• ベストアンサー

コトバは 虚構ではないのか?

kannzou001の回答

回答No.13

No11です。 返答有難う御座います。 私の意図通りに、正しく伝わっていると思います。 >きちんとした《きづな》は 出来ている。と見たほうがよい。かも知れません。 はい、絆はその時点で出来ていると思います。 >☆ という多義性の構造を 言語主体が許容して その中から 一対一の《コトバ‐意味》対応を成り >立たせているかも知れません。 はい、そう言う意味では成り立っています。 >あっ そうか。つまり >★ 「まんじゅう」と言う言葉は、饅頭と言う真実を示します。しかし、人間はその饅頭と言う言葉 >を、自分の経験からイメージされる「まんじゅう」と言う虚構でその情景を理解します。 >☆ というように 《一対一の〈コトバ‐意味〉対応》の実現可能性をみとめつつ しかもそのときに >も 言語主体のあいだでそれぞれがまともな対話者であっても それでも善意の勘違いや誤解は生じ得 >る。こうも考えられますね。 >★ 自分の経験からイメージされる「まんじゅう」と言う虚構 >☆ ゆえに 悪意無き誤解は あり得ますね。 はい、その通りです。それを辞書的な意味の「虚構」と断言してよいのかは分かりませんが、bragelonneさんが言われる「虚構」に該当するのではないかと私は思いました。 ただ、それは私が思った事で、もしかしたらbragelonneさんからは、「いや、そう言う意味の虚構じゃないから」あるいは、「大体そうだが、ちょっと違う」と思われているかもしれません。 >★ 返答文にあった通り「主観の真実は 虚構としてのコトバを介して伝えられる。」と言う事です。 >☆ と言えると同時に この主観真実をコトバに乗せて運ぶというコミュニケーションでは その虚構 >なる自由度を主体それぞれが許容しつつ 《コトバ‐意味》なる対応を保持し得るかも知れない。そう >いう きづなが人びとの共生にあっては 成り立ち得るかも知れない。 多分そう言う事だと思います。何故「多分」と言うと、やはり言葉と言う虚構だけではbragelonneさんの意図を100%汲み取るのは難しいものです。同時に私の意図を100%相手に伝える事も同じく難しい事です。でも概ねそう言う事だと思います。 私の意図した事は、ちゃんと伝わっていると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 かんぞう001さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   > ・・・・《コトバ‐意味》なる対応を保持し得るかも知れない。そう   > いう きづなが人びとの共生にあっては 成り立ち得るかも知れない。  多分そう言う事だと思います。何故「多分」と言うと、やはり言葉と言う虚構だけではbragelonneさんの意図を100%汲み取るのは難しいものです。同時に私の意図を100%相手に伝える事も同じく難しい事です。でも概ねそう言う事だと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。勘違いがあり得るでしょうし また互いに100%共通の理解に立つというのも 初めにむつかしいと思っていたほうがよい。コトバをめぐっては 人それぞれにそれを知って使うようになった歴史があるだろうから。  ★ ・・・もしかしたらbragelonneさんからは、「いや、そう言う意味の虚構じゃないから」あるいは、「大体そうだが、ちょっと違う」と思われているかもしれません。  ☆ どうも《虚構》という言葉を使ったのは あまりよいとは思えない感じですね。《フィクション》と言えば 作り話でしょうし また芸術作品としても小説を思い浮かべるだろうから。    全体として あらためて こう捉えればよいかも知れません。  つまり 言語を使用する主体が 発信者と受信者とのあいだで 発信者の意図する《コトバ-意味》対応を伝え合い得て その意図ないし本心が きづなと成り得るという共生 この共生が実現するのは むしろコトバ自体にあってはその意味対応に自由度があるからこそだ。と。  つまり この自由度がないということは 《ひとつのコトバ=ひとつの意味》という図式が成り立っていることを意味する。つまり 初めから終わりまで きづなは 出来ている。そういう場合は きづなとは呼ばないかも知れない。  つまり その場合は ウソがない。ウソというものが 人間ないし人類には生まれていない。  よいこととわるいこととを知る木から採って食べた。つまりよくないことというのを知った。=それを わるいことと名づけた。そのわるいことをも いつしか我れは 欲してしまった。しかも それを誰かの所為にして 自分自身がわるいことを欲したとは言わない。ウソをついた。これを隠した。葉っぱで覆った。  このウソ――虚構?――の発生のときから じんるいの世界は始まった。のかも知れない。  それは おそらく 自由意志というハタラキの問題なのではないか。  《コトバ-意味》対応は 初めは 問題にならなかった。なぜなら ウソが無かったから。つねに対応こそが 現実であった。  ウソが――けっきょく自由意志のハタラキによって―― 生まれた。この自由度を持ったときから 《コトバ-意味》連関も 自由度を持ち 二重性やら多義性やらをやどすようになっている。だから その自由度のあるところでこそ 言語主体の本心というもの――つまり《コトバ-意味》対応――が 問い求められ のぞまれている。  それの実現が 人間の社会的な共生である。  《まんじゅうこわい》という二重性の世界でこそ 主観真実と主観真実との相互理解が 求められ 共生の問題としてつねにかかげられている。ことになる。なんちゃって。

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