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哲学と宗教の折り合い

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.9

 哲学と信仰とは 何の矛盾もありません。  《考える=コギト》と《信じる=クレド》とは 次元が違います。    経験合理性で判断する経験思考と そして 非経験の世界を想定してそれとの関係を持つ非思考とです。  すなわち ひとりの人間の中で 次のように階層に分かれて成り立っています。  ○ (ロゴスの階梯)~~~~~~~~~~~~~~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の場):神   _______________________   インスピレーション=ロゴス(β):異言      中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ             インスピレーション=ロゴス(γ):預言      本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ 宗教というのは たとえばこの中から次を特別に取り出して来て それを絶対視する行為です。   インスピレーション=ロゴス(γ):預言      本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい?  この預言ないし世界観として得られた言葉ないし文章を 教義として・集団的に(教祖及び教団をもって)わざわざあたかも神として抱きその内容を盲目的にただしいと思い込むいとなみです。  たとえばゴータマという人間をブッダとしてまたそのさとりを取り上げ これを絶対として(つまり神として)抱きただしいものだと思い込むならそのことは 宗教です。  ゴータマの信じた何ものか――おそらく《無い神》だと思われますが――を同じように信仰の対象とするなら(ということは むしろ無神論という信仰に立つという意味になるはずですが) それは 信仰の領域にとどまります。つまりそこから 哲学をもいとなみます。  信仰は 人間という経験存在をとうぜん超えたところの神に対するものです。または 《無い神》という神との非思考における関係です。  また 人間の言葉で表わされた経典なり聖典なりは・つまり教義は 人間がこれを経験合理性において考えるものです。この教義を《信じる》ということは あり得ません。しかも 宗教となると それをどう思ったか勝手におこなっています。ですから 狂気の沙汰でしょう。  ○ 宗教を信じる。 その教義を信じる。教祖を信じる。 / 教団を信じる。  ○ キリスト教を信じる。 / 仏教を信じる。 / ・・・  ☆ こういったことは 言葉の使い間違いです。あり得ません。深く強く思い入れをして思い込むといった意味でしかありません。つまりそれらはすべて 《考える》の対象であるにとどまります。  というふうに哲学は 片やつねに存在の中核としては非思考の信仰に根差しつつ 片や 経験存在としてのいとなみにおいては 経験合理性において《考える》。  つまり 信仰の成果としてのような聖句をわざわざ教義として絶対視する宗教については そのように規定することにおいて 人間性に対し敵対するいとなみだと認識するでしょう。宗教は 個人の信仰から出たものであるにもかかわらず その信仰をないがしろにしています。つまり信仰の自殺行為だと言わなければならないでしょう。  哲学は 人間性の側に立ちますから 反人間的ないとなみとしての宗教とは折り合いが つき得ません。  宗教組織に対しては もし少しでも良心が残っているのなら 自己解体しなさいと伝えるでしょう。

el156
質問者

お礼

有難うございます。難しかったですが今度は少しわかった気がします。信仰と宗教を同じように捉えていましたが、信仰と宗教は違う、信仰と哲学は両立するが宗教と哲学は両立しないということでしょうか。哲学する時に信じられるものはあるのでしょうか。

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