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『自由意思』は存在するのでしょうか

『自由意思』は存在するのでしょうか。 最近の哲学の学者はこのことに対してどのような見解をもっているのでしょうか。最近の通説の傾向は、どうなのでしょうか... 。 暇なときに自分なりに考えてみましたが... 。 「人間の視点から見れば、『自由意思』が、あたかも存在するように感じるが、『神のごとく』最も高い視点から見れば、すべての現象は、原因によって生ずる結果(原因により生じた現象)なのかな」 という結論になりました。 最近の通説的な学説は、どうなっているのでしょうか。

みんなの回答

  • tyr134
  • ベストアンサー率51% (851/1656)
回答No.12

質問の本質に関しては、既に優れた回答があるので、一つキリスト教のお話で聞きかじったモノを。 神様は最初天使をお作りになりました。 でも、彼らに「自由意志」はありませんから、神様を「愛」して当たり前でした。 神様は彼らからの「愛」は嬉しかったのですが、「自由意志」を持つ者に愛されなければ本当に「愛されている」とは言えないのではないかと考えました。 そこで、「自由意志」を持つ天使をお作りになりました。 最初、彼らも神様に従順に従っていましたが、やがて自らが神に成り代わろうと考えるようになりました。 そして、ついに神に反逆を開始しました。 怒った神様は、彼らを地に落とし封じ込めてしまいました。 その後、地に落とされた彼らは「悪魔」となったそうな。 キリスト教が自由意志をどう考えているかのヒントになると思うのですが、どうでしょうか?

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noname#69788
noname#69788
回答No.11

キリスト教では自由意思が存在します。悪魔が自由意志を罪を犯させるために使っているので、自由意志などは神様に取り上げて欲しいです。

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  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.10

『自由意思』は存在するかしないかの二者択一ではなく、持分に応じて何%の『自由意思』と言えるものだと思います。というのは、『自由意思』問題は、「世界」という連合軍の中の「私」という連合軍の『自由意思』問題だからです。

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回答No.9

『自由意思』は存在するのでしょうか そもそも 『自由意思』は存在するのでしょうか と発話した時点で、自由意志の存在は証明されたのでは。 最近の哲学者はやたら難しい。 ホワイトヘッドの「象徴作用は誤りを犯す」 これでも、自由意志を証明できるかも。 短文、失礼しました。

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noname#25818
noname#25818
回答No.8

自由とは何に対してだろう. 何から自由なのだろう. 意思は個の判断(もしくは決断)にある様な気がするが. 自由とは背くこと? 何から? 何に? 学説が何の役に立つのだろう. 誰のどういう学説? 神の高い視点? その高い低いの基準はどこにあるのだろう. 自由意志と”因果報応的な考え”との関係性はあるのだろうか? 親鸞は言う”善人なをもて往生す.いわんや悪人をや.” これは何を意味するのだろうか. 似たような表現は,旧約聖書にもあるが....

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  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.7

私もNo.4さんが述べたような実験によって「人間は本当に自由意志があるのか」ということに疑問を投げかけるものを読んだことがあります。 他の人と同じ内容を書くのもなんなので、私がそれに関して思ったことを書かせていただきますと・・・ 実験の結果、意思の前に既に人間の肉体は動作準備に入ろうとしていることがわかった。 では、誰が意思の前に肉体を動かそうとしているのか? 人間は普通、自分がやったことに対して説明ができます。 が、時には無理やり自分を納得させようとして、後意味づけみたいなことをすることもあるような気がします。 人に聞かれたら、 「だって 欲しかったから」「だってやりたかったから」「その方がいいと思ったから」 と言いながら、実は他人より自分自身が何故? 納得全然いかないんだけど? と思うってことありません? 判断ミス?  欲望をとめられなかったが、やってしまった以上 不利にならないように、自分の行動を意味あるものと正当化しなければならない? あるいは、本当のところ どうしてそんなことをしたのか 実は本人にもわからない? オデュッセイアに自由意志について触れています。 この場合 自由意志と自分の意思が一致している。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%82%A2 の第12歌 古代のギリシャ人は、自由意志を人間が持つ強い欲求だと思っていたと思えます。 その究極の欲求を満たすと天国にいったような心地になるが、同時に死を招く。 では自由意志を尊重しながら、死なない方法は? それがオデッセイアの12にうまく描写されている。 いずれにせよ、自由というより、誰もそれに逆らえないほどの強い何かが自由意志のようです。 最初に書いた「既に肉体は活動を始めようと準備をはじめている」は、その活動を止めることはも誰もできない。 が、その自由意志が肉体を完全に奪って操作することにブレーキをかけることは可能だと思います。 まだ 実行に移す前に、却下、次 と思考をめぐらすことができる。 そのブレーキ部分が心身の疲労などで弱ってくると、うまく機能しない。 結果、実験室をメチャクチャに破壊してしまい、気づくと病院にベッドに寝ていて、破壊した記憶もなければ、どうして破壊したのか自分でもわからない ということになる。 病気のせいで凶暴になった、病気のせいで記憶がふっとんだ と普通考えますが、確かに病気のせいで、なったのかもしれませんが、記憶は本当に消えてはおらず、脳の中に残っているみたいです。 ある人が家族を惨殺しましたが、その記憶が全く無い。 記憶する部分に蓄積していなかったのだろう と思われていましたが、数年後、ものすごく詳細に殺人の経緯を思い出したらしいです。 警察が証拠としてまとめた資料と一致する。 どうしてそういうところに血がつくことになったのかも、本人の思い出した供述で明らかになり、現場検証の資料と一致した。 思い出したとされたのは、偽の作られた記憶ではなく、真実の記憶だったわけです。 ただ、どうしてとても愛していた家族をものすごく残忍な方法で、冷静にやれたのか となると、本人は「どうしてそんなことができたのか 理解不可能」だそうです。 ただし、本人の意思ではなくある男に命令されたからだと供述していた。 それも殺人の指示を詳細に命令され、その命令の内容通りに計画にそって愛するかけがえのないと思っている家族を虐殺したらしいです。 誰かに命令されたので殺した ということがわかりますが、でも、人に命令されたからといって、自分がかけがえのない認識の家族を殺せるものじゃあありません。 名前のどこに住んでいるのかも どうしてその男が家族を殺して欲しいのかも知らないし、第一人に命令されたからといって、「はいそうします」と殺せるものじゃありません。 では この命令した男の正体とは? 医学でいけば幻覚・幻聴・妄想により引き起こった実在しない人物。 妄想をとめる効果があるとする薬を大量に投与してからは、そのある男は一度もその人の前に現れなくなった。 でも本当に存在しないのか? 薬がその男に命令したある男の存在を閉じ込めているので、出て来れないわけでは? その正体とは? 自由意志? 本当はこの殺した男は、家族をかけがえの無い家族だと自分に言い聞かせて、自分の本当の心を閉じ込め 自分自身も騙してきたのではないのか? 殺人の記憶が無い間、この男は幸せだった。 数年後殺人の記憶がよみがえったとき、その残忍さをまざまざと思い出したので、思い出すたび絶叫して苦しんだ。 家族はいなくなって欲しかった。が、むごたらしい殺人は絶対に見たくない。 ましてや、自分が一番嫌なことをやった張本人などには絶対になりたくない。 が、家族はいなっくなって欲しかった。 本当は愛してなどいないし うっとうしいし 消えてなくなれと心の奥では思っていた。 それを押し殺して表面上は 愛しているよと 嘘をつき 他人も自分もごまかしてきた。 いい亭主を演じるため、外でめいいっぱい働いて、家でもよき亭主を演じるために家事や育児を手伝い、自由が奪われもう肉体の精神もボロボロ。 だが、社会的にいい人間 いい亭主 いいパパであり続けなければならないという社会の圧力がこの男を閉じ込めて圧迫していった。 その閉じ込められた男を解放するためにやってきた救世主が自由意志だとしたら。 法律も倫理も通用しない自由意志。 交渉も割引も通用しない自由意志。 人間の本来の欲望。 普通は人間の理性によって閉じ込められているが、限界に達し生きるか死ぬかになると出てくるもの。 倫理やモラルや社会理念によって縛り上げられきって もう我慢ならないと限界になった人間が、留め金を外すと救うためにやってくる自由意志。 我々は教育され集団で生きるために、いろいろな制限を設けられている。 その方が他に殺されにくいし、集団の中ではトラブルが少なく生きやすいから、教育してモラルというその集団が決めたルールを刷り込んでいく。 ただし、そのルールを守ったからといって、必ずしも幸福になる保障を社会や集団はしてくれるわけじゃあない。 最低限の災いを防ぐ程度。 とても 不足しているわけです。 でも、なんとかそのルールやモラルを遵守することで、縛られながらも生きていけるのが普通の人間。 中にはその不自由さに限界が来る人もいると思う。 ある人は精神病になったから と自分に言い聞かせ、ある人は自分がだらしないから 家族に対して愛情深くできない自分が悪い と意味づけして、その不自由さの原因は自分の努力が足らないからだと思う。 実際は自分じゃなくて、社会が押し付けたルールやモラルにより縛られて、もう我慢の限界なわけですが、縛っているのはその刷り込まれた集団に都合のいいルールやモラルなのに、そうではなく自分が原因で自分が変わらなければ 成長しなければ と全然お門違いなことに原因を考えてしまうわけです。 当然 お門違いなのでいくら能力開発セミナーに通ったところで、メンタルクリニックに通ったところで、本人が病む原因は脳内物質の異常のせいじゃなく、しばりすぎたロープがその人の心を拘束しすぎたため、肉が裂け始めたから。 すると限界になったとき 留め金が外れる。 閉じ込められていた自由意志がどっと外に開放される。 しかし、「これは僕の意思じゃありません 自由意志の仕業です」は通用しない。 普段善良だとされる人間に対して、社会が納得する説明は、精神を病んでしまったから しかない。 自由意志は存在すると思います。 ただ、ブレーキをかけないと とんでもないことになるので、人間は注意して生きるに越したことはないのも事実。 どっちを取るか 究極の選択です。 普通はオデッセイアのように両方を同時に取ることはできない。 (そうなる前に ガス抜き さぼり なまける をしていればいいんですけど 真面目な人ほど罪悪感によって自分を縛り上げてしまい、自由意志が外に出て自分の体を乗っ取ってしまう確率が増す) 人間とはなにか? 自由意志は人間に似ているのか? などなど考えてしまいます。

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  • ANASTASIAK
  • ベストアンサー率19% (658/3306)
回答No.6

それは自由意志というよりも、偶然と必然の問題ですね。 もちろん日本人には解けません。

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noname#117439
noname#117439
回答No.5

私の体感したところでは、衝動は全て無意識からの突き上げです。 特に煩悩や妄想に振り回されます。 私は頭を真っ白にして何も考えない状態になれます。 そうすると大半は愛と安らぎがこみ上げてくるのを感じますが、私の無意識世界の子供たちはいたずらめいた実験が好きで、何度か「本当に好きなことをしてください」みたいな感じで何の衝動もないまま放置されたことがあります。 何もする気が起きずにぼんやりするよりありませんでした。 これが、煩悩が完全になくなるとまた違ってくるようです。 どのようになるかは憶測めいた話になるので書きませんが、主観も無意識の健康な住人たちがひとまず預かっているようです。

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回答No.4

下の人がすべて語っていますが、補足程度に まず、ベンジャミン・リベットが自由意志を探してみました 自由意志があるなら自由意志によって脳の活動を変化させることが できます。 しかし、実験では脳の電気信号が発生した後に「手を止めようと」 という意思が働いたのです。 その後手を止めました。また手を止めるという動作にも準備電位が 働いており。 「手を動かそう」,「手を止めよう」の両方準備電位が働いていたのです。 そして、準備電位から肉体的変化になるのです。 そのプロセスは物質の変化が規則正しく物理的作用で動いていました。 準備電位から肉体的変化までの時間が約0.5秒 その間に意識は自由意志を持っています。 その自由意志が肉体変化前に現れます。 はっきし言ってこれが真実です。 あとはこの真実をどのように定義するかの違いです。 はっきし言って卵が先か鶏が先かの議論となるでしょう。 この議論にとりあえず終止符を打ったのが受能動理論です。 受能動理論とは、片方から見たら「自由意志が働いて実行した。」という現象であり 「物理的変化が働いて実行した。」という現象である。 この両方が存在して機能しているという理論である。 もちろん無意識の実行は後者であり意識の実行は前者であります。 つまり、意識の座標と物理の座標がまったく別で動いているということです。

参考URL:
http://moura.jp/clickjapan/robot/105/content02.html
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  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.3

No.1続き 実験の結果から生じる自由意思の問題について、その解決の可能性をどう見るかと訊かれて、リベットは、アメリカ哲学者トマス?ネーゲルの意見に言及した。1987年、ネーゲルは論文の中で、リベットの研究とその結果について触れている。「脳はその持ち主が気付かないうちに選択しているようだ。ある哲学者に、この実験について詳しく説明したところ、彼はその結果の意味するところは明らかだと、皮肉たっぷりに言った。『人の脳には自由意思があるが、人にはない』」 だがネーゲルは、この状況に、すんなりとは受け入れ難いものを感じている。「この種の実験は、なんとも不穏な可能性を提起しているように見える。すなわち、人間が自由な行動と見なしているものは、単に我々の身にふりかかってきたものに過ぎず、自らに選択権があるという意識は錯覚であり、我々は事が起きてから、自分に支配権があると思い込んでいるだけかもしれない」。 それにしても、なぜネーゲルの論文に登場する哲学者の「人の脳には自由意思があるが、人にはない」という公式では駄目なのか? なぜ駄目かといえば、〈自分〉の概念が脳以外のものにまで及ぶからだ。そこには、何をおいても、まず体が含まれる。感情が胸の内や腹の底から湧き起こる、と私達が表現するのにはそれなりの訳があるのだ。 従って、現に物事を操っているのが意識であるはずがなく、それゆえ〈私〉でもないはずのとき、それは脳だとするのは早計のようだ。それは〈私〉でない者、と言うに留めるのが賢明だろう。自分であって〈私〉でないものを表現するのには、〈自分〉という言葉が適切に思える。なぜなら、余計な憶測を含まないからだ。 この〈私〉と〈自分〉の区別は、見かけほど単純でも軽薄でもない。20世紀末、人間であるとはどういうことかという認識に根本的な変化が起こりつつあるが、この区別はその変化を端的に表している。人は感知、思考、行動の実に多くを意識していない。 〈私〉という全能の存在が人間を支配していると言い張ることは、自分という人間の無能化を意味する。そうなると自由意思はないことになる。 No.2続き たくなるのを思いとどまる場合や、子供が今にもやりかねないことを止めなくなる気持ちを抑える場合などです。しかし、意識的な意図と無意識的に始動する衝動との対立などの結果として禁止権を捉える貴殿のお考えは、決して瑣末なものではなく、十分主張する価値のあるものです。 20世紀初頭、デンマーク哲学、心理学者ハラルド?ヘフディングは、禁止権説についても、禁止に不快感が伴うという考えについてもむろん知る由はなかったが、この点についてきわめて明確にこう述べている。「無意識の行動傾向が意識的な思考や感情と同方向を向いているかぎり、人はその傾向にはなかなか気付かない。……殆どの場合その力は、意識に上る動機の力と一体化している。そして、行為全体の名誉や不名誉は、意識的動機のほうに帰せられる」 言い換えれば、私達が無意識に気付くのは、それが意識に反する場合のみということのなる。というのも意識は、自分と自分の持ち主を同一視したがり、無意識の衝動に屈するのを良しとしないからだ。 〈禁圧〉された経験が前意識的性質を持つことを、フロイト派が特に強調してきた理由は、このメカニズムで説明できるのかもしれない。無意識は意識されないという、まさしくそのために、意識は無意識の存在を認めたがらない。そして、人間には意識以外のものもあることを意識が認めざるをえなくなるのは、意識と無意識との間に葛藤がある場合に限られる。そのため、逆説的ながら、かえって〈禁圧〉された衝動ばかりが目につくことになる。 前意識……意識の現前野から外されている心の領域。とっさには意識されないが、無意識へと抑圧されたものではないので、比較的容易に意識化される。 禁止プロセスがたいてい不快感を伴うとしても、そうした意識的禁止を行いうることには変わりがない。使わなくても禁止権は存在する。使ってもいいが楽しくはないというだけだ。それはまた、私達が一番安らかでいられるのは、意識が自由意識を行使しないとき、ということでもある。人は、意識を介さず無意識の衝動に従うときが最も幸福だ。ただ行動するだけのときが一番満ち足りている。 しかし、こう考えると、気分のいいときに主導権を握っているのは意識ではない、という事実を突きつけられることになる。すると疑問が浮かぶ。人間は不快なときにしか自由意思を持たないのだろうか?気分のいいときにも自由意思はあるのだろうか?そうだとしたら、それは誰の自由意思なのか?

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