないことが起こる。と想定したほうがよい。  3. 言いかえると そのときには コトバは その真偽いかんをあいまいにすることや 一語の多義性といった自由度を持つそのことが 一般性を持つと考えられる。  この自由度を 真偽の二重性や多義性の構造なる仕組みとして 虚構と呼ぶことが出来るかどうか。虚偽ではない。虚構という仲介者である役割りのことを言おうとしている。  4. このご回答No.12では ソシュールの《言語記号の恣意性》なる仮説が取り上げられた。  ★ 「言語と対象、イニフィアンのシニフィエの間には恣意性しかない」  ★ つまり「音「ネコ」と対象「猫」との間にはなんらの必然的な結びつきはなく、それを「ウマ」といっても「イヌ」といっても良い。  5. つまりこれは 《言語記号(音韻など シニフィアン)》と《意味内容(シニフィエ)》とのあいだに 自然で論理的なきづなはない。と言う。  6. 申し訳ないですが 質問者は この仮説については このOKヱーヴでもつとにマチガイであると問うて来ています。  【Q:ソシュール: 「もの」が先か「言語」が先か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3187871.html  ・ こばれろさんの質問。わたしは noname#80116 として参加しています。  【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html  【Q:name と名前 は同じ発想か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5761266.html  7. ソシュール批判の要旨は 次です。  ☆☆ (言語記号の恣意性説に対する批判) ~~~~~~~  / nVgV /という形態素を取り上げます。このシニフィアン(≒音素)が同じなら シニフィエ(≒意味)も同じく《障害の除去》だという例を示します。  (1) / nagi /なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ (切り払うべきもの・波風・   心の動揺がそれぞれ順に障害ないし邪魔と見做され これを除去する・   これが消滅する というシニフィエとなっている)  (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれている。   nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)    naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)  (3) 《和ぎ nagi 》関連。母音の交替を加えて。   nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)   nega-u   願う      (障害の消滅を希求)    *  こうして 自然(ヒトの出す声音)と文化(音素の持つ意味)とがつながっているとするなら 両者は絆を持つと考えられます。よって 《恣意性》説は 成り立たない。  かんたんにですが / n / は否定相 そして / k ( g ) / は 移行過程相を想定します。  音素というシニフィアンが 意義(相)としてのシニフィエと必然的につながっているという語例です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  どうでしょう。

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