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哲学と宗教の折り合い

哲学も宗教も詳しくないのですが、常々疑問に思っていることがありますので易しく教えてください。 何かの宗教を信仰している哲学者は、信仰と哲学をどのように折り合い付けているのでしょうか? 信仰を不可侵にしてしまえば「哲」学では無くなってしまうのではないかと思いますし、逆に宗教を哲学の対象にしてしまうと信仰ではなくなってしまうように思います。 宗教と科学の矛盾に関してはガリレオとかダーウィンの例を良く聞きますが、哲学と宗教の矛盾が問題となった例は聞いたことがありません。むしろ哲学の方が本質的に矛盾するように思うのですが。

  • el156
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回答No.19

 やはり分かりやすく説明していただきました。  それですと けっきょくあとは 《想定》の問題だと考えます。  ★ そうだとすると《非思考の庭》とは何か想像がつきません。想像がつかないからこそ《非思考の庭》なのかもしれませんが。  ☆ 人間の思惟や想像の能力を超えたところ つまり 非経験のナゾといった領域 これをあくまで《想定》するということです。想定のもとでなら その人間の心に《非思考の庭》が成ると帰結されるかと思います。  なぜわざわざ想定しなければならないか?  じんるいは 《神》ないし《信じる》という言葉を持っているからです。  もし神が 経験的な事象の世界に属するものであるなら――つまりは 神鳴りという規定での放電現象やら 美の女神や勝利の女神といった規定での《モノの成り立ちやコトの成り行き》なる現象やら そういった経験世界に属する事柄としての神々が言われているだけだとするなら―― 無限という概念は 経験世界に属する可能無限だけに限られて来ます。  ゼロに限りなく近づくというその数は 永遠にゼロに達することはありません。可能無限にとどまります。  ですが 神は――想定の限りでは―― 真無限ないし実無限です。それを二や三で割っても 商はやはり無限です。ですから それは 通常の《有る・無い》という概念では測り得ません。この《無限》なる神(ないし 無い神)なら 《考える》を超えた《信じる》という言葉がしかるべく対応するかたちで持たれており用いられていることになります。《信じないとして信じる》場合を含むと考えられます。  ★ 一人の人間が考える範囲にはもちろん限界がある訳ですが、多くの人間が世代を超えて叡智を受け継ぎ永遠に考え続けるとしても限界はあるものでしょうか。  ☆ これが ついぞ神としての無限にはたどり着かない可能無限なのだと思います。限界があり 経験世界にとどまります。  ★ ~~~~  しかし一方で私たちは多くの割合で、物理学や論理や哲学に依ってではなく直感に依って日々の生活を送っていると思います。人間以外には物理学や論理や哲学に従って行動している者はいないでしょうし、人間はそのDNAの99%がチンパンジーと同じだそうですから、人間であっても直感に依って行動する場面が中心となるのは当然と言えば当然です。そう考えるのであれば、《思考の庭》はむしろ限られた小さな庭であって、日々の生活の中心は《非思考の庭》であるような気もしてきます。でもこの意味での「直感」には、あまり、「信仰」という言葉と共通するものを感じません。  ~~~~~~~  ☆ 《ヒラメキ(直感および直観)ないしインスピレーション》は 《信仰》からの仕入れになります。  非思考の庭がわが心に成ったという・またその状態が動態としてある信仰は 何もないわけですが 言わば心の窓のようなものであり また心の伸び もしくは 心の明けだと見ます。人が生きているかぎり 動態としてつづく心の明けなる状態です。  閉じていないというところがミソです。  そこから ヒラメキが得られれば それは すでに何らかの知覚でしょうから はっきりと経験行為ないし経験事象です。直感ないし直観は おそらくその内容がまだ海のものとも山のものとも分からない混沌としたイメージのようなコトから始まると見ます。  たしかになおまだその内容に明確な意味が得られていないとしても あたかも背筋がピーンと伸びたかのように・あるいは モヤモヤ状態が一瞬のうちに吹っ切れたかのように 問題が解決したという感覚が与えられるコトだと見ます。  そこから 境地があたらしく成ったとも さとりを得たとも言えるような状態に移行するかと思われます。そのときには 思考が始まって一つひとつの命題を得るようになるのだと。   いやいや これらのヒラメキは そうではなく あくまで自然界や人間の社会事象に相い向き合っているとき その経験世界との言わば対話から得たのであって 人為および人知に属すると言う場合 その場合には それでも信仰から仕入れたと見るわけですが つまりはそれが 無神論という信仰だと――想定上――捉えるものです。  つまりは まだなおわざわざ《想定》を大事に守っているのは なぜか? と問うなら 《無限》なる神という言葉を人間は持ったからです。死語になれば この想定は不要となります。  ここらあたりでしょうか? 今回の焦点は。  想像することが出来ず 実際には言葉で表わすことも成しえないところのナゾの場 この非経験の場をも人間は 想像してそれについての言葉をあてがい その《想定》を持つに到っているのだと。  信仰の想定には さらにもっと実際の効用があります。人間がついぞ知り得ない非経験のナゾについて 分かったような教義をこしらえてこれを 《無限 ないし 真理》だと言って おしつける宗教 この宗教に対して その間違いを指摘することが出来ます。《教義や教祖》は 経験世界に属するものだから 考えることはあっても 信じることなどあり得ない。良心・信教の自由を侵しているおそれがあるではないかと。

el156
質問者

お礼

有難うございました。この回で、なんだか少し理解できたような気がいたしました。大変参考になりました。

el156
質問者

補足

有難うございます。お礼が遅くなってしまいすみません。非思考の庭について考えておりました。私自身は、直感やひらめきについて、環境(脳内外の過去の記憶も含みます)と向き合うことによって環境との対話の中から生まれるものと考えています。そう考えると、直感やひらめきというものを、もう少しだけ分解してみることが可能です。直感やひらめきが生まれるには、まずその時環境として用意されているものが必要な要素を含んでいなくてはなりませんが、それだけで機械的に決まるものとは思えません。もしそうであれば、直感とかひらめきという呼び方にはならないと思います。直感やひらめきが生まれるには、沢山の環境要因の中からその時求められている直感やひらめきに関係する要因をまな板に載せる偶然が必要なのではないかと思います。その「偶然」が、非思考の庭と、信仰とに関わってくるのではないか、と考えました。考えてみると、科学技術に於いて、「偶然」を持ち出すことはそこで思考を止めることを意味します。「偶然」と呼ぶことをできるだけ避けようとするのが科学だとも言えるのではないかと思います。アインシュタインは、「神はサイコロを振らない」と量子力学を批判したそうですが、実はそのサイコロの目を決めている者を神だと考えても構わないのではないかという気がしてきました。そうだとすれば、科学や哲学は偶然を決めるものが神であっても無くても構わない訳で、偶然は神に支配されていると考えても考えなくても、科学も哲学も可能だろう、と思いました。

その他の回答 (19)

回答No.20

 ご返答をありがとうございました。  今回の焦点はふたつあると思います。  ひとつは ヒラメキが得られるときのその仕入れの仕方はどうなっているのか? 具体的に実際にどのようにしてこの事象が起きているのか? であり  もうひとつは そのとき《神》をどう取り扱っておくか? ではないでしょうか?  一つ目の問題は 次のような事情について 科学的にそのあり方を知っておこうという探究ではないかと思います。  ☆☆(回答No.19) ~~~   いやいや これらのヒラメキは そうではなく あくまで自然界や人間の社会事象に相い向き合っているとき その経験世界との言わば対話から得たのであって 人為および人知に属すると言う場合 その場合には それでも信仰から仕入れたと見るわけですが つまりはそれが 無神論という信仰だと――想定上――捉えるものです。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《人為および人知》の中身をしっかりと具体的に検証して行きたいという仕事であると。  最後のほうの 《無神論》として取り扱うというのは――可能性のひとつとしてあって―― 二つ目の問題だと考えます。  おそらくえる156さんとわたしとの違いは 初めに結論を提起しておくか否かにあると思います。  わたくしが 初めに提起しておくほうなのですが つまりは こうです。  1. 二つ目の《神の取り扱い方》については 《無い神》にしろ《有る神》にしろ 《無限》なら無限という想定概念でこの広義の《かみ》を規定しておくということ。   ・ ヤフヱフと言おうがメシア(ないしクリストス)と言おうがあるいは アッラーフなりブラフマンなりアミターユスなりそして《無い神》と言おうが 広義の《かみ》は 無限なる概念として想定しておくということ。すべて類型として同じひとつであると。名が違うだけ。もしくは付与される属性――たとえば 《慈悲深き》とか《全知全能》とか《至高の善》とか――が少し違っているだけと。  2. したがって もし一人の人間の主観内で起こることとその主観が認識するところの内容の問題を別とすれば――主観の問題を別とすれば―― この《かみ》と人間との関係つまり特には 知性の授受関係としての仕入れ関係は 分からない。わづかにインスピレーションないしヒラメキ・直感として起こると言葉ではその事象を表現して扱うのだということ。  しかるに える156さんは これらの事象についてさらに内実はどうであるかと迫って行って まづ初めにそれを科学的に明らかにしたい。こうお考えであり 事実そのように模索しておられる。のではないでしょうか? 模索という言い方は 失礼であるかも分かりません。科学は あとでその仮説がくつがえっても 探究の成果が 一つひとつの認識として積み上げられて行くものであると思われますから。  わたくしは 非思考の庭の問題としても能天気ですから――つまりあるいは 《もののあはれを知る》という次元にまで還元されて行くエポケー人間ですから―― ヒラメキの脳細胞ないし神経組織としての成り立ちや仕組みについては まづは無頓着です。それこそ  ★ 「偶然」が、非思考の庭と、信仰とに関わってくるのではないか、と考えました。  ☆ とも思っております。  昔の考えで エピクロスでしたかは 原子の曲がり(クリナメン)を言ったとかいうことのようですが とにもかくにも《非思考》なのではあります。言いかえると 思考において分かったなら それは《かみ》ではないと《信じて》いますから 平気の平左を装っています。  ただし ヒラメキが――経験事象として分かる範囲において―― 脳内活動においては どのように成っているのか? このことを知りたいと思っていることも ほんとうです。つまり 非経験ないし非思考と 経験ないし思考と これら二つの庭は つねに区別されています。  ★ ~~~~  アインシュタインは、「神はサイコロを振らない」と量子力学を批判したそうですが、実はそのサイコロの目を決めている者を神だと考えても構わないのではないかという気がしてきました。  そうだとすれば、科学や哲学は偶然を決めるものが神であっても無くても構わない訳で、偶然は神に支配されていると考えても考えなくても、科学も哲学も可能だろう、と思いました。  ~~~~~~  ☆ じつは この最初(前半)のお考えは ヒラメキ直感から何らかの意味合いを持つ直観を経てさらにすでに思考として得られている認識であり その遠く仕入れ先は 〔じつは〕むしろ《有神論》である。と考えられます。そしてそのあと 哲学に戻っておられます。  つまり哲学としては こういう場合には 有神論と同時に無神論も――非思考の庭なる仕入れ先として――ありうると見て その言わば交通整理をするかたちです。(自分の主観は また別にあるという意味です。わたし自身は キリスト・イエスによって この非思考の庭なる理論を得た者です)。  《偶然》ないし《ものの片寄りや曲がり(クリナメン)》は 物質ないし質料とそれをおそらく基体とする人間の心が 或る日或る時ふと起こす動きである。その意味は 《神は無い》。つまり 《無い神》というかみが わが心に宿ると想定するその非思考の庭 これが原因をなすと見る。(つまり じつは 無根拠である)。そのほかに言い分はないと見る。という無神論派も 黙ってはいないでしょうね。    おそらくここからは もうわたしの出番はあまりないでしょうね。これまでの議論のおぎないや 細かく説明することだけになるでしょう。  別の角度から主題を立てた問い求めは あり得ましょうか。  どうでしょう?

el156
質問者

補足

こんばんは。 おかげさまで、非思考の庭について、又哲学や科学と信仰が両立する理由について、どちらも少しわかって来た気がいたします。自分自身の考え方も深めることができたと感じております。毎回丁寧な回答を頂き、大変有難うございました。

回答No.18

 ていねいな解説を交えたご返答をいただきました。  今回は その素人たるわたしにとっては 反応が単純なかたちで現われましたし そのままお伝えすることが出来ると思います。  おっしゃるところの  ★ 信頼の樹の構造  ☆ は 次の《〈わたし〉の内面》において 《非思考の庭》と《思考の庭》とをつなぐ回路なのではないかと考えました。  ☆☆(回答No.14) ~~~     《わたし》の内面:     非思考の庭:非経験の領域とわれとの関係:わがクレド(信仰)     思考の庭:経験世界およびわれについてのわがコギト(認識)  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 言いかえると 具体的な生活や技術上の実践が《小売り》の段階だとしますと 《卸し問屋》にあたるかたちであると。  問題は この問屋が――人間の経験思考にかんするかぎり―― 目に見えない(心の目にさえ見えない)製造元(?)から仕入れて来ることがあると考えられることではないでしょうか? 先人の研究成果という問屋もしくは製造元があるそのほかにという場合です。  すなわち ヒラメキ(直感および直観)ないしインスピレーションとして仕入れることがある場合です。  言いかえると 《信頼の樹の構造》において その根や幹から伸びた枝は 問屋から卸して来たモノやコトであって 〔現実ないし事象に対応したところの〕思惟や想像の産物であ〔りまた事実認識であ〕ると思います。いづれにしても 思考の対象としてすでに現われている。  そのとき 根なのか種なのか あるいはさらにその根源なのか 問屋のさらに川上はいったいどうなっているのか? ここに焦点があると思われます。  逆に言うと 《非思考の庭》は取っ払ってしまうとどうなるでしょうか?  つねにおっしゃるように 《信じるし うたがいもする》でしょうか?  ★ でも私は普段もっと広い意味でものごとを信じておりまして、自分の信じていることは全て疑い得ると感じています。矛盾でしょうか。  ☆ すなわちこの命題については すべて《思考の庭》という領域における問題であると したがって矛盾はしないと考えられます。ですからこの場合の《信じる》は 《やがて思考の庭において検証されうるであろうモノ・コトについて一定のかたちでの思いが どこからか 得られている。ただし 世界があたらしく知られるにつれて うたがわなければならないようになる〔場合がほとんどである〕》といった内容なのでしょうか?  そうして この場合は 非思考の庭を取っ払ったのですが じっさいには もし人間にはその知解能力に限界があるとしたら――限りなく知解を重ねて行くという可能無限の場合は あくまで《思考の庭》の範囲にとどまりますから 限界があるとしたら―― 人は誰でもその限界を超えた非思考の場を持っており 自分でそれを明示的にわが心の庭としたかどうかを別として けっきょく信仰するヒトである。こう帰結されると思われます。  言いかえると この非思考の庭は 有神論か無神論か ふたつにひとつである。なぜなら 非経験なる非思考の場は 経験思考で扱う《有る・無い》を超えているのだから 有るとも無いとも決められない。ゆえに 仮りに神は有るか それとも無いか どちらかで通用させることになる。と。    自然科学の現場を知らないかぎりで この構図は 動かないとまで思っておりますが さていかがでしょう?

el156
質問者

お礼

いただいたご回答は難しかったですが、どれも考えさせられるもので、大変参考になりました。有難うございました。

el156
質問者

補足

ありがとうございます。卸し問屋の例えはわかり易かったです。多くの場合、信頼の樹の枝をいくつか遡ると仕入れ先は先人の研究成果になってその先へ遡る必要は滅多に生じませんが、遡って行けば物理の基本原理に至る筈です。私自身は一介の技術屋に過ぎませんから物理の基本原理を語る資格は無く間違いがあるかもしれませんが、物理にはエネルギー保存、運動量保存、質量保存、因果律や時間の観念などの、他のことで証明できない直感による原理があります。これらの原理は多くの実例によって支えられている訳ですが、盤石ではありません。質量保存則は無くなってエネルギー保存則に統合されましたし、時間の観念は相対論によって随分不確かなものに変わりました。因果律(原因が決まれば結果は確定する、という意味に於いて)は量子力学によって否定されました。そう考えると次は何が疑われてもおかしくない気がします。これらの原理は反証が現れない限り信じて利用するしか無い訳ですが、それでも《思考の庭》の一員ということになるのでしょうか。そうだとすると《非思考の庭》とは何か想像がつきません。想像がつかないからこそ《非思考の庭》なのかもしれませんが。一人の人間が考える範囲にはもちろん限界がある訳ですが、多くの人間が世代を超えて叡智を受け継ぎ永遠に考え続けるとしても限界はあるものでしょうか。 しかし一方で私たちは多くの割合で、物理学や論理や哲学に依ってではなく直感に依って日々の生活を送っていると思います。人間以外には物理学や論理や哲学に従って行動している者はいないでしょうし、人間はそのDNAの99%がチンパンジーと同じだそうですから、人間であっても直感に依って行動する場面が中心となるのは当然と言えば当然です。そう考えるのであれば、《思考の庭》はむしろ限られた小さな庭であって、日々の生活の中心は《非思考の庭》であるような気もしてきます。でもこの意味での「直感」には、あまり、「信仰」という言葉と共通するものを感じません。

回答No.17

 No.16を承けます。  ★(No.16お礼欄) ~~~  従いまして、物理を信じることはありますが、信じていたことを疑うことも普通にします。自分が信じるものの階層構造の樹を遡って内面へ向かって進んで行くと、最終的には哲学が扱う分野にまで到達するのではないかと思います。そのとき私たちは底なしに疑うことができるのか、それとも限界があってそれより上の階層の「信じる」は、「信じる」と呼ぶに値しないのか、それらに「信仰」が関わってくるのかに興味を持っています。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ 文系(外国語学部および経営学専攻)で自然科学の素人として考えるところですが 《物理を信じる》というとき ふたつないし三つの局面があるように思います。  1. あくまで経験科学としての作業仮説を想定して探究をすすめるというとき その仮説にのっとるという意味で用いる場合。  2. したがって 仮説として信じた(想定した)ものをも うたがうことは とうぜんあり得るし 自然なことであるという場合。  3. 《考える》の知解行為がおよばない領域があるか? あるいはつまり 《疑い得ない》領域というのはあるのか?  考えても・あるいはうたがっても その答えが得られるか得られないか その答えが得られないという領域を想定すれば それが 非思考の場となると考えられる。  ☆ なお宣伝のようになって恐縮ですが わたしの設問があります。    ▼ 【Q:信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6010202.html    その回答No.4&No.7&No.9&No.11&No.12&No.13&No.14は ok9608 さんと言って理科系の方です。 たとえば 次のようなやり取りがあります。  ★ 自分が信じるものの階層構造の樹を遡って内面へ向かって進んで行くと、最終的には哲学が扱う分野にまで到達するのではないかと思います。  ☆ これに対応するかに思われる箇所です。  ▼(回答No.4: ok9608 さん) ~~~   信仰でない を物質は観察可能であり 物質は信じないモノの対象外(物質の存在は信じざるをえない)として 無神論の公理系(現代物理の原理として 例えば 素粒子の種類は有限個である、素粒子間には力が働くなど) を考えます。  この公理系の中で、究極 公理を追求する人のなかから 公理の正しさを信じる人は出てくると思います。すると 公理を信じる すなわち 物質の存在とか物質間の動きを管理するルールを信じる という無神論が現れると思います。  このルールが広く宇宙に及べばこれは有神論と同じではないか と 質問者は言っておられるように思います。すると 回答は是であります。  ~~~~~~~~~~  ☆ この疑問については 少し傍系の議論になりますが 次のように応答しました。  ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~~   ですから 非思考の場という問屋があるとすると そこから――もし信仰が成り立っているとすれば――観想をつうじて 言葉が紡がれてくる。このことが起こり得る。つまり 問屋から観想をそしてさらにはそこから一般に思想を 卸して来ることになります。   言いかえると 問屋だとか信仰・非思考の場 こういった想定は ひとは一般に自覚していないのですが けっきょく誰にもあるのだと言おうとしています。自覚したあとでも それは無いという場合には それは 無神論として規定すると 全体として分かりやすいのではないか。こう言おうとしています。   いわゆる無宗教なり無信仰なりと言う場合 それは 無神論であるか それとも その人なりの神と呼び得る何ものかを心に受け容れている――つまりその人なりの問屋があるだろう――と思われます。   よってすべての人間は 信仰するひとであると。   ただし 生活日常において この非思考にかかわる信仰を――それは 良心・信教の自由という公理にしまっておけばよいから―― 表に出すこともない。   何ものも信じないというとき もし非思考の場のことならば それは――考えるではないのですから――《何ものをも信じないと信じる》という意味です。  ~~~~~~~~~~~  ☆ あるいはさらに非思考の庭が 脳内活動としてどのようであるかを 問うたくだりです。  ☆☆(No.13お礼欄) ~~~~   ▼ 非思考という脳内記憶作業はあるが脳内活動ではないという ご指摘をどう理解したらよいかです。   ☆ なるほど。非思考の場(要するに 神)が――わたしの場合には―― 向こうからやって来ると捉えるわけですが それは取りも直さず 《わたし》の脳裡に何らかの呼応するコトがあるというわけですね。  それでしたら わたしの場合には 記憶という人間の行為能力もしくは能力行為は 基本的に 秩序(その作用――自己組織化か何か うといので 知りませんが――)を指して言います。覚えるというのは すべてと言っていいほど 動態的な秩序の動きであると。  ということは 何らかの《不思議》が起こったという場合に たぶんこういう言い方をすれば つじつまが合うのかも分かりません。すなわち 向こうからナゾがやって来たという場合・つまりそれを感じたという場合 そのコトは 脳内記憶作業としては 自己の秩序を元に戻したという――自動的ないとなみとしての――動きであったかも知れません。そのあと この不思議体験を 受領するという意志行為が来ます。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そのほかのみなさんも ふるって回答を寄せてくだすっています。  またまた長いものですが よろしかったらどうぞ。ok9608 さんがここへも投稿なさるといいのですが。

el156
質問者

お礼

有難うございました。

el156
質問者

補足

有難うございます。No.16の補足で申し上げた信じることを、「仮説」と呼ぶのは、少し違うように思います。程度の違い、と言うこともできるのかも知れませんが、「仮説」はすぐに検証されなくてはならないもので、検証されるまでは試用程度にしか使えません。少なくとも自分の中で「仮説」と位置づけられているものの上に沢山の信頼の樹の枝を張り巡らしてしまうようなことは避け、それよりも仮説の検証を優先させます。しかし現実の問題を進めるとき、逐一全てのことを検証して進めるのではリソースがいくらあっても足りませんから、自分の中に「信じる」レベルに達しているモデルをいくつか持っています。これらの信じるレベルに達しているモデルは、いざという時に遡って検証可能であるように、もっと深いレベルのモデルから演繹可能な筋道(信頼の樹の枝)を前もって作っておきます。問題が起きた場合には信じていたことを疑い、信頼の樹の枝を遡って検証して行くわけですが、深い所に修正が必要な場所を見つけると大変です。信頼の樹の構造は一人一人違うので自分一人で解決しなくてはなりません。蛇足になりますが、恐らこの修正箇所が哲学的な程深いレベルにあると、そこで樹構造を分離して多重人格になるか、不整合を残したまま精神分裂病になるしかなくなってしまうのではないかと思います。幸いそのような経験はありませんが。 一方、仮説であることと信じることを、程度の違いであって本質的に変わらないという立場に立つなら、物理法則は全て仮説であるということもできます。例えばニュートン力学やガリレオ座標系はたいへん直感的かつシンプルで、信じるに足りる証拠が身の回りに沢山あります。しかしそれを疑う理由が発見されたから相対論や量子力学がまず仮説として現れ、多くの人に検証されて取って代わる原理になったのだと思います。今信じられている物理の原理も、将来どうなるかわかりません。恐らく物理の範疇には疑い得ない領域は無いだろうと思います。《物理を信じる》ということがあり得ないというのは、そう言った意味になるのでしょうか。でも私は普段もっと広い意味でものごとを信じておりまして、自分の信じていることは全て疑い得ると感じています。矛盾でしょうか。

回答No.16

 重ねてお邪魔します。  1. 《物理を信じる》ということは あり得ません。それは 世界はすべて物理現象として起こり そのように成り立っているのみだと 強く思い入れをしてそうあれかしとのぞんでいるに過ぎません。つまり《考える〔プラス のぞむ〕》行為に属します。  2.《教会の雰囲気》は 《宗教》に属しましょうが 個人の《信仰》とは何の関係もありません。  信仰は神(もしくは 《無い神》と呼ぶ神)と関係しますが それは観念ではありません。観念であれば・つまり観念の中に抱かれる神であれば むろん《考える(思惟や想像)》の問題でしかありません。  信仰は 考えるとは無縁であるゆえに わざわざ《信じる》という別の言葉を人間は持ったと考えられます。  よろしければ参照ください。  【Q:宗教が生まれるメカニズムについて】  (回答No.6。noname#80116 は以前のわたし=ぶらじゅろんぬです)。   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4085599.html  以下 わたくしの設問です。  【Q:《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6729443.html  【Q:なぜ神を勘違いしたままでいるのか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6951345.html  【Q:組織宗教を 弾劾する。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7187281.html

el156
質問者

お礼

有難うございました。

el156
質問者

補足

度々のご回答を有難うございます。私は会社員で技術屋なのですが、現在の技術はたいへん複雑になっていて全貌を掴むことは不可能に近く、何かを信じないとその先の技術に進むことができません。この意味での「信じる」には強さのようなものがあって、信じたことを基礎にして沢山の実績を積んでいたり、信じたことに整合する事実を沢山経験していれば信じる度合いは強くなります。技術屋であっても、理屈よりも経験を優先するのは、良くあることです。権威のある人が書いたり話したりした場合や、信頼できる人の話を聞いたり、信頼されている書物に記載されているような場合などにも信じる度合いは強くなります。この要因は人を説得するには有効ですが、自分が「信じる」為には補助的です。 しかし一旦信じたことでも、それに固執すると現在直面している問題を解決できません。問題を解決するには、多くの場合、自分が信じていたことを一旦疑い、修正する必要があります。自分の理解にまちがいがあることもありますし、先生が言ったことや教科書に間違いがあることも普通にあります。信じていたことを修正するには、自分の中で信じるものの階層構造の樹を再構築しなくてはならないので労力と苦痛を伴いますが、意識してその苦労をするように心がけます。だからと言って何も信じなければ仕事は進まないので、日頃から信じることと疑うことをご都合主義で使い分けています。 従いまして、物理を信じることはありますが、信じていたことを疑うことも普通にします。自分が信じるものの階層構造の樹を遡って内面へ向かって進んで行くと、最終的には哲学が扱う分野にまで到達するのではないかと思います。そのとき私たちは底なしに疑うことができるのか、それとも限界があってそれより上の階層の「信じる」は、「信じる」と呼ぶに値しないのか、それらに「信仰」が関わってくるのかに興味を持っています。

  • booter
  • ベストアンサー率34% (269/769)
回答No.15

私は哲学に無知です。 ですがこの問題について書く衝動を抑えられませんでした。 このQAの補足にもなればと思い書かせて頂きます。 哲学と宗教の違いは、根拠のある哲理的理解と、根拠の無い信仰にあります。 例えで話しますと、太古の大昔では、日蝕が起こればそれは「神がお怒りになられたからだ」と言う事だったのでしょうが(信仰)、現在の我々は太陽と地球の間に月が入るから(理解)、と考えるでしょう。 人間は未知なる現象に遭遇した時、ロジカルな考え方が自分の知識に存在しない場合、自分自身の内に眠る無根拠な信仰を元に思考します。つまりは上記のような神秘的な現象や説明の付かない現象、あるいは生命の危機に陥った際、宗教と哲学があれば、宗教を優先してしまうのです。 これだけ見れば宗教は不要の長物にも見えますが、自分が仮に死の間際であった場合を考えて見ますと、「神のもとへ行ける」(信仰)のと「神はいない。これから起こるのは私の意識の消滅だ。惜しい。悔しい。もっと生きたい。」(理解)となった場合に人はどちらを選択するでしょうか?  またel156さんは何か勝負事を行う時、ジンクスはお持ちではないでしょうか?  靴下を左から履く、下着は赤、シャーペンの芯は15本、試験前はキットカット(を割る)・・・。 もし何らかのジンクスがあれば、それは合理的に説明できない信仰のようなものを自己の内部に保持している事を示しています。 更に、el156さんが結婚する際に無宗教を貫くのであれば、公民館で挙げる事も可能です。式場は教会、神社など宗教色のあるものが良いのか、それとも公民館のどちらを選びますか?  このように、現在の生活においても宗教は密接に我々の生活に絡み合っているばかりではなく、我々の心にもその蔦の根に似たものが絡んで離れない状態になっているのです。 しかし、我々がそういった信心を持っているのかまだ心の隅に疑問が残っている部分があるかもしれません。 本当に現代に生きる我々がそのような非合理的な精神を持つのか、と思われるかもしれませんが、こちら「鳩の迷信行動」をご覧下さい。 http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20100201 上記リンクにあるように、動物は自らのアクションにより恩恵を受けたとの主観から抜け切れていません。これは人にも当てはまります。 ジンクスなども「過去に上手く行った事のある時にやっていたこと、身につけていたもの」を選択しているのではないでしょうか。 これらの事例から、人間社会において宗教は哲学よりも優先される、というのが私の現在の所の結論です。 そして、そうした状況を更に哲理的に理解する事が可能だという事です。 もうちょっと簡単に言うと、「人間てば神様が存在する事を信じちゃう存在なんだな」と言うお題から理解していく事は可能ではないか? と私が考えているのです。 ただ、上記の結論は、ご質問のお題にある哲学者の宗教の捉え方、あるいは宗教家の哲学の捉え方に対する、ストレートな回答ではありません。 あくまで宗教を哲学面から観測していっています、という私の一意見になります。 (私も哲学者や宗教家の煩悶は覗いてみたいと思います)。 ~~~~~~~~~~~~~ 1. この問題に関し、真っ向勝負で作り上げられた秀逸な映像作品がありますので紹介します。 88年ポーランドのテレビドラマ「デカローグ」第一話。 http://www.amazon.co.jp/dp/B0009OA5IE 人は物理を選択すべきか、宗教を選択すべきか。 ※以下ネタバレです。結構脚色しましたが、ほぼこんな感じです。 物理学者で合理主義者の父親と、その息子、そして信仰深い叔母の三人の物語。 冬になり、息子は池に氷が張った後のスケートを楽しみにしていた。 とある朝、愛する飼い犬が寒さで死んでいるのを見つける。 父親は「生命活動をしなくなったのだ。天国は無い。」と息子に言うが、叔母は「神様のもとへ行ったのよ」と息子に言う。父は叔母に「息子に変な事を吹き込まないでくれ」と抗議する。 父は神を信じない。物理を信じる。教会は不要だと断ずる。蝋燭に火をともすのは意味が無い。全ての事象は言葉で説明できる。思考と理解ができる。人は合理的に生きる事ができる。 父は息子と一緒に自宅のコンピュータで池に何センチの氷が張ったのかをシミュレートした。息子が乗っても十分な厚さがあり、安全であるという計算結果が出たので息子を池にスケートに行かせた。 冬の日常が過ぎていく筈だった。 夕方になった。息子の帰宅時間になった。 しかし、息子は帰ってこない。どういう事なのか。不安になりながら息子が行った先へ向かう。 息子は氷の張った池へスケートをしに行ったのだ。 池に到着した。周囲は大騒ぎだ。喧騒の原因は分からない。まさかと思い確認するが騒いでいる人間の中に息子を確認する事ができない。 池の中心にいびつな穴がある。 救急隊が池に駆けつけた。救急隊が向かった先は氷が張った池だ。池の中央に開いた穴へレスキューのはしごが伸びる。救急隊は苦闘する。だが時間だけが過ぎる。何時間も経ったと思われた頃、動く事のない小さな影が、池の中心の割れた大穴から無機質に水面上へと引き出された。 男は教会へ行った。全ての事象は言葉で説明できる筈だった。思考と理解ができる筈だった。人は合理的に生きる事ができる筈だった。 息子は不合理に死んでしまった。 教会へ入った。火のついた蝋燭が並べられている。火のついた蝋燭など不要の長物、の筈だった。 息子が死んだやり場の無い悲しみに、男は火のついた蝋燭を倒した。 かつて、自分は息子の愛する飼い犬が死んだ時に天国は無いと言った。 それでは、私の愛する息子が死んだ時に、私は何と思えば良いのだろうか・・・?  ~~~~~~~~~~~~~ 2. 佐藤優氏の「自壊する帝国」によりますと、次のように描かれています。 当時のソ連は共産主義でモスクワ大学には哲学部無神論学科なるものがあります。これはいかに神がこの世にいないかを究明する学問になります。 このモスクワ大学で試験シーズンになると学生がロシア正教会に出向き、教会へ火のついたローソクを一本立てて合格を祈願するんだそうですが、哲学部無神論学科の生徒は二本立てます。何故一本ではなく二本ローソクを立てるのかと言うと「神が存在しないという事を証明する学問をやっているからには神様が怒っていらっしゃるのではないか」という事で他の学生よりも一本余計にローソクを立てる、との事です。 この他、色々なエピソードがあって大変面白いのですが、これも哲学(理解)よりも宗教(信仰)を優先した例でしょう。 この佐藤優さんという方は、同志社大学の神学部を出ているクリスチャンながら、哲学にも造詣が深く、尚且つ比較的分かりやすい文章を書いているので、この方の書籍も参考にされた方が良いでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~ 上記までに挙げた文章で、人の信仰なるものに対する哲理的理解が得られれば幸いです。 一つ心配しているのが、このご質問は学校のテストに出ているのでしょうか?  (同じような質問がレポート提出と題して投稿されていたので、上手くハメられてしまったのでしょうか? ) そうでない事を祈りつつ。

el156
質問者

お礼

ご回答有難うございます。質問者はレポート提出とは何の関係もない年寄りですので、まずはご安心ください。質問の動機は、「方法序説」を読んだときに神の存在証明の部分に不自然さを感じたからです。 「鳩の迷信行動」は興味深く読ませて頂きました。本題からそれてしまいますが、私はロジカルな思考、行動というのは一つの「便利な道具」に過ぎないと思っていましたので、鳩の行動は納得できます。E.J.リードという生態心理学者/哲学者の本を読んだことがあるのですが、彼は、私たちの行動がマイクロスリップという小さな揺らぎと行動の淘汰によって成り立っていて進化のメカニズムに近いものだと言っています。自分の実感としても、論理は原理ではなくて、揺らぎと淘汰で成り立っている私たちの行動を効率化する便利な道具のひとつというイメージを持っています。直感や迷信も、「論理と並んで」行動を効率化する便利な道具の一つではないかと思います。 この話題は私にとってたいへん興味深い物ではありますが、でも今回の質問の意図とは違っておりまして、質問の意図は、疑うことと信じることの対立に関するものです。私がジンクスを採ったとしてもそれは信仰があるからではありませんし、私はどちらかと言えばお寺の行事に良く参加する方なのですが、正直に言えば仏教を無条件に信じているというわけでもありません。(お上人様には内緒ですが) No.14の方に頂いた回答は、難しくてまだよくわかっていないのですが、私の質問の核心を突いている気がしています。

回答No.14

 いちど区切ったほうがよいかとも思いましたが つづけます。デカルトは困るからです。  つまり デカルトは忘れてください。   《コギト エルゴ スム。》は アウグスティヌスの《あやまつなら(欺かれるなら) われあり。 Si fallor, sum. 》の焼き直しです。  あやまちや欺かれに気づいたとき われは われに還る。そのわれは 《われは われなり》というときの――自然本性にもとづく――人間存在であり その個別の《わたし》です。(必ずしも 証明できるわけではありません。したがって 公理のごとくになります)。  この《われに還る》気づきのときには とうぜんのごとく《コギト》がふくまれます。じゅうぶんに《われ考える》という作業が繰り広げられます。  この《あやまつなら》という条件の内容として部分的に含まれるコギトを 《われあり》の中核にわざわざ焼き直して持って来ただけだと思います。しかも おそらくまちがいでしょう。知解行為だけではなく 自省のあとのわれに還るその意志行為が肝心なのですから。  次の回答を参照なさってください。   【Q:フーコーの『監獄の誕生』と中世の修道院】その回答No.6   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4858613.html  ★(No.13お礼欄) 人間存在に関する《非思考の場》というのは、デカルトのコギトの内側、というような意味になるのでしょうか。  ☆ デカルトのコギト自体が 狭いものだとお考えください。  ★ デカルトはコギトを疑い得ないとしいていますが、神の存在は証明している(少なくともデカルトはそう考えている)と思います。証明されなくてはならない神、という考え方が、なんだか信仰と矛盾するように感じます。  ☆ たぶんコギトをおこなっているわれについて疑い得ないと言っているのだとは思いますが 知解ないし認識の作業だけでは狭いと考えます。理性信仰に発展するというところが おかしいはずです。  神は 証明され得たなら その証明内容としてのコギトないし認識の中におさまります。そんなばかな話はないはずです。ヒラメキ(直感および直観)ないしインスピレーションのほうが コギトよりも 人間存在にとって重要であると思われます。ヒラメキはその内容を コギトによって説明しえてこそ社会性においては意味があるということではあるのですが。  そして 賭けのごとき意志行為が 神との関係においては あります。それを抜きにしては 人間存在は成り立ちえません。  (もっと 複雑ではあります。じつは・じつに わが心の非思考の場には 神のほうからやって来ると思われるからです。非経験のナゾのほうが 経験世界ないしわが経験存在にやって来る。そのあと われはわが意志行為としてこれを受け容れる。    ▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕~~~~~~~~~    自然といふは    《自》はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。    《然》といふは しからしむといふことばなり。    しからしむといふは行者のはからひにあらず     如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。        * 爾(に・じ):しかり。そうである。   ▼ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~~~~    自己を運びて万法を修証するを迷とす。    万法進みて自己を修証するは悟りなり。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  しかも さらにさらに複雑なことには この意志行為としての・したがって経験行為としての《ナゾの受け容れ》じたいも じつは・じつに 非経験のナゾのチカラがはたらいてこそ 成る。というのが 信仰論であり神学です。ゆえに 恩恵・恩寵・めぐみ・たまものと言われます。意識としては わが意志行為であることに間違いありません)。  ★ 他方、コギトは疑い得ないかと言えば、こちらも必ずしもそうとは言えないように思います。  ☆ 有限で相対的な経験行為ないし事象については すべて疑い得るはずです。  ★ 例えば受動意識仮説 (私自身はこの仮説を信じていませんが) のような立場なら、「我思う」ことは錯覚に過ぎないという見方もあり得るのではないでしょうか。  ☆ この見方には少し違和感が残ります。端折った言い方をすれば 《錯覚に過ぎない》場合でも そのコトじたいは 《わたし》の意志行為としては 事後的にでも その意志行為そのものとして認めることになると思うからです。  勘違いだったと分かれば――《シ ファロール スム。》なわけですから われに還り―― その錯覚という行為も わたしの意志行為であると認めることになります。意志しておらず意識すらしていなかったとしても 事後的にわが意志行為であったと認めることになります。満員電車で押されてうしろの人に寄り掛かってしまったその事象は わが意志行為だと認めることになります。何でもないこととして 認め合われましょう。  ★ 哲学には思考を止めずに際限なく疑って欲しいと期待します。  ☆ ただし 次のような図式を考えましたが あまりにも簡略で《杜撰》すぎましょうか?   《わたし》の内面:     非思考の庭:非経験の領域とわれとの関係:わがクレド(信仰)     思考の庭:経験世界およびわれについてのわがコギト(認識)

el156
質問者

お礼

度々お手数をおかけして申し訳ありません。デカルトのコギトではだめなのですね。神の存在証明については、方法序説を読んだ時から腑に落ちないと思っていましたので、神の存在はは人が証明するようなものではないということでしたら確かにそう思います。非思考の庭:非経験の領域との関係:信仰、という部分が大切なのだと思うのですが、まだ理解できていません。リンク先も興味深い内容でしたが、今回のご回答もリンク先もたいへん難しいので、じっくり読ませて頂こうと思います。有難うございました。

回答No.13

 ★(No.9お礼欄) 信仰と宗教を同じように捉えていましたが、信仰と宗教は違う、  ☆ 違うと見ています。  ★ 信仰と哲学は両立するが宗教と哲学は両立しないということでしょうか。  ☆ ええ。宗教が もし(と言ってもほぼ確定ですが)個人の信仰を――教団内のヒエラルキアなる上下の人間関係などによって 教義への服従を押しつけたり生活上の自己表現の自由をも縛りつけたりして――ないがしろにするなら それは 非人道的で人間性に反すると 哲学なら考えましょう。  宗教組織の中で 良心・信教の自由を奪われることはないと言えましょうか?  ★ 哲学する時に信じられるものはあるのでしょうか  ☆ 哲学するというのは 経験世界のものごとを経験思考においてあつかう・つまり《考える》ということです。  《信じる》というのは この《考える》を超えています。経験合理性によってはついぞ分からない事柄 あるいはつまり 考えても分かるか分からないかが分からない事柄 これについては そのまま非思考です。(思考していない状態という意味での無思考でもないわけです)。  人間存在にかんしては 誰でも わが心に《非思考の場》がぽっかりと空いているはずです。    《信じる》というのは この非思考の場に 神なら神 あるいは無い神なら無い神 と仮りに名づけた《非経験のナゾ》を 《わたし》が受け容れることを言います。この《受け容れる》というのは 経験行為です。  そのとき いろいろさまざまに《考える》をおこなっても構わないでしょうが その受け容れを決めるときは むしろやはり非思考によっています。つまりは言わば一種の賭けのごとく 清水の舞台から飛び降りるがごとく 決めることになるようです。(無神論の場合は それほど 悩まないのかも知れませんが)。  このようにして《非経験のナゾの何ものか》を受け容れたあと そのように成り立った《わが心の 非思考の庭》は そのまま信仰の中核として・またその動態として 持続します。  哲学は この非思考の庭については 《非思考》として捉えるのみです。そのほかのモノゴトについて考えるのみです。  では 哲学するわれと 信仰するわれとは どこでどう違っていて どう同じであるのか?  《意志行為》でつながっています。  賭けのごとくに――ちなみにあの B.パスカルがその哲学において 信仰は賭けのごとくだとすでに先に言っているようですが―― 意志を取りまとめて心を決めたという行為は 経験行為であり 哲学が哲学としての知性をはたらかせるときの意志のその意志行為と同じものです。  哲学をおしすすめる意志は その内容として・また成果として 知解作業とその結果を 経験世界のものごととして持っています。  心に非思考の庭を成らせた意志は その内容としても成果としても 非経験なるナゾの世界と――けっきょく無根拠において あたかも雲をつかむようなかたちで――相い対しています。  知解作業は むろん 経験世界の中のモノゴトについて合理性にもとづく根拠や理由や原因などなどを問い求めます。  非思考の庭には そのような根拠や原因がない。と言うか 無いとも有るとも分からない。(ですから 先取りして言えば 信仰は 哲学をそのみづからのうちに持つ。というのが 全体としての《わたし》の存在動態である。となりましょう)。  哲学は おっしゃるように《うたがい》を持ちます。どこまでも《考える》を伸ばしそれをつらぬきます。  信仰は 《考える》を超えています。哲学から見れば いわば完全なる能天気です。完全なる《聖なる甘え》のような状態です。哲学は これを疑いえないのです。考えても分からないのです。その能力が かなしいことに ないのです。その自認と自覚が けなげにも あります。  この哲学の謙虚さをつちかうのが 信仰にともなう《ナゾの何ものか》に対するきよらかなおそれです。  これら信仰および哲学のふつうに人間の人間による人間のためのいとなみを傲慢にもそして阿呆にも踏みにじるのが 組織宗教です。その長はこの地上で 神の代理者であることを自認しているようです。狂気の沙汰でなくて なんでしょう?  ★(趣旨説明欄) 宗教と科学の矛盾に関してはガリレオとかダーウィンの例を良く聞きますが、哲学と宗教の矛盾が問題となった例は聞いたことがありません。むしろ哲学の方が本質的に矛盾するように思うのですが。  ☆ ですから 結論として 哲学は組織宗教と根本的に真っ向から矛盾し ほんとうを言えば敵対します。  ダーヰンにかんしてはよく分かりませんが ガリレオの場合は したがって その宗教と科学の対立は 宗教と哲学の対立と同じ内容を持つと考えられます。

el156
質問者

お礼

ありがとうございます。難解でしたが、たぶん、ある程度わかった気がします。 私は「方法序説」くらいしか読んだことが無いのですが、人間存在に関する《非思考の場》というのは、デカルトのコギトの内側、というような意味になるのでしょうか。デカルトはコギトを疑い得ないとしいていますが、神の存在は証明している(少なくともデカルトはそう考えている)と思います。証明されなくてはならない神、という考え方が、なんだか信仰と矛盾するように感じます。 他方、コギトは疑い得ないかと言えば、こちらも必ずしもそうとは言えないように思います。例えば受動意識仮説 (私自身はこの仮説を信じていませんが) のような立場なら、「我思う」ことは錯覚に過ぎないという見方もあり得るのではないでしょうか。哲学には思考を止めずに際限なく疑って欲しいと期待します。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.12

>、哲学する人の内面では哲学と信仰の葛藤が起きるのではないかと思っていました。 円柱は見る角度によって円に見えたり、長方形に見えたりします。 真上からしか見ない人はこれは円だと言い、 真横からしか見ない人はこれは長方形だと言い果てしない議論が続きます。 しかし、次元を一つあげて見ることができる人は、 これは、円でも長方形でもなく円柱であると言うでしょう。 円柱であるという理解によって二次元的な葛藤は終止符を打つのではないでしょうか。 宗教的視点しか持たない者、哲学的視点しか持たない者、どちらも不完全ではないでしょうか。 どちらか一方の視点しか持たないのなら世界の理解は程遠いということだと思います。 #余談ですがおそらく哲学はわからない部分、例えば神は存在するのかという点においては分からないと素直に認めてしまいますので、そのわからない部分を信仰が担当しても矛盾は起きないはずです。 どんなに哲学が発達しても分からない部分はある、そこを宗教が担当すると考えれば住み分けが可能なのでしょう。

el156
質問者

お礼

有難うございました。そう言われれば確かに、信じるのも心、疑うのも心でしょうから、信じることと疑うことを超えたメタ認知の視点があるのかもしれません。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.11

そもそも宗教と哲学を厳密に分ける必要はないんじゃないでしょうか。 それぞれが世界の一側面であるというだけでしょう。 心臓と肺のどちらが偉いか、どちらを取るか、を議論しても無意味です。

el156
質問者

お礼

有難うございます。宗教は信じることを要求するのに対して哲学は例外無く疑うので、哲学する人の内面では哲学と信仰の葛藤が起きるのではないかと思っていました。疑うことと信じることは表裏一体ということになるのでしょうか。

  • miko-desi
  • ベストアンサー率19% (69/352)
回答No.10

人間は知ることができません!。 「知る」とはイメージを勝手に作り上げることができるだけのことで 例えば、外見を憧れの別人に似せたり、生き方を真似ることができても 別人そのものの生き方は出来ないからです。 そうする必要がないというのが哲学の姿勢。 それで昔の哲学者でジョルダーノ・ブルーノ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%8E という人は汎神論の先駆けのような人。 当時の宗教者の理論を覆してしまった。 科学といえど、イメージを合致させているだけの学問は 新たな理論によって覆される運命を免れることはできない。 だから「私よりも宣告を申し渡したあなたたちの方が真理の前に恐怖に震えているじゃないか」と 潔く真理の前に我を捨ててしまいました。 死後にブルーノの諸説は認められ名誉を取り戻しています。 理不尽ではあるけれど、可哀想と思う必要はないと私は考えます。 人間生きてる時間より死後にまでどれだけ人々に感銘を与えられるものなのか。 そこんとこまで計算に入れると欺瞞に満ちた人生であるより、 貧しく不幸であっても矛盾なく潔い生き方を通せたことが哲学者にとって名誉なのです。

el156
質問者

お礼

有難うございます。リンク先はとても興味深いものでした。ガリレオやダーウィンのような先人が他にもいたのですね。

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