やはり宗教カテは残すべきであった

このQ&Aのポイント
  • 宗教カテは存在していましたが、ある時期に消えました。その理由は管理上の理由であり、宗教に関する議論は口論になりやすいためです。
  • 宗教と哲学は異なる存在であり、宗教が哲学カテに含まれていることは問題です。宗教は信じるものであり、神や仏、あの世に関連するものを論じます。
  • 宗教カテが存在しない現状では、宗教と哲学は分離されて議論されるべきです。宗教の本質を理解するためにも、宗教カテの復活が必要です。
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やはり宗教カテは残すべきであった

  かつて宗教カテは存在していました。 しかしある時期(2000年12月21日とされる)をもって宗教カテは消えたのであった。 その理由については、以下を見れば分かります。 http://okwave.jp/qa/q6616400.html 簡単に結論すると宗教に関する質問、議論、問題提起は口論になりやすく、管理上収拾がつかないので消されたということです。 つまり宗教一般には自浄能力が欠けているってことなのです。 神や仏を語る者に限って、自らを清める能力を欠いているって証拠なのです。 ではあるが宗教カテはやはり残すべきであったのではないか。 その理由は、宗教と哲学は厳然として異なるからです。 宗教は信じるものであって、神や仏を論じるもの、天国や地獄などあの世について信じ語るもの、その他これらに関連する奇跡とか終末とか末法とか戒名とか葬式事とかの儀式的なものの類です。 一方哲学は純粋に真理の探求であってその中心は人間と宇宙の正しい理解です。 宗教カテが存在しない現状においては、宗教は哲学とは無縁のものであるにも関わらず、あたかも哲学であるかのように錯覚して、神学やら仏教やらを哲学カテの中で論じているのですが、この状況は哲学にとっては甚だ迷惑なことなのです。 神や仏、天国や地獄、また奇跡や終末や末法や戒名や葬式事について語りたいのであれば、その共通世界の中で思う存分、徹底的に語ればよいのではないでしょうか。 その結果地獄絵のような議論が巻き起こるかもしれない。 しかしそれが宗教の本質を物語るのであれば、それはそれでよいのではありませんか。 それ故やはり宗教カテは残しておくべきであったと思うのですがどうでしょう。  

質問者が選んだベストアンサー

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noname#214841
noname#214841
回答No.5

こんばんは。この問題に関する私の見解はすでにご存じでせう。もちろん、質問文に賛成です。 形式的に問題となるのは、宗教に関する質問を投稿しようとした人が、どこのカテゴリを選んだらよいのか悩むことです。しばしば、宗教の質問文の末尾に「ここのカテゴリでいいのですか。」と記載されてゐるのを見かけます。私自身、初めて投稿するときは、宗教カテゴリをずいぶん探しました。 どうせこのサイトはあちこちで争ひがあるのですから、宗教カテゴリを作つたところで、あまり変りはないと思ひます。いちばん争ひをすべきでない場所で、最も激烈な戦ひが起るのは皮肉ですけれど。 *** *** *** *** *** 「科学と宗教」の質問ページに投稿した内容を、お詫びしなければなりません。日本では、科学と宗教の混同について議論されることが少ないので、このQ&Aサイトで提示しても具体性が乏しい、と書いたのですが、誤りでした。このサイトの投稿文そのものに、科学と宗教の混同がいくらでも見られることに気付きました。科学の宗教化、宗教の科学へのよりそひ、これは科学と宗教、両方にとつてふさはしいことではありません。 同様に、哲学と宗教も別カテゴリとして設置すべきだと考へます。 *** *** *** *** *** 現状維持が大方の趨勢ですが、その旨、OKWaveさんには、メールでお知らせしました。

utayomi_2011
質問者

お礼

  >どうせこのサイトはあちこちで争ひがあるのですから、宗教カテゴリを作つたところで、あまり変りはないと思ひます。 注意して見ると不毛な落書きの多くは宗教がらみであることが分かるはずです。 だから宗教カテを設けて、不毛な落書きはそっちに掻き集めるのです。 これによって哲学を宗教から切り離し、不毛な落書きをなくせば少なくともここでの争いはなくなります。  

utayomi_2011
質問者

補足

  >科学の宗教化、宗教の科学へのよりそひ、これは科学と宗教、両方にとつてふさはしいことではありません。 確かそんな問答があったのを思い出しました。 なぜ宗教が科学へ寄り添うのでしょうか。 その理由は唯一つ、宗教が自身の宗教を信仰していないからであると結論します。 宗教カテを望まないのは、実は宗教自身にあるのでしょう。 どんな宗教も純粋な宗教世界の中では生存出来ないのです。 だから宗教は純粋な宗教世界を敬遠するのです。 宗教者は外界においては宗教者として振る舞うが、その宗教界内部においては宗教者であることを拒むものです。 実際このような状況は殆どの宗教者に共通に見られる傾向です。    

その他の回答 (24)

回答No.27

 >宗教的タブー<  普段の生活やテレビの中で、宗教的話題や宗教的生活を日常会話的にできないということですね。(できますか?)  無宗教が当たり前になっていますが、自分の価値が低いと思っている若者も世界で日本人が一番多いそうです。  国家神道のもとに戦争に突き進んだ日本の歴史と後悔、その後の状況(オウムへの地域住民のものすごい攻撃等)を本当に理解できないのでしょうか。    

noname#210533
noname#210533
回答No.26

誰かを救済する、などという御大層な傲慢な気持ちでなければ、 誰かの相談に一時寄り添って、僅かばかりでも役立ててもらえれば、と 慰めなり、アドバイスなりを書ける場所はいくらでもあります。 ライフ・カテゴリーの中なんて、それを必要とする人が毎日何百人も 訪れるのですから。 誰かのために何かをしたい。 宗教にもそういう側面があったはずでしょう? なら、宗教カテゴリー、などというごった煮の鍋が無くても いくらでも誰かのために考えたり、心を悩ませることは 出来るはずです。 そうではない、宗教カテゴリーというものの中で、いかに 自分の宗教的な哲学が正しいのかを人々に知らしめなければ ならない、などと露ほども考えておられるのならば、それは 余りにも個人的な欲求に過ぎない、ということを冷静に 考えてみるべきだ、と申し述べて筆を置くことにします。 カテゴリーがなければ語れない主張など、所詮、自由な 深い思考からは縁遠い、誰かの話の焼き直しに過ぎ ないのですから。 静かに深くものごとを考えるのに、カテゴリーなど本来、 必要とはしないものですよ。 あなたは、宗教という「得意分野」を離れて、ご自分の 不満について、ありのままに見つめることから始められる べきかと存じます。 二度も三度も駄文を連ねたこと、お許しください。 それでは、ごきげんよう。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.25

>「信教の自由の意味、やっと分かってくれたんだね。」 「「宗教カテ」で、地獄絵のような議論」ですか。 人権を侵害しないでね

utayomi_2011
質問者

お礼

  かくにん! よかった  

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.24

こんばんは。 >「えーと、 信教の自由ってのは空気を吸う自由と同じで、もともと人は何を思おうと勝手なんだよね。 そんな空気を吸う自由みたいなもんをどっかの国から押し売りされて、日本はそれを高値で買ってしまいました。 その結果、オウム真理教みたいな化け物が出てきて、信教の自由、信教の自由とわめきたてるよーになったんである。 だから信教の自由、信教の自由とわめきたてるやつはオウム真理教と同じで要注意人物ってことになるんだよ。 分かりましたか。」 それでは、「信教の自由」の本質を衝いたとは、申せません。 「何を思おうと勝手」、それはそうなんです。 思っている分には、何を思ってようと、咎められません。 ところが、その先に、「信教の自由の限界」というのは、あります。 つまり、「実行」に移した途端、「そんな自由は無い」と言われてしまう。 そんな自由は、無いんです。 オウム真理教を「化け物」と言えるのも、「信教の自由には限界がある」 という理解があってこそ、です。 「何を思おうと勝手、ですが、実行したらイカン。」 意外と、いろいろあるんではないですか。 ・・・人権侵害を可能とするような者こそ、要注意人物です。

utayomi_2011
質問者

お礼

  >「何を思おうと勝手、ですが、実行したらイカン。」 意外と、いろいろあるんではないですか。 信教の自由の意味、やっと分かってくれたんだね。  

回答No.23

質問者さんは、宗教と哲学をあまりにも単純化してとらえていないでしょうか? >宗教は信じるものであって >一方哲学は純粋に真理の探求であってその中心は人間と宇宙の正しい理解です。 まず哲学のほうも、その大部分は反証も証明もできない、思想のかたまりです。 では反証も証明もできないものを、なぜあえて主張する人がいるのか、といえば、 その人はその思想を信じているからでしょう(好意的に解釈すればの話)。 それぞれの宗教には、それなりの体験等信じる理由がある点では、実証性をもつ面はあります(誰にでも確かめられるものでない可能性はあり)。 実質、宗教と哲学の違いは、真理を求める方法が異なる、というくらいではありませんか? もっとも宗教は、歴史的にはその組織が権威をもって、人の自由を侵害してきたという面はありますが、多くの近代社会では、程度の差こそあれ政教分離が採用されおり、宗教組織は信者以外をしばるような世俗の力を失っていて、心配はないでしょう。(オーム真理教など、世俗の力にいどもうとする組織でなければの話です) そのような近代社会においては、宗教には積極的な意義があります。生きる意味を提示するということです。それぞれの人は自分の納得できる意味を、特定宗教に見出すかもしれません。「生きる意味」の追求を放棄したといわれる最近の哲学にはない魅力でしょう。 哲学にとっては宗教といっしょなら迷惑だということではなく、宗教は宗教としての現代的意味があるので、宗教カテも本来は大切かもしれないとはいえます。(荒れることへの対策は、また考慮すべき別の大きな問題です)

noname#210533
noname#210533
回答No.22

お礼をどうもありがとうございます。 宗教が何故争うのか、一つにはなれないのか、との ことですが、争っているのは宗教ではなくて、人間です。 宗教が世界を救済できる、などと考えるのは、酷い言葉で 言えば暇人の机上の空論に過ぎません。 それは言い過ぎだ、と怒らないでくださいね。 現に、古今東西 宗教こそが諸悪の根源でもあったのです。 それは認めなければなりません。 正義と悪を定義し、神と悪魔を定義するのがアニミズム以外の 宗教の本質の一つだけれど、それらは常に正義を名乗り、 ひれ伏さぬ異教徒を悪と決めつけ、一方的に侵略する 名目として常に使われてきました。 宗教というものが、本質的に個々の人々の自由な個人的 価値観を否定し、教義という統一思想に帰依することを 強制する性質は、人間をロボットのように操られる群として扱う、 いわば「本来の人間性の否定」、を隠された根幹の原理と する、これも否定できない真実の姿、宗教というものの正体です。 帰依すること条件に、格差とそれに続く苦しみを否定し、 公平・平等、という「実は有り得ない虚構」の異次元空間を 生み出すことが出来ます。 この言葉は多分に否定的な表現ですが、様々な宗教が生み出して 来た、様々な文化、文明を鑑みる時、宗教イコール文明であった、 と言っても過言ではありません。 宗教は、根元的に悪を含むのです。 何故なら、善悪を一義的に統一しようとすること自体が、 カオスたる人々の心や考えをどちらかに区分するからです。 そして、当然ながら、その教義に近い場所に居る人々は、 自分達と教義を同一視させることで勢力を伸ばす。 進化して知性と言う強力な生存能力を獲得した人類の、 宗教とは正しく牙であり、爪でもあるのです。 宗教により、無数の殺戮と地獄が現出せられ、悪を内包した 凄まじい強さを持つ権力がいつの時代も確立されてきた。 出自そのものに悪を内包する宗教というものが、本質的に 絶対人間を救済し得ないのは自明の理です。 盲目的にその教義をなぞり、帰依しなければ悪の烙印を 押され、一切の異なる言い分は否定され、従わなければ 屠殺される。 女も老人も、赤ん坊さえも、です。 宗教が定義する、神・正義・真実、という概念そのものが 同時に悪を定義し、無理やりにその矛を向けるのです。 人としての自由を棄て、自由な心を棄てろ、と。 つまり、死を要求するのが、宗教の本質なのです だから、文化ではあっても、全人類の救済など、本質的に ありえないし、してはならないのです。 あくまで、思考の方言の数々として、文化の体系として、 多様な存在を位置付けられて均衡を保つことが、世界の 平和につながることに他なりません。 でも、多くの宗教で死を生と、束縛を自由と言い換えて 人々に説法するのは酷い矛盾ではありますが、興味深い 倒置思考だとも言えます。 宗教は文化です。 それらの教義をまともに前提としては、決して議論が 成り立ちません。 宗教家は基本的に神ありき、結論ありきの極論を語るので 客観的・科学的な議論を度々受け付けません。 客観性こそが、公共性、平等性を担保します。 同時に、平等性を否定しても、特定の誰かを守ろうとする 愛が、平等に抑圧される人々の、真の救済として機能します。 そして、愛を教えるだけでは、宗教足りえないのです。 何故なら、社会に影響力を持ち得ないから。 愛は、影響力とは無縁のものです。 誰かの為に、無償で与える事、なのですから。 そして、愛に報いようとすることなのですから。 愛は、生ものです。 いじくりまわした時から、腐敗が始まるのです。 愛はどこにでもあり、普及を目的に播種する物では ありません。 愛を教義とした瞬間から、その愛は腐敗し、腐臭を 放ち始めるのです。 だから、塗り固める。 白く、白く。 真っ白いものをわざわざ白く塗る必要はありません。 黒いものだからこそ、白く塗るのです。

utayomi_2011
質問者

お礼

  あなたの考えはよく分かりました。 つまり宗教は一つには成り得ないのであるから、宗教カテを作っても無意味であるとの結論ですね。 ありがとうございます。  

noname#210533
noname#210533
回答No.21

カトリック、プロテスタント、仏教にも様々な宗派があるし、 イスラムもしかり。 それぞれの宗教別にだったら、あってもいいと思います。 何故かと言うと、夫々の教義と信者の姿が、外部の人間から 理解しやすい形で「翻訳」される、と考えられるからです。 実のところ、キリスト教にしてもイスラム教にしても 原理主義者は必ずキレてテロルに走ります。 でも、例えばポコ・ハラムのような凶悪極まりない「教義」は 多くの宗教が禁じる偶像崇拝そのものです。 勝手に自分達の不満と欲望のカタルシスを得る偶像として 再構成された、いつわりの神。 多くの敬虔な信者たちの考えには、そのように歪んだものは 無い筈なのです。 全ての宗教は、救済を目的に編まれたものだから。 でも、無宗教者にとって、その思考形態や価値観、行動様式、 集団としての緊密さなどを考え合わせると、不気味な異種族と 捉えてしまいがちです。 例え現代の科学的な見地が殆ど反映されていないとしても、 連綿と続く人の社会のありかたについて、様々な示唆に 富んでいることは疑いない事実だと思いますし。 平たく言えば、聖書は判り難いが、信者が日々肉声で語る それは、色んな意味で分かりやすいし、理解の穂口を掴み 易い。 そういう意味で、主要な宗教分類に従った宗教カテゴリーの 再構成は有意義であるようにも思います。 関西弁と沖縄のウチナーグチを並べて優劣を語る程にも、 別々の宗教を並べて語ることには意味を見出し得ません。 だって,それで現実世界では戦争ばかり起きるんだもの。 宗教は、一つの教義で一つの社会を構成する。 そう考えた方が平和裏に人が集まれると思うのです。 全ては、社会のために、ね。

utayomi_2011
質問者

お礼

なぜ宗教は一つになれないのでしょう。 なぜ宗教は互いに争ってばかりいるのでしょう。 それは社会が悪いからか。 それとも宗教が悪いからか。 宗教が人を救うのか。 それとも人が宗教を救わないといけないのか。 宗教は赤子のようなもので人が救ってあげないと宗教は成り立たないのか。 いずれでしょう。  

  • miko-desi
  • ベストアンサー率19% (69/352)
回答No.20

>日本の宗教タブー お節介にも色々列挙して差し上げようか、と思いましたが留めておきます。 宗教関係者自体が知ってて言いたくないことばかりだろうから。 言論の自由には「伝えない自由」「捏造する自由」「お金に従う自由」も含まれている ことはマスコミニケーションの基本です。 その自由を取り上げてまで本質を物語らせるなんて…。 私も心が痛むところがあります。 この世は清濁混同で、厳密に探ると本質が汚く見えて来てしまうもの。 なので曖昧なまま採用する哲学的態度(非合理主義)は宗教に対する思い遣りとして受けて。

回答No.19

 No.6です。お礼をありがとうございます。  もしかしたら、この質問に関心を持っている時点で、日本の宗教タブーをすごく気にしている自分がいるかもしれません。  天皇問題などをなかなか議論できないように、タブー的なものを議論するということの危なさはどう思うのでしょうか。  テレビに出るような限度をわきまえている人同志ならまだしも、限度を知らない一般人同志でやりあうのは危険極まりないんじゃないでしょうか。提案として火を焚きつけるのは自由ですが、責任、後始末はスタッフの方に行くと思うので。  これだけ神社仏閣に囲まれながら、日本人は無宗教という意味もよくわかりませんが、まあアメリカ教でいいんじゃないでしょうか。いまだに勝ち組以外に、希望的人生はないような・・・

utayomi_2011
質問者

お礼

> 天皇問題などをなかなか議論できないように、タブー的なものを議論するということの危なさはどう思うのでしょうか。 タブーであれば議論してはならないのかい。 タブーを守れば誰が得をする。 そんなんでこの世界とその文明に進歩はあるのかい。 日本の宗教タブーて何なのか分かるように自分の言葉で説明してくれませんか。  

回答No.16

すでにこの質問・回答は荒れ放題ですな。 オーム真理教は、洗脳手段を使っての強制など、思想・信教の自由を侵害しているのですよ。 自由とは、他者の自由を侵害する自由はない、という公共性の基礎でもありますね。 広義の犯罪とは自由の侵害、こういう基本から離れると、荒れ放題になります。

utayomi_2011
質問者

お礼

  世の中には当たり前の自由ってものがあります。 空気を吸うのは自由であり、水を飲むのは自由であり、寝るのは自由であり、首を回すのは自由であり、・・・などなど。 それを一々、空気を吸う自由、水を飲む自由、寝る自由、首を回す自由などとは言わないものである。 信教の自由もこれと同類であって、ほんらい人は何を考え何を思おうと勝手なのである。 それをわざわざ信教の自由などと格別なもののように扱おうとするから、これを盾にオウム真理教やら創価学会の如きカルトが出てきて世の中を荒らすのです。 信教の自由を主張するのは今ではある種の危険信号と見なした方がよいのです。  

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