• ベストアンサー

「自由」、「意思」とは

雪中庵(@psytex)の回答

回答No.1

人は、認識していないものを、意思する事はできません。 たとえば、社会生命たる人類において、自己の生命は 社会全体に依存しているにも関わらず、そうした組織性の 発達において、それを自覚化する認識性を発達させる労を 怠って、自己チューなままお金や出世といった“馬車馬の 目の前のニンジン”により、非自覚的に社会行動をとらせる 方法が発達しました。 その“お金をもうける自由”とは、自己存在の本質に根差し たものではなく、自己のトータルな生における他の欲求と 矛盾し、また低い認識による希薄な充足感として結果する 事により、真の生きる目的である「人生を通算した精神的 充足量の最大化」に反するものとなります。 換言すれば、真の自由とは、認識の深化において可能に なるものです。 もちろん世界には、それに抗する物質や他人が存在しま すが、実はそうした他律的存在に思えるものも、実は認識 の不完全さに由来する“自己矛盾”として生じているのです。 最新の量子論的世界像において、有限な存在性は観測 される事によって生じています。 自我仮説に対する相補して時空仮説が生じているならば、 全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源に まで遡った)必要なのです。 宇宙は、あなた自身の意思であり、その認識は無限の自由 =最大限の充足を可能にする。

MGSCQC8
質問者

お礼

>換言すれば、真の自由とは、認識の深化において可能に なるものです。もちろん世界には、それに抗する物質や他人が存在しますが、実はそうした他律的存在に思えるものも、実は認識の不完全さに由来する“自己矛盾”として生じているのです。 人間は社会的に依存している動物でありながら、自己中心的で刹那的な浅い充足感を満たすことに行動にいきがちで、本質的なものを認識することを怠ってしまっているのでしょうか。 では結局人間は、他者とかかわることでしか充足感を満たせないのでしょうか。 私たちはその中で「自由」や「意志」を得るのでしょうか。それは認識にとらわれたもののように思えます。 しかし、自己矛盾という点はなるほどそういう見方もあるのかと思うことができました。 回答ありがとうございました。

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