• ベストアンサー

コトバは 虚構ではないのか?

a_honaの回答

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.14

うーん、虚構といいますか、印というのはサイン、指示と思っていただければ。 例えば信号機ですが、青は進め、赤は止まれですよね。青も赤もただの色ですからそれだけでは意味をなし得ません。しかし、信号の色となるとそれは意味を持ってきます。この時、信号の色は虚構とは言い得ません。信号の色は、サイン、または指示であり、意味を持っています。 また別の話をしますと、「青」と言っただけでは青は見えない、だから青という言葉は虚構である、というのもナンセンスで、青という言葉は青という色を示しているので、意味が確かにあるわけです。 まんじゅうこわい、というのは、単に文章構造が破綻していて文意を汲み取れないだけで、言葉としての体を為していないというに過ぎません。ジャンケンの中では、手の肌色の違いなどが意味をなさないのと同じです。 さらに重ねて言えば、絵に描いた餅が食えないからその絵は偽物だ、となるのではないように、言葉も虚構とは言い得ない場合がほとんどでしょう。 ブラジュロンヌさんが例に出したように、フィクションの小説を書くとか、そんな場合にのみ虚構という言葉が当てはまるのであり、一般に、言葉は虚構であると言うのは不自然でしょう。 もうひとつおまけの話をすると、例えば概念という単語があります。概念は、りんごのように具体物ではなく、抽象物です。ですから、概念を素手で掴んだりはできない。だけど、概念などは存在しないとは言えない。しっかりと抽象物として存在していますし、意味内容もありますよね。 そんなところです。

bragelonne
質問者

お礼

 あ_ほなさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  まづ 《虚構》という用語は しっくり来ないという話ですが こまあす88さんの次の文章のような《〔意志疎通の〕仕組み》をわたし自身は初めにあたまに思い描いていました。その回答No.6での応答では そのことを言いそびれていますが。  ◆(回答No.6) 言葉は、本来人間が口から発する音の変化、組み合わせで、何らかの意味を他人に伝えるために発せられたのでしょう。それ自身は単なる空気振動ですが、人間同士の間で意思を伝えるために発明された人為的な物理現象であって、  ☆ 音声としての空気振動が 互いの意思疎通に用いられるという仕組み。これを 初めの発想としては 虚構と呼んでいた気がします。  つまりは manju という音声が その発信者の意思とじっさいの饅頭とを仲介するかのようにつなぎ そのことが同じく 受信者とのあいだでも起きる。その仕組みです。  ですから コトバは まづシルシであることに誰も反対しないと思います。仲介役であることにも 問題ないでしょう。意思を伝えるための手段という意味では 方便でもあるはずです。  そしてそこから さらに 虚構という捉え方にまで行けるか?  いま 具象としてのまんじゅうではなく まんざい という言葉だったら どうか。と考えてみる。  人の世をありがたく受け留め いつまでも天下泰平で みなさんも長生きしてくださいという思いと願いを コトバや舞いなどで表わす万歳。漫才も それほど違わない。  万歳のばあいは特に じっさいに門付けして祝言(ほかひ)の技芸を示すという具象がありますが それでも《まんざい=万歳》というコトバは その仲介の仕組みが 或る種の虚構になってしまっているのではないか。意味としては《長寿をねがう》という一点で コトバと具象としての言祝ぎとが つながっている。  すなわちそこから 《かみ=神》というコトバに到れば 虚構ではないと言うのがむつかしい。狐や鰐といった具象が神である場合でも それらは 目に見えぬ超自然のチカラのような・おそれの対象としての神の仮りの姿だと捉えるなら まるでウソなわけです。お稲荷さんや金毘羅じたいは 神ではない。仮りの姿として神である。煮詰めて言えば ウソつまり虚構としてその金毘羅というコトバそして神というコトバがある。  以上が あらためて・そしていくらか初めの草案にもどって 《虚構》論を説明したものです。  どうなんですかねぇ。  ★ ・・・・しかし、信号の色となるとそれは意味を持ってきます。この時、信号の色は虚構とは言い得ません。信号の色は、サイン、または指示であり、意味を持っています。  ☆ 言語表現論ないし記号論としては この《サイン・指示〔標識〕》としての役目について 自由度がある。と見るわけです。いささか理屈っぽいのですが 青が進めで 赤が止まれでなければならないものではない。という自由度です。  自由度があるなら そこからひとつに絞ってえらぶのは 恣意的な行為です。ほかの可能性を押さえてひとつに絞るのは そこにウソが入ります。これが これも 虚構を成すことの事例です。黄色⇒注意せよ という意味づけは ひとつの虚構ではないでしょうか? 決まったあとでは そういう《コトバ‐意味》なる対応があります。その段階では ウソではないです。  ★ ・・・「青」と言っただけでは青は見えない、だから青という言葉は虚構である、というのもナンセンスで、青という言葉は青という色を示しているので、意味が確かにあるわけです。  ☆ この場合も 《「青」と言っただけでは青は見えない》というところに この青というコトバの成り立ちが 虚構としてあるという事例があるわけです。コトバのナラワシとして決まってからは ウソではなく 意味がないわけではない。  なおしつこく追究するなら 《意味は確かにあるわけです》が そのように《あを=青》というコトバが じっさいの具象としての青色を意味するというのは ひとつの虚構であるのではないか?        *   * もし仮りに / awo / という音韻が じっさいの青色と その音素じたいによってつながっているとした場合(これについては No.12のお礼欄でのソシュールの仮説をめぐる議論を参照してください) そうだとしても そのつながりは 切っても切れない固有のつながり ではないはずなのです。音素の意味(相)は 一般性として成り立つと考えられるからです。そこから 個別に やはり一定の自由度をもって コトバの意味が決まります。   / n / =否定相 という意味がすでに実在しているとしても それはまだ一般性としての きづな であってそこから個別にコトバが決まって行きます。     na (な): 否定相⇒禁止法。来る‐な。勿来(な‐来(こ)‐そ)。     na-si (無‐し):否定相⇒《存在の無いこと》を意味する。  といった実際のコトバに成るときには やはり自由度が現われています。行為の否定相と存在の否定相との微妙な違いもあります。《無‐し》は 《〈し〉をするな》という行為にかんする禁止命令ではないわけです。意味づけの選択としてひとつに絞り具体化するということの自由度すなわち虚構性です。       *  ★ まんじゅうこわい、というのは、単に文章構造が破綻していて  ☆ 反論小僧の役をつづけますが これは 《まんじゅう〔が〕こわい。》というまともな文ですよ。  ★ ジャンケンの中では、手の肌色の違いなどが意味をなさないのと同じです。  ☆ 肌の色は シルシとして取り決めていないから 別だということだと思います。  ★ 絵に描いた餅が食えないからその絵は偽物だ、となるのではないように  ☆ たぶんそうではなく コトバを虚構なる仲介役として 《絵》なら絵 《に》ならニ 《画いた》なら画イタ 《餅》なら餅というふうに 意味がそれぞれ決まっているのだと思います。だから《偽物だとはならない》。決めるときの決め方に 虚構性が入り込んだ。  ★ フィクションの小説を書くとか、そんな場合にのみ虚構という言葉が当てはまるのであり  ☆ これは・つまり作り話としての虚構は 《仲介役としてのコトバの 虚構性》を 一連の思惟ないし文章のひとまとまりにまで広げて応用しましたという約束ごとにおいて成り立ったもののはずです。  すなわち・つまり  ★ もうひとつおまけの話をすると、例えば概念という単語があります。概念は、りんごのように具体物ではなく、抽象物です。ですから、概念を素手で掴んだりはできない。だけど、概念などは存在しないとは言えない。しっかりと抽象物として存在していますし、意味内容もありますよね。  ☆ と まさに分析して示してもらった内容そのものが ひとつの虚構性を表わしているのではないか。こういう――コトここに至っての――質問者からの逆襲です。どうでしょう。  

関連するQ&A

  • 《神》という言葉は 《方便》だ。

     《神》という言葉は 《方便》である。  《神》という漢字  《かみ》という日本語・その発音 みな方便だ。  《補助線》である。《神》を知る上で引いた補助線でしかない。  補助線は 神本体ではない。    タトエであり 仮りの表現であり シルシである。    方便として用いているに過ぎない。  これを問います。どうでしょう。

  • 言葉とは何か

    「言葉」とはなんなのでしょうか? 結論から言いますと、 「音声表現による事物表象の表現」 というようなところでしょうか? そこで疑問なのは、結局は「音声」ですよね。 例えば「貴様」とか[KISAMA]という3音節の「響き」です。 この同じ音波の集合体を聞いて、戦前ちょっと前くらいまでは丁寧語だと認識した。それが同じものを聞いて喧嘩売りの表現になった。 その「響き」は同じで、「意味」を変遷させていった。 つまり、その「音声」の背後に広がる「意味」の世界を人は圧倒的に問題にするわけですが、逆に言うとそれほど「音声」そのもののほうにはかまわないわけです。それでいいのでしょうか? 補足として、日本語ではこの音声の精神が「韻」を踏めないために浸透しにくいということがあると思います。これが欧印語圏ですと、韻を踏めますので、日本語よりも、言葉の「音声」面を考慮するが、本当に日本はこういう意味で詩作精神が死んでいますよね。 私はそう感じているのですが、どういうものでしょうか?

  • ネイティブの人が言葉の意味を調べるとき

    日本人が分からない言葉を調べる時に、 例えば「電卓」という言葉を聞いて意味が分からなければ、聞いたままの音から「でんたく」というように文字として認識して国語辞典等で調べると思うのですが(日本語だと音と文字を1対1で対応する事が可能)、これが英語を母国語とする人の場合はどうなるのでしょうか。 知らない単語の読み(音)から正しいスペルが分かり、それを元にスペルから辞書等で調べるのでしょうか。 それとも、音からスペルが分からなくても調べることのできる辞書のようなものがあるのでしょうか。

  • イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり同時に人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。経験事象としての光やそれを本質的に見させる光――おおむね 理性ないし精神――であるだけで終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあてこれを照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その聖霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。  そうして この質問はいちど問うています。それでもなお問いたいというそのわけは こうです。     (κ) もし虚構ではなく まさしく歴史事実であるとした場合 あるいはその史実を捉えた人間の心の真実であるとした場合 そうだとすると いづれの場合でもその事実認識や心の真実として イエス・キリストというコトが 人間の思考によって規定されてしまわないか? 神は 人間の思考によって捉えられうるか? 経験合理性の知識体系の中におさまるものであるのか?   という問いをつけ加えたいからです。よろしくどうぞ。    

  • イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • 「400字詰原稿用紙換算」の意味

    「400字詰原稿用紙換算」という言葉についてですが、 例えば「100枚以内」だとしたら、 単純に原稿用紙に書いて100枚以内になるものなのか、 その小説の言葉の文字数を指して100枚以内になるものなのか、 (「100枚以内」ということを、文字にすると「40000字以内」ととらえると、 普通に原稿用紙に書いたら101枚になってしまう作品でも 文字数なら40000字以内におさめられるという事として) どちらの意味が正解になるのでしょうか。

  • イエスという人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは医学や科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • トレード・トリートの言葉の意味

    経済の話のときに、英語らしきトレード・トリートという言葉がでました。これはどういう意味ですか? 文としてはこの前に、時代は変わってきている。変化には迅速に対応しないと・・・というような内容があってそのあとに・・・ >だから遅けりゃ遅いほど、トレード・トリートになるというふうに考えるべきだ。 というトレード・トリートがつくのですがどういう意味ですか? そもそも、このトレード・トリートの読み(音声きいているだけなので)間違ってますか? 調べると、ハロウィンの言葉ででてくるのですが・・・?

  • 「言葉」と「記号」の違いについて

    【文字】 (1)「〔絵と違って〕言葉・言語音を目に見える形に記号化したもの」~新明解国語辞典第四版「文字」 (2)「文字(もじ)とは、言葉(言語)を伝達し記録するために線や点を使って形作られた記号のこと。」~ウィキペディア「文字」 【記号】 (3)『「記号」は広く、言語・文字・各種のしるし・身振りなどを含む。学問の用語としても用いる。~コトバンク「記号」 (1)(2)のことから「文字」は「絵」とは違うようです。 「文字は絵と対比して記号として定義されます。」という回答もありました。 つまり文字は「言葉、言語(音)を表す記号」のようです。 ここで記号とでてきましたが情報伝達手段である「言葉」(言語、文字、手話など)はすべて記号ですからこれらの記号の定義は広義としても捉えていると思いますし、(3)も広義の意味です。 残された表記は「絵」「図形」「符合」などがありますが、これは狭義の「記号」としてよいのでしょうか?

  • トーマス・マンの言葉の出典がわかりません。

    以下の言葉は、トーマス・マンのものとしてよく引用されていますが、どんな作品の中のどんな文脈で書かれているのかを知りたく思います。作品名と何章のどの部分とお教えいただけば、翻訳書で探しますが、もしできましたら、ドイツ語原文の抜粋を参照できるとありがたいのですが……。もちろん、判明するものだけでも結構です。 ◆「小説家は銀行家のような風体をしていなくてはならぬ」(または「小説家は銀行員のような生活を送らなければならない」) ◆「いま私のいちばん好きな仕事は、夜、星空を眺めることです。なぜといって、この地上から、また人生から目をそらすのに、これほど良い方法はないから」  ◆「政治を軽蔑するものは、軽蔑すべき政治しか持つことができない」 ◆「他人の感情生活に想像力をはたらかせて、それを察知する技術、つまり、共感というものは、自我の限界を打破するという意味で賞賛すべきものであるばかりでなく、自己保存の欠くべからざる手段なのである。(「ヨゼフとその兄弟たち」?)