• 締切済み

『自由意思』は存在するのでしょうか

『自由意思』は存在するのでしょうか。 最近の哲学の学者はこのことに対してどのような見解をもっているのでしょうか。最近の通説の傾向は、どうなのでしょうか... 。 暇なときに自分なりに考えてみましたが... 。 「人間の視点から見れば、『自由意思』が、あたかも存在するように感じるが、『神のごとく』最も高い視点から見れば、すべての現象は、原因によって生ずる結果(原因により生じた現象)なのかな」 という結論になりました。 最近の通説的な学説は、どうなっているのでしょうか。

みんなの回答

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.2

意識の禁止権説と自由意思 だが、自由意思の問題はどうなるのだろうか?画鋲の上に座ったとき、つべこべ言う間もなく飛び上がることは、この際、脇に置いておこう。リベットの実験結果は、私達に自由意思はない、と言っているのだろうか。意識以外に、自由意思を行使できるものはありえないのだから。手を伸ばして物を取ることを決めたと思ったときには、すでに脳が活動しているのだとしたら、人間に自由意思があるとは言い難い。 リベットの〈準備電位〉の実験を振り返ってみると、実はこれまで話題にしなかったきわめて重要な事実が残っている。確かに意識が生じるのは脳が動いた後かもしれないが、それは手が動く前でもある。 決意を意識してからそれが実行に移されるまでには、0.2秒の余裕がある。だとしたら、意識はどうにかして実行を中止できるのではないだろうか? このこと、つまり意識は禁止権を持つ、というのが、リベット自身による自由意思の救済案だ。意識には、行為の実行までにその行為を禁止する時間が十分にある。事実リベットは、そうした禁止メカニズムが働くことを示す実験的裏付けを得ている。被験者が、実行しようと決めた行為を途中でやめたと報告したとき、やはり〈準備電位〉は発生していたが、実際に実行したときと比べると、終わりに近づくにつれて電位変化の様子が違っていた。被験者は自分の行為を思いとどまることができた。つまり、自由意思を持っていた。意識は行為を起こすことはできないが、実行をしてはいけないという決断はできるのだ。リベットは自由意思と意識機能に関する禁止権説を構築した。「個人の責任と自由意思に関連するプロセスは、自発的行為を起こすのではなく、意思決定の結果を選択ないし制御する目的で作動する」 この見解はたいへん興味深い。歴史的に見ると取分けそうだ。自由意思は選択を通じて働くのであって、立案を担っているのではない。自由意思は、環境が自然淘汰を通して生物進化を方向付けるのに似ており、日常生活における意識的選択の仕方を想像したときに、大抵の人が自然に思い浮かべるように、意識が計画や青写真を作るというわけではない。意識は、脳内の僕に指令を下す高位のユニットではない。無意識が提供する多くの選択肢の中から選りすぐること、それが意識であり、その結果、生じるのが意識だ。意識は提案を退け、無意識が勧める決定を拒むことによって機能する。意識とは、処分された情報、却下された選択肢、「折角だけれど、結構」なのだ。 意識を禁止権限と捉える考え方は実に鮮やかで含蓄に富んでいる。思想史をひもとけば、ダーウィニズムと自然淘汰以外にもこの見解の類縁を見出すことができる。 禁止の原理は、いつの世にも人間の道徳に見られる。「倫理的拘束は、十戒の殆どがそうであるように、ある種の行為を禁じるものである場合が多い」とリベットは1985年に記し、更にこうつけ加えた。「行動しようという最終的意図が無意識のうちに生じるのならば、体の動きという形での行為の成就は意識的に制御できても、そうした意図が生じること自体を意識的に妨げることはできない」 リベットは、体の動きとしての行為と、心的現象としての行為の衝動とを区別し、行為は制御できても衝動は抑えられない、と結論付けている。この区別はきわめて深遠な意味を含んでいる。してもいいことを説く道徳観と、したいと思ってもいいことを説くものとでは、大きな違いがあるからだ。 リベットは語る「他に、フロイトの言う衝動の〈禁圧〉が作用する仕組みが考えられるでしょうか?行為の衝動と行為そのものの間に違いがないのなら、〈禁圧〉など機能しようがありません。〈禁圧〉のための時間が、どうしても必要なのです」 〈禁圧〉……不快な、或いは不都合な観念や情動を、意識から締め出そうとする精神作用。同じような作用をもつ抑圧が無意識的プロセスであるのに対し、禁圧は意識的プロセスである。また、禁圧された内容も、無意識の領域に押し込められるのではなく前意識にとどまるため、思い出すことが可能。 ユダヤ教は、他人に対して酷薄な思いや望みを抱くことを許す、魂の免罪符となる危険を孕んでいる。自分がされたくないことを人にしないかぎりにおいては、何を考え、何を感じようと構わない。ユダヤ教の思想に心の倫理規定がないために、シェイクスピアが『ヴェニスの商人』で描いたような内面の無慈悲や邪悪さが生まれることになる。それでも、相手に影響を与えるのは行為だけなのだから、内面的な問題は全て許容される、とユダヤ教は語る。確かに数十年前までならば、科学的に見てそう信じる根拠はあったかもしれない。しかし、これは断じて間違っている。 問題は、閾下知覚やプライミングといったものが存在するのなら、実は私達は自覚している以上に他者の考えや気分がわかっている、という点にある。だから、お互いについて何を考え何を感じるかは、本当は重要な問題なのだ。例え「あんな奴は叩かれて当然だ」と心の奥底で思っているだけなら誰にも害はないというのが、意識の告げる常識だとしてもだ。 他者に影響を与えるのが言葉と行動だけなら、何を考え何を感じようと問題にはならない。だが、この見方は人間の実像を正しく捉えていない。実際、ユダヤ人であるリベットの発見は、ブーメランのようにユダヤ教の倫理観に跳ね返ってくる。意識は遅れるというまさしくその理由から、どれだけの思考が現実の行動と化すかはなかなか制御できないのだ。ユダヤ教の難点は、意識が本当は抑制できない内面の酷薄さを容認していることだろう。私達が自覚する以上のものが、ボディランゲージなどを通じて表に現れることを許すからだ。 近年、意識の意味合いについて新たな認識が生まれつつあることを受け、基本的な道徳の問題を抜本的に見直す議論をする必要性がある。 とはいえ、禁止権説が興味深いのは、高尚でスケールの大きい道徳的議論との関連のみからではない。この説は、いたって日常的な問題を考えるうえでも、実に面白い視点を提供してくれる。 リベットの禁止権説は、意識が機能する仕組みを鮮やかに記述する一方で、日常生活における人間の実像を、根本的に誤解させる説明

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.1

〈私〉と〈自分〉と自由意思 しかし、それでは自由意思はどうなってしまうのだろう。行動は、意識の関与無しに引き起こされ、遂行されうる。それどころか、私達の日常的な行動の多くは、そういうものだと言える。私達の行動には、意識の支配下にない大きな領域が幾つもある。しかし、意識の概念は自由意思の概念と切り離しては考えられない。それならば、意識ある〈私〉は、自分が何をするのかを決めることが全く出来ないのだろうか?意識を伴わない〈私〉など、定義のしようがない。〈私〉の特徴は責任能力と一貫性だ。行動の責任を負う能力と、行動を引き起こす能力は、〈私〉という概念のきわめて重要な構成要素だ。しかし、〈私〉が本人の行動の傍観者になることも多い。 彼はいつものように遅れていた。自転車に飛び乗った時には、会議に遅刻するのがわかっていたので、通常30分弱かかる道のりで、出来る限り遅れを取り戻すことを願うしかなかった。 エステルブロ通りを行く途中、ストランド大通りを渡る時、彼はバスのずっと前を走っていたので、待っている客がバスに乗り込もうと自転車道に群がり出てくる前に、難なく停留所を通り過ぎるはずだった。そう彼は思っていた。 ところが突然、男の子が自転車道に踏み出した。自転車は高速で動いていて、彼にはどうすることもできなかった。まるで夢の中にいるかのように、時間の流れが緩やかになるのを感じ、彼の〈私〉は自分自身の行動の傍観者となった。男の子と衝動する、判断が必要だ、わざと自転車を転倒させるべきか?他の選択の余地はない。まるで映画でも見ているように、彼は男の子を守る決断が下されるのを見ていた。横倒しになり、彼は男の子との残された距離を滑っていった。痛みはあったが、それだけですんだ。彼にはかすり傷と、会議に遅刻した絶好のいいわけができた。そして話の種も 決断したのは誰か?彼の〈私〉ではない、〈私〉は傍観者だった。 彼の中の何者かが決断した。その経験は明確で紛れもないものだった。〈私〉は傍観者として蚊帳の外におり、そして前もって発言を封じられていた。何しろ考えている暇がなかった。 彼の〈私〉には、この決断に関して自由意思が全くなかった。しかし決断を下したのは間違いなく彼であった。 この状況は、ベンジャミン?リベットが研究した状況に酷似している。実際に行動を引き起こしたのは、意識ある〈私〉ではない。だが、その人自身であることは明白だ。〈私〉はその人の全てではない。「私は、自分が自分の〈私〉以上のものであることを知っている」 しかし、〈私〉はそれを認めたがらない。意識を持ち、考える〈私〉は、あくまで自分が主役であり、現に物事を牛耳っている者であり、管理者であることにこだわる。だが、それはできない相談だ。リベットの研究結果を真剣に受け止めるのであれば、それは無理な話だ。彼の研究結果は、意識ある〈私〉が人の行動を引き起こすのではないことを、はっきり示している。意識が禁止権を行使する暇などなく、〈私〉が蚊帳の外に追いやられるような状況はたくさんある。〈私〉は自分が行動していると思うかもしれないが、それは錯覚にすぎない。 こうなると自由意思はどこかに消え去ってしまうように思える。〈私〉は風と天気に翻訳される、意思を持たぬただの一片の流木、それも、「進路を決めているのは私だ!」としかりに自分に言い聞かせている流木なのだ。 リベットの実験は、人には自由意思などないという説を裏付ける究極の説明と解釈できるかもしれないが、それは誤った解釈だろう。なぜなら、選択行動が無意識に引き起こされるのは、自由意思が存在しないことの証明だ、と言えるとすれば、それは〈私〉信仰という前提があるからだ。人の何たるかは、〈私〉という概念によって完全かつ明確に説明しうると主張したら、リベットの発見した0.5秒の遅れに照らし合わせると、自由意思について、どうしようもない問題を抱えることになる。人が決定することは全て意識的に決定される、或いは、人が成すことは全て意識的に成される、と主張しようとすると、自由意思という考え方が立ち行かなくなる。なぜなら、意識の帯域幅は、人がやること全てを制御するには、なんとしても小さすぎるからだ。 リベットの発見した遅れが示しているのは、いつ行動を起こすかを決めるのが自分自身ではないということではない。肝心なのは、行動のプロセスを始めるのは人間の意識ではなく、他のもの、つまり無意識である、という点だ。決めるのは本人だが、決める力を持っているのは、その人の〈私〉ではない。〈自分〉なのだ。 これで、自由意思に対する解答を定式化することができる。人には自由意思があるが、それを持っているのは〈私〉ではなく、〈自分〉である。 私達は、〈私〉と〈自分〉を区別しなくてはならない。〈私〉は〈自分〉と同一ではない。〈自分〉は〈私〉以上のものだ。〈私〉が決断しないときに決断するのは〈自分〉だ。〈私〉は意識ある行為者であり、〈自分〉はその人全体である。〈私〉に支配権がない状況は多い。例えば、急を要する場合がそうだ。〈私〉の担当は、考える時間がある無数の状況だ。だがいつも時間があるとはかぎらない。 〈自分〉という言葉には、〈私〉、意識ある〈私〉が引き起こすことのない、或いは実行することのない、体の動きや精神作用すべての主体が含まれる。〈私〉という言葉には、意識に上る体の動きや精神作用がすべて含まれる。 意識の帯域幅の測定や、閾下知覚、そしてリベットの実験から得られる実験的証拠から、〈私〉は、自分で思っているほど多くの決断を下していないことがわかる。〈私〉は、〈自分〉が行なった決定や計算、認知、反応を、自ら行なったような顔をしがちだ。それどころか、〈私〉は、〈私〉自身と同一でない〈自分〉の存在を頑として認めない。〈私〉にとって〈自分〉は得体の知れぬもの、説明のつかぬものであり、〈私〉は自らが全てを取り仕切っているふりを続けている。 これは、リベットの発見についての解釈としては決して目新しくない。実験の結果から生じる自由意思の問題について、その解決の可能性をどう見るかと訊かれて

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 「自由」、「意思」とは

    哲学的な話ですが 皆さん、「自由」、「意思」とは人間にとってそれぞれどんなものなのだとイメージを持っていますか。 本当に人間に意思や自由というものは存在すると思いますか。 意見をお待ちしています。

  • 「心は心臓にある」という科学的アプローチの存在

    「心は脳にある」ということが、すでに、常識のようです。「心」で検索すると、解説があまりにも多彩すぎて、どこを見ればよいかも分かりません。哲学や心理学の「表象や現象」という言葉と混同しないために、科学的には「クオリア」と呼んで区別し、しかも、脳・神経系と無関係には論じられないような印象です。しかし、文献などを探してゆけば、結論は得られなくても、それぞれの「現状の長短」は判るような気がします。そこで、文献などの見当も付かないのは、「心は心臓にある」という立場に固執した、科学的なアプローチで展開している学説・仮説の存在です。「心は脳にある」という立場は、「測定機器の進歩」に依存し過ぎた「もっともらしい説明」の傾向を感じます。馬鹿げた考えかもしれませんが、あれば、教えてください。

  • 存在は 善悪を超えている。

      (あ) 存在は 善悪を超えている。  ひとの存在についてです。   (い) ひとという存在の自然本性は そこから――自由意志による選択をとおして―― 存在(生命)に善いことも そして その善いことに反すること(つまり 悪いこと)をも 自由に おこなうようである。   (う) ただ その存在じたいは 善悪を超えている。かも知れない。  こういう命題です。これについて 真偽・成否などについて見解を示してください。  手がかりは けっきょく《信仰》にかかわります。    (え) 神は 自分にかたどって ひとをつくった。   (お) これによると 神は おそらく――いわゆる善人悪人を問わず 誰にも等しく 雨を降らすというごとく―― 善悪を超えているはずですから その神の存在に似ている と言えば そうなのかなというところです。つまり   (か) ひとは はなはだ不類似であるが いくらかは神に似て その自然本性において善悪を超えているところがある。かな?  という命題です。   (き) おそらくこれは またまたですが ブッダターの問題だとも考えられます。

  • 自由の限度

    『自由』と言う言葉が、いろいろな場面で使われていますが、果たして『自由』がどこまで、行使できるのでしょうか?  最近は、他人に迷惑をかけなければ、何をしても良いとか、自由を自分のいいように解釈している人が、多いように思われます。 マスコミなどにも、そう言う傾向があると思うのですが・・・。  幅広い視点で意見をください。 よろしくお願いします。

  • 存在の始まりはどこ。。??

    全ての物事には始まりと終わりがあります。であるならば宇宙が存在した前ってのも存在してた訳で更にその前もその前も考えれちゃう訳で。。結局始まりって何だったのか?科学から哲学に入り込んでしまいました。神的な存在が始まりを創造したのだろう。。と勝手に結論だしたら、じゃあ神の前は?って自己矛盾に陥りました。この悩みのパラドックスに答えられるとゆうツワモノの方お待ちしております。

  • 仮にも、神が存在するならば

    質問:神は信仰されることを望んでいますか? 人々から崇められたいと思っているでしょうか? 崇敬の的になれないと不満?(笑) 神が存在するとして回答して下さい。 神とするものは単なるエネルギー体であって意思ある存在ではない と考える方は結構です。 存在する・しないも誰にも分からないことです。論点ではありません。 書かないで下さいね。 質問を読めない頭の悪い人が稀にいたので、念のため一応書 人々が信仰心を持つか否かは、個々の自由意思で決めればいいと思います。 私の疑問点ではありません。 質問の意図を仮定しないで下さい。 以上、よろしくお願いします。 参考にさせて下さい。

  • 満月の錯視現象

     地平方向に見える月と、天頂方向に見える月を見比べると、地平の月が大きく見える現象を「月の錯視現象」と言われています。  この研究テーマは昔から存在して、アリストテレスやプトレマイオスやデカルト、etc・・・と結構有名な学者も研究していました。しかし、現在に至ってもハッキリとした原因が解明されていません。現在一番有力である学説として言われているのが、Lloyd Kaufman,James H.Kaufmanらによる学説だと思います。  しかし、これら全ての学説を見ても満足のいくようなものではありませんでした。だれか詳しい人がいたら教えてください。

  • 「絶対的価値は存在しない」の考えの理論について

    勝手にこんな理論を考えてみました、少し神学的です。 まず人間が愚かだとするならば、その原因はそんな「愚かな人間」を作ってしまった、もしくはそんな「愚かな人間」が生まれる世界を作ってしまった、神様が愚かだということになります。 同じように、「神様」に「愚かな人間をつくる」という行為をさせ、結果「神様」を愚かにした「神様」の{神様}が愚かだということになります。 このように考えると、どんどん無限に「愚かなのは神様の神様の神様の・・・・・・・・・・・・・・・・神様だ」となり、愚かなのは最も上の神様ということになります。 しかし、無限の考えでは「最後」や「最大」などの考え方がないように、「最も上」という考えもできないので、結果その「最も上の神様」は存在しないことになり、愚かな人間、もしくは神様という存在は一切存在しないということになります。 よって「愚かな存在」は存在しないことになります。 しかし、ここで「愚か」を「素晴らしい」にしても、まったく同じことが起きます。つまり、「素晴らしい存在は存在しない」ということになります。ほかの「〇〇な存在」としても同じです。 結果、(哲学的な)絶対的価値は存在しないことになります。 こんな内容です。またこの後、考察として自分の中では「絶対的な価値観が存在しないのだから、「自分に価値観に自信を持ち、そして他の価値観も認めるべきだ」ということを考えました。

  • 哲学者の頭の中から神が消えたのはいつ頃ですか?

    西洋哲学においてかつては神の存在が前提とされていたと思います。スコラ哲学や形而上学など神の存在抜きに考えることはできないと思います。しかし、現代においては哲学ももはや神の存在を前提にしていないと思います。西洋哲学において哲学者の頭の中から神が消えたのは歴史的にはいつ頃でしょうか? 1)年代的にはいつ頃でしょうか? 2)神など存在しないと言い出した哲学者は誰でしょうか?ニーチェでしょうか? 3)神がもはや存在しないと考えられるようになった背景(原因?)は何でしょうか? 4)もし、現代において神の存在を前提とする哲学論文を専門誌に投稿した場合に査読を通って掲載される可能性はありますか?

  • ポストモダン(次世代)の哲学は存在するのか?

    私の好きな哲学者はキルケゴール、ショーペンハウアー、ニーチェ、サルトルです。 彼らにはある繋がりがあり、キルケゴール→ショーペンハウアー→ニーチェ→サルトルという流れがあります。 ・キルケゴール 厳格なキリスト教徒の家庭に生まれますが、自分の出自に酷い衝撃を受け(両親の火遊びにより生まれる)、更には恋人との間での宗教上の問題に苦しみ酷く絶望します。 皆さん御存知、聖書より見出される「死に至る病(絶望)」に対するキルケゴールの見解は非常に有名かと思います。 これに対するキルケゴールの解決方法は信仰でした(その為、最後まで信仰を貫き、未婚のまま終わる)。 ・ショーペンハウアー やがてショーペンハウアーの時代になると、学問が発達し対して代わりにキリスト教の権威が没落します。 この結果、現実に目を向けるようになり、ショーペンハウアーはここで人間の「意志」に着目します。 この意思こそが全ての原因であり、ショーペンハウアーはこの意思をコントロールすることを説きます。 彼は原始仏教(東洋)に影響を強く受けてましたから、修行による禁欲を薦めます。 ・ニーチェ キルケゴール同様、厳格なキリスト教徒の元に生まれたニーチェでしたが、既にキリスト教の権威は地に落ち、学問により科学が台頭を始めます。 産業革命が起こり、資本主義が生まれ、まさに人類の夜明けの始まりです。 ここでショーペンハウアーの書物に出会い、ニーチェは衝撃を受けます。 彼もショーペンハウアー同様、インド仏教に強い影響を受け、さらに人間の「意志」を推し進めます。 やがて「ツゥラトゥストラは語りて」にあるように、神は死にニヒリズム(虚無思想)の台頭を予見します。 これに対するニーチェの回答は超人になることで、運命を受け入れることでした(しかし、これは非常に狂気的でニーチェ自身は発狂) ・サルトル 元作家であり、科学・文学と様々な見識を持ち、多趣味であったサルトルは哲学を様々な分野と結びつけ、やがて人間そのものに目を向けます。 実存主義が生まれ、「自由の刑」にあるように、人間とはそもそも「何でもない存在」であり、自分の定義によって決まる自由な存在である(ニーチェ同様、「ものごとに対する解釈」と言えなくもないが、「運命」によって決まるとしたニーチェに対して、サルトルは「より人間は自由である」とした)。 さて、ここまで追ってきて(文字数制限がある為、かなり省きました)、ある意味サルトルで哲学は死(または最高)を迎えたと言えなくもありません(というより、「哲学」という定義そのものが瓦解し自由な存在となった)。 一時期はポストモダンを求めて色々議論が交わされましたが、結局サルトルで止まってます(正確には再考なので、ちょっと違うかもしれません)。 フーコやヴィトゲンシュタインなど、哲学というより言語や、あるいはマルクスなど経済や社会といった、わき道というか「道具」としての側面が強くなってる気がします。 そもそも、もう哲学というより心理学や科学(工学?…遺伝子工学、金融工学、宇宙工学など…etc)の時代なのかなと…。 でも相変わらず現実は悲惨極まりないし、自殺者だって止まりません(むしろ年々増えてる)。 次の哲学(ポストモダン)ってあるんですかね? そもそも、今の時代って「哲学」って存在するのかと…。

このQ&Aのポイント
  • iPhoneが日に日に高くなるのをみて辛い。笑 そのうえアップデートされなくなる機種、古ければ安いからと思ったらアップデートから外される セキュリティ面でiPhoneに変えて長年経ちますが、Androidの安さを見ると、Androidに戻ろうかなあと思うんですけど、 Androidは未だにセキュリティは弱いでしょうか
  • iPhoneにこだわる意味ないし だいたいカメラ機能マジで要らないので… なんでそこに力入れてこんなに値段あげてんのってなってます iPhone13miniですがもうこれ以上の金額は出せません。しかもストレージ最小が128?っておかしいだろって思うし笑笑
  • 皆さんはどうしてますか? iPhone同士だったらiPhone同士タダでメッセージ送れるし、Androidはそれがあるんですかね カメラ使わないやつがスマホごときに8万以上なのがバカだなと思いました笑笑(私の話) どうしよう…
回答を見る