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日本の宗教
日本の宗教。日本人は神社やお寺などにいってお祈りをするし、クリスマスも祝います。お墓に入るときはそれぞれの宗派によってお経がちがったりしますよね。熱心な信仰者でなく極普通の日本人。都合のいいときに神様がいたりする(入試の前にお守り買ったりしますよね。)日本人について、カトリック信仰者でベネズエラ人の友達に説明したいのですが、すごく難しいです。しかも英語で説明しなければならないので。日本語でいいのでなんて説明していいかあなたの考えを聞かせてください!
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説明は済まれましたか? 答えではなく考えを求めていらっしゃるようなので勝手なことを申します。 ご質問が「日本の宗教」となっておりますが実際に問われていることは日本人の宗教観ということでしょうか。特に重層信仰についてですかね。 既に前の方々も指摘されていますがやはり日本人の宗教観に問題があると思います。 どこの国の民族にも古来独自の神々をそれぞれ持っていたものと言われています。ベネズエラにもきっとあったと考えられますから逆に聞いてみられれば。(それが今はどうなったか。) ところでその民族独特の神々ですけれど日本の場合ヤオヨロズとかかで表せ、それらの神々との関りは恐れと恩恵が人々を縛り付けています。と申しましても体系的な教義などは無いようですし、宗教形態としては極めて原始的なものと言えます。即ち「己を問う」等という問題はそこからは直接的には見えてこず、自分がモノを獲得するのが宗教の目的であるとでもいうようなもので餌をもらうために尻尾を振る犬と飼い主のような構図しかありません。ただ昔の日本人なら神の恐れも意識したのかも知れませんが今は恩恵だけを求めているようです。 結論は日本人の宗教意識は極めて原始的段階であるということが全ての根源です。その意識(原始的宗教の理解でを宗教一般を捉え、己の利益が第一で利益とセットのタタリ、オソレは独善的理屈で片隅に押しやる)が重層信仰をためらいもなく可能にしているのです。 無宗教と言いながら初詣に行き願い事をすること、これこそが原始宗教の姿であり、意識であります。 これが日本人の個人個人に関する原因ですがもう一つ歴史的社会的原因があります。 地域・民族限定の神々への信仰も高度な体系的教義を持つ宗教が入ってくるとそれへ吸収もしくは駆逐されて行く可能性が大いにあります。日本でも仏教の庶民レベルへの普及とともに土着の神々と「仏」との関係は本地垂迹(ほんじすいじゃく)とか方便とかの関係で語られ始めます。(要するに神々は仏教を広めるための「仏」の仮の姿ということでしょうか。) 仏教側の思惑が順調に進めばもしかしたら今ほどひどい重層信仰は無かったかも知れませんが江戸時代に寺檀制度(全ての家がどこかの寺院に属している制度、個人の宗教から「家の宗教」という概念はこの時に出来たと言えます)が出来たことによるための寺院の更なる貴族化、および幕末頃よりの国粋主義の台頭、明治よりの神道の政治的保護により唯一人々の宗教意識を原始的なレベルから高次元へと高められる。あるいは既存のそういう次元の意識を継続させ得る可能性を持っていた仏教・僧侶が怠慢となり、また抑圧を受けたためキリスト教徒レベルへの宗教意識・概念の形成・維持が成し得なかった為。というのはどうでしょうか。 だらだらと長くなり読みにくくなりも申し訳ありませんでした。
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- chaff
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先の方の回答にもありますが... 日本は古来「やおよろずのかみ」のおわすくにでした。 16世紀にカトリックが紹介されたときも、当時の日本人は 「ふうん、西洋の神様は『でうす』というのか...」位にしか思わなかったと、なにかの本で読んだ記憶があります。 まあ、その神様が「おれ以外は信じてはイカン」なんて言い出すもんだから、我々のご先祖様は(逆に)さぞ面食らったかと思うのですが。 余談ですが、かつて、今の田中前外相のお父さんや、福田官房長官のお父さんのライバルだった人で、総理大臣を務めた「大平正芳」という人がいました。 彼は熱心なクリスチャンとして知られていましたが、なぜかこの人毎年お正月には初詣をするんですね。 「首相はクリスチャンなのになぜ初詣をするのですか?」と、新聞記者に聞かれた大平氏は 「(お正月に、新年の計を立てる。今年もがんばろうと思う。)いい習慣だからやっとるだけだ。」と、答えたとの事です。 ・いい習慣 ・女の子を口説くチャンス ・プレゼントをGETするチャンス ・ヒラヒラのウェディングドレスを着てみる口実 それで良いと思うのですが。 あ、そうか、そこのところを説明するのに困っているわけですね....
- SCNK
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日本人は宗教について甘いのです。たしかに多くの文化を抱合してきた歴史的背景があるにはありますが、たとえば多神教の神道にしても本当に帰依しているものはわずかでしょう。仏教徒が多いとも言われますが、出家する信者は殆どいません。 宗教というものは本来、帰依するもの、つまり身のすべてを捧げるもので、都合のよいときだけお願いしたり、癒しを求めるものではありません。 近年、カルト教団などから、だまされたと文句を言うものがいますが、これなどとんでもない話で、信者という者は喜んでだまされるべきなのです。信仰のために身を捧げ殉教することに喜びを覚えなければ信者とはいえません。 それだけ宗教というものはシビアなものであり、帰依とは覚悟をもってやるべきことなのです。 普段、寺社に御参りする、日本人が。一神教のキリスト教(彼らの言い方では、イエスキリストの福音)の教会で結婚式を挙げるなどという行為は、まさに神や信者に対する冒涜以外のなにものでもありません。彼らからすれば、日本人の多くは偶像崇拝者です。そのような日本人は異端審問を受けさせて火あぶりにでもしたいと思われてもしかたないですね。 比較的寛容といわれるイスラムにおいても、それは哲典の民に対してのことで偶像崇拝者は、神の罰を受けるべき対象者です。
こんばんは。 わたくしが説明するとしたら…。 よく言えば「寛容」 悪く言えば「いいかげん」でしょうか。 (でも、すでにこの時点で英訳できません。^^;) そういった「勝手で都合のいい寛容な信仰態度」を説明するのには、 もちろん古来からの”多重信仰”や”汎神論の思想”といった歴史について説明することは 大切だと思います。 できれば説明したいです。 でもそれを説明した後に、 例えばクリスチャンでないひとがクリスマスを祝ったり教会で結婚式を挙げたりすることには、 そもそも信仰も思想もないのであって、(だから多重"信仰"には含まれないと解釈しています。) 欧米の"スタイル"に対する憧れであり、それぞれをイベントとして楽しんでいるのだと思う。と説明します。 それが悪いことだとは思いません。冒涜にならない範囲であれば、宗教の儀式や形式に触れ、 それを楽しむのは自由だと思います。 ただ、そうしてゆるやかにてきとうにいいかげんに都合よく宗教を利用しているひとが多い中で、 たまに同級生やご近所さんに、ある宗教に対しすごく熱心な「良き信仰者」がいた場合、 良くも悪くも「ちょっと変わったひと。」という印象を持たれてしまう場合があり、 そういう意味では寛容だとは言い切れないかも。と、説明します。 ややこしいですな。 こんなもんでしょうか。 英語、がんばってくださいね。
欧米宗教は.砂漠などの悪条件の環境で育った宗教であり.特定の指導者に従わないと集団を離れることになり.促死を意味します。したがって.特定の指導者である神は一人です。 日本は.食料が豊富であり.自然現象そのものが神です。かって.自然現象の神を仏教の神に対応させた時代がありました(聖徳太子の頃.「良く仏教スと」)。その結果.数多くの神神が.支配者層においては仏教の神の数に淘汰されました。しかし.民間宗教としてはすべての神神が残りました。 日本でのキリスト教布教の初期においては.薬師如来の姿を変えた状態として布教したような雰囲気があります(京都のどこかのマリア観音.きわめて怪しいのでどなたか指摘してください)。その結果.キリスト教といっても.仏教の一派として考えている人々がいます。 例としては.娯楽小説の西遊記で.三蔵が唐に持ち帰ろうとした最初の3000巻の仏教の経典は白紙の経典であり.それぞれの人々が経典を書いてゆくものという考え方を示す一方.中身の書かれた3000巻の経典を持ち帰る一説があります。 末端民衆への仏教の布教の姿が.娯楽小説の一部に描かれているのでしょう。
- nyozegamon
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多重信仰、神仏習合と言われるものだと思われます。 下記URLを参照してください。
「日本には八百萬の神様がいる」と言いますよね。 数は多いけど、それぞれの神様の役割が限られている、と。 勉学の神様 商売の神様 恋愛の神様 安産の神様 などなど。 聖書では神様が唯一だと書かれていますが、そこが違うところでしょうね。
日本人は他国の文化を取り入れて自分達の物にしてしまうのが上手なのだと説明してみては? 漢字しかり、宗教しかり、技術しかり。 ただのモノマネで終わらせないのが日本人の凄い所だと思うのですが。