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『自由意思』は存在するのでしょうか

kigurumiの回答

  • kigurumi
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回答No.7

私もNo.4さんが述べたような実験によって「人間は本当に自由意志があるのか」ということに疑問を投げかけるものを読んだことがあります。 他の人と同じ内容を書くのもなんなので、私がそれに関して思ったことを書かせていただきますと・・・ 実験の結果、意思の前に既に人間の肉体は動作準備に入ろうとしていることがわかった。 では、誰が意思の前に肉体を動かそうとしているのか? 人間は普通、自分がやったことに対して説明ができます。 が、時には無理やり自分を納得させようとして、後意味づけみたいなことをすることもあるような気がします。 人に聞かれたら、 「だって 欲しかったから」「だってやりたかったから」「その方がいいと思ったから」 と言いながら、実は他人より自分自身が何故? 納得全然いかないんだけど? と思うってことありません? 判断ミス?  欲望をとめられなかったが、やってしまった以上 不利にならないように、自分の行動を意味あるものと正当化しなければならない? あるいは、本当のところ どうしてそんなことをしたのか 実は本人にもわからない? オデュッセイアに自由意志について触れています。 この場合 自由意志と自分の意思が一致している。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%82%A2 の第12歌 古代のギリシャ人は、自由意志を人間が持つ強い欲求だと思っていたと思えます。 その究極の欲求を満たすと天国にいったような心地になるが、同時に死を招く。 では自由意志を尊重しながら、死なない方法は? それがオデッセイアの12にうまく描写されている。 いずれにせよ、自由というより、誰もそれに逆らえないほどの強い何かが自由意志のようです。 最初に書いた「既に肉体は活動を始めようと準備をはじめている」は、その活動を止めることはも誰もできない。 が、その自由意志が肉体を完全に奪って操作することにブレーキをかけることは可能だと思います。 まだ 実行に移す前に、却下、次 と思考をめぐらすことができる。 そのブレーキ部分が心身の疲労などで弱ってくると、うまく機能しない。 結果、実験室をメチャクチャに破壊してしまい、気づくと病院にベッドに寝ていて、破壊した記憶もなければ、どうして破壊したのか自分でもわからない ということになる。 病気のせいで凶暴になった、病気のせいで記憶がふっとんだ と普通考えますが、確かに病気のせいで、なったのかもしれませんが、記憶は本当に消えてはおらず、脳の中に残っているみたいです。 ある人が家族を惨殺しましたが、その記憶が全く無い。 記憶する部分に蓄積していなかったのだろう と思われていましたが、数年後、ものすごく詳細に殺人の経緯を思い出したらしいです。 警察が証拠としてまとめた資料と一致する。 どうしてそういうところに血がつくことになったのかも、本人の思い出した供述で明らかになり、現場検証の資料と一致した。 思い出したとされたのは、偽の作られた記憶ではなく、真実の記憶だったわけです。 ただ、どうしてとても愛していた家族をものすごく残忍な方法で、冷静にやれたのか となると、本人は「どうしてそんなことができたのか 理解不可能」だそうです。 ただし、本人の意思ではなくある男に命令されたからだと供述していた。 それも殺人の指示を詳細に命令され、その命令の内容通りに計画にそって愛するかけがえのないと思っている家族を虐殺したらしいです。 誰かに命令されたので殺した ということがわかりますが、でも、人に命令されたからといって、自分がかけがえのない認識の家族を殺せるものじゃあありません。 名前のどこに住んでいるのかも どうしてその男が家族を殺して欲しいのかも知らないし、第一人に命令されたからといって、「はいそうします」と殺せるものじゃありません。 では この命令した男の正体とは? 医学でいけば幻覚・幻聴・妄想により引き起こった実在しない人物。 妄想をとめる効果があるとする薬を大量に投与してからは、そのある男は一度もその人の前に現れなくなった。 でも本当に存在しないのか? 薬がその男に命令したある男の存在を閉じ込めているので、出て来れないわけでは? その正体とは? 自由意志? 本当はこの殺した男は、家族をかけがえの無い家族だと自分に言い聞かせて、自分の本当の心を閉じ込め 自分自身も騙してきたのではないのか? 殺人の記憶が無い間、この男は幸せだった。 数年後殺人の記憶がよみがえったとき、その残忍さをまざまざと思い出したので、思い出すたび絶叫して苦しんだ。 家族はいなくなって欲しかった。が、むごたらしい殺人は絶対に見たくない。 ましてや、自分が一番嫌なことをやった張本人などには絶対になりたくない。 が、家族はいなっくなって欲しかった。 本当は愛してなどいないし うっとうしいし 消えてなくなれと心の奥では思っていた。 それを押し殺して表面上は 愛しているよと 嘘をつき 他人も自分もごまかしてきた。 いい亭主を演じるため、外でめいいっぱい働いて、家でもよき亭主を演じるために家事や育児を手伝い、自由が奪われもう肉体の精神もボロボロ。 だが、社会的にいい人間 いい亭主 いいパパであり続けなければならないという社会の圧力がこの男を閉じ込めて圧迫していった。 その閉じ込められた男を解放するためにやってきた救世主が自由意志だとしたら。 法律も倫理も通用しない自由意志。 交渉も割引も通用しない自由意志。 人間の本来の欲望。 普通は人間の理性によって閉じ込められているが、限界に達し生きるか死ぬかになると出てくるもの。 倫理やモラルや社会理念によって縛り上げられきって もう我慢ならないと限界になった人間が、留め金を外すと救うためにやってくる自由意志。 我々は教育され集団で生きるために、いろいろな制限を設けられている。 その方が他に殺されにくいし、集団の中ではトラブルが少なく生きやすいから、教育してモラルというその集団が決めたルールを刷り込んでいく。 ただし、そのルールを守ったからといって、必ずしも幸福になる保障を社会や集団はしてくれるわけじゃあない。 最低限の災いを防ぐ程度。 とても 不足しているわけです。 でも、なんとかそのルールやモラルを遵守することで、縛られながらも生きていけるのが普通の人間。 中にはその不自由さに限界が来る人もいると思う。 ある人は精神病になったから と自分に言い聞かせ、ある人は自分がだらしないから 家族に対して愛情深くできない自分が悪い と意味づけして、その不自由さの原因は自分の努力が足らないからだと思う。 実際は自分じゃなくて、社会が押し付けたルールやモラルにより縛られて、もう我慢の限界なわけですが、縛っているのはその刷り込まれた集団に都合のいいルールやモラルなのに、そうではなく自分が原因で自分が変わらなければ 成長しなければ と全然お門違いなことに原因を考えてしまうわけです。 当然 お門違いなのでいくら能力開発セミナーに通ったところで、メンタルクリニックに通ったところで、本人が病む原因は脳内物質の異常のせいじゃなく、しばりすぎたロープがその人の心を拘束しすぎたため、肉が裂け始めたから。 すると限界になったとき 留め金が外れる。 閉じ込められていた自由意志がどっと外に開放される。 しかし、「これは僕の意思じゃありません 自由意志の仕業です」は通用しない。 普段善良だとされる人間に対して、社会が納得する説明は、精神を病んでしまったから しかない。 自由意志は存在すると思います。 ただ、ブレーキをかけないと とんでもないことになるので、人間は注意して生きるに越したことはないのも事実。 どっちを取るか 究極の選択です。 普通はオデッセイアのように両方を同時に取ることはできない。 (そうなる前に ガス抜き さぼり なまける をしていればいいんですけど 真面目な人ほど罪悪感によって自分を縛り上げてしまい、自由意志が外に出て自分の体を乗っ取ってしまう確率が増す) 人間とはなにか? 自由意志は人間に似ているのか? などなど考えてしまいます。

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