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『自由意思』は存在するのでしょうか

nisekantの回答

  • nisekant
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回答No.3

No.1続き 実験の結果から生じる自由意思の問題について、その解決の可能性をどう見るかと訊かれて、リベットは、アメリカ哲学者トマス?ネーゲルの意見に言及した。1987年、ネーゲルは論文の中で、リベットの研究とその結果について触れている。「脳はその持ち主が気付かないうちに選択しているようだ。ある哲学者に、この実験について詳しく説明したところ、彼はその結果の意味するところは明らかだと、皮肉たっぷりに言った。『人の脳には自由意思があるが、人にはない』」 だがネーゲルは、この状況に、すんなりとは受け入れ難いものを感じている。「この種の実験は、なんとも不穏な可能性を提起しているように見える。すなわち、人間が自由な行動と見なしているものは、単に我々の身にふりかかってきたものに過ぎず、自らに選択権があるという意識は錯覚であり、我々は事が起きてから、自分に支配権があると思い込んでいるだけかもしれない」。 それにしても、なぜネーゲルの論文に登場する哲学者の「人の脳には自由意思があるが、人にはない」という公式では駄目なのか? なぜ駄目かといえば、〈自分〉の概念が脳以外のものにまで及ぶからだ。そこには、何をおいても、まず体が含まれる。感情が胸の内や腹の底から湧き起こる、と私達が表現するのにはそれなりの訳があるのだ。 従って、現に物事を操っているのが意識であるはずがなく、それゆえ〈私〉でもないはずのとき、それは脳だとするのは早計のようだ。それは〈私〉でない者、と言うに留めるのが賢明だろう。自分であって〈私〉でないものを表現するのには、〈自分〉という言葉が適切に思える。なぜなら、余計な憶測を含まないからだ。 この〈私〉と〈自分〉の区別は、見かけほど単純でも軽薄でもない。20世紀末、人間であるとはどういうことかという認識に根本的な変化が起こりつつあるが、この区別はその変化を端的に表している。人は感知、思考、行動の実に多くを意識していない。 〈私〉という全能の存在が人間を支配していると言い張ることは、自分という人間の無能化を意味する。そうなると自由意思はないことになる。 No.2続き たくなるのを思いとどまる場合や、子供が今にもやりかねないことを止めなくなる気持ちを抑える場合などです。しかし、意識的な意図と無意識的に始動する衝動との対立などの結果として禁止権を捉える貴殿のお考えは、決して瑣末なものではなく、十分主張する価値のあるものです。 20世紀初頭、デンマーク哲学、心理学者ハラルド?ヘフディングは、禁止権説についても、禁止に不快感が伴うという考えについてもむろん知る由はなかったが、この点についてきわめて明確にこう述べている。「無意識の行動傾向が意識的な思考や感情と同方向を向いているかぎり、人はその傾向にはなかなか気付かない。……殆どの場合その力は、意識に上る動機の力と一体化している。そして、行為全体の名誉や不名誉は、意識的動機のほうに帰せられる」 言い換えれば、私達が無意識に気付くのは、それが意識に反する場合のみということのなる。というのも意識は、自分と自分の持ち主を同一視したがり、無意識の衝動に屈するのを良しとしないからだ。 〈禁圧〉された経験が前意識的性質を持つことを、フロイト派が特に強調してきた理由は、このメカニズムで説明できるのかもしれない。無意識は意識されないという、まさしくそのために、意識は無意識の存在を認めたがらない。そして、人間には意識以外のものもあることを意識が認めざるをえなくなるのは、意識と無意識との間に葛藤がある場合に限られる。そのため、逆説的ながら、かえって〈禁圧〉された衝動ばかりが目につくことになる。 前意識……意識の現前野から外されている心の領域。とっさには意識されないが、無意識へと抑圧されたものではないので、比較的容易に意識化される。 禁止プロセスがたいてい不快感を伴うとしても、そうした意識的禁止を行いうることには変わりがない。使わなくても禁止権は存在する。使ってもいいが楽しくはないというだけだ。それはまた、私達が一番安らかでいられるのは、意識が自由意識を行使しないとき、ということでもある。人は、意識を介さず無意識の衝動に従うときが最も幸福だ。ただ行動するだけのときが一番満ち足りている。 しかし、こう考えると、気分のいいときに主導権を握っているのは意識ではない、という事実を突きつけられることになる。すると疑問が浮かぶ。人間は不快なときにしか自由意思を持たないのだろうか?気分のいいときにも自由意思はあるのだろうか?そうだとしたら、それは誰の自由意思なのか?

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