• 締切済み

『自由意思』は存在するのでしょうか

noname#69788の回答

noname#69788
noname#69788
回答No.11

キリスト教では自由意思が存在します。悪魔が自由意志を罪を犯させるために使っているので、自由意志などは神様に取り上げて欲しいです。

関連するQ&A

  • 「自由」、「意思」とは

    哲学的な話ですが 皆さん、「自由」、「意思」とは人間にとってそれぞれどんなものなのだとイメージを持っていますか。 本当に人間に意思や自由というものは存在すると思いますか。 意見をお待ちしています。

  • 「心は心臓にある」という科学的アプローチの存在

    「心は脳にある」ということが、すでに、常識のようです。「心」で検索すると、解説があまりにも多彩すぎて、どこを見ればよいかも分かりません。哲学や心理学の「表象や現象」という言葉と混同しないために、科学的には「クオリア」と呼んで区別し、しかも、脳・神経系と無関係には論じられないような印象です。しかし、文献などを探してゆけば、結論は得られなくても、それぞれの「現状の長短」は判るような気がします。そこで、文献などの見当も付かないのは、「心は心臓にある」という立場に固執した、科学的なアプローチで展開している学説・仮説の存在です。「心は脳にある」という立場は、「測定機器の進歩」に依存し過ぎた「もっともらしい説明」の傾向を感じます。馬鹿げた考えかもしれませんが、あれば、教えてください。

  • 存在は 善悪を超えている。

      (あ) 存在は 善悪を超えている。  ひとの存在についてです。   (い) ひとという存在の自然本性は そこから――自由意志による選択をとおして―― 存在(生命)に善いことも そして その善いことに反すること(つまり 悪いこと)をも 自由に おこなうようである。   (う) ただ その存在じたいは 善悪を超えている。かも知れない。  こういう命題です。これについて 真偽・成否などについて見解を示してください。  手がかりは けっきょく《信仰》にかかわります。    (え) 神は 自分にかたどって ひとをつくった。   (お) これによると 神は おそらく――いわゆる善人悪人を問わず 誰にも等しく 雨を降らすというごとく―― 善悪を超えているはずですから その神の存在に似ている と言えば そうなのかなというところです。つまり   (か) ひとは はなはだ不類似であるが いくらかは神に似て その自然本性において善悪を超えているところがある。かな?  という命題です。   (き) おそらくこれは またまたですが ブッダターの問題だとも考えられます。

  • 自由の限度

    『自由』と言う言葉が、いろいろな場面で使われていますが、果たして『自由』がどこまで、行使できるのでしょうか?  最近は、他人に迷惑をかけなければ、何をしても良いとか、自由を自分のいいように解釈している人が、多いように思われます。 マスコミなどにも、そう言う傾向があると思うのですが・・・。  幅広い視点で意見をください。 よろしくお願いします。

  • 存在の始まりはどこ。。??

    全ての物事には始まりと終わりがあります。であるならば宇宙が存在した前ってのも存在してた訳で更にその前もその前も考えれちゃう訳で。。結局始まりって何だったのか?科学から哲学に入り込んでしまいました。神的な存在が始まりを創造したのだろう。。と勝手に結論だしたら、じゃあ神の前は?って自己矛盾に陥りました。この悩みのパラドックスに答えられるとゆうツワモノの方お待ちしております。

  • 仮にも、神が存在するならば

    質問:神は信仰されることを望んでいますか? 人々から崇められたいと思っているでしょうか? 崇敬の的になれないと不満?(笑) 神が存在するとして回答して下さい。 神とするものは単なるエネルギー体であって意思ある存在ではない と考える方は結構です。 存在する・しないも誰にも分からないことです。論点ではありません。 書かないで下さいね。 質問を読めない頭の悪い人が稀にいたので、念のため一応書 人々が信仰心を持つか否かは、個々の自由意思で決めればいいと思います。 私の疑問点ではありません。 質問の意図を仮定しないで下さい。 以上、よろしくお願いします。 参考にさせて下さい。

  • 満月の錯視現象

     地平方向に見える月と、天頂方向に見える月を見比べると、地平の月が大きく見える現象を「月の錯視現象」と言われています。  この研究テーマは昔から存在して、アリストテレスやプトレマイオスやデカルト、etc・・・と結構有名な学者も研究していました。しかし、現在に至ってもハッキリとした原因が解明されていません。現在一番有力である学説として言われているのが、Lloyd Kaufman,James H.Kaufmanらによる学説だと思います。  しかし、これら全ての学説を見ても満足のいくようなものではありませんでした。だれか詳しい人がいたら教えてください。

  • 「絶対的価値は存在しない」の考えの理論について

    勝手にこんな理論を考えてみました、少し神学的です。 まず人間が愚かだとするならば、その原因はそんな「愚かな人間」を作ってしまった、もしくはそんな「愚かな人間」が生まれる世界を作ってしまった、神様が愚かだということになります。 同じように、「神様」に「愚かな人間をつくる」という行為をさせ、結果「神様」を愚かにした「神様」の{神様}が愚かだということになります。 このように考えると、どんどん無限に「愚かなのは神様の神様の神様の・・・・・・・・・・・・・・・・神様だ」となり、愚かなのは最も上の神様ということになります。 しかし、無限の考えでは「最後」や「最大」などの考え方がないように、「最も上」という考えもできないので、結果その「最も上の神様」は存在しないことになり、愚かな人間、もしくは神様という存在は一切存在しないということになります。 よって「愚かな存在」は存在しないことになります。 しかし、ここで「愚か」を「素晴らしい」にしても、まったく同じことが起きます。つまり、「素晴らしい存在は存在しない」ということになります。ほかの「〇〇な存在」としても同じです。 結果、(哲学的な)絶対的価値は存在しないことになります。 こんな内容です。またこの後、考察として自分の中では「絶対的な価値観が存在しないのだから、「自分に価値観に自信を持ち、そして他の価値観も認めるべきだ」ということを考えました。

  • 哲学者の頭の中から神が消えたのはいつ頃ですか?

    西洋哲学においてかつては神の存在が前提とされていたと思います。スコラ哲学や形而上学など神の存在抜きに考えることはできないと思います。しかし、現代においては哲学ももはや神の存在を前提にしていないと思います。西洋哲学において哲学者の頭の中から神が消えたのは歴史的にはいつ頃でしょうか? 1)年代的にはいつ頃でしょうか? 2)神など存在しないと言い出した哲学者は誰でしょうか?ニーチェでしょうか? 3)神がもはや存在しないと考えられるようになった背景(原因?)は何でしょうか? 4)もし、現代において神の存在を前提とする哲学論文を専門誌に投稿した場合に査読を通って掲載される可能性はありますか?

  • ポストモダン(次世代)の哲学は存在するのか?

    私の好きな哲学者はキルケゴール、ショーペンハウアー、ニーチェ、サルトルです。 彼らにはある繋がりがあり、キルケゴール→ショーペンハウアー→ニーチェ→サルトルという流れがあります。 ・キルケゴール 厳格なキリスト教徒の家庭に生まれますが、自分の出自に酷い衝撃を受け(両親の火遊びにより生まれる)、更には恋人との間での宗教上の問題に苦しみ酷く絶望します。 皆さん御存知、聖書より見出される「死に至る病(絶望)」に対するキルケゴールの見解は非常に有名かと思います。 これに対するキルケゴールの解決方法は信仰でした(その為、最後まで信仰を貫き、未婚のまま終わる)。 ・ショーペンハウアー やがてショーペンハウアーの時代になると、学問が発達し対して代わりにキリスト教の権威が没落します。 この結果、現実に目を向けるようになり、ショーペンハウアーはここで人間の「意志」に着目します。 この意思こそが全ての原因であり、ショーペンハウアーはこの意思をコントロールすることを説きます。 彼は原始仏教(東洋)に影響を強く受けてましたから、修行による禁欲を薦めます。 ・ニーチェ キルケゴール同様、厳格なキリスト教徒の元に生まれたニーチェでしたが、既にキリスト教の権威は地に落ち、学問により科学が台頭を始めます。 産業革命が起こり、資本主義が生まれ、まさに人類の夜明けの始まりです。 ここでショーペンハウアーの書物に出会い、ニーチェは衝撃を受けます。 彼もショーペンハウアー同様、インド仏教に強い影響を受け、さらに人間の「意志」を推し進めます。 やがて「ツゥラトゥストラは語りて」にあるように、神は死にニヒリズム(虚無思想)の台頭を予見します。 これに対するニーチェの回答は超人になることで、運命を受け入れることでした(しかし、これは非常に狂気的でニーチェ自身は発狂) ・サルトル 元作家であり、科学・文学と様々な見識を持ち、多趣味であったサルトルは哲学を様々な分野と結びつけ、やがて人間そのものに目を向けます。 実存主義が生まれ、「自由の刑」にあるように、人間とはそもそも「何でもない存在」であり、自分の定義によって決まる自由な存在である(ニーチェ同様、「ものごとに対する解釈」と言えなくもないが、「運命」によって決まるとしたニーチェに対して、サルトルは「より人間は自由である」とした)。 さて、ここまで追ってきて(文字数制限がある為、かなり省きました)、ある意味サルトルで哲学は死(または最高)を迎えたと言えなくもありません(というより、「哲学」という定義そのものが瓦解し自由な存在となった)。 一時期はポストモダンを求めて色々議論が交わされましたが、結局サルトルで止まってます(正確には再考なので、ちょっと違うかもしれません)。 フーコやヴィトゲンシュタインなど、哲学というより言語や、あるいはマルクスなど経済や社会といった、わき道というか「道具」としての側面が強くなってる気がします。 そもそも、もう哲学というより心理学や科学(工学?…遺伝子工学、金融工学、宇宙工学など…etc)の時代なのかなと…。 でも相変わらず現実は悲惨極まりないし、自殺者だって止まりません(むしろ年々増えてる)。 次の哲学(ポストモダン)ってあるんですかね? そもそも、今の時代って「哲学」って存在するのかと…。