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コトバは 虚構ではないのか?

 コトバは 何らかの実質的なものか?  もしくは実質のあるものを指し示す場合には 虚構ではないか?  つまり《意味内容》と コトバ(音声・文字)とは 一対一に対応しているのだろうか?  コトバは シルシであるのではないか?  方便であり 補助線であり 虚構として用いるものではないか?  虚構が――小説作品と同じように―― 一編の真実を表わすことは もちろんある。つまり 補助線であるのではないか。

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noname#194996
noname#194996
回答No.6

言葉は、本来人間が口から発する音の変化、組み合わせで、何らかの意味を他人に伝えるために発せられたのでしょう。それ自身は単なる空気振動ですが、人間同士の間で意思を伝えるために発明された人為的な物理現象であって、言霊とはいわれても、「虚構」ではありません。人間の切実な魂の発現であり真実だと思います。それが虚構にまで落ちぶれたのはのちのちのことで、人間がそれに嘘をまぜるようになったからではないでしょうか。言葉は嘘でもありうる、ということをおろかにも発見したからでしょう。社会の発展から生起した人間の堕落であり、自業自得とはいえ、人間の不幸と悪の始まりはそういったことから始まったのではないかと思われます。 小説の虚構はまたそれとは異なったものです。芸術という虚構は人間の偉大な発明ではないでしょうか。それは人間を心地よく酔わせる、感銘を与えるという意味ではほとんど真実を意味する虚構です。 ローカルな思想ですがご参考になれば。

bragelonne
質問者

お礼

 ええっとですね。この質問にかんしては とまどっています。  まづは こまあす88さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ご見解に接して 次のようなことを考えてみました。  ★ 言葉は嘘でもありうる、ということをおろかにも発見したからでしょう。  ☆ ということは こうなります。  ○ コトバは 伝達される内容として 話し手の真意とコトバの言わば字面じょうの意味との両方を示し得る。  と。《ウソとホントウとの両方を意味させうる》と。  すなわち  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ( a ) 人間の切実な魂の発現であり真実だと思います。  ( b ) それが虚構にまで落ちぶれたのはのちのちのことで、人間がそれに嘘をまぜるようになったからではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これら( a )( b )の二重構造をコトバは持つのだと。  ところで   ○ この《ウソとホントウ あるいは 真実と虚構》の二重性は 果たしてそのどちらの側面においても 《コトバと意味内容とは 実質的な対応関係にある》と言えるか?  つまり 言いかえてみるなら:  ○ 話し手(書き手)は 表現するコトバについて おのれの本心とそしてウソとをそれぞれ いづれの側面でも その《本心とコトバとの関係 および ウソ心とコトバとの関係》を実質的な対応として捉えているか?   また 聞き手(読み手)も その二重性のいづれの側面についても コトバと意味との一対一の対応関係として捉えているか?  なんだかワケが分からなくなってきました。  ○ 二重性において 実質的な対応があるとすれば 一対一の対応とは言わないのではないか?   ○ いや それほど複雑なかたちにおいても 人間は その表現行為をこなしているのだ。  となるのか?     ところで  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  小説の虚構はまたそれとは異なったものです。芸術という虚構は人間の偉大な発明ではないでしょうか。それは人間を心地よく酔わせる、感銘を与えるという意味ではほとんど真実を意味する虚構です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こういう場合には コトバは 一たん仲介役であることに甘んじて 意味関係という問題については 虚構であり補助線であるに過ぎない。と言えるのか どうなのか?  グローバルな思想としては いったい《コトバ》論は どうなりましょうか?  いや ローカルな思想のほうが 生活にもとづいていましょうか。どうでしょうか?

bragelonne
質問者

補足

 このご回答から潮が変わりました。  あ_ほなさんのご回答へともつづきます。    BA はひとつしかないので。  みなさん ありがとう。  * 未練:《仮構》の中に《虚》が入る余地があり じっさいに入っているのですけれどね。

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  • a_hona
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回答No.17

そうですね。仮の構造という意味で、仮構と言ってもいいかもしれませんね。なかなか楽しい会話でした。 五感の確かさについては、またいずれ。麻薬などで簡単に崩れる所から、五感もまたその蓋然性は絶対的ではないと私などは考えています。

bragelonne
質問者

お礼

 気持ちよく幕をおろすことができれば それに越したことはありません。  ご回答をありがとうございます。と言うよりは ここまでおつかれさまでした。これに懲りず またどうぞ。    ★☆ そうですね。仮の構造という意味で、仮構と言ってもいいかもしれませんね。なかなか楽しい会話でした。  ★ 五感の確かさについては、またいずれ。麻薬などで簡単に崩れる所から、五感もまたその蓋然性は絶対的ではないと私などは考えています。  ☆ これは 異常事態のもんだいですね。尋常の状態であれば 知覚は それとしていつわらない。とは思いました。  みなさんも おつかれさまでした。たいへんありがとうございました。  もう少し開けていてから閉めます。

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.16

幾つかの例をもって言葉の空性、つまり、言葉は仮の物であるということを前回答で示したのは、だからと言ってそれを虚構、ウソというのはナンセンスではないかと問うためだったのですが、。何故なら、虚構やウソとは、真実とは違うという意味が確かにあるのであり、ブラジュロンヌさんの論調だと、すべての名称されたもの、言葉はウソであるとなってしまい、真実という言葉もウソを示すものと誤解を生じさせる危惧があり、言葉の用を為さなくなってしまうことの懸念があるからです。 言葉は確かに作りものでしょう。しかしながらそれは、人間の五感で捉えられる独特のリズムや旋律を有していて、ただの恣意性によって選択されてきたというわけでもなく、有る程度の必然性があったと考えられるのです。いわく呼吸というやつです。 また、言葉は理解によって生じたものと考えられます。即ちピンと来た、というやつです。何がピンときたのか、それをさらに言葉で説明するのは難しいですが、理解がその時に生じたと言えるのです。 それら言葉の蓋然性を無視して、一切の言葉は虚構であると説明するには、言葉の含有する全ての確からしさを上回る確かな根拠を示さねばならず、それはいささか難しい。 言えたとしても、言葉は蓋然性と共にいくらかの嘘(空性、自由度)を含んでいる、ぐらいが適度だと考えられるのです。 もう一つ、提出された神という言葉についても少し言及します。神という言葉は一種の概念であり、持つ意味内容は多義的であり、指し示す現象も多岐に渡ります。雷などの自然現象を神に絡めて説明することもあれば、この世を超えたものを示す純粋概念として神を用いる場合もあります。で、この時、神という言葉は典型的な虚構であるとのご説明でしたが、果たしてそうか。補助線であるとまでは言えるが、それを虚構と言えるだろうか。詩的には虚構と言った方が面白くはあるけれども、神という言葉が用を為している以上、先ほど述べた言葉の蓋然性が働いているのであり、虚構とまでは言えないだろう。 例えばイチローは、好調の時はボールが線になって見えたというが、実際にはボールは球である。しかし、イチローの動体視力と野球センスという確かなものが、球筋が線になって見えるという現象を引き起こしています。その現象を虚構とは言い難いように、全ての言葉には自由度と共に、あるいはそれ以上に人間由来の蓋然性を含んでいて、一概に虚構だということはできないのです。 面白いですけどね、嘘(言葉)を束ねて真実に近づくのが哲学者である、なんて言えれば詩的です。ですがそれは確かには言えないでしょう。 もし、私的に論を進めるならば、次は、果たして人間の五感は確かなものか?という問いを投げかけるでしょう、其処に虚構はあるかと。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まだ いささか強引でしょうか。  まづは ご回答をありがとうございます。  ★ 〔* 虚構であると〕言えたとしても、言葉は蓋然性と共にいくらかの嘘(空性、自由度)を含んでいる、ぐらいが適度だと考えられるのです。  ☆ おそらく そこまでたどり着いたときに この自由度としてのウソをどう見るかで さらに《虚構》へとつなげるかどうかが分かれるのかも知れません。   必然性の定まらない理由で或るひとつの意味を そのコトバにつけ加えるということ。  たとえば 《青い》のは 木々の葉が繁りみづみづしいときを言うからという理由で 人生の若いときにも用いる。つまり 青年や青春と言うのは ひとつの必然性がある。ただしなぜ この《青い》という色をタトエにえらんだか? あるいは何故 人の成長期を木の状態にたとえなければならないか?  青春というくらいだから この季節をタトエにしてもよい。青少年と言う代わりに 春の年頃とか 春の人とか。  さらにあるいは この《青い》を まだ大人になっていないなぁという感覚を表わすのに使うようにもなっている。みづみづしく力強く成長する時期ゆえ青いと言ったはずなのに 嘴が黄色いといった意味合いで《青い》と言ったりする。  これらは あたかも小説において架空の人物を登場させるように コトバと意味との対応を やはり――或る種の必然性を頼りにしてでありながら その必然性が どうしてもそれでなければならないというわけではない形で―― 架空の対応関係として成り立たせている。  小説という虚構作品において 虚構だと言っても その架空の登場人物は あたかも現実の人間であることにもとづくのが ふつうである。純文学と言いますか アニメのキャラクターなどのように想像だけの世界で人物像を成り立たせる作品でなければ そうです。  つまり コトバの成り立ちとしての自由度そしてそれとしてのウソ これは 必然性をともないつつその一つの必然性をえらぶことは恣意的なことであるかたちで成り立っている。その恣意性は 自由にさらにどこまでも展開して行く。コトバとして認知されたら 普及して行く。   だとすれば コトバはそのみづからの世界を やはり虚構性として成り立たせている。のではあるまいか。      *  もっともわたくしも コトバの成り立ちについて 音韻と意味とのあいだに 自然で論理的な必然性にもとづくつながりがあると見る仮説を持っています。   / n / =同定相     1.対象一般に同定     na : な(名)。     na-ru : な(名)-る=成る・生る。     na-su : な(名)-す=為す・成す・生す     nö : の(乃・之=属格)   2.対象どうしの関係に同定     na :ま(真)-な(似)-ぶ(反復相)=学ぶ     ni :に(似)     nä :ま(真)-ね(似)   3. 聴覚対象に同定     na : な(音)     nä : ね(音)     na-ru : な(音)-る=鳴る     na-ku : な(音)-く(移行相)=鳴く・泣く     nö-ru : の(音)‐る=告る   4. 否定相で同定     na : な(禁止法)     na-si : な(否定同定)‐し(指定相)=無し     ☆ このとき 《1. 対象一般》や《2. 比定としての同定》については 必然性が活きていると思いますが 《3. 聴覚対象》になると この《同定相》をあてはめるのが やはり恣意的になると思われるのです。ほかに 視覚や触覚などもあるからです。  《4. 否定として同定》については どうですかねぇ。A を同定していたら 非 A については否定していることになっている。そしてこの同定と否定との関係が 或る時入れ替わってしまう。つまり もともとの A のほうを否定してしまった。というようなアソビのような恣意性。  留守というのは 出かけて家にいない人の代わりにいる人つまり留守番を言ったのが ぎゃくに出かけている人のことを言うようになった。           *  ★  神という言葉が用を為している以上、先ほど述べた言葉の蓋然性が働いているのであり、虚構とまでは言えないだろう。  ☆ これもですね。《必然性》は あるかも知れない。しかもそのひとつの必然性ないし蓋然性を根拠として 《コトバ-意味》対応を理論づけるまでには行かない。  つまり Ka-Mi という特に子音ですね 子音の K と M との組み合わせに意味の必然性があるかも知れない。ただし 早い話が 外国語がこれとは違った音韻で《神》のことを表わしているからには 別の必然性があり得ます。そう考えれば 恣意的な選択として成り立っている。  そうしますと たぶん 虚構ではなく 仮構という表現を用いるなら 受け容れてもらえるのかも知れませんね。  空港というとき 海辺にあるなら いいのですが 陸地の中にある《み(水)-な(の)-と(門)=港》ということになれば おかしい。ウソであり 虚構です。  ★ 面白いですけどね、嘘(言葉)を束ねて真実に近づくのが哲学者である、なんて言えれば詩的です。ですがそれは確かには言えないでしょう。  ☆ そうですかねぇ。わたしは このとおりだと思いますよ。  ★ もし、私的に論を進めるならば、次は、果たして人間の五感は確かなものか?という問いを投げかけるでしょう、其処に虚構はあるかと。  ☆ いえ。知覚は よいわるいを別として その感覚じたいには ウソ・イツワリはないと思います。  理性が ウソをついてでも 意志の指向するところを――しばしばよくないことをたくらんだときなどに――正当化し 他人はもちろんおのれの心をも丸め込み だまそうとします。  ★ 虚構やウソとは、真実とは違うという意味が確かにあるのであり、ブラジュロンヌさんの論調だと、すべての名称されたもの、言葉はウソであるとなってしまい、真実という言葉もウソを示すものと誤解を生じさせる危惧があり、言葉の用を為さなくなってしまうことの懸念があるからです。  ☆ けっきょくですね。逆転の発想をわたしはしています。  つまり 人間の真実は 主観真実であって それ自体がすでにウソがあるという見方です。ひとは あやまちうるからです。  さきほどの五感の知覚については それとしての真実がほとんど(つまり 勘違いを除けば)揺るがないこととしてあるはずです。  問題は その感性の真実のあとの知覚内容の認識 つまりすでにそのとき《コトバ化》に移ります。そして《概念》。そしてさらに 最初の知覚から離れてしまった概念は 観念です。  認識の整理となると そして整理した認識事項を取り出して思考するとなると そこでは 人間の知解能力に限りがありあやまちうるものであるからには マの違いが起きます。また わざと間違える場合も出て来ます。  つまり 理性が――そしてそれを推し進める意志が――ワルモノだといえば そうです。  したがって 知覚したときには およそ事実を忠実に反映した内容であったとしても それの認識から思考からすでに理性の介在するときには 言ってみればいかようにも調理したり加工したりしてしまい得る。それらの知識や情報を記憶するときにすでにマが違ったかたち(内容)になっていさえしかねない。  このウソないし虚構の海で 哲学はそしてふつうに人生をまじめに生きる人びとは それぞれおのれの主観真実をとうとび大事にして さらにそれの相手に分かりやすい自己表現に精進する。

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  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.15

B様、こんばんは。 論理学的に言って、 「どれくらい、「確か」か」という問題があるのみ、と思います。 (一片の真実) 私は、好きな女は、好きですねえ。

bragelonne
質問者

お礼

 直前のNo.14で 持てるチカラを使い果たしました。  少ししてから 考えてみます。何かあったら お応えします。あしからず。  ご回答をありがとうございます。  ★ 論理学的に言って、 / 「どれくらい、「確か」か」という問題があるのみ、と思います。  ☆ コトバには 《虚構性》はないという結論なのですか?

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  • a_hona
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回答No.14

うーん、虚構といいますか、印というのはサイン、指示と思っていただければ。 例えば信号機ですが、青は進め、赤は止まれですよね。青も赤もただの色ですからそれだけでは意味をなし得ません。しかし、信号の色となるとそれは意味を持ってきます。この時、信号の色は虚構とは言い得ません。信号の色は、サイン、または指示であり、意味を持っています。 また別の話をしますと、「青」と言っただけでは青は見えない、だから青という言葉は虚構である、というのもナンセンスで、青という言葉は青という色を示しているので、意味が確かにあるわけです。 まんじゅうこわい、というのは、単に文章構造が破綻していて文意を汲み取れないだけで、言葉としての体を為していないというに過ぎません。ジャンケンの中では、手の肌色の違いなどが意味をなさないのと同じです。 さらに重ねて言えば、絵に描いた餅が食えないからその絵は偽物だ、となるのではないように、言葉も虚構とは言い得ない場合がほとんどでしょう。 ブラジュロンヌさんが例に出したように、フィクションの小説を書くとか、そんな場合にのみ虚構という言葉が当てはまるのであり、一般に、言葉は虚構であると言うのは不自然でしょう。 もうひとつおまけの話をすると、例えば概念という単語があります。概念は、りんごのように具体物ではなく、抽象物です。ですから、概念を素手で掴んだりはできない。だけど、概念などは存在しないとは言えない。しっかりと抽象物として存在していますし、意味内容もありますよね。 そんなところです。

bragelonne
質問者

お礼

 あ_ほなさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  まづ 《虚構》という用語は しっくり来ないという話ですが こまあす88さんの次の文章のような《〔意志疎通の〕仕組み》をわたし自身は初めにあたまに思い描いていました。その回答No.6での応答では そのことを言いそびれていますが。  ◆(回答No.6) 言葉は、本来人間が口から発する音の変化、組み合わせで、何らかの意味を他人に伝えるために発せられたのでしょう。それ自身は単なる空気振動ですが、人間同士の間で意思を伝えるために発明された人為的な物理現象であって、  ☆ 音声としての空気振動が 互いの意思疎通に用いられるという仕組み。これを 初めの発想としては 虚構と呼んでいた気がします。  つまりは manju という音声が その発信者の意思とじっさいの饅頭とを仲介するかのようにつなぎ そのことが同じく 受信者とのあいだでも起きる。その仕組みです。  ですから コトバは まづシルシであることに誰も反対しないと思います。仲介役であることにも 問題ないでしょう。意思を伝えるための手段という意味では 方便でもあるはずです。  そしてそこから さらに 虚構という捉え方にまで行けるか?  いま 具象としてのまんじゅうではなく まんざい という言葉だったら どうか。と考えてみる。  人の世をありがたく受け留め いつまでも天下泰平で みなさんも長生きしてくださいという思いと願いを コトバや舞いなどで表わす万歳。漫才も それほど違わない。  万歳のばあいは特に じっさいに門付けして祝言(ほかひ)の技芸を示すという具象がありますが それでも《まんざい=万歳》というコトバは その仲介の仕組みが 或る種の虚構になってしまっているのではないか。意味としては《長寿をねがう》という一点で コトバと具象としての言祝ぎとが つながっている。  すなわちそこから 《かみ=神》というコトバに到れば 虚構ではないと言うのがむつかしい。狐や鰐といった具象が神である場合でも それらは 目に見えぬ超自然のチカラのような・おそれの対象としての神の仮りの姿だと捉えるなら まるでウソなわけです。お稲荷さんや金毘羅じたいは 神ではない。仮りの姿として神である。煮詰めて言えば ウソつまり虚構としてその金毘羅というコトバそして神というコトバがある。  以上が あらためて・そしていくらか初めの草案にもどって 《虚構》論を説明したものです。  どうなんですかねぇ。  ★ ・・・・しかし、信号の色となるとそれは意味を持ってきます。この時、信号の色は虚構とは言い得ません。信号の色は、サイン、または指示であり、意味を持っています。  ☆ 言語表現論ないし記号論としては この《サイン・指示〔標識〕》としての役目について 自由度がある。と見るわけです。いささか理屈っぽいのですが 青が進めで 赤が止まれでなければならないものではない。という自由度です。  自由度があるなら そこからひとつに絞ってえらぶのは 恣意的な行為です。ほかの可能性を押さえてひとつに絞るのは そこにウソが入ります。これが これも 虚構を成すことの事例です。黄色⇒注意せよ という意味づけは ひとつの虚構ではないでしょうか? 決まったあとでは そういう《コトバ‐意味》なる対応があります。その段階では ウソではないです。  ★ ・・・「青」と言っただけでは青は見えない、だから青という言葉は虚構である、というのもナンセンスで、青という言葉は青という色を示しているので、意味が確かにあるわけです。  ☆ この場合も 《「青」と言っただけでは青は見えない》というところに この青というコトバの成り立ちが 虚構としてあるという事例があるわけです。コトバのナラワシとして決まってからは ウソではなく 意味がないわけではない。  なおしつこく追究するなら 《意味は確かにあるわけです》が そのように《あを=青》というコトバが じっさいの具象としての青色を意味するというのは ひとつの虚構であるのではないか?        *   * もし仮りに / awo / という音韻が じっさいの青色と その音素じたいによってつながっているとした場合(これについては No.12のお礼欄でのソシュールの仮説をめぐる議論を参照してください) そうだとしても そのつながりは 切っても切れない固有のつながり ではないはずなのです。音素の意味(相)は 一般性として成り立つと考えられるからです。そこから 個別に やはり一定の自由度をもって コトバの意味が決まります。   / n / =否定相 という意味がすでに実在しているとしても それはまだ一般性としての きづな であってそこから個別にコトバが決まって行きます。     na (な): 否定相⇒禁止法。来る‐な。勿来(な‐来(こ)‐そ)。     na-si (無‐し):否定相⇒《存在の無いこと》を意味する。  といった実際のコトバに成るときには やはり自由度が現われています。行為の否定相と存在の否定相との微妙な違いもあります。《無‐し》は 《〈し〉をするな》という行為にかんする禁止命令ではないわけです。意味づけの選択としてひとつに絞り具体化するということの自由度すなわち虚構性です。       *  ★ まんじゅうこわい、というのは、単に文章構造が破綻していて  ☆ 反論小僧の役をつづけますが これは 《まんじゅう〔が〕こわい。》というまともな文ですよ。  ★ ジャンケンの中では、手の肌色の違いなどが意味をなさないのと同じです。  ☆ 肌の色は シルシとして取り決めていないから 別だということだと思います。  ★ 絵に描いた餅が食えないからその絵は偽物だ、となるのではないように  ☆ たぶんそうではなく コトバを虚構なる仲介役として 《絵》なら絵 《に》ならニ 《画いた》なら画イタ 《餅》なら餅というふうに 意味がそれぞれ決まっているのだと思います。だから《偽物だとはならない》。決めるときの決め方に 虚構性が入り込んだ。  ★ フィクションの小説を書くとか、そんな場合にのみ虚構という言葉が当てはまるのであり  ☆ これは・つまり作り話としての虚構は 《仲介役としてのコトバの 虚構性》を 一連の思惟ないし文章のひとまとまりにまで広げて応用しましたという約束ごとにおいて成り立ったもののはずです。  すなわち・つまり  ★ もうひとつおまけの話をすると、例えば概念という単語があります。概念は、りんごのように具体物ではなく、抽象物です。ですから、概念を素手で掴んだりはできない。だけど、概念などは存在しないとは言えない。しっかりと抽象物として存在していますし、意味内容もありますよね。  ☆ と まさに分析して示してもらった内容そのものが ひとつの虚構性を表わしているのではないか。こういう――コトここに至っての――質問者からの逆襲です。どうでしょう。  

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回答No.13

No11です。 返答有難う御座います。 私の意図通りに、正しく伝わっていると思います。 >きちんとした《きづな》は 出来ている。と見たほうがよい。かも知れません。 はい、絆はその時点で出来ていると思います。 >☆ という多義性の構造を 言語主体が許容して その中から 一対一の《コトバ‐意味》対応を成り >立たせているかも知れません。 はい、そう言う意味では成り立っています。 >あっ そうか。つまり >★ 「まんじゅう」と言う言葉は、饅頭と言う真実を示します。しかし、人間はその饅頭と言う言葉 >を、自分の経験からイメージされる「まんじゅう」と言う虚構でその情景を理解します。 >☆ というように 《一対一の〈コトバ‐意味〉対応》の実現可能性をみとめつつ しかもそのときに >も 言語主体のあいだでそれぞれがまともな対話者であっても それでも善意の勘違いや誤解は生じ得 >る。こうも考えられますね。 >★ 自分の経験からイメージされる「まんじゅう」と言う虚構 >☆ ゆえに 悪意無き誤解は あり得ますね。 はい、その通りです。それを辞書的な意味の「虚構」と断言してよいのかは分かりませんが、bragelonneさんが言われる「虚構」に該当するのではないかと私は思いました。 ただ、それは私が思った事で、もしかしたらbragelonneさんからは、「いや、そう言う意味の虚構じゃないから」あるいは、「大体そうだが、ちょっと違う」と思われているかもしれません。 >★ 返答文にあった通り「主観の真実は 虚構としてのコトバを介して伝えられる。」と言う事です。 >☆ と言えると同時に この主観真実をコトバに乗せて運ぶというコミュニケーションでは その虚構 >なる自由度を主体それぞれが許容しつつ 《コトバ‐意味》なる対応を保持し得るかも知れない。そう >いう きづなが人びとの共生にあっては 成り立ち得るかも知れない。 多分そう言う事だと思います。何故「多分」と言うと、やはり言葉と言う虚構だけではbragelonneさんの意図を100%汲み取るのは難しいものです。同時に私の意図を100%相手に伝える事も同じく難しい事です。でも概ねそう言う事だと思います。 私の意図した事は、ちゃんと伝わっていると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 かんぞう001さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   > ・・・・《コトバ‐意味》なる対応を保持し得るかも知れない。そう   > いう きづなが人びとの共生にあっては 成り立ち得るかも知れない。  多分そう言う事だと思います。何故「多分」と言うと、やはり言葉と言う虚構だけではbragelonneさんの意図を100%汲み取るのは難しいものです。同時に私の意図を100%相手に伝える事も同じく難しい事です。でも概ねそう言う事だと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。勘違いがあり得るでしょうし また互いに100%共通の理解に立つというのも 初めにむつかしいと思っていたほうがよい。コトバをめぐっては 人それぞれにそれを知って使うようになった歴史があるだろうから。  ★ ・・・もしかしたらbragelonneさんからは、「いや、そう言う意味の虚構じゃないから」あるいは、「大体そうだが、ちょっと違う」と思われているかもしれません。  ☆ どうも《虚構》という言葉を使ったのは あまりよいとは思えない感じですね。《フィクション》と言えば 作り話でしょうし また芸術作品としても小説を思い浮かべるだろうから。    全体として あらためて こう捉えればよいかも知れません。  つまり 言語を使用する主体が 発信者と受信者とのあいだで 発信者の意図する《コトバ-意味》対応を伝え合い得て その意図ないし本心が きづなと成り得るという共生 この共生が実現するのは むしろコトバ自体にあってはその意味対応に自由度があるからこそだ。と。  つまり この自由度がないということは 《ひとつのコトバ=ひとつの意味》という図式が成り立っていることを意味する。つまり 初めから終わりまで きづなは 出来ている。そういう場合は きづなとは呼ばないかも知れない。  つまり その場合は ウソがない。ウソというものが 人間ないし人類には生まれていない。  よいこととわるいこととを知る木から採って食べた。つまりよくないことというのを知った。=それを わるいことと名づけた。そのわるいことをも いつしか我れは 欲してしまった。しかも それを誰かの所為にして 自分自身がわるいことを欲したとは言わない。ウソをついた。これを隠した。葉っぱで覆った。  このウソ――虚構?――の発生のときから じんるいの世界は始まった。のかも知れない。  それは おそらく 自由意志というハタラキの問題なのではないか。  《コトバ-意味》対応は 初めは 問題にならなかった。なぜなら ウソが無かったから。つねに対応こそが 現実であった。  ウソが――けっきょく自由意志のハタラキによって―― 生まれた。この自由度を持ったときから 《コトバ-意味》連関も 自由度を持ち 二重性やら多義性やらをやどすようになっている。だから その自由度のあるところでこそ 言語主体の本心というもの――つまり《コトバ-意味》対応――が 問い求められ のぞまれている。  それの実現が 人間の社会的な共生である。  《まんじゅうこわい》という二重性の世界でこそ 主観真実と主観真実との相互理解が 求められ 共生の問題としてつねにかかげられている。ことになる。なんちゃって。

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回答No.12

古代ギリシャのプラトンの対話篇「クラテュロス」で、言語は対象と必然的な結びつきがあるか否かをめぐって論争し、クラテュロスは「名は体を表す」といって言葉は物の本性に基づき、必然的であるという考えを表明し、一方ヘルモゲネスは言葉と対象との間には必然的な結びつきはなく、ただ習慣があるだけだ、といいました。 だから、言葉には実質があるかないかについては古代ギリシャから論議されていたことが分かります。 また、中世には「言霊論」といって、言葉には「魂」がこもっている、といって言葉を使って人を呪ったり、呪術に使いましたから、言葉には「霊力」があると思われていました。 古代ギリシャでは、だいたい言葉は「ミメーシス(模倣)」といって、言葉は対象を「模倣する」、つまり言葉と対象とのつながりには必然性がある、だから正しい言葉と間違った言葉があると考えられていました。 このことは古代中国でも同じです。 中国では対象の「体を表す」言葉を「正名」といい、対象を正しくあらわさない言葉を「仮名」といっていました。 日本で「ひらがな」を発明した時に念頭にあったのは、中国の「仮名」だったと思います。 つまり「仮名」は「仮りの名」であり、「正名」ではないという理解です。 しかし、20世紀になってこの言葉と対象との結びつきは必然的ではなく、恣意的であるといってソシュールによって言語学に革命がもたらされました。 かれはいいます、 「言語と対象、イニフィアンのシニフィエの間には恣意性しかない」「言語は差異と差異からなる示差的な体系である」「語と語とのネガティヴな差異から意味が生じる」 つまり「音「ネコ」と対象「猫」との間にはなんらの必然的な結びつきはなく、それを「ウマ」といっても「イヌ」といっても良い。 ただ、長年「猫」を「ネコ」と呼んできたから習慣でそこに必然的な結びつきがあるように見えているにすぎない。 また、語は単独では意味を持たず、他の語との差異から意味が生じるというのは、例えば将棋を考えると分かります。 歩だとか桂馬は、将棋という全体のゲームの中でどのような役割を持つかによって意味が生じるので、それ単独では意味がないのだ。 言葉というものは一つ一つの言葉に意味があって、それが集まって出来たものではなく、まず全体としての言語システムがあって、その中でどのような役割を持つかによって意味を持ってくる。 ふつう私たちは言葉というものを一つ一つ物に対して名前を付けてゆき、それが集まったものを言語体系だと思っていますが、ソシュールはそれを否定したことになります。 言語は物を表わしたり、人間の感情を表現したりするものですから、虚構(フィクション)ではありませんが、言葉と対象との結びつきには必然性はなく、恣意的だということです。

bragelonne
質問者

お礼

 うりがだい2013さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですか。  つまり いくつかの《対応(または非対応)》の関係があり得るということでしょうか。  1. 言語主体における《コトバ‐意味》の対応        発信人と受信人とに それぞれコトバに対する主体性があって かつ互いのシンライカンケイ(または 共生性)が基礎にあれば 意外と このきづな とも呼びうる対応関係は 保持され得るかも知れない。  2. その対応関係の破れは 善意の主体によっても 勘違いや誤解として起こり得る。    それは 人それぞれが環境と経験などが違うから どうしても互いの共通のコトバ理解が望めないことが起こる。と想定したほうがよい。  3. 言いかえると そのときには コトバは その真偽いかんをあいまいにすることや 一語の多義性といった自由度を持つそのことが 一般性を持つと考えられる。  この自由度を 真偽の二重性や多義性の構造なる仕組みとして 虚構と呼ぶことが出来るかどうか。虚偽ではない。虚構という仲介者である役割りのことを言おうとしている。  4. このご回答No.12では ソシュールの《言語記号の恣意性》なる仮説が取り上げられた。  ★ 「言語と対象、イニフィアンのシニフィエの間には恣意性しかない」  ★ つまり「音「ネコ」と対象「猫」との間にはなんらの必然的な結びつきはなく、それを「ウマ」といっても「イヌ」といっても良い。  5. つまりこれは 《言語記号(音韻など シニフィアン)》と《意味内容(シニフィエ)》とのあいだに 自然で論理的なきづなはない。と言う。  6. 申し訳ないですが 質問者は この仮説については このOKヱーヴでもつとにマチガイであると問うて来ています。  【Q:ソシュール: 「もの」が先か「言語」が先か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3187871.html  ・ こばれろさんの質問。わたしは noname#80116 として参加しています。  【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html  【Q:name と名前 は同じ発想か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5761266.html  7. ソシュール批判の要旨は 次です。  ☆☆ (言語記号の恣意性説に対する批判) ~~~~~~~  / nVgV /という形態素を取り上げます。このシニフィアン(≒音素)が同じなら シニフィエ(≒意味)も同じく《障害の除去》だという例を示します。  (1) / nagi /なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ (切り払うべきもの・波風・   心の動揺がそれぞれ順に障害ないし邪魔と見做され これを除去する・   これが消滅する というシニフィエとなっている)  (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれている。   nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)    naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)  (3) 《和ぎ nagi 》関連。母音の交替を加えて。   nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)   nega-u   願う      (障害の消滅を希求)    *  こうして 自然(ヒトの出す声音)と文化(音素の持つ意味)とがつながっているとするなら 両者は絆を持つと考えられます。よって 《恣意性》説は 成り立たない。  かんたんにですが / n / は否定相 そして / k ( g ) / は 移行過程相を想定します。  音素というシニフィアンが 意義(相)としてのシニフィエと必然的につながっているという語例です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  どうでしょう。

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回答No.11

はい、そうです。 言葉は、シルシであり方便、補助線です。 全ての言葉は真実そのものは示していません。 それは、百聞は一見にしかずと言うもので、見た真実を100%言葉で言い表す事は不可能と言う事からも証明されています。 「《まんじゅう》がある」と言う言葉は概ね皆、どう言う事か分かります。 しかし、「《まんじゅう》と言ったって いろんなまんじゅうがある」と貴方が仰った通りです。 「まんじゅう」と言う言葉は、饅頭と言う真実を示します。しかし、人間はその饅頭と言う言葉を、自分の経験からイメージされる「まんじゅう」と言う虚構でその情景を理解します。 返答文にあった通り「主観の真実は 虚構としてのコトバを介して伝えられる。」と言う事です。

bragelonne
質問者

お礼

 かんぞう001さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  なんだか茶の木畠に迷い込んだような。なんですが かんぞう001さんは 明確に《虚構》説でしょうか。  コトバはシルシであり ひとつに 必ずしもホントウのことを伝えるわけではないことと もうひとつに コトバじたいがすでに多義的であること このふたつは 大方のみとめるところだと思います。  問題は その仮象的な複雑な構造を超えて――もしくは 対話者双方のそれぞれ《コトバ表現に対する主体性》がその入り組んだ虚構を許容し得て―― それでも主体の本意とそしてシルシとしてのコトバとは かろうじてでも対応関係をたもっているか? ではないかと思います。  たとえば こうです。  ★ 全ての言葉は真実そのものは示していません。  ☆ であっても それでもその《虚構の仕組み》の中で 表現主体がひとつのシルシ(つまりコトバ)をえらびこれを使ったとしたなら そのかぎりで――という意味は 主体とその手段との関係がそれとして成り立ったかぎりで―― きちんとした《きづな》は 出来ている。と見たほうがよい。かも知れません。  きわめてあやうい虚構の仕組みの中で それでもツナワタリをするかのように 《コトバと意味とは 発信者の心を過不足なくはこぶ》ことが出来るかも知れません。よね?  つまり  ★ 「《まんじゅう》と言ったって いろんなまんじゅうがある」  ☆ という多義性の構造を 言語主体が許容して その中から 一対一の《コトバ‐意味》対応を成り立たせているかも知れません。  あっ そうか。つまり  ★ 「まんじゅう」と言う言葉は、饅頭と言う真実を示します。しかし、人間はその饅頭と言う言葉を、自分の経験からイメージされる「まんじゅう」と言う虚構でその情景を理解します。  ☆ というように 《一対一の〈コトバ‐意味〉対応》の実現可能性をみとめつつ しかもそのときにも 言語主体のあいだでそれぞれがまともな対話者であっても それでも善意の勘違いや誤解は生じ得る。こうも考えられますね。  ★ 自分の経験からイメージされる「まんじゅう」と言う虚構  ☆ ゆえに 悪意無き誤解は あり得ますね。  ということは コトバの起源やそのときの成り立ちがいかにあったにせよ――ことだま(事‐魂 または 言‐魂)といった基礎があったにせよ―― 言語の使用の歴史をつうじては その二次的な成り立ちに過ぎないとしても コトバ=虚構という見方が出来上がってしまった。こうではないか?  つまり あらためてまとめるなら:  (あ) 言語については そのコトバの発信および受信のそれぞれ主体が コトバの選択意志をしっかりとしたものとして保つなら 互いにその《コトバ‐意味》の対応関係を心に保つことが出来る。であろう。  (い) ただ その対応関係すらもが けっきょくコトバじたいの性質から 真偽や多義性から成る虚構の仕組みと はげしく接して わたりあっている。わたりあった結果 (あ)の《本意》を保持し得る対応関係を実現することが出来るものと思われる。  (い)‐a  コトバに固有の虚構の仕組みとは (あ)の主体間における《コトバ‐意味》の対応関係が それぞれが善意のままであっても 破られるような勘違いや誤解が生じ得るというまでの自由度のことである。《選択意志》を堅く保っても その意志にかかわらず起こり得ると思われる。《いろんなまんじゅうがある》から。不可抗力である。  すなわち  ★ 返答文にあった通り「主観の真実は 虚構としてのコトバを介して伝えられる。」と言う事です。  ☆ と言えると同時に この主観真実をコトバに乗せて運ぶというコミュニケーションでは その虚構なる自由度を主体それぞれが許容しつつ 《コトバ‐意味》なる対応を保持し得るかも知れない。そういう きづなが人びとの共生にあっては 成り立ち得るかも知れない。  かな?  ・・・・・  (おあとがよろしいようで)    

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noname#194996
noname#194996
回答No.10

NO.6 です。拙文にまでご丁寧な読み解きを頂き感謝しております。その結果の戸惑いには責任を持つべきでしょう。 なので、ちょっと補足を。 言葉は本来がことのは(言の葉、言の端、事の端)であり、事そのものでは勿論ありません。そういう意味では実質とは異なった代用品的なものですが、それは虚構を意味しません。限定されたものですが、それは虚構を意味しません。その”ことのはし”を受け取っったひとがこころのなかで”ほんらいのこと自身”に復旧することで真実が伝わるのです。ことばの二重性も多重性も嘘も、その発せられた人間のオリジナルに存在する限りそれをも受け手は再生して味わわねばならない責務を持っています。コミュニケーションの道具として、言葉はそういった機能も持っていると私は思います。 ブラジュロン様のおっしゃる「虚構」の意味を私はことさらに邪悪なものとしてとらえているのかもしれませんが、私はことばそのものが、本来発声者がいて、聴くべきものがいる、そうかんがえなくてはならないという発想で考えています。 三島由紀夫の「言霊論」もそういうものではなかったかと思います。ことばはなにもそこここににゅーとらるに浮かんでいるごみのような、ガスのような、雑音ではないと思っています。ことばは人間の魂が発した肉声なのではないでしょうか。であるならば「虚構」などという屁のような意味はつかないはずです。 たぶんそういう発想は ことばが発せられてすぐ消える人間の叫びから文字へ、半端なものとして長くとどまる記号の連鎖に堕したことから現れたものなのでしょう。言葉の論議は常に新しく、その原点にたちかえって考えねばならないと私は思います。 またブラジュロンヌ様のせっかくのスレッドを揺らせてしまいました。どうか戯言としてスルーしてください。

bragelonne
質問者

お礼

 ううーむ。こうでしょうか? まづはご回答をありがとうございます。               |字面の意味   |    話し手:真意―→ |真偽へのウタガイ|――→聞き手:真意               |多義性なる意味 |  すなわち  ★ その”ことのはし”を受け取っったひとがこころのなかで”ほんらいのこと自身”に復旧することで真実が伝わるのです。  ☆ すなわち一たん言い放たれたなら 真偽の二重性や 語義や文意の両義性ないし多義性といった自由度を コトバによる表現は持ち得る。そこでは コトバは自身が磁場を成すかのごとくに あたかも自由電子のごとく飛び回る。けれども 聞き手が受け取るに到れば 一般にふつうは 話し手の真意を感じ取り読み解くものなのだ。――でしょうか?  ★ ことばの二重性も多重性も嘘も、その発せられた人間のオリジナルに存在する限りそれをも受け手は再生して味わわねばならない責務を持っています。コミュニケーションの道具として、言葉はそういった機能も持っていると私は思います。  ☆ ということは こうだと思います。つまり:    ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  人と人とのあいだでは そのコミュニケーションにおいて 基本としては その発信人の本意が受け手には届くものである。  その意味で コトバは その意味内容と 一対一に対応している。  必ずしも《虚構》を成すものではない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  と。  ううーむ。  こうなりますと どうなりますか。  たぶん こうではないでしょうか? 倫理の側面とそして言語表現論の側面とがある。すなわち:  (あ) 人間にとっての意思疎通において 発信と受信とは 言わば信義則にのっとり互いにその文脈や情況をも考え合わせて 相手の本意を受け留めるものである。という倫理の側面。  (い) ~~~~~~~~~~~~~~  人の意思疎通は 一般にコトバを用いておこなう。そのコトバについて言えば 発信・受信の人間的側面を捨象して 記号としての理論が形成される。   シルシとしてのコトバは――歴史的に変遷をおこない 地域的な差異をも持ち得て――多義性を持つ。この多義性は むしろコトバが その使用者の意志とは切り離されていて その自由度をしめす。すなわち いくつかの意味内容を持って その時その場での語義や文意として一つひとつの対応関係をつくっている。  また コトバはそれ自身が 事実と対応しているかどうか――つまり ウソかホントウか――をうたがう余地をも許容する恰好となる。  という言語理論の側面。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    中間の結論:  《虚構》という表現が そぐわないとすれば 《自由度》 これは コトバが固有に持つ。といった見方は どうでしょう?  コトバじたいは やはり ニュートラルであるように思われます。真意の伝達にあってもです。ニュートラル性を超えるのは 人間の心ないし意志であり 互いのシンライカンケイなどである。のではないか?  それとも コトバの起源としての成り立ちにおいては ニュートラルなのではなく その表出者の心と一対一に対応していたということでしょうか?  ぢゃあ その後 どこまでその きづなは 霞んで行ったか。

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.9

軽薄な言葉もあれば貴重な言葉もある。嘘もあれば真もある。言葉とはそういうもので、すべからくそれを発した人の心に、その虚であるか実であるかの根拠が持たれていると私は見ます。難しい話ではなく、。ただ、人の心を問うにしても、言葉の指し示す先にその心があった、というのであるならば、言葉はしるしであると言うことができるでしょう。 ですがその意味では、言葉だけでなく、行為や振る舞いまでもが、そのしるしであり得ると言えます。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。なおむつかしいですね。  まづは ご回答をありがとうございます。    つまりたとえば  ★ 嘘もあれば真もある。  ☆ というときに ウソであってもホントウであっても そのコトバと意味内容とは切っても切れないような対応関係であるのかどうか。これを問うておきたいわけです。  ○ まんじゅうこわい  という表現は ウソであり ホントウは《まんじゅう食べたい》なわけです。  ★ 言葉とはそういうもので、すべからくそれを発した人の心に、その虚であるか実であるかの根拠が持たれていると私は見ます。  ☆ というとき これらの二重性を成す意味は どちらの意味もそのコトバ表現と対応しているのか?  コトバそのものの(字面じょうのと言うべき)意味としては 《まんじゅう食べたい》というホントウは 表わしていない。ですよね?  そうすると おそらくその《こわいもの》をめぐる話の場で こわいものとして何かを言い出せば 座のみんなはそのモノを出して来て 自分を怖がらせるかも知れないと思った。という文脈があることになっています。その文脈から 《まんじゅう食べたい》というホントウとしての意味が出て来る。  この場合は 明らかにコトバは 虚構として何かほかの意味を仲介する役割りを果たしている。    では 《まんじゅうこわい》という文字通りの意味は 一対一に対応しているか?  ウソなる意味として 対応しているか?  言いかえると 字面は 字面の意味と 対応しているか?――対応しているように見える。  おそらく今度は その対応が どこまで《切っても切れない固有の対応》であるか否かに焦点があたるのだろうか。  つまりは 《まんじゅう》とそして《こわい》というコトバは そのままそれぞれ一定のまんじゅう及びこわいという意味内容を表わすか?  おそらく そうではない。  つまり 《まんじゅう》と言ったって いろんなまんじゅうがある。《こわい》と言っても どの程度かが違うことになる。つまり 対応し得るけれども 《一定》していない。一義的にさだまるわけではない。  だとしたら やはりコトバは 虚構である。可能性として 一対一に対応する意味内容(もしくはそれのあらわすモノ)を表わすようになっている。仲介役であり 補助線である。  すなわち  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ただ、人の心を問うにしても、言葉の指し示す先にその心〔* すなわち 一定の意味内容またはそのモノ〕があった、というのであるならば、言葉はしるしであると言うことができるでしょう。   ですがその意味では、言葉だけでなく、行為や振る舞いまでもが、そのしるしであり得ると言えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ このシルシというのは 虚構物ということだと見られます。  かくして   ○ 主観の真実は 虚構としてのコトバを介して伝えられる。  これでよろしいでしょうか どうでしょうか?  なおまだ 何かあるだろうか。

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  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.8

さて、先ほど詫びを入れたので、ちょっと勢いが出ませんが・・・ >☆ コトバ論にとって 一般性に欠けるという意味です。あるいはつまり この《コトバは 虚構ではないか?》のこたえとしては 一面にしかかかわっていないという意味です。 確かに一般性には欠けますかね。 しかし磨かれた言葉で、時の重みに耐えてきた力が有ります。 これは私の考えかもしれませんが、言葉は増やしても意味は減ると考えます。 「少年よ大志を抱け」この言葉にはこの様に続きがあります「この老人の様に」 いい言葉ですが、後半はやはり時に磨かれ、前半が鋭く輝いています。 一人が考えた言葉はやはり、その人向けの言葉です。 幾人もの命を経た言葉は、その命を宿していると私は考えます。

bragelonne
質問者

お礼

 No.6のこまあす88さんは コトバと意味との対応が――実質的にか虚構としてか いづれかにおいて しかも―― ウソとホントウとの二重性において成り立っていると言いました。そうわたしが 受け取りました。  今回のこのご回答は さらにそこから《多方向性》があるという見方であるようです。  すなわち 今度は話し手(書き手)の側から 聞き手(読み手)の側に視点を移して  ○ 聞き取り読み取る側からすれば 《ウソとホントウとの二重性》が 読み手によって違いが現われる。しかも 同じひとりの読み手にとっても ときと場合とにより 違って来得る。  ということは 《コトバと意味との対応》が 縦横あるいは斜め(?)にいろんなかたちで 出来上がることがありうる。    のだろうか?  時代を経た場合には またまた違った読み方が成される。か!  どなたか まとめてくれませんか。

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