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言葉とは何か
「言葉」とはなんなのでしょうか? 結論から言いますと、 「音声表現による事物表象の表現」 というようなところでしょうか? そこで疑問なのは、結局は「音声」ですよね。 例えば「貴様」とか[KISAMA]という3音節の「響き」です。 この同じ音波の集合体を聞いて、戦前ちょっと前くらいまでは丁寧語だと認識した。それが同じものを聞いて喧嘩売りの表現になった。 その「響き」は同じで、「意味」を変遷させていった。 つまり、その「音声」の背後に広がる「意味」の世界を人は圧倒的に問題にするわけですが、逆に言うとそれほど「音声」そのもののほうにはかまわないわけです。それでいいのでしょうか? 補足として、日本語ではこの音声の精神が「韻」を踏めないために浸透しにくいということがあると思います。これが欧印語圏ですと、韻を踏めますので、日本語よりも、言葉の「音声」面を考慮するが、本当に日本はこういう意味で詩作精神が死んでいますよね。 私はそう感じているのですが、どういうものでしょうか?
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質問者様の意図とずれるかもしれませんが、私はこういうふうに考えました。 「KISAMA」という音自体には本来何の意味もないし、なかったと思います。どんな言葉にもいえることですが、ある日日本人のひとりが偶然(というか漢書文の中から抽出して、ということもあったかもしれませんが)その音声に特定の意味を結びつけたのですね。それが次第に複数の人間の間で共用化されていったわけです。 その共用化の積み重ねの歴史が日本文化になっていったわけで、その結びつき自体に必然性がどれほどあったのかは疑問です。美しい(韻を踏むような)音声が美しい意味と結びつけば(そんな例は偶然とはいえず、かなりの頻度であらわれるだろうことは容易に考えられるわけですが)ずっと長続きして定着し、よき日本の言語文化の一部になっていっただろうし、なっているでしょう。もちろんそうならない言葉もすくなからずあるだろうと私は思いますし、そう考えても論理的でないとは思いません。 「KISAMA=貴様?」が最初の尊称としての代名詞的使用法(そんな時代があったのでしょうか?)から変わってきたのは、なんとなく上記の文脈から想像できそうですが、どんなものでしょうか? 貴ご質問の正面からの回答にはなっていないかもしれません。
韻はリズムです。これは自我意識を強調するので、脳が刺激されて、心がストレスになります。他方日本語は、リズムは無いけど、母音を強く発音するので、母音の時、脳が休むので心が癒されます。日本的にいうと間を入れる、日本語は音楽的にはギコチナイけど、人の心を癒します。情緒があります。参考図書、日本人の脳、角田忠信著、大修館書店
お礼
印欧語の「韻律」は「頭脳」でしょうかね。そんな感じしますね。日本語は対して情なのでしょうね。
- kadowaki
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>「言葉」とはなんなのでしょうか? う~ん、「言葉」という多面体のどの面に注目するかで、その質問や回答の中身も大きく規定されるのではないでしょうか。 >「音声表現による事物表象の表現」 「音声表現による」と限定するからには、「言葉」の書記(文字)言語的側面をはじめから捨象しているわけですが、その理由までは示されていませんよね。 >そこで疑問なのは、結局は「音声」ですよね。 >例えば「貴様」とか[KISAMA]という3音節の「響き」です。 う~ん、なぜ「結局は」なのかがいまいち理解できないのですが。 要するに、肝腎な途中経過の説明を省いて「結局は」とあるので、私ならずとも「キョトン!」とせざるを得ないところです。 まして、「音声」を問題にするために、なぜ「『貴様』とか『KISAMA』という3音節の『響き』」が例として持ち出されてきたのかも不可解なのですが。 >この同じ音波の集合体を聞いて、戦前ちょっと前くらいまでは丁寧語だと認識した。それが同じものを聞いて喧嘩売りの表現になった。 >その「響き」は同じで、「意味」を変遷させていった。 同様の例として、「御前」も挙げられますし、「喧嘩売りの表現」とまでは言えないまでも、他の二人称代名詞に関しても似たような事情を抱えていますよね。 言い換えると、日本語は、気遣い、配慮を求められる相手に対して、安心して使用できる二人称代名詞を持っていないということです。 その原因・理由についてはともかく、これは「音声」がどうのこうのとは全く異次元の問題であることだけは確かです。 >補足として、日本語ではこの音声の精神が「韻」を踏めないために浸透しにくいということがあると思います。これが欧印語圏ですと、韻を踏めますので、日本語よりも、言葉の「音声」面を考慮するが、本当に日本はこういう意味で詩作精神が死んでいますよね。 日本語には、たとえば七五調・五七調の音数律から成る《律文》はあっても、《韻文》なんて存在しません。 が、ここからどうして「詩作精神が死んでいます」という判断が導かれるのか、私には全く理解できません。 もし、日本語における「音声の精神」の稀薄さを問題になさるなら、倭語と大陸から流入した漢語(漢音)とが水と油のように混淆して現日本語の原型が成立したこと、さらには、倭人は外国語である漢語の「音声」よりも、むしろその意味概念(訓)の理解の方を重視してきたこと(発音軽視)の二点に焦点を絞って検討・考察をなさるべきかと思います。
お礼
表記も音声表現の変形です。まずオリジナルは常に言語表現、音声表現です。結局はと言うのは、文字表記であれ音声表記であれ、結局は原始人の片言にオリジナルを持つからです。 おっしゃるように、日本語は2人称代名詞があまりに多いですから、そこで、選択の不自由が逆説的に起こります。 作家精神は日本語に生きているとしても、韻律、音声の整合性が希薄だからです。それは57調ではえられないものです。
- kkk1024
- ベストアンサー率33% (42/127)
こんばんは。 私、質問の意図を取り損ねております。 質問者様が音声としての言葉の存在感の希薄さを問題にしていることは何となく読み取れるのですが、それの何が問題だと考えているのかが良く理解できていません。 『「韻」を踏めない』と『詩作精神が死んでいる』の具体例や根拠など挙げていただけると助かります。 補足いただければ哲学素人の私でも何か回答できるかもしれません。
お礼
日本語ってとりあえず「韻」ガ踏めません。それは音声の整合性というのを奪うことになりますね。
お礼
そんな感じします。 キレイな言いやすい言葉は後世に残っていくのではないでしょうか。そして、意味のない音列が意味を獲得していくという過程は、実に革命的ですよね。