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キリスト教 自由意思

(なるべくキリスト教徒の方のみご回答願います。) キリスト教徒と自認するものです。 自分の心の問題について、心を変えてくれるよう祈ったことがあるのですが、いままでかなえられたためしがありません。 以前説教で「神様は人間に自由意思を与えた」ということを聞いていたので、「やはり神様でも人間の心を自由に変えることはできないのか」と納得できてしまう部分がありました。 ご意見を伺いたいのは次の疑問についてです。 「万能の神様でも、人間の心は変えることはできない」というのは事実ですか? ご意見よろしくお願いします。

みんなの回答

回答No.4

 ★キリスト教徒と自認するものです。  私は自認だけではありません。  でも世に言うキリスト教徒であることは意味性はあまりないでしょう。  ★自分の心の問題について、心を変えてくれるよう祈ったことがあるのですが、いままでかなえられたためしがありません。  必ずお応えはあるのです。それを受感しているはずです。  あなたを見つめて、そこに有らしめている方を感じて、その方に徹底的に祈ることです。  「万能の神様とあなたは、あなたの存在と心が変わることを徹底して待っています。望んでいます。しかし自由と自由なこころでそうなってほしい、神とあなたは望んでおります」ということが本当なのです。

  • v7nV1dZjx
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回答No.3

>(なるべくキリスト教徒の方のみご回答願います。) と質問者は限定付きで言っています。 回答者はまず、自分がクリスチャンなのか明記すべきでは? わたしは該当しないので回答は控えます。 少しばかり本を読んで覚えたような知ったかぶりな知識など 質問者が求めていないのは明らかでしょう。

noname#80116
noname#80116
回答No.2

 そうですね。  No.1の方も言うように 自由意志というのは みづからの自由な選択によって みづからの人生を作っていくということだと思います。  No.1の方と違うところは 原罪はすでに その棘(とげ)が抜かれているという認識に立つことです。その患部が癒えていくのに 時間がかかりますが すでに 棘は抜かれました。(なぜかは ご存じでしょう)。    問題は イエスが 何でも願いなさいと言っているところがあるからです。keeps さんも そのように祈りをなさったのでしょう。叶わないじゃないかというわけです。  たぶん と言っては 失礼になりますが それを承知で申し上げるなら  ○ 万能の神  ○ 人間の自由意志  ☆ これら二つの間で keeps さんの精神の秩序と言いますか その和解と言いますか それらの認識が まだ あいまいであるという状態も 関係していないでしょうか? 人と和解したか 家族と調和がとれたか あるいは 自分自身と和解したか。このような課題が かかわっていないでしょうか?   そういうみづからの主観形成が 人生全般にわたって 生涯をつうじて 出来あがっていく過程というもの ここで やがて 自由意志を 自由に用いて 生きていくことができるようになる。  そこでは 《心を変える / 心を変えたい / 変えて欲しい》というそのこと自体が あらためて 省みられることになるでしょう。もう必要としないと出るか やはり必要であって だが 今度は 自分の信仰と努力とで それを達成するのだということになるか。そのように むしろ たのしみにして さらに 進んでいって欲しいと思いますが どうでしょうか? まわりくどかったですか?

noname#66332
noname#66332
回答No.1

サルトルいわく、人間は「自由の罪」に処せられています。 神の御心に従って行動するのみの存在であることは許されず、 脆弱であり万能でない自らの意志に基づいてすべてを判断し、決定せねばなりません。 「神でも変える事ができない」のではありません。 神の意志に背いて禁断の実を手に入れた代償として、全ての責任を自ら負う義務を原罪として持っているのです。

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