• ベストアンサー

哲学と宗教の折り合い

哲学も宗教も詳しくないのですが、常々疑問に思っていることがありますので易しく教えてください。 何かの宗教を信仰している哲学者は、信仰と哲学をどのように折り合い付けているのでしょうか? 信仰を不可侵にしてしまえば「哲」学では無くなってしまうのではないかと思いますし、逆に宗教を哲学の対象にしてしまうと信仰ではなくなってしまうように思います。 宗教と科学の矛盾に関してはガリレオとかダーウィンの例を良く聞きますが、哲学と宗教の矛盾が問題となった例は聞いたことがありません。むしろ哲学の方が本質的に矛盾するように思うのですが。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.19

 やはり分かりやすく説明していただきました。  それですと けっきょくあとは 《想定》の問題だと考えます。  ★ そうだとすると《非思考の庭》とは何か想像がつきません。想像がつかないからこそ《非思考の庭》なのかもしれませんが。  ☆ 人間の思惟や想像の能力を超えたところ つまり 非経験のナゾといった領域 これをあくまで《想定》するということです。想定のもとでなら その人間の心に《非思考の庭》が成ると帰結されるかと思います。  なぜわざわざ想定しなければならないか?  じんるいは 《神》ないし《信じる》という言葉を持っているからです。  もし神が 経験的な事象の世界に属するものであるなら――つまりは 神鳴りという規定での放電現象やら 美の女神や勝利の女神といった規定での《モノの成り立ちやコトの成り行き》なる現象やら そういった経験世界に属する事柄としての神々が言われているだけだとするなら―― 無限という概念は 経験世界に属する可能無限だけに限られて来ます。  ゼロに限りなく近づくというその数は 永遠にゼロに達することはありません。可能無限にとどまります。  ですが 神は――想定の限りでは―― 真無限ないし実無限です。それを二や三で割っても 商はやはり無限です。ですから それは 通常の《有る・無い》という概念では測り得ません。この《無限》なる神(ないし 無い神)なら 《考える》を超えた《信じる》という言葉がしかるべく対応するかたちで持たれており用いられていることになります。《信じないとして信じる》場合を含むと考えられます。  ★ 一人の人間が考える範囲にはもちろん限界がある訳ですが、多くの人間が世代を超えて叡智を受け継ぎ永遠に考え続けるとしても限界はあるものでしょうか。  ☆ これが ついぞ神としての無限にはたどり着かない可能無限なのだと思います。限界があり 経験世界にとどまります。  ★ ~~~~  しかし一方で私たちは多くの割合で、物理学や論理や哲学に依ってではなく直感に依って日々の生活を送っていると思います。人間以外には物理学や論理や哲学に従って行動している者はいないでしょうし、人間はそのDNAの99%がチンパンジーと同じだそうですから、人間であっても直感に依って行動する場面が中心となるのは当然と言えば当然です。そう考えるのであれば、《思考の庭》はむしろ限られた小さな庭であって、日々の生活の中心は《非思考の庭》であるような気もしてきます。でもこの意味での「直感」には、あまり、「信仰」という言葉と共通するものを感じません。  ~~~~~~~  ☆ 《ヒラメキ(直感および直観)ないしインスピレーション》は 《信仰》からの仕入れになります。  非思考の庭がわが心に成ったという・またその状態が動態としてある信仰は 何もないわけですが 言わば心の窓のようなものであり また心の伸び もしくは 心の明けだと見ます。人が生きているかぎり 動態としてつづく心の明けなる状態です。  閉じていないというところがミソです。  そこから ヒラメキが得られれば それは すでに何らかの知覚でしょうから はっきりと経験行為ないし経験事象です。直感ないし直観は おそらくその内容がまだ海のものとも山のものとも分からない混沌としたイメージのようなコトから始まると見ます。  たしかになおまだその内容に明確な意味が得られていないとしても あたかも背筋がピーンと伸びたかのように・あるいは モヤモヤ状態が一瞬のうちに吹っ切れたかのように 問題が解決したという感覚が与えられるコトだと見ます。  そこから 境地があたらしく成ったとも さとりを得たとも言えるような状態に移行するかと思われます。そのときには 思考が始まって一つひとつの命題を得るようになるのだと。   いやいや これらのヒラメキは そうではなく あくまで自然界や人間の社会事象に相い向き合っているとき その経験世界との言わば対話から得たのであって 人為および人知に属すると言う場合 その場合には それでも信仰から仕入れたと見るわけですが つまりはそれが 無神論という信仰だと――想定上――捉えるものです。  つまりは まだなおわざわざ《想定》を大事に守っているのは なぜか? と問うなら 《無限》なる神という言葉を人間は持ったからです。死語になれば この想定は不要となります。  ここらあたりでしょうか? 今回の焦点は。  想像することが出来ず 実際には言葉で表わすことも成しえないところのナゾの場 この非経験の場をも人間は 想像してそれについての言葉をあてがい その《想定》を持つに到っているのだと。  信仰の想定には さらにもっと実際の効用があります。人間がついぞ知り得ない非経験のナゾについて 分かったような教義をこしらえてこれを 《無限 ないし 真理》だと言って おしつける宗教 この宗教に対して その間違いを指摘することが出来ます。《教義や教祖》は 経験世界に属するものだから 考えることはあっても 信じることなどあり得ない。良心・信教の自由を侵しているおそれがあるではないかと。

el156
質問者

お礼

有難うございました。この回で、なんだか少し理解できたような気がいたしました。大変参考になりました。

el156
質問者

補足

有難うございます。お礼が遅くなってしまいすみません。非思考の庭について考えておりました。私自身は、直感やひらめきについて、環境(脳内外の過去の記憶も含みます)と向き合うことによって環境との対話の中から生まれるものと考えています。そう考えると、直感やひらめきというものを、もう少しだけ分解してみることが可能です。直感やひらめきが生まれるには、まずその時環境として用意されているものが必要な要素を含んでいなくてはなりませんが、それだけで機械的に決まるものとは思えません。もしそうであれば、直感とかひらめきという呼び方にはならないと思います。直感やひらめきが生まれるには、沢山の環境要因の中からその時求められている直感やひらめきに関係する要因をまな板に載せる偶然が必要なのではないかと思います。その「偶然」が、非思考の庭と、信仰とに関わってくるのではないか、と考えました。考えてみると、科学技術に於いて、「偶然」を持ち出すことはそこで思考を止めることを意味します。「偶然」と呼ぶことをできるだけ避けようとするのが科学だとも言えるのではないかと思います。アインシュタインは、「神はサイコロを振らない」と量子力学を批判したそうですが、実はそのサイコロの目を決めている者を神だと考えても構わないのではないかという気がしてきました。そうだとすれば、科学や哲学は偶然を決めるものが神であっても無くても構わない訳で、偶然は神に支配されていると考えても考えなくても、科学も哲学も可能だろう、と思いました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (19)

回答No.9

 哲学と信仰とは 何の矛盾もありません。  《考える=コギト》と《信じる=クレド》とは 次元が違います。    経験合理性で判断する経験思考と そして 非経験の世界を想定してそれとの関係を持つ非思考とです。  すなわち ひとりの人間の中で 次のように階層に分かれて成り立っています。  ○ (ロゴスの階梯)~~~~~~~~~~~~~~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の場):神   _______________________   インスピレーション=ロゴス(β):異言      中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ             インスピレーション=ロゴス(γ):預言      本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ 宗教というのは たとえばこの中から次を特別に取り出して来て それを絶対視する行為です。   インスピレーション=ロゴス(γ):預言      本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい?  この預言ないし世界観として得られた言葉ないし文章を 教義として・集団的に(教祖及び教団をもって)わざわざあたかも神として抱きその内容を盲目的にただしいと思い込むいとなみです。  たとえばゴータマという人間をブッダとしてまたそのさとりを取り上げ これを絶対として(つまり神として)抱きただしいものだと思い込むならそのことは 宗教です。  ゴータマの信じた何ものか――おそらく《無い神》だと思われますが――を同じように信仰の対象とするなら(ということは むしろ無神論という信仰に立つという意味になるはずですが) それは 信仰の領域にとどまります。つまりそこから 哲学をもいとなみます。  信仰は 人間という経験存在をとうぜん超えたところの神に対するものです。または 《無い神》という神との非思考における関係です。  また 人間の言葉で表わされた経典なり聖典なりは・つまり教義は 人間がこれを経験合理性において考えるものです。この教義を《信じる》ということは あり得ません。しかも 宗教となると それをどう思ったか勝手におこなっています。ですから 狂気の沙汰でしょう。  ○ 宗教を信じる。 その教義を信じる。教祖を信じる。 / 教団を信じる。  ○ キリスト教を信じる。 / 仏教を信じる。 / ・・・  ☆ こういったことは 言葉の使い間違いです。あり得ません。深く強く思い入れをして思い込むといった意味でしかありません。つまりそれらはすべて 《考える》の対象であるにとどまります。  というふうに哲学は 片やつねに存在の中核としては非思考の信仰に根差しつつ 片や 経験存在としてのいとなみにおいては 経験合理性において《考える》。  つまり 信仰の成果としてのような聖句をわざわざ教義として絶対視する宗教については そのように規定することにおいて 人間性に対し敵対するいとなみだと認識するでしょう。宗教は 個人の信仰から出たものであるにもかかわらず その信仰をないがしろにしています。つまり信仰の自殺行為だと言わなければならないでしょう。  哲学は 人間性の側に立ちますから 反人間的ないとなみとしての宗教とは折り合いが つき得ません。  宗教組織に対しては もし少しでも良心が残っているのなら 自己解体しなさいと伝えるでしょう。

el156
質問者

お礼

有難うございます。難しかったですが今度は少しわかった気がします。信仰と宗教を同じように捉えていましたが、信仰と宗教は違う、信仰と哲学は両立するが宗教と哲学は両立しないということでしょうか。哲学する時に信じられるものはあるのでしょうか。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.8

合理ということと、経験ということ、・・・例えば「99.99%確かな事」って、0.01%は違う何かであるかもしれないということ

el156
質問者

お礼

有難うございます。哲学は0.01%を疑うという意味なのでしょうか。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • olutier
  • ベストアンサー率32% (53/163)
回答No.7

ある哲学者いわく… 哲学というのは、「一般化する作業」です。個々の事実から、より一般的な前提を推測し、より多くのものごとを説明することを目指すわけです。 ですから、宗教と哲学は、とくに矛盾しません。宗教のなかで、より一般的な事柄、たとえば、「神の性格はこういうものと解釈すれば、あれとあれが説明できる」などと探究するのは、宗教哲学と呼ばれます。 科学のなかで、「物理学と心理学の両方にあてはまる法則はあるかな」などという探究は、科学哲学と呼ばれます。 極端にいえば、たとえば料理だって、「日本料理とフランス料理に共通する原理は何か」とかいうことなら、料理研究というよりは「料理哲学」という雰囲気になると思います。

el156
質問者

お礼

有難うございます。一般化する作業や原理を見つける仕事というのは科学の仕事だと思っていました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.6

「宗教」のほうに「度を越した自惚れ」があるので、哲学よりも科学のほうが、気になってしまうのではないでしょうか。

el156
質問者

お礼

ありがとうございます。なるほど、科学の方が影響が大きいから、ということはあるかもしれません。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.5

真の信者は哲学しない。 真の哲学者は信仰しない。 どっちつかずの人が両方に染まるかな、、、。 「何かの宗教を信仰している哲学者は、」偽物でしょうね。 哲学学者といって哲学の解説業みたいなのは信仰するかも。

el156
質問者

お礼

ありがとうございます。私もそんな気がするのですが、立派な哲学者のデカルトやカントが信仰と哲学を両立しているように見えるところが不思議です。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • miko-desi
  • ベストアンサー率19% (69/352)
回答No.4

信仰には儀式的な側面と哲学的な側面があって、 キリスト教の哲学は主に無用な争いを回避するため 法として強迫観念を負って人を支配し 許しや恩恵を絶対なる誘導とし、純粋な人から洗脳、操作されていく。 だと、今のところ感じるからです。 純粋な哲学というのは学問と区別して欲しいのが多分多くの哲学者の意向です。 哲学は疑うべきことを疑わないでいる態度を「成長しないもの」といって嫌います。 宗教儀式に賛同することがあっても哲学者は自由意思で行うことがあるだけであって、 参加同意しない、中止するということも自由意思により可能であるはるです。

el156
質問者

お礼

有難うございます。 純粋な哲学は学問と区別したい、という考えは初めて知りました。 哲学は個人的なものだから…というようなことでしょうか。 何となくわかるような気がします。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.3

 こんにちは。   すでに投稿したことのあるものですが よろしかったらどうぞ。      *  エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。  その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。   言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。そういう意味でも 表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。  ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われたとも言い得る。その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツワリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。  こうなると 自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たとえば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自由意志とその自由がある。したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。  このとき もしこの存在論としての哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として伸ばすなら――この自由を 仏性とも神の霊とも言った。これは 非思考として《信仰》と呼ばれる。  これは 人間の自由意志が 経験的・相対的そして有限であるところから あり得るところの〔言わば〕想定である。  この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。    神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っている   ならば――つまりは へそを曲げウソをつくのではあるが これをあ   やまちとして気づくときその自由に留まるならば―― ひとは ひと   を殺すこともなければ むさぼることも裏切ることもなかろう。  といった規範を得る。  この規範を どう思ったか 《殺すなかれ・むさぼるなかれ・姦淫するなかれ》という戒律としてまた道徳として 神の霊に代えて崇拝するやからが現われる。つまりそのときこれを神のおきて(法)として 説き始めたのが 《宗教》である。  一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしらえ この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌(さば)こうと言うのだ。  やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それにあざむかれて従う阿呆な人びとがいるということだ(欺かれるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。  ちなみに《科学》は哲学をさらに詳しく問い求めたものである。それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分立しうると考えられるからである。  あるいは どの人の思考や行為であるかにはかかわらず ひとしく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。  《芸術》は これらの定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。  ゆえに手段は 言葉に限らない。哲学に通じる人間の真実――あるいは 稀には科学の問い求める経験的な世界の真実――が描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。     *  ○ 宗教は 個人の信仰の自殺行為である。  ☆ まづこの命題が 哲学のものです。そしてこう言うからには 哲学と宗教とも仲はわるいと言わねばならないでしょうね。  そう言わないのは ただただ慣性の法則ゆえのようです。長い物には巻かれて行っているのでしょう。どうでしょう?

el156
質問者

お礼

有難うございました。すみません、難しいです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.2

折り合い、というか、哲学ってのは元来 キリスト教から発生したものだと思っています。 神は、人間を神に似せて創った。 このことから、キリスト教では、人間は神に選ばれた 特別な存在だ、ということになりました。 それで、神は何故人間を創ったのか、人間存在の意味は 何か、存在とは何か、となり哲学に発展したいったので はないでしょうか。 その為、キリスト教信者でないと、真に哲学を理解する ことは出来ない、とする哲学者もいるほどです。 日本に哲学が発生しなかった理由は、こういうところ にもあると、私は思っています。 日本では、人間は自然の仲間であり、一部であって 特別な存在などではない、と考えますから。 尚、宗教と学問は両立しない、と考えておられる ようですが、そうでしょうか。 確かに、相容れない場合もありますが、学問の端緒 になったり、原動力になったりすることもあると 思います。 キリスト教にはキリスト教神学、てのがあります。 これは、全知全能の神がいるはずなのに、どうして 世の中にはこうも矛盾があふれているのか、をうまく 説明する為の学問だ、という人がいます。 この神学から、近代法学理論が導出されました。 9条があるのに、なぜ自衛隊が存在するのだ。 これはこう解釈できるから、違憲ではないのだ、云々。 西欧で、近代科学が発達したのは、神の神秘を探ろうと する狂おしい情熱があったからだ、と江崎玲於奈氏が 指摘しています。

el156
質問者

お礼

有難うございました。 科学と宗教の対立は一過性のものであって、科学を含む哲学以外の学問と宗教とに対立があったとしても、それは本質的な対立ではなく、時間をかければ解決可能だろうと思います。しかし、特に疑うことに意味がある哲学と、信じることを求める宗教とは本質的に対立するように感じておりました。神の神秘を探ろうと西欧の科学がが発展したきたのだという歴史考えると、キリスト教というのは意外と寛容なのかもしれないと思いました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.1

「何かの宗教を信仰している哲学者」  という分類にあてはまる人がそもそもいるのでしょうか?    おっしゃるとおり、このふたつ  つまり、「ひとつのものを信仰すること」と「疑うこと」  とは本来は、あい矛盾しますので  ありえないでしょうね。  前者は直観にもとづき、後者は  論理(分析)にもとづきますので  真理に至る道筋も違います。  もちろん、限りなくそのパターンに近い人は  存在します。  たとえばカント。  彼は敬虔なキリスト教徒の家に生まれ  キリスト教(というよりもイエス本人)は  否定できなかったでしょう。  そして内的思索を続け、イエスの得た  啓示(あるいはイエスが感じた神)  と同じものに至ったでしょう。  その至ったものは、「神」「普遍性」そのものですから  何も「キリスト教」自体を信仰する必要は  なかったはずです。    イエスに対して、宗教的真理の  実践者として畏敬の念は抱いても  「イエスのみが真理を説いた」  「キリスト教のみが正しい」  とは、とても言えないからです。  (「普遍性」とは、そもそもそういうもので  あることにご注意ください)  ただまあ、たとえばある教団内部に  その教祖の説いた教えを正当化する  哲学部(教学部)のようなものがあって  その範囲内での「御用学者」を  「哲学者」と呼んでよいなら  それはそれでごろごろいるでしょうね。        

el156
質問者

お礼

有難うございました。 少し前に「方法序説」を読んだ時に、「神の存在証明」に違和感を感じたため質問させて頂きました。 カントもそのうち読んでみたいと思っています。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 哲学の中で宗教を尋ねなければならないこと

    この質問コーナーについて疑問があります。なぜ哲学の中で宗教を尋ねなければならないのでしょうか。イエス様を哲学の対象にすることはすでに異端者の集会ではありませんか。 宗教という独立したコーナーの新設をせつに願います。

  • 宗教を信じる理由について

    何かの宗教を固く信仰している方(出来れば専門家の方)または宗教を信仰している科学者の方に質問です。 (多くの場合において、宗教と科学の違いに、科学は実証に基づいていて、宗教は実証されていないという点があると言われいてますが、私もそのような考えから、現在基本的には無宗教です。しかし、それぞれの宗教を知らないでは、それに対して肯定も否定も出来ないと思い、今回は今後の考え方の基礎となる考え方を(哲学・自然科学に含まれていない)宗教のほうからも考えてみようと考え、様々宗派の方にそれぞれの宗教に関することを教えてもらおうと思い立ちました。) ---------------------------------------------------------------- 宗教を固く信仰している方(特に専門家の方)に対して: 宗教を本格的に信仰するということは、人生がそれによって多くの部分で決められていくことになるのではないかと思うのですが、そのようなとても重要な決心をなさった際、皆さんは何をその宗教が間違ってはいないということの確証と考え、その宗教を正しい(信じていい)ものであると考えたのでしょうか。 また、出来ればその宗教の特長も教えてください。 ---------------------------------------------------------------- 宗教を振興している科学者の方に対して: (宗教を専門としている方と同じような内容ですが、)その宗教を信仰しようとした動機(あるいはその他の考え)は何でしたでしょうか。 また、出来れば科学者側の立場として、その宗教のどのような特長を持っていて、どのような存在であるとお考えかも教えてください。 よろしくお願いします。

  • 科学万能主義の宗教。

    私は宗教観については典型的な日本人です。 海外では信仰の無い人間は信用されないと聞いたことがあります。 しかし今まで科学万能主義で生きてきたため、 いまさら宗教を信じろといわれても無理があります。 そこで聞きたいのですが科学万能主義的な宗教はありませんか? 矛盾してるようですが、もしありましたら教えて下さいお願いします。

  • 哲学や宗教は精神安定剤の代替となりうるか。

    メンタルヘルスのカテゴリを見ていていつも思うのですが、 生きていてもつまらないとか、生きる意味がないなどのお悩みが満載です。 以前はこういう悩みは信仰、宗教が担当していたのではないでしょうか。 現在は医者が病名をつけて精神安定剤を配布しているようですが、薬で解決できるとは思えません。 今更宗教もないという方は哲学をそれに変わるものとしてどうでしょうか。 デカルトが云々の哲学史ではなく、疑問に対する考え方や、常識という物の相対性などについて気づくことにより自分自身や周りの社会を客観視することが出来るのではないでしょうか。

  • 科学と宗教について

    哲学のところでする質問かわからないのですが・・。 科学と宗教を同等のものと見る見方がありますが、納得いきません。 科学信仰なんていう言葉があることさえ理解できません。 科学は宗教と違って、全ての人にとって客観的に、事実として存在するものです。 熱心なキリスト教信者も「イエスは存在します。」と、疑いなく言うでしょうが、それとこれとは違うでしょう?イエスは、そのキリスト教信者の心の中には確かにいると思いますが・・・。 “僕は~教を信じていません。だから僕の中には神はいません。”と言うことは論理的ですが、“~教徒は科学を信じていません。だから彼の中には科学は存在しません。”とは言えません。もしそう言えるならば、彼の乗った飛行機は墜落してしまうでしょう。 (宗教がデタラメだと言う気は全くありません。) どなたか助言をよろしくお願いします。

  • 宗教について

    多くの宗教は信仰をして、人間性を高めたり、愛や思いやりの心を高めるという事をしていますよね。そういった事は尊い事だと思いますし、素晴らしいと思います。でも、信仰の対象となる特定の存在とか、波動や何次元がどうのだとか、生まれ変わりだとか、霊だとか、そういうのなくていいと思うんです。人間性を高め、愛情深くなり、思いやりの心を持つという事を目指しつつ、上記のような霊とか波動とか非科学的な事を取り入れていない宗教のような(宗教以外でも)団体は存在しないのでしょうか?ご存知でしたら教えて下さい。宜しくお願いします。

  • 宗教の違う者同士で仲良くなれますか?

    哲学コーナーに質問しようと思ったのですが、社会学的な見地から実現可能か知りたく、こちらに投稿させていただきました。 よろしくお願い致します。 今ある、多国籍国家の共生社会を見ていると、相手を理解するというよりも、お互いに不干渉を心がけているだけのように感じます。 例えば、キリスト教・イスラム教・仏教などを心から信仰している者同士で相手を理解しながら、結婚や家族、親友など本当の意味で親しい間柄になれるものでしょうか? なお、私自身は、今の科学が最も自然の摂理を上手に説明していると信じていますのでこれを宗教の一種と考えています。また、各国の若者と話す時も、科学を基本にしている人が多く宗教が大きな対立になったこともない(話した数が少ないのでサンプリングとしては不適当)のですが、それはある意味で、科学という共通の宗教を信じているからだと思っています。 逆に、共通ではない宗教(or敵対する宗教?)を信じている者同士でお互いの宗教も含めて理解し合い親しい間柄になれるのでしょうか?

  • 哲学を学ぶ意義

    哲学を学ぶ意義 私は哲学のように物事の本質を問うことが好きで、形にはまったくなりませんが、趣味程度で勉強しています。そこで抱いた疑問なのですが、「哲学」を学ぶことの意義って何だと思いますか? というのも、例えば、生の意味を論じたり、自由を拡張しようとしたり、物事の本質はどこにあるのかを論じたり、人間の尊厳を問うたり、、etcをしても、結局はその哲学者ひとりひとりの自己満足のように感じます。 それは、科学技術のように世界中の人々に還元できるような学問ではないことや、本質を問うこと自体が弱さの露呈のように感じます。それに、哲学の世界には秩序がなく、言葉遊びのような印象も受けます。 私は哲学を学ぶことの意義は物事を問う姿勢を学ぶことや真理を追求する方法論について学ぶことだと考えています。 みなさんはいかがお考えでしょうか? また、あまり関係ないのすが哲学が専門でない学者が著書で哲学を引用しているのをよく目にしますが、なぜ彼らは哲学にも精通しているのでしょうか? 拙い文章失礼いたしました。

  • 聖書と科学の矛盾をキリスト教信者の方はどう捉えているのでしょうか

    宗教というカテゴリーがなかったので、こちらにに質問させて頂きます。新年に神社でお参りし、教会で結婚式を挙げ、死んだら寺の墓に入る無宗教の日本人の素朴な疑問なのですが、キリスト教を信仰してるであろう国の科学者達は(科学者だけではないかもしれません)、聖書の中に書かれている内容と、人類学や科学などで考えられたり証明されたりしている事実との矛盾を、どうとらえているのでしょうか。 例えば、人間は猿から進化したものとされていますが、キリスト教では神が創ったとされています。(正確にいえば人間ではなくアダムですが)学問と宗教で真実が異なるわけですが、宗教を信仰している科学者は科学と相反する教えをどのように捉えているのか、無宗教の私にはずっと疑問であり謎でした。どなたかこの疑問にお答えいただけないでしょうか。よろしくお願い致します。

  • 現代では、宗教は科学をどのように捉えているのか

    ガリレオの地動説や今でも議論の続いているダーウィンの進化論など、 宗教と科学は度々対立の歴史を繰り返してきました。 そこで以前から疑問だったのですが、 現代では宗教は科学をどのように捉えているのでしょうか? どの宗教でも構いませんが、できればキリスト教、イスラム教、仏教のいずれかまたは全てについて教えていただきたいです。 例えば、世界は神が創造したと固く信じている聖職者でさえ 現在の世の中ではテクノロジーの恩恵の上に生きているわけです。 そしてテクノロジノーの土台には、 神の存在を含まないどころか宇宙はインフレーションやビッグバンで創造されたと主張する科学があるわけです。 過去にも現在にも神の存在を信じている科学者は大勢いましたが、 依然として科学理論は宗教的な世界観とは多くの点で対立しているはずです。 そのような土台を持つテクノロジーの恩恵をあやかることに聖職者や信者の方々は抵抗を感じないのでしょうか? また、以下の2chからの引用記事では 学校の理科のテストで"The earth was created by ...?"という設問に対して、 "Big Bang"と回答した生徒がバツをつけられています。 そして正解は"God"だと書かれています。 http://blog.livedoor.jp/kinisoku/archives/3615328.html この出来事に対するイギリスの牧師の反応は、 この採点をした教師を批判するものでした。 私のような宗教に関してほとんど無知のものからすれば、 むしろ牧師は教師をほめたたえるのが自然ではないかと感じます。 なぜ聖職者たちは神の存在を無視した科学と徹底的に戦おうとしないのでしょうか? 自分たちの聖典や信じる神が絶対だと思うのならば、 堂々と科学者たちと論戦をすればよいのではないでしょうか?