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哲学や宗教は精神安定剤の代替となりうるか。

メンタルヘルスのカテゴリを見ていていつも思うのですが、 生きていてもつまらないとか、生きる意味がないなどのお悩みが満載です。 以前はこういう悩みは信仰、宗教が担当していたのではないでしょうか。 現在は医者が病名をつけて精神安定剤を配布しているようですが、薬で解決できるとは思えません。 今更宗教もないという方は哲学をそれに変わるものとしてどうでしょうか。 デカルトが云々の哲学史ではなく、疑問に対する考え方や、常識という物の相対性などについて気づくことにより自分自身や周りの社会を客観視することが出来るのではないでしょうか。

みんなの回答

回答No.16

主観と客観の統一にどんな意味があるのでしょうか。という事なので再度書かせて頂きます。 これは子供の心を取り戻す、或いは知識や知性は大人になった状態で子供の頃の感情、感動を取り戻すという事になります。是には知性に有りがちな不自由はありません、又生死には囚われない闊達さ、自由が在ります。そうして本当の自由が在ります、この自由という意味は「精神疾患」に対しての自由という意味です。 精神疾患とは有限と無限との境にある割れ目を見ておびえているという事です。悟りを開くという事はその割れ目にかけ橋をかけるという事です。それは知性に本当の命を吹き込むことになります。精神疾患の完治を意味します。 人間は自我意識が在ります。人間にはそれとは違うもう一つの人格が在ります。それは何も教えられなくても人間に教えようとしています。学校に行かなくても、全てを知っています。それは自我意識が何も考えなくても考えています。何も考えていない時に決断します。 結婚をしようと決断するのは自我意識ではありません。論理的にあの人と結婚した場合はどうかとは考えません。人間は「それ」に従っていますが、「それ」を自覚できません。 自我意識と対立と矛盾を起こしているものが精神疾患です。それがもっと重くなって脳波にまで影響が出た時は、「それ」とは申対立しなくなると考えられます。それは対立を通り越して背中合わせになった事を意味していると思います。これは私の独断と偏見です。私は素人です。

shift-2007
質問者

お礼

>人間は自我意識が在ります。人間にはそれとは違うもう一つの人格が在ります。 なんとなく分かる気がしますね。 悟ったと思うと同時にその答えをはじめから知っていたような気分になりますからね。 何度も回答ありがとうございました。

回答No.15

再度の回答になります。人間は本当は「全き存在です」ですがそれが知性によって、二つに割かれてしまう事があります、それが精神疾患の本当の姿かと思います。 それは実存を主観と客観に分けて見てその矛盾に苦しむという事になります。それは一つの事実を二路にして分けているという事になります。その二つに分かれた所の世界が仏教的に言うなら「妄想の世界で地獄を(自分で勝手に作って)自分で見ている事」 キリスト教的に言えば現実の一つしかない今のこの世界を天国と地獄、あるいは天使と悪魔という風にして二つに分けて見ている事になります。 精神的なストレスという言い方をしていますが、これは感じ方の問題かと思います。ある人はストレスにしています、ある人はストレスにしてていません。この違いはその人の認識にあります。精神疾患の本当の原因は本人の認識の誤りと言えます。 それは自我の用い方の誤りともいえます、本当に大事なものを勘違いしている事です。本当に大事なものと、大事ではないものとの見方が分からないという事です。その事を教えてくれる人がいない、或いはそういう機会がない、或いはそういう事が置き忘れられている。今の精神科医達、宗教家達、教育者達全てのそういう人達の中にも分かっている人がいないのかも知れません。それも世界的に見たとしても。それが今の現実の世界かと思います。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >知性によって、二つに割かれてしまう事があります これは精神疾患に限らず普通の事として我々は生活しているのではないでしょうか。むしろ精神疾患者の方がそれを強く感じているのかもしれません。 私がわからないのはなぜ人はそのように出来ているのかということです。二極間の葛藤に陥るようになぜ人は出来ているのかという疑問です。 元々全き存在であるならそれを是として、災いの種である知性など無用ではないでしょうか。 主観と客観の統一にどんな意味があるのでしょうか。

回答No.14

 信仰により救われる人、強い心を保てる人はいるようです。僕は無神論者の為、自分をはじめ人の力や自然の力しか信用しませんけどね。  哲学も精神安定の糧と成り得るを思います。揺るがない自分の生き方の指針となれば、充分効果があると思います。  精神の安定の定義の一部には、自分の存在価値を認めてもらえる場所や行為、自分自身の感じられる時間が有るのかと思います。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 宗教や哲学は古臭い手法ではありますがそれゆえよく効きます。 もちろん万能ではありませんが。

  • myau_256
  • ベストアンサー率25% (126/495)
回答No.13

お礼ありがとうございます(^^ > 本質とは何でしょう。私にとってここでの本質はうつ病になった原因です。回答者さんにとっての本質は脳内物質なのですか そうですね、うつ病をはじめとする精神疾患の原因は、脳内物質の異常ですから。 それに、はっきりとしたストレス源があるわけではなく、純粋に「心因性」と断定できない場合、原因を探っても得られる物は少ないと思います。 それよりも、症状を抑える事や今後の再発防止を考える方が、はるかに建設的で有意義であると考えます。 > その後の社会生活の中でまたそれが頭をもたげてくるのは想像に難くないではありませんか。そのときはまた薬を飲むのですか。 再発防止のために当分薬を飲み続ける方が、そうでないよりも有効という結果も出てるので、主治医の先生の指示に従って、薬を飲み続けると思います。 また、再発防止の観点から言えば、カウンセリングや認知行動療法も有効ですよね。 ただ、私の経験上で言うと、症状が残っているときにカウンセリングや認知行動療法を行うと、かえって症状を悪化させることもあるので、症状が軽快してから(出来れば専門家と一緒に)行うべきだと思います。 同様に宗教や哲学なども、今症状を抱えて苦しむ人にとっては、安易に勧めていいものではないでしょうね。

shift-2007
質問者

お礼

回答者さんがそれを選ぶのであれば私がとやかく言うことではないでしょう。 ただ、私のような考え方を望む人がいるならこのQ&Aをヒントにしてほしいと思います。 ご回答ありがとうございました。

  • myau_256
  • ベストアンサー率25% (126/495)
回答No.12

書き忘れましたが、心の病気と薬については、以下の参考URLが、非常によくまとまっていると思います。 一度お読みになってはいかがでしょうか。

参考URL:
http://kokoro.squares.net/deplec.html
shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 確かに一度この種の専門家と膝を交えたいですね。 回答者さんは他の方の回答を読んでどう感じましたか。

  • myau_256
  • ベストアンサー率25% (126/495)
回答No.11

お礼ありがとうございます(^^ > 精神疾患の定義や病名に興味はありません。 > 人が自殺する理由が本能でなければ心理的なものでしょう。 私の回答をお読みになってないのでしょうか。 うつ病の本質は、脳内物質の異常により、生きる本能、執着が失われてしまうことなのだと思います。 それによって、食欲不振、睡眠障害、性欲減退、希死念慮などが起こるのではないでしょうか。 うつ病をはじめとする精神疾患による自殺は、ある意味「病死」と同じと言えましょう。 精神疾患は古来から存在するものであり、「なかったこと」のように扱うことは、害が大きいと思います。 他の臓器と同様に、脳も病気にかかるわけで、そのうちの一つが精神疾患である事、現在では薬も開発され、「治る」病気となってきていることは、決して無視できない事実です。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 今度はわたしがお気に召さないお礼を書いたようですね。 前もって書きますが、精神疾患を十把一絡げにはしていませんのでその辺は了解してください。 >うつ病の本質は 本質とは何でしょう。私にとってここでの本質はうつ病になった原因です。回答者さんにとっての本質は脳内物質なのですか。 以前のお礼にも書きましたとおり、脳内物質の異常は原因に対する結果ではないでしょうか。薬を飲むというのは対処療法であって根本的な原因に対してはなんら効果がないではないですか。原因とは悩みとそれに付随するストレスであって、脳内物質の異常はそれによる結果ではないでしょうか。 なぜ、原因に目を向けないのですか? >うつ病をはじめとする精神疾患による自殺は、ある意味「病死」と同じと言えましょう。 そういう側面もあるでしょう。しかし別の側面もあるではないですか。 薬によって食欲不振、睡眠障害、性欲減退、希死念慮が消えたとしても、その後の社会生活の中でまたそれが頭をもたげてくるのは想像に難くないではありませんか。そのときはまた薬を飲むのですか。 薬さえ飲んでいれば万事OKではありませんでしょう?

回答No.10

若い頃ノイローゼに悩まされて18年間の悪戦苦闘の末に、何人かの方達のお陰で、ノイローゼの完治をさせてもらった者です。その経験から書いてみたいと思いますが、私の話は今の常識に反しているかも知れませんし、また間違いかも知れません、只貴方と同じ様に、今の医療を考えています。そして本当の考えを言いますと「今の精神科医」達は本当の治療をしていないのではないのだろうか?とさえ感じています。何故ならば、精神疾患の本当の原因が分かっていないと思えるからです。 精神疾患の本当の原因は、心の矛盾から起きています。その心とは一つは「自我意識」です。是は左脳にある人格のことです。もう一つは右脳にある人格のことです。これはお釈迦さまが云った「仏性」というものです。仏性は自覚できにくくなっているようです。 本論に入る前に少し説明をしておきます、自我意識というものは左脳の「現意識」です、これは分別する事を専門としています。逆な言い方をするなら分別できないことは、理解できないと云う事になります。 「仏性」というものに付いても説明しておきます。これは誰でも持っているものです、何故ならばこれは右脳の意識と言えます。そうして専門は、無意識を統率しています、そして専門の能力は分別出来ない事を分別したり、言葉に出来ない事等の処理です。言い方を変えるなら「感情、感動、体を使ってする事全般。これの働きは人間が命を支えて生きてゆくには、必ず必要とされている事と言えます。 人間社会が便利になって、科学が進んでいくように見えても人間の、心に対する理解は、お釈迦様の時代からなにも進歩していないように感じます。人間の悩みや苦しみは、たいていの場合が「心の矛盾」から起こされています。心が言い争いをしている状態という事です。 その事を説明してみます。自我意識は、自我意識だけだったら何も感じないのかと思います。自我意識に教えているものがいます、それが仏性です。高速でカーブを曲がる時「怖い」と思わせる者が自分の中に存在します。鋭い刃物を見た時に、お尻のあたりがモジモジする感じにさせるものが存在します。人に会う時に、初めての人ならなおさら怖い感じになります、これもそうさせるものが存在しているからです。 その他にも数え出したらきり、際限なく人間は色々な事を感じています。それらの背景には感じさせるものが存在しているためです。それは人間が生きてゆくために授かった能力です。それは分別出来ない事を分別する能力です。目の前の事実のみ自我意識に伝えてゆくという役目があります。 例えば神経症の症状には「何々恐怖症」という言葉があります、これは感じさせる者を、拒絶してしまうことと言えます。これは自我意識が仏性を(怖がって)無視してしまう事です。この事は「無意識」に入りにくくなる事を意味しています。人間は意識と無意識とが絶えず入れ替わって生活が成り立っています。それは二つの意識の意見交換も兼ねています。この事から「無視をされた右脳の意識が」無言の抗議をする事になります、これが精神疾患の本当の姿です。薬を飲んでもその場しのぎにしかならない、という事になります。 その症状というものが分からない者からの圧迫感、漠然とした不安、罪悪感などです、そしてその正体は、二つの意識(脳)のせめぎ合いです。これが心の矛盾です。精神疾患の解放は自分自身を知るという事です。つまり悟りを開くことです。その事によって二つの意識の間の溝が埋められるという事になります。心の矛盾の解消は自分自身を知るという事で成就されます。 もう二度と心が争いをしなくなります。それが悟りを開くという事の意味となります。何時も心が穏やかで、静まり返っている」という事になります。 心が不安になってきた時に、セロトニンが出にくくなります、これはセロトニンの出が少なくなったから薬で補ってやろうという事です。ですが不安に対しては何も手を打っていません。また不安になります。世界中の精神科医達は、たいていがこの事に気付いていないように見えます。不安に対する認識が浅いような気がします。 宗教は心の矛盾の解消を促してくれます、右脳の意識とは宗教そのもの、或いは神、仏といっても良いものです。その証拠を挙げて結びの言葉とします。禅問答が解けたかどうか?と聞く時に「生死の問題が解決したかどうか?」という聞き方をします。もし禅問答が解けたなら「生死の問題が解決した」と答えます。禅問答は左脳の分別脳では解けないからです。禅問答が解けたという事は右脳の仏性がでて来て問題を解いてくれたことを意味しています。 それは脳の機能の問題です。分別脳に割り切れない問題が割り込んできたという意味になります。精神疾患は解けない問題(脳の機能という意味です)を前にして立ち往生している姿と言えます。悩みの正体は自我意識(有限)から(無限)仏性を眺めて矛盾に苦しんでいる姿と言えます。

shift-2007
質問者

お礼

以前、私の質問に回答していただいた続きを読んでいるようで楽しかったです。 そもそも人の悩みが薬で解決出来るはずがないという単純なことに行き着くわけですね。 さて、面白くなってきました。 このカテでそんなことを言ったら不謹慎ですね。 ご回答ありがとうございました。

  • okgoo08
  • ベストアンサー率51% (109/211)
回答No.9

♯7です。お礼ありがとうございました。 >年間3万人という数の自殺者数をどのように考えればいいのでしょう。 自殺者3万人全てが精神疾患を患っている訳ではないと思います。 その原因の根本には経済的困窮・人間関係(いじめ)等の社会的な諸問題が含んでいます。 そうなると医学、哲学、宗教で救えるかではなく、社会のセーフティーネットの整備等インフラの問題になりますので 「哲学や宗教は精神安定剤の代替となりうるか」とは切り離して考えるべきだと思います。 >医者に行く前に、病気になる前にするべきことがあると思うのですが これなんですよね。 今の時代の人間関係に問題があるんじゃないでしょうか? 「生きていてもつまらないとか、生きる意味がないなどのお悩みが満載です。」 本来なら、そのような事を打ち明けられる友人関係とか相談相手が有っても良いと思います。 ところが、その様な発言をすれば「ダッサー」「キモイ」とか「話が思い」のが現状ではないでしょうか? その様な現状でこのサイトに匿名で質問し、慰められるくらいしかないのかもしれません。 そんな世俗ですから、哲学や宗教には目が向かないのでは? そうなると、残るは医学しか頼る所がないのが現状でしょうね。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 やはり人は一人では生きられないということなんでしょうね。 他人や社会との関係をうまく構築できないというのがそもそもの原因なのかもしれません。 >その様な現状でこのサイトに匿名で質問し、慰められるくらいしかないのかもしれません。 このような事態は悲しいことですね。

noname#68928
noname#68928
回答No.8

No.4です。再投稿させて頂きます。お礼ありがとうございました。 自殺の影に鬱病を含めた精神疾患ありき――が今回のテーマと思って良いのでしょうか。(前回は、なぜ悩みが長引くのかが二次的なテーマと捉えておりました。なので経験者として投稿してしまいました。) 自殺に走る人は、本来真面目で人に頼ることを恥と感じている人、逃げることを潔しとしない人、または孤独で誰も頼れる人がいない人、誰からも理解が得られないと悩んでいる人だと思います。 日本は未だに政治家の失言で、単一民族国家論が世を騒がせるだけあって、多様性を認めない国です。自殺に行き着いてしまうほど精神を病んでしまう状況の影には、いじめが潜んでいると思います。これは心を病んでしまった人に哲学が、宗教が、というレベルではないと思います。死を選ぶ人は前向きに、自分を励ましながら精一杯頑張ってきて、努力に努力を重ねてギリギリまで精魂使い果たした人が殆どだと思います。真面目ゆえに死を選んでしまうのだと思います。本格的に哲学を学ばなくても、自身の中には哲学があったと思います。むしろ哲学がないのはいじめをしている側だと思います。だから難しいのだと思います。 宗教も人を救えるかどうかは難しい。以前ここのカテで質問していた方が、自分たち兄弟が母親の信仰心の犠牲になった苦しみを吐露されていました。間違った信仰心の犠牲になった人にとって宗教は意味をなすものと捉えにくいと思います。また苦しみが深ければ深いほど、自分の中には人よりも強固な哲学が刻まれているという自負があると思います。だから新たに哲学を学ぼうとはなりにくいのではないでしょうか。 宗教も、子供のうちから親に押しつけられたものではなく、自分の価値観に合ったものなら精神を安定させる力はあると言えましょう。 哲学、これは先にも触れましたが、死に向かう人の中には自分で築いてきたものがあると思います。むしろ哲学的に生きてきた人の方が死を選ぶ傾向にあるのではないでしょうか。 哲学は自分の内側に向かっていく力が強いから、真面目に己に向き合う人の中には哲学的思想の存在は大きいと思います。自分一人の哲学ではなく、対話を通した哲学なら死に向かっている人を救える力もあると思います。 宗教も哲学も対話がなければ、通い合うものがなければ死に向かう人には意味をなさないと思います。 また投薬治療はあくまでも対症療法です。しかし一定の効果が認められている以上これは必要でしょう。難点は、心因性が内因性を引き寄せてしまう以上なかなか薬が切れないという現状でしょう。 確かに良い治療薬が出てしまうと、なかなか自分自身「にも」問題があるという発想にはたどり着けなくなるでしょうね。中には統合失調症のように薬の力が一生必要な精神疾患ではないにも係わらず、薬に頼り切ってしまう患者も出て来てしまう可能性を含んでいると思います。 医者が患者にまだ投薬が必要かどうか迷っている段階に来ているとき、哲学は有効性がありそうです。でも、哲学が有効に働くのは内省的な人に限っての話だと思います。また極端に内省的な人には反って害があるのではないかと思います。この場合はやはり、対話を通した哲学でなければならないでしょう。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 一口に哲学といっても自己中心的なものから宗教的なものまで色々でしょう。 おっしゃるように対話の中から正しい道を見出していく必要があると思います。 >自殺の影に鬱病を含めた精神疾患ありき 精神疾患の定義や病名に興味はありません。 人が自殺する理由が本能でなければ心理的なものでしょう。 心理によって死ぬなら、心理によって生きることも出来るはずです。 心理を正しく導くための道具として、宗教や哲学を利用すればいいと思うだけなのです。

  • okgoo08
  • ベストアンサー率51% (109/211)
回答No.7

こんばんは >哲学や宗教は精神安定剤の代替となりうるか。 精神・心療医学は薬物治療ばかりでは有りません。 治療のアプローチとしては、薬物治療がコストパフォーマンスに 優れているので、第一選択になるのは当然の事と思います。 さて、薬物治療で効果がないケースはどのような選択肢が有るかと言えば心理療法でしょうね。 カウンセリング、精神分析、認知行動療法、森田療法、内観法etc その中でも、森田療法の「あるがままでやるべき事を行う」や白隠禅師の教えの流れから派生した 今までの生き方を省みて、いかに周囲の人に助けられて、生かされてきたか実感し、感謝の念を持ち自分を内省する内観法 後は、私の体験ですが、過敏性腸症候群(心身症)で薬では効果がなく、医療行為として絶食療法 15日間、外界との接触を経ち(医療関係者のアプローチは除く) そのうちの10日間水分と必要最小限の点滴で、何も食べず過ごす療法で治癒しました。(大学病院の心療内科に入院して受けました) 何故効果が有るのかまだ完全に作用機序は判らないそうです。 担当医の一人は何かに気付くことで症状が治まると言っていました。 その気付きとはサブミラル的なもので、表層意識には出てこない潜在的な信号?と言う様な感じでした。 また、それが直ぐに始まるのか、後で起こるかは人それぞれだそうです。 その療法を紹介してくれた心療内科医は、僧侶が行う荒行に近いものと表現していました。 これらは正当な医療行為として認められてますが 東洋的なアプローチの療法ですから、宗教的アプローチの要素が多分に含まれていると思います。 哲学や宗教が薬物に代替なりうるのではなく、疾患の原因や要因によっては 宗教や哲学の要素を含んだ療法が薬物治療に勝る場合もあると考えられては如何でしょう。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 いろいろな治療方法があるのですね。 それらを使って治療がうまく行っているのであればいいのですが、年間3万人という数の自殺者数をどのように考えればいいのでしょう。 医者に行く前に、病気になる前にするべきことがあると思うのですが。 私は人間はもっと強いものだと思うのです。 或いは思いたいのかもしれませんが。

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