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愛
愛とは?
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愛は形容詞や名詞ではなく、育むに近い「動詞」です。 それで愛することは「信じて疑わないこと」だと思ってました。 けど格段愛していなくても 信じて疑わない事象や行為というのはありますし、 信じることで「信じさせられている」だけのことを 疑えなくなる奴隷状態にもなってしまいます。 自分が自由意志において信じているからでなくなってしまいます。 そうなるのは自分の中から出る愛情ではなく、不満や恐怖からですよね。 「愛することは向き合うことではなく、並んで同じ方向を見つめることだ。」 と星の王子様の作者サン:デクチュベリさん。 相手があるなら相手の自由も同時に愛しく大切に出来る ものが無ければ恐怖や不安にさいなまれてしまう。 相手のことでなく自分に不安を感じてしまう。 「愛」は始まりに形も色もなくそれを終える時に、 どれほどの大きさで濃さで、 大切であったかが判るものだと思います。 そして「愛」ほど成長の遅いものはないそうで 愛の関係を育むより先に 無為自然に本能をしてしまえるぐらい 自分に安心しておくことが肝心かもしれません。 言うだけなら実に簡単ですね(笑)
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檻
お礼
そうですね。 しかしそれは嫌なものですか? 嫌なものでは ないですよね。 寧ろ人は喜んで…
- fiero
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本能と意識と無意識と運の混ざり合ったとても複雑なもの。あるいは、瞭然とした説明の不可能なもの。
お礼
運も混ざるのですか。 とても複雑ですね。
- schneewittchen7
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お~い!カン違いしてるぞ、キミは~! 私は「心理学徒」などではありません!! 多分プロフィール御覧になったかと思いますが、これはですね、或る人物に対する、そして心理学の世界に身を置いている人たち全体に対する「もの申し」です。^^;; >偉大な愛と、邪悪さと、過ちと。 しかし実践となると具体的にどうなのでしょうか? 私だって、まだ考え中というか「修行」の途中ですから答えが分かってるわけじゃないです。 ただ確認できたことは、「邪悪な人間」ほど相手が「命を使う」ことが「愛」だとして、それを要求します。 もちろん相手の命が尽きると、それ以上の利用ができなくなってマズイと判断した場合、次善の策として「奴隷」または「召使」もしくは「信者」として、かしづくことを要求します。 何にも疑わない考えない人間は、「それが愛というもの」だと教えられたら、それを証しようと相手の思う壺に嵌まってしまうのです。相手が自分にとって重要な存在である場合ですね。 また、ほんものの「愛」ではないと気づいてしまっても、もう引き返せないこともあります。いろんな面でね。。。 「過ち」の場合は大概、犯した本人が自分で気づいて謝罪なり何なり、それなりの誠意を見せることができます。 気づいても誠意を見せないのは「邪悪」と化します。 そもそも「気づこうとしない」のは自分の邪悪さから目を逸らしているか、もしくは「邪悪」そのものの存在であり、その者にとって「邪悪がノーマル」だからです。 そして。「過ちに気づいた者」を許さないのも罪悪です。 実は「気づいた者」であるかどうかを見分けることが分かれ道なのです。 「邪悪」な者は「偉大な力」を欲しています。彼らは飢え、渇しています。しかし始末が悪いことに「もう、これでよい」ということがない。際限がないのです。相手が倒れ伏すまで「偉大な力を我に与えよ」と、しがみついてきます。 喩えは悪いけど、インドあたりの極貧の子どもたちが僅かな金銭を求めて外国人旅行者たちに「バクシーシュ」と言いながら、まとわりついてくる、それを哀れに思って一たび小銭を与えると、もうどうにもならないくらいの人数がドドと押し寄せて来て、先に小銭を手にした者を小突き回したり奪い取ったりして騒ぎになる。というのに似ているかも。 旅行者は有り金全部、与えてやれば解放されるでしょう。それができなければ 「あっちへ行け~!この餓鬼ども!!」 と一喝するしかないわけです。 「超人」でもなく限りある身の哀しさですね。 >誰かのために自分の命を使うことが愛でしょうか? それとも、道端に落ちているゴミを拾うことが愛でしょうか? 一つ言えることは「愛」というものが相手のためになっても自分のためにはならない不利益でしかない、はずがない。ということです。 たとえ、それは「愛」ではない!!と断定しても、「愛」もしくは「善」もしくはそれに順ずるものを与えられた者に、いつかのとき必ず 何らかのプラスの変化があるはずです。 逆に「愛」ならざるもの、「愛に名を借りた」邪悪なるものは必ず、いつかのとき(それを受け取ってしまった者が倒れ伏した時)それが何であったのかを知られてしまう―また「知る」ということが悲劇なのです。 >命を捨てるよりも、重要な行動もあります。 >それらを無限の選択肢の中から選ぶのです。 >そして……言葉を選ぶのにも、心を込める必要があります。 そうです。 そして「許す」よりも「許さない」ことが重要な場合もあります。 何を選択するかで本当の知性が問われます。 だから選択不能な「おさな児」または邪悪でない者の魂や心を貪り尽くすような者は最悪です。 命を懸けて「コトバを選ぶ」こともあります。 「邪悪な者」を見分ける一つの方法に「コトバを弄ぶ者」かどうか、ということがあります。 コトバを弄ぶ者、コトバによって他者を汚す者は「言語の神」なる者に忌み嫌われることでしょう。 『言語が正常に機能しなくなり自身の無に気づいた瞬間、人は精神を病む』~ラカン >僕は邪悪な者なのかもしれません。 貴方は、きっと違いますよ(笑) 幸せになってください。もっともっと、ね。
お礼
おっしゃられることは良く分かるのですが、当方が大変未熟のようです。 僕は邪悪なものではないですね。 ただの未熟者ですね(≧∇≦) お言葉ありがとうございました。
- htx2005
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他者のために 生物全般に備わっている 自己保存の原理を打破しうる 心理的な力 おおむね子供や近親者へその力は発動するが ときに社会的な活動原理において 子供や近親者を守るために その他の他者(社会的指導者や神)に その発動を強いられる場合がある きわめて取り扱いに注意を要するもの また時に、多くの若年層男女が陥るものに 性欲の正当化を図るための詭弁として それが多用される文化が認められる
お礼
>きわめて取り扱いに注意を要するもの そうなんですね。 ありがとうございます。
- schneewittchen7
- ベストアンサー率13% (5/36)
お礼、有難うございます。 >過ちも、邪悪さも許す力 いいこと仰います。 その力は「偉大」と呼ぶに価すると思います。いや、その力を与えられた者が偉大なる者と呼ばれるのでしょう。 「過ち」と「邪悪さ」は違います。 貴方、「ほんものの邪悪さ」に出会ったことありますか? そしてその「許す力」を飽くことなく欲するのもまた「邪悪な」者です。 彼らの飢餓は「もうこれでよい」ということがありません。 「疲れを知らない子どものように」持続し続けます。 いわば邪悪でない者は常に邪悪な者にテストを受けているようなものです。 だから彼らは、あらゆる手段で人を試さずにおれない。試すことで悲劇を招くにもかかわらず。 その悲劇は邪悪でないはずの者に「邪悪の種」を握らせるようなものです。 それが何の種であるのか皆目見当がつかない者は有り難く受け取ったまま、ある日、自分の命の水が干上がりつつあることに気づくのです。 そして、それが何の種であったのかということに「気づいてしまう」。 まことに邪悪な者は二重三重に罪深い。 彼らが離れていくのは相手からエネルギーを吸い尽くしたときか、または相手に、その「偉大な力」を望めないと分かったときです。 さてエネルギーを吸い尽くされ倒れ伏してもなお、その力を発揮することが可能なのかどうか。 貴方どうですか?自信ありますか? 自分を守れない者は相手も守れない。 「許す」とは、どういうことか。 「許さない」とは、どういうことか。 私自身も考え中です。 多分、貴方は、そういう人種に出会っていないと思います。 また出会わずに済むなら、それは幸せなことです。 というか今、お幸せの真っ最中ですね。薔薇色の世界にいる人に水を差すようなことを言ってしまいました。 その幸せが末永く続きますように。
お礼
……鋭い切り口ですね。 心理学徒ということで、かなりその道の方なのでしょうか。 僕も、ここしばらくschneewittchen7さんのこの文章をよく心に刻んでいました。 偉大な愛と、邪悪さと、過ちと。 しかし実践となると具体的にどうなのでしょうか? 誰かのために自分の命を使うことが愛でしょうか? それとも、道端に落ちているゴミを拾うことが愛でしょうか? 巧言令色仁少なしという言葉がありますよね。 愛は言葉よりも、実際に体現してこそ価値あるものだと僕は思います。 ただゴミを拾うことでさえも、勇気が必要な場合もあります。 命を捨てるよりも、重要な行動もあります。 なによりも命を賭ける必要がある場面もあります。 普段の生活で、海とか、山とかの中でも。 なによりも思いやりが重要な場面もあります。 それらを無限の選択肢の中から選ぶのです。 そして……言葉を選ぶのにも、心を込める必要があります。 しかし考え方は、行動に繋がります。 schneewittchen7さんの言葉は僕の心の一番深い根っこの部分に触れました。 僕は邪悪な者なのかもしれません。 もしかすると過ちをおかしたものなのかもしれません。 しかしそれでは本当に「当たり前」の人間とはいえませんよね。 確かに愛に気付くことができました。 本当にありがとうございます。 本当に……
補足
言葉も、行動ですよね。 ゴメンナサイ。 難しいですね。
- schneewittchen7
- ベストアンサー率13% (5/36)
『邪悪な人間が選ぶ見せかけの態度に最も共通して見られるのが、愛を装うことである。これは、それとまったく正反対のものを隠そうとするものである以上、当然のことである。』 この伝で行けば「愛」とは邪悪な人間が何かを隠すのに便利な衣装である、ということになります。 つまり邪悪な人間が内に隠しているものとは正反対のものが「愛」。 もっと突っ込めば邪悪でない人間なら隠すものなど必要ない、ということ。
お礼
邪悪なところがある人間を隠すために神様が愛を用意してくださったのではないかと考えるのは、行きすぎでしょうか。 過ちも、邪悪さも許す力を、人間とこの世界はもっているのではないですか?
- a375
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「愛とは」と言う質問は手がかりのないなまこのような問いである。 古来人類はこんなくそ重い頚木の中で生活してきたわけでない。 そんなことにかまけている暇などなく、一日の糧を手にするだけで精一杯だった。然るに生活が言い換えればその日の無事が大方確認できてくると突然この重い頚木を思い出し、近来にいたってはこの頚木についてかしましく、泣き、喚き、狂喜し、落胆し、昇天し、のたうってきた。 誰も見たことのない愛たる国があると思い込み彷徨する。甚だしい場合は人に聞けば判るのではないのかと思い込む。 あるものは北斗七星にあると思い翼を得て飛び立ち太陽に焼かれて落ちて死ぬ。しかし性懲りもなく愛とは何かと考える。 今日から禁煙しよう、禁酒しようとするような自縛作用を楽しむ事がその本質であると喝破したとたん人生がつまらなく首吊りのほうがもっと楽しいと言う結論に身をゆだねる。愛はいくら沢山頑丈な鎖やロープを 用意して括りつけてもするり抜けだしヒラリヒラリと飛びながらおいでおいでをしながら笑っている。もちろんこんな答えも意味ないものなのだ。それでもまた性懲りもなく愛の頚木から逃れようとせづに自ら頚木を引くことをする。そうして頚木の中で考えるのだ、繰り返すのだ、愛とは何ですか。」と。言っておこう、愛とは「笑止千万」なのだ。
お礼
よくわかるお答えですね。 ありがとうございます。
「許すこと」に近いと思います。愛があれば、許し合えます。
お礼
それが一番実際に実行を試される目に見えないけど、人間の愚かな頭で理解できる愛の形ですね。 ありがとうございます。
- SSDD007
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愛と誠
お礼
誠。 真実よりも重い誠でしょうか。 なるほどつりあうほど価値あるモノな勘がいたします。 ありがとうございます。
お礼
今彼女がいるのですが、そうですね。 少しずつふたりで育てている感じですね。 思い出を作ったり、思っていることを全部話しあったり。 キスするタイミングを考えたり、遊んだり、今度交換日記を始めることとあいなりました。 お互いが空気みたいな存在になっている状態です。 火のような恋愛より、お日さまのような関係のほうが、あたたかいのかもしれませんね。 困難に直面した時に、その強さが発揮され、もしかしたら、その計り知れない大きさを知ることもなく、この世を去ってしまうのかもしれません。 真摯でちょっと軽い感じのお答えありがとうございました。
補足
他人と向き合ったことがなかったので、その他大勢の他人がなにを感じて、何をおもっているのか、はっきりと理解することがありませんでした。 30にして、やっとひとりの人と向き合えたおかげで、他の他人とも、少しずつ近づけるようになった気がしています。 わかってたつもりで、わかっていなかったことにたくさん気付けました。 本当にわかりあうことは人間ないのかもしれませんが、わかりあおうとする作業はとても楽しい天上のティータイムのようです。 永遠に分かり合えないのなら、永遠に楽しむことができますね。 そんな考え方も、アリ かなと。 miko-desiさんと僕の彼女にありがとう。