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コトバは 虚構ではないのか?

noname#194996の回答

noname#194996
noname#194996
回答No.10

NO.6 です。拙文にまでご丁寧な読み解きを頂き感謝しております。その結果の戸惑いには責任を持つべきでしょう。 なので、ちょっと補足を。 言葉は本来がことのは(言の葉、言の端、事の端)であり、事そのものでは勿論ありません。そういう意味では実質とは異なった代用品的なものですが、それは虚構を意味しません。限定されたものですが、それは虚構を意味しません。その”ことのはし”を受け取っったひとがこころのなかで”ほんらいのこと自身”に復旧することで真実が伝わるのです。ことばの二重性も多重性も嘘も、その発せられた人間のオリジナルに存在する限りそれをも受け手は再生して味わわねばならない責務を持っています。コミュニケーションの道具として、言葉はそういった機能も持っていると私は思います。 ブラジュロン様のおっしゃる「虚構」の意味を私はことさらに邪悪なものとしてとらえているのかもしれませんが、私はことばそのものが、本来発声者がいて、聴くべきものがいる、そうかんがえなくてはならないという発想で考えています。 三島由紀夫の「言霊論」もそういうものではなかったかと思います。ことばはなにもそこここににゅーとらるに浮かんでいるごみのような、ガスのような、雑音ではないと思っています。ことばは人間の魂が発した肉声なのではないでしょうか。であるならば「虚構」などという屁のような意味はつかないはずです。 たぶんそういう発想は ことばが発せられてすぐ消える人間の叫びから文字へ、半端なものとして長くとどまる記号の連鎖に堕したことから現れたものなのでしょう。言葉の論議は常に新しく、その原点にたちかえって考えねばならないと私は思います。 またブラジュロンヌ様のせっかくのスレッドを揺らせてしまいました。どうか戯言としてスルーしてください。

bragelonne
質問者

お礼

 ううーむ。こうでしょうか? まづはご回答をありがとうございます。               |字面の意味   |    話し手:真意―→ |真偽へのウタガイ|――→聞き手:真意               |多義性なる意味 |  すなわち  ★ その”ことのはし”を受け取っったひとがこころのなかで”ほんらいのこと自身”に復旧することで真実が伝わるのです。  ☆ すなわち一たん言い放たれたなら 真偽の二重性や 語義や文意の両義性ないし多義性といった自由度を コトバによる表現は持ち得る。そこでは コトバは自身が磁場を成すかのごとくに あたかも自由電子のごとく飛び回る。けれども 聞き手が受け取るに到れば 一般にふつうは 話し手の真意を感じ取り読み解くものなのだ。――でしょうか?  ★ ことばの二重性も多重性も嘘も、その発せられた人間のオリジナルに存在する限りそれをも受け手は再生して味わわねばならない責務を持っています。コミュニケーションの道具として、言葉はそういった機能も持っていると私は思います。  ☆ ということは こうだと思います。つまり:    ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  人と人とのあいだでは そのコミュニケーションにおいて 基本としては その発信人の本意が受け手には届くものである。  その意味で コトバは その意味内容と 一対一に対応している。  必ずしも《虚構》を成すものではない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  と。  ううーむ。  こうなりますと どうなりますか。  たぶん こうではないでしょうか? 倫理の側面とそして言語表現論の側面とがある。すなわち:  (あ) 人間にとっての意思疎通において 発信と受信とは 言わば信義則にのっとり互いにその文脈や情況をも考え合わせて 相手の本意を受け留めるものである。という倫理の側面。  (い) ~~~~~~~~~~~~~~  人の意思疎通は 一般にコトバを用いておこなう。そのコトバについて言えば 発信・受信の人間的側面を捨象して 記号としての理論が形成される。   シルシとしてのコトバは――歴史的に変遷をおこない 地域的な差異をも持ち得て――多義性を持つ。この多義性は むしろコトバが その使用者の意志とは切り離されていて その自由度をしめす。すなわち いくつかの意味内容を持って その時その場での語義や文意として一つひとつの対応関係をつくっている。  また コトバはそれ自身が 事実と対応しているかどうか――つまり ウソかホントウか――をうたがう余地をも許容する恰好となる。  という言語理論の側面。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    中間の結論:  《虚構》という表現が そぐわないとすれば 《自由度》 これは コトバが固有に持つ。といった見方は どうでしょう?  コトバじたいは やはり ニュートラルであるように思われます。真意の伝達にあってもです。ニュートラル性を超えるのは 人間の心ないし意志であり 互いのシンライカンケイなどである。のではないか?  それとも コトバの起源としての成り立ちにおいては ニュートラルなのではなく その表出者の心と一対一に対応していたということでしょうか?  ぢゃあ その後 どこまでその きづなは 霞んで行ったか。

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