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すべてのひとを説得することができますか

 コミュニケーションについて問います。  【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか?  ☆ わたしの感触を述べますので ご見解を述べやすいように たたき台としてください。  【A‐ω‐br.】 (1) 感性ないし情感を措いて考えるなら すべての人びとが納得するような理論は 提示し得るだろう。  (2) ひとが納得するかどうかは 説得者の能力や努力の及ばぬところである。  (3) よって 理論によって すべてのひとを 納得させうるが 説得し切れるかは 分からない。  ☆ そもそも コミュニケーション論です。  【Q‐α】 コミュニケーションとは どういう社会行為ですか?  【A‐α‐br.】 対話です。三者の会話は 三つの対話から成るという意味です。  ☆ 【Q‐ω】に付随して わたしの関心を持って知りたい課題です。  【Q‐β‐1】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか?  【A‐β‐1‐br.】 (1) 対話の主体として 話し手(書き手・発信者)と聞き手(読み手・受信者)の関係を おのれひとりの内面に 機能させるために きっかけとなる。  (2) その意味では そばにいて欲しいと同時に 仲介者の役をになってもらってもよいのだが 基本的に 説得行為ないし対話には その発言は 加わらないのではないか。  (3) 前項は 第三者の存在が 重要であり大事だ。と同時に 一対一の対話の発言には 局外者となるのではないかという意味です。  【Q‐β】 コミュニケーションの主体について どういう事項が 心得なければならないことですか?  ☆ 研究論文などは読んだことがありません。でも コミュニケーション論として 実質的に 最先端を行く日本一の内容を目指します。問い求めの過程として 世界一を目指します。  ふるってご投稿ください。おしえてください。  なお これは 【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか】および【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】の続編です。

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noname#96756
noname#96756
回答No.44

bragelonne様、こんにちは! ところで、「芸術・感性」「哲学・思想(宗教含む)」「(広義の)科学」を 《アマテラス圏‐スサノヲ圏》における「ヨリ」「イリ」「ヨセ」に呼応させることは可能なのでしょうか。 仮にそう出来ると考えますと。 原始の時代━ヨリ感性━芸術・感性中心の時代 ↓ スサノヲ覇権時代━イリ知性━哲学・思想(宗教含む)至上主義の時代 ↓ アマテラス覇権時代━ヨセ知性━(広義の)科学至上主義の時代 という歴史を経てきたように考えるわけですが。 で、bragelonne様はアマテラスからスサノヲへの主従の転換を求めていらっしゃいます。 「哲学・思想(宗教)>>>(広義の)科学」という主張になるのでしょうか。 いっそのこと、この2つの概念の主従転換ではなく、芸術・感性といった概念も加えて三つ巴のバランスのとれた状態が心地良く求められるのではないのかな、と考えるのですが。 科学を否定的に捉える意見が多いため、わたくしはちょっと「?」なのです。 この3つの概念は、領域が重なる余地はあるかもしれませんが、概念同士が衝突することを求めることは決して人間の未来にとって得策ではないとわたくしは思うのです。 もしbragelonne様がご賛同くださるなら、どのように考えることが出来ますでしょうか。 それとも…やはり3つの概念の中で「哲学・思想(宗教)」至上主義時代の到来を望んでいらっしゃるのです? ps: (1)「芸術・感性」って…どこぞのa様のことをふと思い出して、我ながらソファからずり落ちそうになりました♪ わたくしね、あの方がカム・バックするまで、超不得手とする哲学カテに居座っているのですが、考えるのが苦手だから、つ、つらい…。 (2)コマ回しにはね、ちょっとかなりの自信があります。ふふ。

bragelonne
質問者

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 mashumaro2 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  いろんな観点から いろんなふうにお考えになるのですね。ふと見ると 横にいたり あるいは むしろ前を走っていたりと 神出鬼没でいらっしゃる。  ★ a様のこと  ☆ 《一家言》のあり方もさることながら――つまり 部分的に どう取り扱ってよいか戸惑うところがあったと思うのですが それ以上に―― どうも イニシアチヴを取ろうとするといった問題ではないかと いま 思っています。任せてもいいのですが 全権委託というわけには行かなかったように思います。  ★ コマ回しにはね、ちょっとかなりの自信があります。ふふ。  ☆ 《ジャイロ効果》などについて 明るくないので 論を発展させていってくださって いいと思います。  さて 人類の歴史を展望するときになりました。!!!  わたしの見方からは 図式を 修正します。それは 《ヨリ・イリ・ヨセ // コギト》という知性のあり方を基礎にしますと 最後の《科学思考》は 或る意味で 中立の道具ですので 《ヨリ》は別としても 《イリ》にも《ヨセ》にも 大いに用いられるという点を加味するとよいと思うのです。たとえば  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ 原始の時代━ヨリ感性━芸術・感性中心の時代  ↓  ○ スサノヲ自立時代━イリ知性━哲学・思想(宗教含む)への目覚めとそのいとなみの時代   * すなわち すでに ここで 《コギト》が始まった。   * 稲の栽培=時間過程という要素;共生は動態である。     鉄の発明・利用=道具の進化     薬草の開発=物理化学の探究  ↓  ○ アマテラス覇権時代━ヨセ知性━(広義の)科学至上主義の時代   * 日子(=彦)・日女(=姫)というように また 《天照らす》   というように 直前の時代から 人間の精神に 理性という光を見る   ことが始まっている。   * 《日子の御言》としての光から 《すめらみこと》として後光の   差した光になることを みづから 追い求めた。すめらとは 須弥山=   最高峰のことだそうで いよいよ人間的となり ますます人格を磨き   全世界において統一第一日子であることを 夢見たし これを 実現し   たと思った。   * そのためにこそ 知性も芸術も宗教も そして あらゆる科学も   利用・活用するという思潮が 社会的に 優勢となった時代。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 第二と第三の段階のちがいは ふつうの勤勉とスーパー勤勉すなわちガリ勉との違いと見ると 分かりやすいかも知れません。  ★ いっそのこと、この2つの概念の主従転換ではなく、芸術・感性といった概念も加えて三つ巴のバランスのとれた状態が心地良く求められるのではないのかな、と考えるのですが。  ☆ あの火炎の舞うような意匠をもった縄文土器には その感性のあふれ出るような美しさを感じます。もちろん 全部を 活用したい。ただし ふつうの知性たるイリの視点で 活かしていきたいと思います。  どういう時代の到来を望むかと考えれば そうですね。ゴートの王で ローマ(西ローマ)を短いあいだ支配したテオドリック大王という人間がいます。その統治のもとでは 街道には 追い剥ぎが出ないどころか 落とし物をしても 持ち主に返ってきたと言います。そういう治安のよさのもとでの生活がよいように思いますが どうでしょう?

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  • ri_rong
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回答No.12

>これの理論化と また逆に 応用実践編の物語りになるかと  理論と実践ですね。うまくできるかどうか、まず、誤読と言ってしまうとその人の不注意、あるいは認識の違いといった意味になるかと思いますが、そうではなくて、もっと別な見方をしようと思っています。例えば、なぜ、人間はコミュニケーションを求めるのか、というような、そういう問い語りです。  ちょっと変な言葉遣いをします。 「人が言うということ」は、聞かれる者において「言われること」の背後に、忘れられて残っている。この実在的なもの――つまり、人間は決して「言いたいこと」が言えないという、この現実と気持ちとの乖離こそが、人間を言語に駆り立てる原動力になっているのではないか、という事です。これは理屈ですが。では、実践へ。  例えば、僕たちは過去に経験したちょっと忘れられないような思い出について、出来事の細部までを生々しく覚えていて、語って再現する事ができる。けれど、その語る「こと」のなかには時として、その記憶の風景に自分自身が映りこんでいるときがある。  そんな経験はないでしょうか。  その場にいた自分の視覚を通じて風景は記憶されているわけだから、自分の手足や衣服の一部が映像に混入することはあっても、自分の全身像や、少なくとも自分の顔、そして目が、その映像に映り込むことはあるはずがない。けれど、記憶のなかには、時として自分のベストショットや、ひどい場合には自分の後ろ姿が映っている。いったいなぜ、自分の背中が見えてしまうのか。  そして、そこに映っているのは、いったい誰なのか。  もしそこに映っているのが自分だとしたら、その自分を見ているのは、いったい誰の視線であり、その記憶はいったい誰のものだったのか。あるとき自分の記憶を思い返してみて、このような事実に気付いてしまうと、間違いないはずの自分の記憶と、その記憶によって裏付けられた自分の正当性とのあいだに、乖離感、あるいは疎外感を、感じてしまうのではないだろうか。そして、信じていた自分の正当性は、いったいどのような言葉となって語られていたのだろうか。  このような現実を考えるとき、行為の辻褄が合うように説明してみようとすると、どうしてもこんなふうに考えざるを得ない。それはつまり、言葉は自らが本当に体験したことや、自らが本当に考えていることを明らかにし、あるいはそれを拠りどころとして、本当の自分を探り当てるために語られるのではない、ということです。  自分のなかにある、何かによって埋められることを待っている欠落感――それが、疎外感(孤独感)の原因だと思いますが――に、恐らく言葉は届かないのではないだろうか。それは、損なわれてしまった「切なさ」が、何ものを持ってしても、もう二度と埋まらないように。そうではなく、むしろ言葉が届かない何かがそこにあって、その何かを認めてあげることで初めて可能になる他者への語りこそが、その何かの要請する自らの疎外感を埋め合わせてくれるのだと思います。だからこそ、人は他者に語りかけるのではないか。だからこそ、人は他者に「愛しているよ」と語りかけていかねばならないのではないか。  僕には、そんなふうに思われます。

bragelonne
質問者

お礼

 ○ 記憶に浮かびあがるみづからの姿について。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  けれど、記憶のなかには、時として自分のベストショットや、ひどい場合には自分の後ろ姿が映っている。いったいなぜ、自分の背中が見えてしまうのか。  そして、そこに映っているのは、いったい誰なのか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは わたし個人としては さだかではないという状態です。つまり  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  その場にいた自分の視覚を通じて風景は記憶されているわけだから、自分の手足や衣服の一部が映像に混入することはあっても、自分の全身像や、少なくとも自分の顔、そして目が、その映像に映り込むことはあるはずがない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と 漠然とした結論ですが 思います。つまり 今のところ  ○ 自分の像が 夢を見ているわたし(あるいは 記憶をよみがえらせているわたし)と 相い対しているという経験は 定かではありません。  ○ その意味は そういう場合というのは たとえば 同一時点においてなら 写真として現われるとか あるいは 過去の自分として 現われるとか さらにあるいは これから これこれの行動をおこせば あれそれの姿となって現われるだろうというときのその像であったりとか に限られる。  ☆ と いまのところ 思いました。わたしは 特殊でしょうか?  わたしは ときどき 大きな河に落ちる夢を見ますが そしてそのとき 落ちていこうとする自分の後姿を見るというかたちが 現われますが まだ 途中までなんです。落ち切らない。空中で 決まって 止まるのです。そうして その後姿を見ている自分に その像は 戻ってくる。  こうだとすると この事例では やはり 想像の中で 自分のうしろすがたを思い浮かべているのであって それ以外の状態ではないと思われます。つまり 自己の像を それから離れたかたちで 自己が見ているという情況ではないと思います。  むろん 記憶から消えたものについては どうしようもありません。  事実の問題として おぼえている限りで 報告しておきます。

bragelonne
質問者

補足

 ri_rong さん ご回答をありがとうございます。  【Q‐β‐1】 《第三者》とは どういう存在か  ⇒【Q:言葉は真理を伝えない】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4772278.html  ● (No.11):答えを返さない《三人目》――《テクスト・物語》:M.ブランショ  ● (No.10):心の奥なる《どの言語にも属さない言葉》――《内なる人》:アウグスティヌス  今回は 次の主題にかかわっていると思われます。  【Q‐α‐1】 言語表現とは何ぞや。  【Q‐α‐2】 伝えるのは どういうことか。何を伝えるのか。  【Q‐β‐2】 《孤独》という言語――《主体》の内なる。  ★ だからこそ、人は他者に「愛しているよ」と語りかけていかねばならないのではないか。  ☆ だからこそ ひとは 何も言わずにも 分かり合える他者を持つことが出来るのではないか。たぶん 一人のみであるだろう。一人持てば その余韻として 多くのひとと分かり合えるようになるだろう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そうではなく、むしろ言葉が届かない何かがそこにあって、その何かを認めてあげることで初めて可能になる他者への語りこそが、その何かの要請する自らの疎外感を埋め合わせてくれるのだと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうではなく むしろ言葉が届かない何かがそこにあって この何かを わたしが 飲み込むなら それは 意志が引き受け その表現としての文体が 引き受ける。その文体の或る種の陰影が 他者をして その孤独に呼応するゆえ 自己表出へと促し 自己を表現せしむる。かくて 交感と呼ばれる 文体相互の交響曲がひびく。あぁ その窪んだところの何かは 疎外感であったか それを 他者が埋めてくれた ありがたい となる。   ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  自分のなかにある、何かによって埋められることを待っている欠落感――それが、疎外感(孤独感)の原因だと思いますが――に、恐らく言葉は届かないのではないだろうか。それは、損なわれてしまった「切なさ」が、何ものを持ってしても、もう二度と埋まらないように。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ わが孤独は 何かによって埋められることを待っている欠落感を知覚した。それは それが 隣人であるのだろうか。言葉は届かない。どの隣人とかかわるのだろうか。けれども 千の切なさも わたしは 飲み込んで来た。万のうれいも 精神の胃袋に消化して来た。億の悲しみに わたしは 泣いた。けれども それらすべて 埋めてきたのではないか。損ないは すべて 覆われた。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  このような現実を考えるとき、行為の辻褄が合うように説明してみようとすると、どうしてもこんなふうに考えざるを得ない。  それはつまり、言葉は自らが本当に体験したことや、自らが本当に考えていることを明らかにし、あるいはそれを拠りどころとして、本当の自分を探り当てるために語られるのではない、ということです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしは わたしの孤独の知覚するままに 孤独と孤独との関係において――それが 社会というものだ―― わたしの中で 自己表出が 言葉をさがし 言葉は 自己表現を求めて 文体をかたちづくる。  打ちにこたえる鐘のひびきにて。

noname#149752
noname#149752
回答No.11

また来ました。 >では どうしたいのですか? 私は「母親」と和解したい。 「母親」が好きだと何回も言っています。 円融三諦 http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E3%81%88%E3%82%93%E3%82%86&dtype=0&stype=0&dname=0ss&pagenum=1&index=102185200000 http://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/0103.html ところで、 私は「母親」から、好きとも、愛しているとも言われたことがありません。「母親」は私をどう思っているのだろう。 言わなくてもわかる? でも、たまに言って欲しいです。

bragelonne
質問者

お礼

 yukiyama20 さん ご回答をありがとうございます。  なにを 女性のいくらかがよく言うせりふみたいに言ってるんですか。  ★ 言わなくてもわかる? / でも、たまに言って欲しいです。  ☆ この休息のあいだ 何をやっていたんですか? 変なものを食べましたか? 子ども返りしてしまったんですか?  ▲ (大谷大学:きょうのことば)~~~~~~~~~~~~~~~  円融三諦:  ここでいう三諦とは空・仮・中(くう・け・ちゅう)のことです。  智によると、すべての法は実体的に存在するのではなく、縁起の法則によって様々な因や縁により成り立っているにすぎません。この側面を捉えて、諸法は「空」であると説かれます。  しかし諸法は因や縁の和合により仮に存在するので、「仮」という側面も持っています。  さらに諸法は空・仮の両側面を兼ね備えているので、その側面を「中」として表現しています。  つまり諸法には空・仮・中の三側面がありますが、「円融三諦」とはそれらの三側面がすべての法に同時に備わっていることを示す言葉です。      *  「中道」とは、空にも仮にも片寄らない、「円融三諦」として語られる諸法の真実の姿を意味します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こんな定義としての説明は もう どうでもいいのです。  《中道》から見れば 世界は つまり コミュニケーションの世界は どう見えるか どういうふうにありたいか これを 語ってください。

回答No.10

このご質問は、範囲が広すぎませんか。頭が爆発思想になりますよ。 そろそろとやっていきます。 【Q‐β】 コミュニケーションの主体について どういう事項が 心得なければならないことですか? >【A‐β】いずれの過程においても常に主体が変化しているのだということですね。 ○【A‐α・β・ω‐ba】 コミュニケーションとは つねに変化する主体が(――つまり 考えを 情況や自己の境地に応じて 変える主体が――) 互いに 相手と《同質になる》ことをとおして おのおの人間の能力を発揮するというような意味で 自己表現の《拡張行為》である。 えっと、ここは重要なところなので、補足します。 相手とコミュニケーションをしているのだというは、幻想にすぎず、 クオリアの話でも解るように真に相手を知ることはできません。 言うなれば、如何なるやり取りをやったとしても、相手があるクオリアを持っているだろうことを含めて自分がその相手クオリアを自分の中に形成しているに過ぎないと言うことです。 コミュニケーションの主体はすべて自分の中にあるということですね。 なので、【A‐β】で、「過程」といっているのは、コミュニケーションの過程のことで、 聞く、話すこと自体がその主体を変化させるということです。 そろそろですが、いただけませんか。

bragelonne
質問者

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bananasand さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ コミュニケーションにおいて その主体どうしが 互いに相手と《同質になる》。  ☆ について 説明をいただきました。まづ むしろ 最後にある説明 つまり  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【A‐β】で、「過程」といっているのは、コミュニケーションの過程のことで、  聞く、話すこと自体がその主体を変化させるということです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 分かりやすいですね。  ○ 主体は 情況およびみづからの境地に応じて 説得を受けてであろうとなかろうと 考えを変えることをも厭わず 躊躇もしない。  ☆ 次の前置きも 分かりやすいです。  ★ 相手とコミュニケーションをしているのだというは、幻想にすぎず、 / クオリアの話でも解るように真に相手を知ることはできません。  ☆ いわゆる《他者》の問題ですね。他者について わたしが分かるのは わたし自身にある性格などの部分であって わたし自身にないものは ほんとうには分からないはづだというものですね。  したがって 相手も 受け容れてくれる限りで こちらが理解し受けとめた内容として=つまり そういう幻想としての相手と向かい合って 話をしている。に過ぎない。という問題ですね。《わたしがわたしであるところの存在と心》は その相手によって その数だけの《わたしのクオリア》があって それをつうじて 互いに 理解し合っていると思っているし じっさい その限りで コミュニケーションを図っているのだと。  ★ 言うなれば、如何なるやり取りをやったとしても、相手があるクオリアを持っているだろうことを含めて自分がその相手クオリアを自分の中に形成しているに過ぎないと言うことです。  ☆ したがって  ★ コミュニケーションの主体はすべて自分の中にあるということですね。  ☆ なのですが そうなのですが これを 《相手と同質になる》という見方とからめて 捉えるなら まだ はっきりしないところが残るのではないでしょうか?  たとえば  ○ ひとは 他者を ほんとうには 知り得ない。けれども にもかかわらず それにもかかわらず こころの交流を その互いにそれぞれの孤独を基盤として おこなえると言えるところもある。  ○ 主観における考えや情感について 互いに 共同化しうる部分もある。  ☆ と言えるとすれば いい方へ はっきりすることになります。  ○【A‐α・β・ω‐ba】 コミュニケーションとは つねに変化する主体が(――つまり 考えを 情況や自己の境地に応じて 変える主体が――) 互いに クオリアをつうじてでも あるいは 言葉に表された世界認識ないしその見方を理解しあうことをつうじて 相手と 主観を共同化することができる。    ☆ あとは  【A‐β‐ba】 コミュニケーションの過程のことで、聞く、話すこと自体がその主体を変化させる。  ☆ これについて 内容の細かい説明が 待たれるようですね。というのは 主体としての《わたし》は その考えとしての主観を 自由に 変えていく=発展させていくと同時に 考えてみれば あたかも《わたしが わたしである》ことが つねに 同一であるとも考えられる。このような主体のあり方 これについて くわしく知りたいとは思います。  もうおいしく頂いていますけれど こんなところでしょうか。

回答No.9

bragelonneさん、おはようございます。 ご無沙汰です。(PC復帰) 親の言うこと、担任の先生の言うこと、校長先生の言うことてんでばらばら。 そんなとき、こども(生徒)は…戸惑います。

bragelonne
質問者

お礼

 すっごいご無沙汰。littlekiss さん おはようございます。ご回答をありがとうございます。  そういえば PCの故障でしたね。忘れていました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  親の言うこと、担任の先生の言うこと、校長先生の言うことてんでばらばら。  そんなとき、こども(生徒)は…戸惑います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《戸惑い》は 正解でしょうね。で どうします?  1. わたし(その子ども)の言うことも 思うことも てんでばらばらだと思うか。  2. では わたし(その子ども)は しっかりと 自分の考えを決め そのことを 表現していこうと考えるか。  3. たとえそうしても その表現は 親にも学校の先生にも 通じないとき 《戸惑い》をたのしむことにするか。  4. さて この《戸惑い》の渦巻きの中から 何が 出てくるのでしょう?  日本一の正解を どうぞ。

  • masa2211
  • ベストアンサー率43% (178/411)
回答No.8

>研究論文などは読んだことがありません。でも日本一の内容を目指し うわっ、洋の東西を問わず、そんなこと言ったらだれからも相手にされないでしょう。言っちゃだめだ。 東洋版。孔子いわく、 思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。 http://www.hmt.u-toyama.ac.jp/chubun/ohno/hitoriyogari.htm 西洋版。APECエンジニアの定義。 http://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/inter/kensetu/apec_1/index.html APECエンジニア(国際的な語術者の相互承認)の要件の筆頭に、 ・認定もしくは承認されたエンジニアリング課程を終了していること  (要するに、きちんとした教育を受けていること) とある。(※日本で資格取得する場合独学アリですが、欧米流は大卒イコール資格取得であり、要件自体が妥協の産物。) >【Q‐α】 コミュニケーションとは どういう社会行為ですか? >【A‐α‐br.】 対話です。三者の会話は 三つの対話から成るという意味です。 4者の場合の対話数はいくつになるのですか? 各人がそれぞれと考えれば6ですが、そう考えていいの? そう考えるとするとして、10人の場合の対話数は約50万です。 これでは、大人数のコミュニケーションは不可能ということになります。 で、マスコミのコミはコミュニケーションの略です。これは対話(双方向)ではないです。一方通行です。 ついでに、「職場のコミニュケーション」とは、 ・社員どうしの親睦を深めるための会話 (=無駄話) を指しません。 ・業務に必要な指示報告がなされていること を指します。 ゆえに、 コミュニケーションの本質は情報発信です。(双方向である必要は無い。また心情について発信する必要も無い。情報の受け手の判断の元となる情報があればよく、それこそが本質である。) したがって、 コミュニケーションイコール情報発信(片側通行アリ) とみている者からみた場合の疑問点。 表題の、「すべてのひとを説得することができますか」を考える場合、 コミュニケーション論を論じたいのであれば、表題は不適切きわまりない。 >【Q‐β‐1】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか? レフリー役。 理由。 第一者:説得する側 第二者:説得される側 第三者:どちらの立場でもない というふうに用語定義されている(それぞれが複数の場合がありうる)ので、 第三者にとどまるためには説得行為(など)に加担できない。加担した時点で第三者でなくなる。 第三者の定義は以下のとおり。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E8%80%85

bragelonne
質問者

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 masa2211 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  masa2211 さんとは けっこう長いやり取りの経歴があります。ただ そのつど 一・二回で終わってしまうので 必ずしも 共通の認識事項などにかんして 基礎が出来たとは まだ言えないところかも知れません。  ですから ここは 初めは ぶっきらぼうに ご議論の難点を示して澄ましていようと思ったのですが これを思い返して 思いっきり ええかっこうをして 振る舞いたいと思います。  ただし 冒頭の  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    >研究論文などは読んだことがありません。でも日本一の内容を目指し  うわっ、洋の東西を問わず、そんなこと言ったらだれからも相手にされないでしょう。言っちゃだめだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ に関しましては まだ わたしが ばか丸出しの人間だということを さとらないのですか? と申し上げておきます。あとは 真剣に取り組んでまいりましょう。  ひとつ お断わりせねばならないことは わたしは 研究史の研究を していないということです。学者ではないという意味です。しかも 横から 日本一・世界一をめざす。こういう出で立ちです。  ★ で、マスコミのコミはコミュニケーションの略です。これは対話(双方向)ではないです。一方通行です。  ☆ この説 つまり 《一方通行》説は わたしは 採りません。《双方交通》の中に含まれていますから。  ○ communication < common = gemein :共通の・共同の     < co-/ge- + -mon / -mein :かふ(交ふ・支ふ・替ふ・買ふ・換・代・変)  ☆ こう捉えるなら 日本語から見ても すべて当事者二者の話でしょう? モノを介していますが 双方通行の対話として成り立っていませんか?  売り買いには 感情も情感も 入っていると言うべきでしょうね。  ★ 【A‐β‐ma】 レフリー役。 / 第三者:どちらの立場でもない / 説得行為(など)に加担できない。加担した時点で第三者でなくなる。  ☆ これは たぶん ひとつの有力な見解を示しているものと思われます。《公平な第三者として 審判役をになう》という説ですね。  で これを 解体させようという魂胆なのですが それは たしかに やはり   1. この《審判としての第三者》を まづ 人間としての存在から 外す。  2. ましてや けっきょくは 観念としての《正義なる神 / 神なる正義》を 霧のかなたへ置いておく。  3. しかしながら 昔ながらのいわゆる《裁定の場としての良心》を これに当てる。当事者それぞれが 《わたし》の内に そもそも 宿していると見なす。なんなら 《仏性》でもよい。  4. 《良心》というモノではなく 全体として 存在たる《わたし》である。特には その自由意志のことである。《仏性》も はたらきを言う。  5. このとき 良心は 孤独の海に浮かぶその孤独を覆う闇に あたかも海流の波が 《対話》をとおして交わす衝突にも似て ぶつかりあって ほのかにも鋭く 射放つひかりであるかも知れない。  6. こころに まどが開いたと 孤独のこころは 思うかも知れない。  7. どうやら 闇のかなたに もうひとり 孤独が うめきながら あえぎながら このわれらがひかりを 問い求めているかに思われる。  ☆ これが 《第三者》もしくは 《わが内なる人》ではないの?  〔これを 出してよいと思われることには この内なる人も 神ではないからです。経験的な思惟 もしくは その判断力ですから〕。  けれども 《審判》? 《さばく》?   たしかに ものごとを《捌く》だろうが 《道徳規範の愚の骨頂》によって だれが ひとのこころを そんなにたやすくも 《裁く》ものか!! おのが孤独に まづは 立ち戻って そこで じっと胸に手を当てて 考えてもみたまえ。なんで 人間が 互いに 裁き合わねばならないのか。  《どちらの立ち場でもない》から レフリー役だって? そりゃ その第三者という存在じたいは 大事だし ありがたいことだが 何で 悪だ罪だと ひとを 裁かねばならんのだ。  とうとう ええかっこうしいを しまいまで 貫けなかったようです。  masa2211 さん いつも 出汁にしてしまって 澄みません。独り善がりの極致が出せましたでしょうか。出せたとすれば あなたのお蔭です。出せなかったとしても あらたに 出発します。  生まれ変わってではなく この一生のうちにです。  あぁ 《独り善がり》のことを誤解していますね。わざとですけれど。

noname#149752
noname#149752
回答No.7

私は「母親」に暴力を振るいましたが、相手に無関心でした。 隣人愛から助けてくれた人に、律法を破っていると言って殴る病人は、どうしようもないですね。 「母親」の心の痛みに気がつきませんでした。

bragelonne
質問者

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 yukiyama20 さん お早うございます。けさのご気分は いかがですか? ご回答をありがとうございます。  さて それでは ただいまから ヒエログリフの解読にかかります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  私は「母親」に暴力を振るいましたが、相手に無関心でした。  隣人愛から助けてくれた人に、律法を破っていると言って殴る病人は、どうしようもないですね。  「母親」の心の痛みに気がつきませんでした。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これを 絵として 全体として見なきゃいかんとおしえてくれた人がいたので そうするのですが。  1. まづ あなたに つまり あなたのいろいろな振る舞いに対して 《心を痛める》存在があるのですね?  2. ひとは 他人の言動によって 心が傷つくことはないと考えるわたくしですが それでも この場合 あたかも存在をみづからの存在と同じものとして捉えている《母親》が いるのですね?  3. 《暴力を振るった》とき 《相手に無関心でした》というのは その《相手》とは やはり 《母親》のことですか? それとも 漠然と 身の周りの人びとのことを言っているのですか?  4. 真ん中の第二文 これは 難解ですね。いっそ 突飛な解釈をしてみましょう。  5. むしろ あなたが 《母親》もしくはその身内と呼ぶべき人に 《隣人愛》を発揮して 何らかのかたちで 《助けてやった》。それなのに そのあなたを 《律法を破っていると言って殴る病人》がいるのですね?  6. この線で通しますが 《隣人愛から助けた》ことが 《律法をやぶる》行為だというのは どうしてですか? その《病人》の言い分は どうなんですか?  7. しかも 《殴る》ことまでするような《律法破り》があったと その病人は主張しているのですね?  8. だけれども その病人に対して 《どうしようもないですね》と すでに あなたが言っているとしたら では どうしたいのですか?  9. あぁ ただ一点 《「母親」の心の痛みに気がつきませんでした》ということですか。  いくらか 筋が通った解釈になったかと思うけれど なんとも 分かりかねる内容ですね。  あ. 《律法》を持ち出すのは もう旧いでしょう。それにもとづこうとしても 話が 進みません。ひょっとして ユダヤ教徒のあいだでの話ですか?  い. いまはもう 《「母親」の心の痛みに気がつ》いたのなら いいではないですか。心のまま わびれば いいのではないですか?  う. 《病人》の問題は ここでの《説得・コミュニケーション》の問題ですから よろしくご投稿を。  宣伝に持っていくなんて 高等手段ですね。どぢゃ?

回答No.6

No.2 です。なんとなく解りました。奥が深そうですね。 なので、自分自身、核というか、筋が見えていません。 そろそろと逆から回答していきます。 【Q‐β】 コミュニケーションの主体について どういう事項が 心得なければならないことですか? >【A‐β】いずれの過程においても常に主体が変化しているのだということですね。 【Q‐β‐1】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか? >【A‐β‐1】第三者は相手と同質になるんですよね。大きな違いがあるのでしょうか。  三つの対話は、結局、主体へ帰結すると思うのですが・・・。 【Q‐α】 コミュニケーションとは どういう社会行為ですか? >【A‐α】社会は、全て主体の中にあるということを念頭にするなら、拡張行為ですね。 【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか? >【A‐ω】補足頂いた「説得」であればできます。 と言うか、ここがbragelonneさんとの対立点になると思うので最後にしたんですが、 相互理解まで行き着き、説得する、説得されるは同質になるのでしょう。 それがコミュニケーションですね。 ところで、コミュニケーションの対義語は広い意味の暴力になるんでしょうかね。 かなり、ぶっきらぼうですが、いただけませんか。

bragelonne
質問者

補足

 bananasand さん 《かなり、ぶっきらぼう》なご回答をありがとうございます。わたしは 味付けについて知らないし ソースもしょうゆも 最小限で使うたちなのですが いつものそのようにして いま いただいているところです。    どうも これは ただちに読解とは行かず まづ 解凍してみなければなりませんね。  尻から行きましょうかね。  ★ ところで、コミュニケーションの対義語は広い意味の暴力になるんでしょうかね。  ☆ あぁ なるほど。ただし これは 注意を要するようですね。  ということは コミュニケーションの中にも 言葉を使って 《暴力》をおこなう場合が ある。のではないか。――追い追い この点も みなさんからも 論議が出てくることでしょう。    【A‐ω‐bananasand 】補足頂いた「説得」であればできます。  ☆ これは   ★ 説得する、説得されるは同質になるのでしょう。  ☆ ということで ほかの応答内容にさかのぼらなくてはなりません。  【A‐β‐1‐ba.】第三者は相手と同質になるんですよね。  【A‐α‐ba】社会は、全て主体の中にあるということを念頭にするなら、拡張行為ですね。  ☆ 合わせて 捉えてみますが   ○ 主体どうしが 互いに 《同質になる》。  ☆ そして  【A‐β‐ba】 〔コミュニケーションの〕いずれの過程においても常に主体が変化しているのだということですね。  ☆ をも考え合わせるならば   ○【A‐α・β・ω‐ba】 コミュニケーションとは つねに変化する主体が(――つまり 考えを 情況や自己の境地に応じて 変える主体が――) 互いに 相手と《同質になる》ことをとおして おのおの人間の能力を発揮するというような意味で 自己表現の《拡張行為》である。  ☆ 《同質になる》 この意味が もうひとつ わたしには ピンと来ませんね。どうしてですかね。どういうことなんですかね。  ○ 合理的で妥当だと思われる認識および判断を おのおの主観において 共有し 〔動態的にして〕共通のものとする。  ○ つまり そのそれぞれの主観から 自己表現が展開されるということは 《拡張行為》としては 互いに 共同主観の形成を促し合う。  ○ さらには この共同主観が 社会において 時の動きにつれて 観念化し 果ては 共同の幻想とならないように 主観も共同主観も その変化と動きの中において 保つのだ。  ☆ このような社会過程の中で 《同質となる》という要因が 重要だということでしょうか?  一面で その表現――つまり 《同質》という言葉そのものですね――が ピンと来ないと言いますか なんで 《質を同じくする》とまで言わなければならないのかなぁと思いますが その点 どうですか?  見逃しがあるかも知れませんが 追い追いということで とりあえずここまでとします。

  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.5

 久しぶりですね。  同じ問い語りの質問で、「言葉は真理を伝えない(回答番号:No.11)」に少し意見を述べましたが、もう一度掲載してみたいと思います。 ==============================  三人目に用いられた「言葉」、あるいは三人目に問いかける「言葉」は、案外どうでも良いものかもしれません。けれど、答えを返さない「言葉」を通じてしか「伝えられない」言葉があるように思います。 ==============================  生みの親が抱える抑圧も然ることながら、文字を介したコミュニケーションに関して言うと、生産されたテクストがいかなる抗争の場になっていて、テクスト自らが如何に語り、如何に人々を罠にかけ、如何なる読解を誘うかという問題なのではないでしょうか。  クリステヴァにせよ、先日、交わしたあのラカニアンとの対話もそうですが、結局のところ(あの彼でさえ、そうだったのですから)如何なる専門家であろうとも、「読み」の呪縛からは自由になれない。それくらい、人間は孤独なのだという事でしょう。けれど、その孤独さって、そろそろ隠すことはやめて、この際なのだからもっと声高に誇ったほうが良いんじゃないかと僕は思います。その誇りのようなもの(と、誇りを尊重する気持ち)があれば、コミュニケーションってうまく行くんじゃないでしょうか。  ニーチェの時代、孤独は貴族だけの責務であったようですが、もう21世紀です。しかも、ここは日本です。昔と違って、孤独は誰もが嗜む時代になっているのではないでしょうか。その孤独を隠そうとするか、あるいは見せようとするか。誇ろうとするか、蔑もうとするか。こういう違いが、ただそれだけが、あるのだと思います。  違いは、孤独に対する各人の姿勢だけではないのでしょうか。あるいは装いとでも言うべきか。近ごろは誰もが裸ではなく、誰もが衣服を着るのですから、それくらいは寛容さで見てあげるのが、上手いコミュニケーションのコツだろうと思っています。

bragelonne
質問者

お礼

 ri_rong さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  蘭語も むろん やったのですが――I. べークマンの話ですが―― 言語というものは 櫂の船で流れをさかのぼるごとき奴にて 毎日少しづつ学んでも 川の中の同じ位置を保つのが せいぜいです。ほうったらかしにしていれば どんどん うしろへ流されていきます。と言い訳をはさみまして。  けっきょくは やっきょくにて ブランショは かれも アウグスティヌスの焼き直し? なのですか?  《内なる親密なことば――どの国の言葉にも属さない心の奥のことば》と 《人間ではないのだが 三人目として そこにいて 決して答えを返さない言葉――ものがたり》と。どうなんだ? ブランショくん!  あ 見つけたぞ。《三人目 ないし 第三者》としての《物語》は けっきょく 《テクスト》なのですね? だったら アウグスティヌスとの違いがある。こちらは あくまで 心の目にのみ見える《内なる人》であり あちらは 目に見える(耳に聞こえる)《ことばのテクスト》なんですね?  そうすると どうなるかなぁ?  あっ またもや へウレーカ!  《テクスト》というようにモノのほうに 第三者を見るかたちにするから あなたの言う  ★ 孤独の問題  ☆ が 別様に 発生していることになる。のぢゃないか? それが 《内なる人 としての心の言葉》だと言っていれば おのづと 孤独と孤独との関係は 《記号としての言葉》を突き抜けて――《文字》を突き抜けて―― 《霊》に・・・おっと これは いくらなんでも 飛躍のしすぎです・・・つまり 《わたしの わたしたることば》に到らざるべからず。  ひとは 見よ。このおおいなる孤独の地平線を。水平線に姿をあらわす日のひかりを。アマテラス??!!  冗談が過ぎました。つまり じつは もう眠いです。再考のために 補足欄を取っておきます。ぼんぬ・にゅい! まぎすてる・じいじゅんぐ!

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄をおぎないます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  人間は孤独なのだという事でしょう。  けれど、その孤独さって、そろそろ隠すことはやめて、この際なのだからもっと声高に誇ったほうが良いんじゃないかと僕は思います。  その誇りのようなもの(と、誇りを尊重する気持ち)があれば、コミュニケーションってうまく行くんじゃないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ お説 ごもっともに存じます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  その孤独を隠そうとするか、あるいは見せようとするか。  誇ろうとするか、蔑もうとするか。  こういう違いが、ただそれだけが、あるのだと思います。  違いは、孤独に対する各人の姿勢だけではないのでしょうか。あるいは装いとでも言うべきか。  近ごろは誰もが裸ではなく、誰もが衣服を着るのですから、それくらいは寛容さで見てあげるのが、上手いコミュニケーションのコツだろうと思っています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 華厳の巻として お受け取りしました。  かくなる上は これの理論化と また逆に 応用実践編の物語りになるかと存じます。  孤独論からの切り込み あるいは ほかの視点や理論の取り扱い いろいろ お世話になりたいと存じますので よろしくどうぞ。  * クリステワ゛は テクストの読みにおいて 言葉のわなにかかっているということですか?

  • aai1
  • ベストアンサー率13% (46/335)
回答No.4

コミュニケーション 現実と仮想の議論がありますが、 現実では心を声に響かすと言うように、心や心情は見えないので、言葉に変えてわかるように伝えます。  その気持ちのやり取りがコミニケーションです。  ですから、コミニケーションは人間的思いやりと他者を思いやる人間のすばらしい想像の能力を使って、豊かな心情のやり取りをします。  たとえば、失恋で悲しいとか、つらいとか、同調し、またどんな気持ちか本音を聞き、また本音は純粋で傷つくことを言えば、相手は言わなくなって隠すので、注意して、包むように大事に受け答えする。  愚痴について、怒りなど、対処にはしっかりコミニケーションの重要性がある事を知る必要がありますね。  わからないように言うのはコミニケーションではありません。   本当にわかってる人は難しい事を小学生にもわかるように簡単に話します。これはコミニケーションの達人ですね。知識がもてはやされてますが、えせインテリぶった人が知らない知識語録をわざと使って煙に巻くのもよく見ますが、 わざと使うという 真意を感じるということ を相手に伝えてるということから、 やわらかく簡単に表現するか、しないかで、相手のコミニケーション能力はわかります。  たとえば、有名な科学者が小学生になぜ雲ができるのと聞かれて、  あったかいお茶を出して答えを教える。本物と偽者とは見分けられるものです。答えは、お茶の湯気が雲になる原理だよ。と誰でもわかるように答える。というエピソードがあります。   実際にコミニケーション能力で、心と心の豊かな生活が作られなければ、すべて机上に空論ですし、また、人間らしい豊かな心情、誠意誠実正直という人間としての心がなければ、コミニケーションという1つの手段、道具は生かすことはできないでしょう。また言葉の使い方、選び方も必要だと思います。  言葉は相手を怒らせることも、喜ばすことも、元気にさせることもできます。これも心の伝え方から言葉の選び方に至ると思います。   すべてのひとを説得することができますか?という質問ですが、  現実をしってればいろんな人、性格があるでしょうから、納得してもあなたが嫌いだから反対のことを答えたり、説得を嫌がる人もいるでしょう。  大事なことは、1人1人が違うので、しっかり相手の意見をききながら同調してもらえるようなら、お願いする。同調してもらう。  すべてのひとを説得することは、こちらが頭をさげてお願いすることでしょう。  論破するのは、傲慢で相手の感情を無視して無理やりな理屈で頭ごなしに説得させる。させるという強引さを感じます。人は嫌がると言うことに気づくことがコミニケーションでは一番大事だと思います。人間の気持ちを無視したコミニケーション論は本末転倒ですね。  人の生活のなかで具体的に使用し、豊かな毎日をつくっていなければ、本来の目的を見失ってしまいます。  >>対話の主体として 話し手(書き手・発信者)と聞き手(読み手・受信者)の関係を おのれひとりの内面に 機能させるために きっかけとなる  この文章では伝わらない、機械語のようですね。こういうわかりにくいのをもっと伝わるように砕いて、話し言葉のようにしていくのが教育、育てるためのコミニケーション教育や能力ではないでしょうか?  どういう人間を作りたいのか、そこに教育があると思いますし、生活の中で使える実学、実践に生きる知識が必要で、そのためのコミニケーション学、または論ではないでしょうか?  ちなみに仮想の偽者学者的のような議論は嫌いですし、そういう話し方からは、本質を知らず、専門知識用語で本質を知らない事を隠していることがよくあります。これは騙しと同じです。 これではコミニケーション自体、心のやり取り自体できません。注意しましょう。  やはり本音を伝える難しさ。それを知って、、、それが伝わるように技術を使って、していけれればいいと思います

bragelonne
質問者

補足

 aai1 さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 心のやり取り / 本音を伝える  ☆ が 基礎であり 内容本体であるということでしょうか。  1. コミュニケーションには 現実と仮想とがある。  2. 仮想も 現実のほうに基づく。  3. 現実のコミュニケーションは 心のやり取りである。  4. それには 一般に 言葉を用いるが 言葉は 心そのままを伝えるとは限らない。  5. 心のやり取りは 基本的に 本音を伝えるものだが つねに 本音を そのまま 言葉にして 表わせばよいというものではない。  6. ただし このとき たぶん 《愛想・同情》と《ぶっきらぼう》という二つの表現形式が 対比されるであろう。  7. 相手の理解できるように 表現する。  8. 説得に関して。説得をいやがる場合がある。  9. ここでも 相手に《同調》するか それとも 《ぶっきらぼう》に 伝えるべき内容を 必要に応じて きちんと 伝えようとするか に分かれるようだ。  ★ 人間の気持ちを無視したコミニケーション論は本末転倒ですね。  ★ すべてのひとを説得することは、こちらが頭をさげてお願いすることでしょう。  ☆ ?  10. 中味の伝わりがたい《機械語》のような表現がある。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  こういうわかりにくいのをもっと伝わるように砕いて、話し言葉のようにしていくのが教育、育てるためのコミニケーション教育や能力ではないでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  11. ★ どういう人間を作りたいのか、そこに教育があると思います  ☆ 果たして 《どういう人間を作りたいのか》を決めて 《教育》として コミュニケーションが行なわれるのだろうか。――ま たしかに 子どもを見ていて この性格を引き伸ばしてやろうとしたり この能力を引き出してやろうとしたりしますけれど。  12. 《騙(だま)し・騙(かた)り》がある。(同じ文字なのですね)。    13. 伝えるべき意思内容や情報と それを あたかも記号として表わすという言葉との関係 言いかえると 表現行為 これのあり方が コミュニケーション論には 大きく 横たわっているようですね。  【Q‐α】 コミュニケーションとは何ぞや。  ☆ の以前に  【Q‐α‐1】 言語表現とは何ぞや。  ☆ が やはり ありましたか。

noname#149752
noname#149752
回答No.3

こんにちはbragelonneさん >すべてのひとを説得することができますか これ、無理だと思います。 たとえば私が、有といえば、無という人がいるし。 私が無といえば、有という人がいるし。 このサイトにいた間も、それの繰り返しが多かった。 たとえば、普遍と差異。 私がコミュニケーションしたい相手といえば「母親」だけど 「母親」が望む回答を望まない人もいる。 その望まない人に配慮した回答をすると 「母親」が離れていく。 それだと私がつらい。 だからサイトからいなくなろうとしたし。 どうしたらいいんだろうね?

bragelonne
質問者

補足

 yukiyama20 さん ご回答をありがとうございます。  yukiyama20 くん 気づいていましたよ。プラトンの質問で。いつぞやは ハローと言ってくれていたのに 気づかなかって ごめんなさい。事情は 書いたとおりです。  ★ 母親  ☆ も きみだったのか。それにしては 冴えない――焦点の合わない――文面だったもんだなぁ。  さて  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >すべてのひとを説得することができますか  これ、無理だと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と来たのですか。  ただし その説明は ふるわないものですね。理由説明にかろうじて なるか ならないかぢゃないですか。  ★ 母親  ☆ は あれかい? つまり 西川直子の引き合いに出していたJ.クリステワ゛のいうあれですか? なんて言ったっけ。すぐ忘れる。ル・セミオティック。原記号態。  ま 四角四面の すぐに観念化しがちな 規範たろうとする理論を追うよりも 人間性のゆたかさには通じると思うけれど。ル・サンボリック(記号象徴態)では 精神の緑野が 見えなくなる。  でも わたしは そのとき 書いたように 《母親》なり《原記号態》なりについて すっきりとした理解が得られていません。わたしには 説明が要ります。  なお  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  たとえば私が、有といえば、無という人がいるし。  私が無といえば、有という人がいるし。  このサイトにいた間も、それの繰り返しが多かった。  たとえば、普遍と差異。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは GUCCI ですよ。ぐち。つまり 愚痴。愚と痴ですよ。だめです。  漱石でしたか。自己本位の四文字を掲げたのは。あなたは こんな愚痴を言っているようぢゃ 相手本位そのものだべさ。くだらん。一蹴。  ★ どうしたらいいんだろうね?  ☆ 修行が足りん。かつでもいれてみたまえ。  ○ ひとを説得する。  ☆ というのは 知恵を尽くし知識を尽くし心を尽くしと言われるけれど 問題は 納得できる妥当性のある中味を用意すれば もう九合目まで登ったことになります。あとは たしかに――わたしの経験と中間結論としては―― 放っておくしかないように考えます。  でも さらに ここで 思ったことは その納得あるいは 心で同意するという理解 これは 必ずしも 相手や他人から おしえられたり さとされたりするという問題ではないと考えます。自分で自分の内面に聞いてみて その《内なる人》によって むしろ わたしは おしえられる。他人は ただ 記号としてのことばを こちらに よこしただけ。(アウグスティヌス:『教師』)。  こんなところにて。

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    場の理論でNoetherの定理から出てくる保存電荷Qが場の微小変換の生成子になっているというのがどういうことなのか分かりません。 φ(x)→φ(x)+εG(φ)(ε<<1) において古典論、量子論において [φ,Q]=G(ポアソン括弧) [iQ,φ]=G(交換子) がそれぞれ成り立つことがQが生成子になっているということらしいのですが、ここでの生成子の意味と、なぜQが生成子であることと上の関係式が成り立つことが同じ事なのか教えてください。

  • 失礼な質問者をどう考えるか

     「教えてgoo」は,ネットで世間を知る上でとても面白い。暇つぶしに覗いたり,回答したりしてるのだが,結構辛口のコメントが来るのに対して,自分の質問だけに答えてくれればいいといわんばかりの反応がある時がある。教えてg00は確かにお説教のサイトではないが,さりとて自分はすべて知っているから余計な情報はいいと正面きっていわれると,だったら聞くなといいたくなった。「聞く」「答える」という行為の中には,問いの前提を見直す回答もありうる。それを受容するのがコミュニケーションだろう。  対話でありながら実は対話になっていない,情報ってそんなものだろうか。  いやなら,アクセスするなという意見もあるだろうが,こういうとき,どのように対処すべきでしょうか?