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宗教を信じる理由について

何かの宗教を固く信仰している方(出来れば専門家の方)または宗教を信仰している科学者の方に質問です。 (多くの場合において、宗教と科学の違いに、科学は実証に基づいていて、宗教は実証されていないという点があると言われいてますが、私もそのような考えから、現在基本的には無宗教です。しかし、それぞれの宗教を知らないでは、それに対して肯定も否定も出来ないと思い、今回は今後の考え方の基礎となる考え方を(哲学・自然科学に含まれていない)宗教のほうからも考えてみようと考え、様々宗派の方にそれぞれの宗教に関することを教えてもらおうと思い立ちました。) ---------------------------------------------------------------- 宗教を固く信仰している方(特に専門家の方)に対して: 宗教を本格的に信仰するということは、人生がそれによって多くの部分で決められていくことになるのではないかと思うのですが、そのようなとても重要な決心をなさった際、皆さんは何をその宗教が間違ってはいないということの確証と考え、その宗教を正しい(信じていい)ものであると考えたのでしょうか。 また、出来ればその宗教の特長も教えてください。 ---------------------------------------------------------------- 宗教を振興している科学者の方に対して: (宗教を専門としている方と同じような内容ですが、)その宗教を信仰しようとした動機(あるいはその他の考え)は何でしたでしょうか。 また、出来れば科学者側の立場として、その宗教のどのような特長を持っていて、どのような存在であるとお考えかも教えてください。 よろしくお願いします。

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  • hhituji
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回答No.7

私は、科学者というほどのものではありませんが、大学で理工学を専攻し、現在もあるメーカーで研究開発職にあるものです。科学に関しては完全に信じています。 そして、クリスチャンであり、聖書を誤謬なき神の言葉と信じる者です。 私は科学を信じる者ですが、聖書に出てくるキリストの奇跡や、創世記などの出来事を事実として信じています。世界中の著名な科学者で私と同じような考えを持っている人はたくさんいます。特に、天文学や理論物理学の学者に多くいます。 私が聖書の話を真実だと信じる理由はたくさんありすぎてここでは書ききれません。文末に文献を紹介しますが、基本的なポイントを例として2点だけ紹介しましょう。 (1)聖書の記述の正確さ  イエスの起こした奇跡に関しては、相当キリスト教に懐疑的な研究者であっても、『(本当の奇跡かどうかは別として、手品などかもしれないが、)おそらく聖書の記述どおりの現象が起こった』と同意する人がほとんどです。それは、聖書以外にそれを裏付ける古代文献があること、特に、イエスに敵対していたユダヤ教の文献、タルムードの記述があることは大変重要で、イエスと直接利害関係のない人からの証言、さらにはイエスと敵対する人からの証言ということで否定のしようがないと一般的にはかんがえられています。つまり、最近は、聖書の奇跡物語の研究は、奇跡が起こったかどうかではなく、奇跡が起こった種あかしに移っています。しかしながら、満足のいく説明は当然ないのです。だとすれば、本当にそれが起こったと考えるのが自然でしょう。 (2)預言  目の前で奇跡が起これば、当然どんな科学者も神の存在を信じるでしょう。しかし、聖書では実際にそれを目の前で見せてくれるのです。それが預言です。  これについては、どれほど驚異的な預言が存在するのかは興味があれば、ご自分で調べてみてください。字数が足りません。ただ、私は、いくつかの預言と、その改ざんの有無、内容を調べたときに、信じられない衝撃を受けました。有無を言わせぬ強制的な証拠だと考えられました。 聖書を調べれば調べるほど、聖書は科学と全く整合性が取れていると考えるようになってきました。(私も昔は、聖書をたとえ話と考える人間でした) 考えても見てください。いくら文化的背景があるとはいえ、アメリカの国民の50%が聖書を誤謬なき書物と信じているのです。いくらなんでも科学的に整合性があると考えていなければこんなばかなことはないでしょう。あれを、根拠もなく盲目的に信じているだけだったら、アメリカ国民は本当にただの馬鹿ですよ。でも、そうではなく、彼らは科学的にも正しいと思っているのです。 最後に参考までに参考文献を記しておきます。これは 『why i am a christian』という洋書で、インターネットで多少の金を払えば全文をダウンロードすることができます。主著者はNorman Geislerという人ですが、天文学者のHugh Rossなども執筆していて、科学、考古学面のフォローも完璧です。

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質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 (1)について >満足のいく説明は...のが自然でしょう。 満足の行く説明がないのは、その大昔に起きた出来事にたいするそれぞれの説明を裏付ける証拠が現在には残っていないだけではないのでしょうか。同様に、証拠の面(→(2)について)及び統計の面からも、神が存在することを裏付けることは出来るのでしょうか。 (2)について 出来れば、「その預言が当たった」ということが十分信用できる時代の事例の要約もしくは一般的な呼び名を教えてください。 >アメリカの国民の50%が聖書を誤謬なき書物と信じている 一般国民はなかなかその国の文化的影響を受けた教育(インテリジェント・デザイン説などのようなもの)以上の学問を知ろうとはしないのではないでしょうか。アメリカ科学者対象のアンケートの結果によると(http://po3a.blogspot.com/2007/01/blog-post_723.html)、大多数は神の存在を認めていません。 また、文献ですが、すみませんが出来れば外国語の本ではなく、できれば日本語のをお願いします。

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  • azharu
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回答No.11

だ~か~ら~ (^^ ドラえもんの何巻だったかに、「石器時代の王様に」とかいうタイトルの話がありました。のび太が、マッチなどの近代的なものを持って石器時代に行き、まるで魔法であるかのようにそれらを使いこなし、あがめられようと(して失敗)する話。 のび太が失敗しないで、うまくいっていれば、奇跡を起こした人、として当時(って、石器時代にはまだ文字がないですが)のさまざまな文書に記録として残ったでしょう。少なくとも、当時の人たちにとっては、奇跡以外の何物でもなかったでしょうから。 それを、当時のあらゆる文書から、「のび太という人が、奇跡を起こした」と詳細が書かれている、だから、のび太が「奇跡を起こしていた」ことは間違いない、と、あなたは言っているのと同じなんですよ。「少なくとも当時の人たちにとって、それは奇跡以外の何物でもなかった」と言うのならいいのですが。 宗教って、いくら論じあっても、埒の明く話じゃないんですよ。科学技術の発展や、人間の論争の延長線上に神がいるとは思えません。 神がもし、唯一過ちを犯したとするなら、「人間に唯一正しい神を認識させる能力を与えなかったこと」です。おかげで、世の中、たくさんの宗教が生まれ、戦争まで起きたりしています。年に一回くらい、神様に全人類の前で、定例記者会見でもやってくれないと困ります(笑)。

参考URL:
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/6832/kgh_sb6.html
  • hhituji
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回答No.10

二つ目の答えです。 預言については多くの人が研究していて、統計上偶然では起こりえないということは証明されています。預言についてはネットで調べたほうがよっぽど早いのですが、面白そうなものをあげておきます。 (1)ダニエル書の預言 URLをあげて出典を書いておきます。一部抜粋します。 http://www.sam.hi-ho.ne.jp/pisgah/myweb/scripture.htm 以下引用 ……………………………………………………………………………………………  それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週と六十二週。その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。 (ダニエル書9章25、26節)  イエス・キリスト── 私たちはこの呼び方をイエスのフルネームのように考えがちですが、実は『キリスト』というのは姓や名前ではありません。いわば職名(肩書き)で「油そそがれた者」という意味です。旧約聖書の中で、国を統治する王や神に仕える祭司たちは、その任務につくときに油をそそがれました。そこから、やがて世に来られる救い主のことを、人々は「油そそがれた者」(ヘブル語でメシア、ギリシャ語でキリスト)と読んで待望しました。ダニエル書9章は、この来るべき救い主・キリスト(油そそがれた者)の到来を予告する預言でした。  ここで「週」と訳されている語「シャブア」は、数字の「7」を意味する言葉です。ちょうど英語で「12」を「ダース」と表現するように、ヘブル語では「7」を「シャブア」と呼びました。ですからこの預言は、ダニエル書が書かれた当時(BC6世紀)には全く荒れ果てていたエルサレムの都が、後の時代に再建されること、そしてその再建命令が出されて69シャブア(69×7)=483年後に、キリスト(油そそがれた者)がエルサレムに来る、ということを予告するものでした。  イギリスのロバート・アンダーソン卿は、ダニエル書の研究の中でこの預言をくわしく説明しています。エルサレムの再建命令はペルシャのアルタシャスタ王(アルタクセルクセス一世)によって紀元前445年3月14日に出されています。ロンドン警視庁の総監であったアンダーソン卿はグリニッジ天文台長の協力を得て、当時の暦と現代の暦の違いや「うるう年」を考慮したきわめて厳密な計算を行ないました。その結果得られた日付はAD32年4月6日、およそ30歳で公生涯に入ったイエスの活動期の一日でした。  しかし、この預言の「ふしぎさ」は、その日付よりもむしろその内容にあります。それはこの「油そそがれた者」の運命に関する予告です。  どうしてこんなに大切な預言が、旧約聖書をよく読んでいたユダヤ人たちに意識されなかったのでしょうか。それは多分、「油そそがれた者が断たれる」という悲劇的な内容によるものでしょう。イエスの弟子たちも含めて多くのユダヤ人は、キリストがその偉大な力を発揮して国を治め、王として君臨するものだと考えていました。キリストが「断たれる」などということは想像もつかない「とんでもないこと」(マタイの福音書16章22節)でした。しかし、それは私たちの罪があがなわれるためにどうしても必要なことでした。同じ旧約聖書のイザヤ書も、このキリストが断たれることをくわしく予告していました。 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。 だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 (イザヤ書53章4、5節) ……………………………………………………………………………………………  実は上述のダニエル書の預言はアンダーソン卿の解説は今では古典的と評価されています。 イエスの死はAD33年であったということが今は一番信じられています。そこで、この預言を再計算した学者が何人もいますが、やはり非常に正確な預言であるというのが証明されています。(エルサレムの再建令の日付がアンダーソンの研究と多少違うらしく、それを修正するとAD33年のイエスのエルサレム入城の日とほぼ完全に一致するようです) あまり私が長文で書いても都合が悪いでしょうからここで終わりにします。不可知論者の方、気を悪くしないでくださいね。私はこれを信じているのだから。(少し傲慢な表現があったかしら?) あと、文献ですが、日本語ではあまりよいのがないんですが、あえて言えば『ナザレのイエスは神の子か』(いのちのことば社)を推薦します。

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質問者

お礼

詳しいご説明どうもありがとうございます。 自分でも一度聖書を読んでみることにします。

  • hhituji
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回答No.9

質問者さんの問いに答えます長いのでひとつずつ (1)満足のいく説明について  聖書以外の古代文献にも奇跡物語はたくさんありますが、聖書以外に奇跡物語が信じられていないのは次の理由によります。  まず、その奇跡物語が、当人が死んでから非常に長い年月がたってから書かれていること、そしてそれを裏付ける文献がないことです。たとえば、マホメットの奇跡物語は、コーランにはまったく出てきません。しかし、彼の死後200年以上たって書かれたハーディス(言行録)には奇跡物語が出てきます。  それではイエスの復活の奇跡について話をしましょう。これは反クリスチャンの研究者もほとんど同意する奇跡物語です。  イエスの復活に対する最も古い記述はIコリント15:3からの記述です。これは文体様式の研究から、おそらくイエスの死後数年から10年以内には文書化されていたと考えられるのです。  それでは、それに対する裏づけの資料とは何でしょうか?これはイエスに敵対していたユダヤ教の古い論争の記録が最適です。  これには、復活したイエスに会ったという記述こそないものの、イエスの墓がからであったことは認めています。そして、そのことについてあれこれ言い訳が始まるのです。  では、イエスの死体はどうなったのでしょうか?墓の入り口には2トン以上ある石でふたをされ、ローマの番兵が見張っていました。そして、もし墓があらされたら番兵は死刑であったことがローマの軍規から確認されています。  弟子たちが命をかけて盗んだのでしょうか?でも、彼らはイエスが逮捕されたときに裏切って逃げて行ったような人物です。そのような人物がイエスの死後、人が変わったように死を恐れずにイエスの復活を証言し、その結果11人中10人が拷問などで殉教しています。  もし、イエスの復活がうそならば、そんなうそのために命をかけられるでしょうか?  彼らは間違いなくイエスの復活を信じていたのです。 これに対する反クリスチャン研究者の説明は、弟子たちが幻影をみたか、イエスが仮死状態であって死んでいなかったというものです。  しかし、まず最初の幻影ですが、まず11人の弟子が時と場所を変え、全員幻影を見るということが医学上説明できません。特に、トマスのように疑い深い人物がそういう幻影を見ることは医学では非常に説明しにくいのです。また、イエスの復活を認める人物はそれだけでなく、もともとイエスを迫害していたパウロのような人物もいて、とても幻影では説明できないのです。  また、イエスが仮死状態だったというのはまったくありえなく、罪人の心臓を最後に突いて死を確認するのはローマ兵の義務であり、これを怠れば処刑人が死刑です。  このような状況において、大昔の証拠という以前に、奇跡に対する反論が説明できないのです。

  • azharu
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回答No.8

質問者さんをさしおいて、回答者同士で話を進めるのは良くないのですが・・・・(ご容赦!) #7さん、 (1)について イエスが存在していて、奇跡(もしくは手品)を起こしていたらしいことなどは、おっしゃるとおり、あまり疑う人はいないようです。 しかし、神の奇跡か、手品であったのか、については、「満足のいく説明は当然ないのです」をもってして、神の奇跡だった、とするのは早計ではないでしょうか。それって、悪魔の証明ってやつではないでしょうか。 なお、 聖書はすでに、複数の種類、存在してしまっております。人間が手書きで書き写してきた関係で、聖書によって、ある部分が書かれているものと、そうでないものが存在しています。「****と、このあとに記述されている聖書もある」などという注釈があるわけです。 日本の古典文学作品も同じ状況です。手書きでコピーされてきたため、複数の系統本があります。オリジナルは謎のままの作品ばかりです。 聖書が抱える伝説の矛盾。三位一体説と三位三体説。宗派によって、どっちかを取っているようですが、真実は一つのはずですよね?しかし、これに対する決着はついていません。 また、たくさんの宗派があるのは、聖書の解釈を「不完全な人間」が行っているからではないでしょうか。同じ神に対して、複数の解釈・立場が起きるのは変ですよね。 つまり、あなたが「信じている」ものは、不完全な人間の手によって書かれ(聖書は、イエスの死後、弟子によって書かれた)、書き写されてきた「聖書」であり、不完全な人間によって、独自に解釈している、「宗派」なのです。 あなたと神との間には、ずいぶんと、不完全な人間の手が加えられたものが媒介とされているのです。にもかかわらず、神を知ったようなつもりになるのは、神に対する冒涜にはなりませんか。 (2)について ちょっと意味がわかりませんでした、すみません。具体的に何か、預言(神からの言葉)が具現化されたことがある、と言う意味でしょうか。モーセの十戒など、過去にそういうことが、いろいろあったのは良しとして、現代においても、同様の奇跡が起こせる、ということでしょうか?「神を試すなかれ」と書かれているだけあって、現代ではなかなか、奇跡を目の当たりにするチャンスは無いように思うのですが。誤解でしたらすみません。 アメリカ人の話について 聖書の信憑性云々の話と、キリスト教を信仰する話は別ですよ。聖書の記述の信憑性や、他の宗教の聖典との整合性から、(既存の宗教とは別に)人類を超越した神のような者の存在を模索する人だっていますし。 それに、「50%の人が信じているから正しい」などと科学者が言うのは、おかしくありませんか。例えば大昔は、50%以上の人が、「地球は丸い」なんて、信じていなかったと思いますよ。 神の是非を語るのに、科学(理屈)を持ってくること自体、ナンセンスなんですよ。不完全な人間は、神を認知することはできません。でもそれは、同時に、否定することもできません。二次元空間の人が、立方体を認知することなどできませんよね? そういう意味で、究極的に信じるしかない存在だと思います、神は。(私は、無心論者ではありません、不可知論者です、念のため)

  • mojitto
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回答No.6

#2です。 僕が少し気になったのは、あなたが科学を「信じるもの」と解釈しているのではありませんか? ある科学者が「何か」を発表するとき、その際のデータや経緯はある種の紳士協定のようなもので信じることはあります(信じないと話が進まない)。しかし、発表された「何か」に関しては、「信じる」のではなく「納得する」ものです。 ですから、(結果・データ・経緯などに)「納得」できなければ追試験を行ったりします。 他の回答で「地球が丸い」ことについての話題が出ていましたが、これに関しても、「納得」ができなければ、水平線を望んだり、世界一周旅行や宇宙に出て観察すればいいのです。 私たちだって、初めて地球が丸いことを知っても、信じられなかったでしょ?しかし、映像(映像自体を信じる必要はありますが)や実体験を通じて、「信じる」のではなく「納得する」のです。 「納得」しないで科学を「信じる」ことは「科学信仰」という悪い面を生み出します。つまり、科学が宗教と化してしまうわけです。 納得の科学と信仰の宗教はまったく異次元のものです。 科学の力で宗教にメスを入れるのはナンセンスの極みです。 (「神の不在証明」なんかがいい例ですね。) 逆に宗教が科学にイチャモンをつけるのも愚かな行為です。 で、科学者が宗教を「信じる」経緯についてですが、これは一般人と変わらないでしょう。生まれつきの環境かもしれませんし、何かしらの体験などを通してかもしれません。 実証されないと納得はできませんが、信じることはできます。 「私を信じて!」 『じゃあ、実証してみてくれたまえ。じゃなきゃ信じない』 なんて科学者、どう思います? あなたの言うとおりなら、科学者は人を信じることすらできなくなります。

1642
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私も科学を単に信じるものだとは思っていません。 たぶん「根拠や裏づけがなければ信じないのが基本である科学」という文が原因になったのではと思いますが、これは「その学説を正しいと判断する」というつもりで書きました。

  • azharu
  • ベストアンサー率26% (164/609)
回答No.5

> 宗教の信仰は生まれたときから始まったということは分かりました。 「生まれたとき」? 幼少のときから、という意味でしょうか。いえ、そう言っているつもりはありません。誤解されるような書き方をしてしまいましたでしょうか。 > ただ、主に科学は再現性及びそれを基にした理論で成り立っているのに対し・・・ おしゃるとおりです。宗教が「信じる」ものと言われるゆえんでもあります。 そもそも、信仰している人たちは、立証しようとすら考えないでしょう。だって、彼らにとってそれはもう、疑いの余地のない、絶対正しい(と思い込んでいる)ものなのですから。絶対正しいことを、逆算する形で、科学なり何なりで、証明してみせようとは思うかもしれませんが。 > 宗教を信仰している人たちは、なぜそのような根拠のないような(少なくとも信仰していない人はそう思うような)多くの説の集まりをすべて鵜呑みにし続けていることが出来るのでしょうか。 ここですよね、まさに宗教の核心は!このあたりで、マインド・コントロールの話が出てくるわけです。 例えば、熱狂的に好きなアーティストがいたり、異性がいたりするケースで、少しイメージできますでしょうか。その熱狂的に気に入ってしまっている対象に対しては、盲目的になります。その対象のためには、お金や時間をいくらつぎ込んでも惜しくない、何でもしてあげたい、みたいな感覚です。エスカレートすれば、犯罪にも手を染められます。 その人は、自分がなぜ、そこまで熱狂的なのか、ある程度は説明できるかもしれません。でも、その説明をほかの人が聞いたからといって、誰もが同様に熱狂的にその対象を好きになるかと言えば、一概には言えないでしょう。ここに「科学」との違いがあるとも言えます。 何というかこう、自分の意思を飛び越えた奥をつかまれてしまっている状態、と言ってよいのでしょうか。う~ん、うまく表現できないのがもどかしい・・・・スミマセン。 「地球は丸い」にしても、 実際に宇宙から見たりした人は極わずかなわけで、多くの人は、人の話やテレビの映像などを通して、疑う余地もなく、そうと信じています。でももしかしたら、人類の多くは、極一部の人間にだまされているのかも・・・・?! 例えば、「アポロ宇宙船は、実は月へは行っておらず、秘密の特撮スタジオの中で撮影されたものだ!」という噂が持ち上がり、昔、論議を呼びました。月面での影の状態がおかしいとか、あれやこれや、騒がれたようで(笑)。まあ、「かぐや」がアポロ宇宙船の跡とされる場所を撮影はしていましたが、真実は如何に?! ダイアナ王妃はトンネル内の事故で死んだ、とは言え、トンネル内の現場を見た者はわずか。本当は、死んだことにして世間の目を逃れてどこかでひそかに生きているのでは?! ミステリー・サークルは、人間のいたずらだったとわかったとき(犯人が名乗り出てきて、実際に、やったことを証明して見せた)、われわれは(もとい、一部の人は)完全にだまされていたことに気づきました。 ・・・・って、話が脱線してしまいましたね。まあ、宗教に限らず、疑う余地のないほどに?そうと信じ込んでいる物事は、身の回りにたくさんあるのではないでしょうか(それが本当か間違いかは別として)。そのぐらいの感覚で、彼らは「疑う余地もなく」その宗教を信仰しています。 > また、科学者に関してですが、たとえばキリスト教などがかつて多くの点で科学と矛盾していたように・・・・ 宗教家は勝手なもので、都合の良い科学的データがあると、「ほら、神が正しいことは科学的にも裏付けられている」と言ってくるし、都合の悪い科学的データがあると、「科学は絶対・万能ではない。過去を振り返ってみても、科学的常識は突然、ひっくり返されることがある。その(都合の悪い)科学的データは、まだ科学が未熟だからに過ぎない(将来、科学が発達すれば、その不都合なデータは覆される)」などと、ほざいてきます。こんなあたりで、彼らは片付けてしまうと思いますよ。

1642
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 なるほど、宗教家の人たちはそのような気持ちなのかもしれませんね。

  • azharu
  • ベストアンサー率26% (164/609)
回答No.4

#3の回答者です。 でしゃばって、もう少し書いてしまいますと、「宗教を実証する」とか「宗教を知る」とかいうこと自体、ナンセンスなように思えます。 三次元空間にいる者が、四次元空間の世界を認知し得ないように、われわれは、神(宗教)を想像(創造?)することはできても、認知することはできません。そういう、超越した存在への信仰が「宗教」ですので。 私が不可知論者たる所以でもあります。 そういう、認知し得ない存在(=神)を、知ったようなつもりになっている人(=宗教を信仰している人)は、なんとまあ、神に対する傲慢な態度だなぁ、とさえ思います。 「不完全な人間が、どうして神を完全に認知することができようか」この問いに答えられる宣教師は、いまだに見つかりません。人間が正しく神を認知できるなら、人類はこうも、宗教でもめませんでしょう(笑)。 質問から脱線したことを回答で書いてしまい、スミマセンでした。

1642
質問者

補足

こんなにも早くお答えくださり、ありがとうございます。 お答えのほうもとても役に立ちました。 ---------------------------質問の補足--------------------------- 宗教の信仰は生まれたときから始まったということは分かりました。 ただ、主に科学は再現性及びそれを基にした理論で成り立っているのに対し、宗教はある仮定の下にさらに多くの仮説を並べ、終始一貫して「そうである」と述べているだけではないかとも思います。また、科学者は過去に出た学説を正しいかどうかの確認したり、「地球は丸い」(すいません...)といったようなことを実際に視覚によって確認したりもします。少なくとも正しいあるいは正しいであろうと(ある程度)考えることの出来る科学とは違い、宗教はその聖書や経典の中にもなぜその内容が正しいと考えられる(あるいは信じることが出来る)かは書かれていなく(少なくとも仏教の本を少し読んだ限りではそうでした)、また、宗教家の人たちもこの約2千年の間にそれを裏付けるような事実を出したとは聞いたことがありません。 宗教を信仰している人たちは、なぜそのような根拠のないような(少なくとも信仰していない人はそう思うような)多くの説の集まりをすべて鵜呑みにし続けていることが出来るのでしょうか。 また、科学者に関してですが、たとえばキリスト教などがかつて多くの点で科学と矛盾していたように、これからも科学と対立するような可能性のあることがらを鵜呑みにすることは真実に対する先入観を持つことであり、キリスト教などを信仰していた人が科学の道に進むことにたいして邪魔となることはないのでしょうか。また、根拠や裏づけがなければ信じないのが基本である科学をしながら、それらのない(ということが前提ですが)宗教を信じるのはおかしなことではないのでしょうか。

  • azharu
  • ベストアンサー率26% (164/609)
回答No.3

宗教の信仰・・・・決心とかじゃないです。洗脳されたとき、もう信仰が始まっているのです。「趣味」とか「選択する」とかいった感じじゃないです。理屈で、「この宗教が正しい」なんて判断して信仰を始めるものではありません。 その「感覚」を説明するのが難しいのですが、例えば、「地球は丸い」というのを、おそらく今日では、誰もが疑いもしないで信じていると思います。そんな感じです。人によって、丸いと思ったり、四角いと思ったり・・・個人の自由ですって、そんなわけないでしょう?疑いの余地なく、ほとんどの人が「地球は丸い」と信じているでしょう。「信じる・信じない」の次元の問題じゃない!って言うくらいの境地に達して(信じて)いるとき、その人は、それを信仰しています。だから、宗教を(本当に)信仰している人は、それを宗教だとすら思っていません。 科学的見地から、おかしい点があったとしても、宗教を信仰している人には関係ありません。「神は絶対だが、科学は絶対ではない」と言ったりする人もいます。ゆえに、殉教したり、サリンを撒いたりする人も、わけなく出てきたりします。 科学者で宗教を信仰している人・・・・推測ですが、研究しているうちに科学の限界点に気づいてしまい、最後はもう、神の力・神の存在を信じるしかない、という境地に達してしまったのでは。 最終的には、中途半端な人間が?宗教を信仰していないように思ったりします(^^ なお、私は無心論者ではなく、不可知論者です。

  • mojitto
  • ベストアンサー率21% (945/4353)
回答No.2

世界的に見れば、何かしらの宗教を信仰している科学者はむしろ多数派でしょう。 例えば哲学では「今ある世界は、実は1秒前にできたかもしれない」という問いがあります。 しかし、そんなことを考えている哲学者だって、実生活において「世界は1秒前にできたもの」なんて思う人はひとりもいません。 そんなことを主張して、借金を帳消しにしようとしたら、逆に捕まります。 実生活と学問の場は別物です。 科学者だって「運命」を感じることもありますし、「神頼み」だってします。 実はあなたもお守りなどを持っていたりしませんか?

1642
質問者

補足

こんなにも早くお答えくださり、ありがとうございます。 確かに、お答えのとおりだと思いました。 ただ、質問文の方で、質問対象のほうを「宗教を信仰している科学者の方」と書いてしまったのですが、正しくは「宗教を固く信仰している(正しいと信じて疑わない)科学者の方」とすべきでした。 そこで質問の補足なのですが、そのような科学者はどういう考えでその宗教を信仰しているのだとお考えでしょうか。

回答No.1

趣味…や信条…じゃないですか? 家がそういう哲学的土壌を持った家だったとか、 よっぽど啓蒙された哲学があったとか。 ちなみに私はバッハの和声とユークリッド幾何学を堅く信仰しています。無宗教ですが。 間違ってないのは確か。だって バッハの音楽はα波が出るらしいと東大の脳科学の教授が言ってたらしい。スケール的にも数学的実証が取れる。 非ユークリッド幾何学は論証の課程でどこかルールやパラダイム(その時点で主流となっている学問的世界観)を変えなきゃならないんで命題を解くのが面倒なんですが (音楽ではト音記号がいつの間にかヘ音記号になっていたり) ユークリッド幾何学は終始一貫している。からメチャクチャ信じてます。 ユークリッド幾何学…一番汎用性がある学校教育学や初等数学では特に信奉者が多い。 バッハ…音大の教授と教会に信奉者が多い。

1642
質問者

お礼

こんなにも早くお答えくださり、ありがとうございます。

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