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コトバは 虚構ではないのか?

a_honaの回答

  • a_hona
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回答No.16

幾つかの例をもって言葉の空性、つまり、言葉は仮の物であるということを前回答で示したのは、だからと言ってそれを虚構、ウソというのはナンセンスではないかと問うためだったのですが、。何故なら、虚構やウソとは、真実とは違うという意味が確かにあるのであり、ブラジュロンヌさんの論調だと、すべての名称されたもの、言葉はウソであるとなってしまい、真実という言葉もウソを示すものと誤解を生じさせる危惧があり、言葉の用を為さなくなってしまうことの懸念があるからです。 言葉は確かに作りものでしょう。しかしながらそれは、人間の五感で捉えられる独特のリズムや旋律を有していて、ただの恣意性によって選択されてきたというわけでもなく、有る程度の必然性があったと考えられるのです。いわく呼吸というやつです。 また、言葉は理解によって生じたものと考えられます。即ちピンと来た、というやつです。何がピンときたのか、それをさらに言葉で説明するのは難しいですが、理解がその時に生じたと言えるのです。 それら言葉の蓋然性を無視して、一切の言葉は虚構であると説明するには、言葉の含有する全ての確からしさを上回る確かな根拠を示さねばならず、それはいささか難しい。 言えたとしても、言葉は蓋然性と共にいくらかの嘘(空性、自由度)を含んでいる、ぐらいが適度だと考えられるのです。 もう一つ、提出された神という言葉についても少し言及します。神という言葉は一種の概念であり、持つ意味内容は多義的であり、指し示す現象も多岐に渡ります。雷などの自然現象を神に絡めて説明することもあれば、この世を超えたものを示す純粋概念として神を用いる場合もあります。で、この時、神という言葉は典型的な虚構であるとのご説明でしたが、果たしてそうか。補助線であるとまでは言えるが、それを虚構と言えるだろうか。詩的には虚構と言った方が面白くはあるけれども、神という言葉が用を為している以上、先ほど述べた言葉の蓋然性が働いているのであり、虚構とまでは言えないだろう。 例えばイチローは、好調の時はボールが線になって見えたというが、実際にはボールは球である。しかし、イチローの動体視力と野球センスという確かなものが、球筋が線になって見えるという現象を引き起こしています。その現象を虚構とは言い難いように、全ての言葉には自由度と共に、あるいはそれ以上に人間由来の蓋然性を含んでいて、一概に虚構だということはできないのです。 面白いですけどね、嘘(言葉)を束ねて真実に近づくのが哲学者である、なんて言えれば詩的です。ですがそれは確かには言えないでしょう。 もし、私的に論を進めるならば、次は、果たして人間の五感は確かなものか?という問いを投げかけるでしょう、其処に虚構はあるかと。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まだ いささか強引でしょうか。  まづは ご回答をありがとうございます。  ★ 〔* 虚構であると〕言えたとしても、言葉は蓋然性と共にいくらかの嘘(空性、自由度)を含んでいる、ぐらいが適度だと考えられるのです。  ☆ おそらく そこまでたどり着いたときに この自由度としてのウソをどう見るかで さらに《虚構》へとつなげるかどうかが分かれるのかも知れません。   必然性の定まらない理由で或るひとつの意味を そのコトバにつけ加えるということ。  たとえば 《青い》のは 木々の葉が繁りみづみづしいときを言うからという理由で 人生の若いときにも用いる。つまり 青年や青春と言うのは ひとつの必然性がある。ただしなぜ この《青い》という色をタトエにえらんだか? あるいは何故 人の成長期を木の状態にたとえなければならないか?  青春というくらいだから この季節をタトエにしてもよい。青少年と言う代わりに 春の年頃とか 春の人とか。  さらにあるいは この《青い》を まだ大人になっていないなぁという感覚を表わすのに使うようにもなっている。みづみづしく力強く成長する時期ゆえ青いと言ったはずなのに 嘴が黄色いといった意味合いで《青い》と言ったりする。  これらは あたかも小説において架空の人物を登場させるように コトバと意味との対応を やはり――或る種の必然性を頼りにしてでありながら その必然性が どうしてもそれでなければならないというわけではない形で―― 架空の対応関係として成り立たせている。  小説という虚構作品において 虚構だと言っても その架空の登場人物は あたかも現実の人間であることにもとづくのが ふつうである。純文学と言いますか アニメのキャラクターなどのように想像だけの世界で人物像を成り立たせる作品でなければ そうです。  つまり コトバの成り立ちとしての自由度そしてそれとしてのウソ これは 必然性をともないつつその一つの必然性をえらぶことは恣意的なことであるかたちで成り立っている。その恣意性は 自由にさらにどこまでも展開して行く。コトバとして認知されたら 普及して行く。   だとすれば コトバはそのみづからの世界を やはり虚構性として成り立たせている。のではあるまいか。      *  もっともわたくしも コトバの成り立ちについて 音韻と意味とのあいだに 自然で論理的な必然性にもとづくつながりがあると見る仮説を持っています。   / n / =同定相     1.対象一般に同定     na : な(名)。     na-ru : な(名)-る=成る・生る。     na-su : な(名)-す=為す・成す・生す     nö : の(乃・之=属格)   2.対象どうしの関係に同定     na :ま(真)-な(似)-ぶ(反復相)=学ぶ     ni :に(似)     nä :ま(真)-ね(似)   3. 聴覚対象に同定     na : な(音)     nä : ね(音)     na-ru : な(音)-る=鳴る     na-ku : な(音)-く(移行相)=鳴く・泣く     nö-ru : の(音)‐る=告る   4. 否定相で同定     na : な(禁止法)     na-si : な(否定同定)‐し(指定相)=無し     ☆ このとき 《1. 対象一般》や《2. 比定としての同定》については 必然性が活きていると思いますが 《3. 聴覚対象》になると この《同定相》をあてはめるのが やはり恣意的になると思われるのです。ほかに 視覚や触覚などもあるからです。  《4. 否定として同定》については どうですかねぇ。A を同定していたら 非 A については否定していることになっている。そしてこの同定と否定との関係が 或る時入れ替わってしまう。つまり もともとの A のほうを否定してしまった。というようなアソビのような恣意性。  留守というのは 出かけて家にいない人の代わりにいる人つまり留守番を言ったのが ぎゃくに出かけている人のことを言うようになった。           *  ★  神という言葉が用を為している以上、先ほど述べた言葉の蓋然性が働いているのであり、虚構とまでは言えないだろう。  ☆ これもですね。《必然性》は あるかも知れない。しかもそのひとつの必然性ないし蓋然性を根拠として 《コトバ-意味》対応を理論づけるまでには行かない。  つまり Ka-Mi という特に子音ですね 子音の K と M との組み合わせに意味の必然性があるかも知れない。ただし 早い話が 外国語がこれとは違った音韻で《神》のことを表わしているからには 別の必然性があり得ます。そう考えれば 恣意的な選択として成り立っている。  そうしますと たぶん 虚構ではなく 仮構という表現を用いるなら 受け容れてもらえるのかも知れませんね。  空港というとき 海辺にあるなら いいのですが 陸地の中にある《み(水)-な(の)-と(門)=港》ということになれば おかしい。ウソであり 虚構です。  ★ 面白いですけどね、嘘(言葉)を束ねて真実に近づくのが哲学者である、なんて言えれば詩的です。ですがそれは確かには言えないでしょう。  ☆ そうですかねぇ。わたしは このとおりだと思いますよ。  ★ もし、私的に論を進めるならば、次は、果たして人間の五感は確かなものか?という問いを投げかけるでしょう、其処に虚構はあるかと。  ☆ いえ。知覚は よいわるいを別として その感覚じたいには ウソ・イツワリはないと思います。  理性が ウソをついてでも 意志の指向するところを――しばしばよくないことをたくらんだときなどに――正当化し 他人はもちろんおのれの心をも丸め込み だまそうとします。  ★ 虚構やウソとは、真実とは違うという意味が確かにあるのであり、ブラジュロンヌさんの論調だと、すべての名称されたもの、言葉はウソであるとなってしまい、真実という言葉もウソを示すものと誤解を生じさせる危惧があり、言葉の用を為さなくなってしまうことの懸念があるからです。  ☆ けっきょくですね。逆転の発想をわたしはしています。  つまり 人間の真実は 主観真実であって それ自体がすでにウソがあるという見方です。ひとは あやまちうるからです。  さきほどの五感の知覚については それとしての真実がほとんど(つまり 勘違いを除けば)揺るがないこととしてあるはずです。  問題は その感性の真実のあとの知覚内容の認識 つまりすでにそのとき《コトバ化》に移ります。そして《概念》。そしてさらに 最初の知覚から離れてしまった概念は 観念です。  認識の整理となると そして整理した認識事項を取り出して思考するとなると そこでは 人間の知解能力に限りがありあやまちうるものであるからには マの違いが起きます。また わざと間違える場合も出て来ます。  つまり 理性が――そしてそれを推し進める意志が――ワルモノだといえば そうです。  したがって 知覚したときには およそ事実を忠実に反映した内容であったとしても それの認識から思考からすでに理性の介在するときには 言ってみればいかようにも調理したり加工したりしてしまい得る。それらの知識や情報を記憶するときにすでにマが違ったかたち(内容)になっていさえしかねない。  このウソないし虚構の海で 哲学はそしてふつうに人生をまじめに生きる人びとは それぞれおのれの主観真実をとうとび大事にして さらにそれの相手に分かりやすい自己表現に精進する。

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