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コトバは 虚構ではないのか?

a_honaの回答

  • a_hona
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回答No.9

軽薄な言葉もあれば貴重な言葉もある。嘘もあれば真もある。言葉とはそういうもので、すべからくそれを発した人の心に、その虚であるか実であるかの根拠が持たれていると私は見ます。難しい話ではなく、。ただ、人の心を問うにしても、言葉の指し示す先にその心があった、というのであるならば、言葉はしるしであると言うことができるでしょう。 ですがその意味では、言葉だけでなく、行為や振る舞いまでもが、そのしるしであり得ると言えます。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。なおむつかしいですね。  まづは ご回答をありがとうございます。    つまりたとえば  ★ 嘘もあれば真もある。  ☆ というときに ウソであってもホントウであっても そのコトバと意味内容とは切っても切れないような対応関係であるのかどうか。これを問うておきたいわけです。  ○ まんじゅうこわい  という表現は ウソであり ホントウは《まんじゅう食べたい》なわけです。  ★ 言葉とはそういうもので、すべからくそれを発した人の心に、その虚であるか実であるかの根拠が持たれていると私は見ます。  ☆ というとき これらの二重性を成す意味は どちらの意味もそのコトバ表現と対応しているのか?  コトバそのものの(字面じょうのと言うべき)意味としては 《まんじゅう食べたい》というホントウは 表わしていない。ですよね?  そうすると おそらくその《こわいもの》をめぐる話の場で こわいものとして何かを言い出せば 座のみんなはそのモノを出して来て 自分を怖がらせるかも知れないと思った。という文脈があることになっています。その文脈から 《まんじゅう食べたい》というホントウとしての意味が出て来る。  この場合は 明らかにコトバは 虚構として何かほかの意味を仲介する役割りを果たしている。    では 《まんじゅうこわい》という文字通りの意味は 一対一に対応しているか?  ウソなる意味として 対応しているか?  言いかえると 字面は 字面の意味と 対応しているか?――対応しているように見える。  おそらく今度は その対応が どこまで《切っても切れない固有の対応》であるか否かに焦点があたるのだろうか。  つまりは 《まんじゅう》とそして《こわい》というコトバは そのままそれぞれ一定のまんじゅう及びこわいという意味内容を表わすか?  おそらく そうではない。  つまり 《まんじゅう》と言ったって いろんなまんじゅうがある。《こわい》と言っても どの程度かが違うことになる。つまり 対応し得るけれども 《一定》していない。一義的にさだまるわけではない。  だとしたら やはりコトバは 虚構である。可能性として 一対一に対応する意味内容(もしくはそれのあらわすモノ)を表わすようになっている。仲介役であり 補助線である。  すなわち  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ただ、人の心を問うにしても、言葉の指し示す先にその心〔* すなわち 一定の意味内容またはそのモノ〕があった、というのであるならば、言葉はしるしであると言うことができるでしょう。   ですがその意味では、言葉だけでなく、行為や振る舞いまでもが、そのしるしであり得ると言えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ このシルシというのは 虚構物ということだと見られます。  かくして   ○ 主観の真実は 虚構としてのコトバを介して伝えられる。  これでよろしいでしょうか どうでしょうか?  なおまだ 何かあるだろうか。

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