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「心は心臓にある」という科学的アプローチの存在
「心は脳にある」ということが、すでに、常識のようです。「心」で検索すると、解説があまりにも多彩すぎて、どこを見ればよいかも分かりません。哲学や心理学の「表象や現象」という言葉と混同しないために、科学的には「クオリア」と呼んで区別し、しかも、脳・神経系と無関係には論じられないような印象です。しかし、文献などを探してゆけば、結論は得られなくても、それぞれの「現状の長短」は判るような気がします。そこで、文献などの見当も付かないのは、「心は心臓にある」という立場に固執した、科学的なアプローチで展開している学説・仮説の存在です。「心は脳にある」という立場は、「測定機器の進歩」に依存し過ぎた「もっともらしい説明」の傾向を感じます。馬鹿げた考えかもしれませんが、あれば、教えてください。
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- aokisika
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続きです。 >「完成された心臓の構造・機能の細部」ではなく、「心臓への分化過程で、心臓構成細胞には、ゲノムの遺伝子領域の活性化パターンの違いが、記憶されている(ビットが立つのでは?)」と仮定すれば、 これはどのような意味でしょう? >「完成された心臓の構造・機能の細部」ではなく、 というのは、「完成された心臓が心の機能を持たなくても分化の過程でなら心の機能を持ちうる」とおっしゃりたいのでしょうか?ということは「完成された心臓には、すでに心は存在しない」ということをお認めになっているように聞こえます。 「ゲノムの遺伝子領域の活性化パターンの違い」の意味がわかりません。 進化の過程で、遺伝子は全てが書き換えられるのではなく、新しい遺伝形質が少しづつ獲得・蓄積され、一方で少しづつ失われて行きます。従って遺伝子には古い遺伝情報、たとえば祖先が魚類であったり両生類であった時の遺伝情報が残存しています。これは仮定ではなく証明された事実です。 個体発生は系統発生を繰り返す、というのはこの過去の遺伝情報にしたがって生体が形成されてゆくからです。この遺伝情報は卵細胞にすでに入っているので、卵細胞から細胞分裂してできた全ての細胞に受け継がれています。これも証明された事実です。 「仮定」しているのはどの部分でしょうか? また「違い」というのは何と何との「違い」でしょうか? 「記憶されている」とはどういう意味でしょうか? 「記憶」という用語には「意識を持って意図的に情報を蓄える」というニュアンスが含まれやすいように感じます。「心臓構成細胞が『意図的に』遺伝情報を蓄えている」と仮定したいのでしょうか?とするならばそれは、「心臓に心が存在したら」という仮定をしたのとほとんど同じことになるように思います。 「心臓に心が存在する」と仮定したのですから、思考実験の結果「心臓に心が存在する」という結論が出ても当然です。最初に仮定しているのですから。したがってこの結論には何の意味もありません。 そうではなくて、単に「情報が蓄えられている」という意味で「記憶」という用語を使っているのでしょうか? もしそうであるのなら、進化の過程の遺伝情報が蓄えられているのは、心臓だけでなく、全身の細胞に同じ情報が蓄えられています。したがって心臓を対象としたどの思考実験も、心臓以外の臓器を対象として行って同じ結論に到達してしまいます。つまり、心臓に心が存在するのなら、胃にも腸にも髪の毛にも腕の筋肉にもかかとの骨にも心が存在するという結論になってしまいます。 また、遺伝情報は卵細胞の段階ですべてDNAに組み込まれており、発生の過程でそこに新たに何かが加えられる、ということはありません。単に情報を設計図として使ってたんぱく質などを合成しているだけです。隣の細胞から遺伝情報をもらって自分が持っている情報と組み合わせて新たなものを作り出して、といったことは行なっていません。なぜなら全ての細胞は同じ遺伝情報を持っているので、隣の細胞からもらうべき情報などないからです。 総じて、最初に結論を決め付けてしまい、その結論に結びつくような証拠のみを集めようとしているように感じられます。 もちろん、科学の方法においても作業仮説は必要です。つまり「ある現象が生じることの原因、あるいは本質へ○○である」という仮説を作り、その仮説が妥当かどうかを調べます。このときにまずするべきことは、その仮説の設定が適切であるか、つまり、その仮説によって現在知られている現象が説明できるか、を調べます。 次に、その仮設が成立するための必要条件は何か、あるいはどんな条件がないとその仮説は成り立たないか、を考えます。そしてその仮説が成り立たない場合には、次の仮説を作ります。 3番目にすることは、その仮設が成立していた場合、その仮説で無ければ説明のできない未知の現象を予測できるか、を考え、その未知の現象を探します。予想どうりに未知の現象が生じていることを発見すると、その仮説が正しいと認められることになるわけです。 アリストテレスは「心臓はものを考える器官である」と言ったそうです。 素敵な異性に胸をときめかせたり、びっくりして胸がドキドキしたり、甲子園野球を見て胸を熱くしたりと、私たちは胸または心臓と心とは密接に結びついているように感じます。ですから、最初の作業仮説として「心が心臓にある」とすることにはムリはありません。 しかし、医学が進歩してくると、事故等で脳に重大な損傷を負いながら生き延びる人がでてきました。そういう人たちの中には、脳の損傷の前後で性格がガラっと変る人がいるという複数の報告があるそうです。また一方、心臓に重大な損傷を負っても、手術をして生き延びる人がでてきました。そういう人で、心臓の損傷の前後で性格が変ったという報告はありません。 この時点で「心が心臓にある」とする作業仮説は検討を迫られます。脳の損傷が脳には無くて心臓にあるはずの心に影響を与え、心臓の損傷が心臓にある心に影響を与えないメカニズムを提案するか、またはこの作業仮説を放棄するか、です。 結局のところ、適切なメカニズムを提案できなかったため、「心は心臓にある」とする作業仮説を放棄せざるを得なかったのです。 >理論構築は素人には困難でも、アイデアが出せる場合もあるのでは? 心が心臓にありながら、脳の損傷が心に影響を与え、心臓の損傷が心に影響を与えるようなアイデアを検討してみてはいかがですか。
- aokisika
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#3です。 ご質問が「文献はどこにあるか?」であったので、「文献は存在しないだろう」という私の推測とそう推測した根拠をコメントしたつもりです。心がどこにあるかは私は知りません。 >将来を含めて、「意識を、実証する(=計測する)」ことができるのでしょうか? 私もdsu323さんも、このサイトにアクセスしようと意図し、パソコンを操作してここにアクセスし、文章を読み、考え、感じています。その意図し、考え、感じている意識が存在しない、などと主張する人はいないと思います。 「意識」というものが何なのかは私は知りませんが、それが存在していることについては疑問の余地はないと思います。 しかし、これを「計測」するとなると問題が別です。 dsu323さんが「計測」という用語をどのような意味で使用しているのかわかりませんが、理系の、特に物理系や工学系の人間は「計測」という用語を「数値化」と同義語であるととらえます。数値化というのは「算術計算可能な数値に置き換える」という意味です。 これは、「1+2=3であるので、1番の意識と2番の意識を足すと3番の意識になる」という意味です。 「意識」について、このような数値化は私は不可能であると思います。 物質が原子の集まりであることは実証されています。しかし、1+2=3であるから1番目の原子(水素)と2番目の原子(ヘリウム)がくっつくと3番目の原子(リチウム)になるようなことはありません。つまり、原子の存在は実証されていても数値化はされていないわけです。実証と数値化は全く異なる概念です。 >?「計測できなければ、科学でない!」のでしょうか? 「計測」という用語が「数値化」という意味であるなら、科学であるためには数値化の必要はありません。しかし、今研究しているものがなんなのかを調べて他のものと判別する方法は必要です。 真言密教の系統の阿含宗の管長である桐山靖雄という人が面白いことを言っています。 日本人が月を見て「美しい」と感じるのと、お釈迦様が月を見て「美しい」と感じるのは同じ「美しい」でも心の中身が違う、というのです。なぜかというと、インドは熱帯地方で昼間は太陽がじりじりと照りつけ、猛烈に暑いのです。この地獄のように暑い太陽が沈んで涼しくなり、代わりに昇ってくる月を見たときの感じは単なる美醜だけでなくもっと慈愛に満ちた美しさを感じたはずだ、というのです。この言い分は納得ができます。 それを踏まえて、 東京でエアコンの効いた家に住み、エアコンの効いた会社で仕事をし、エアコンの効いた車で通勤をしているAさんが、エアコンの効いた快適な部屋から月を見て「美しい」と感じました。 一方、インドの大都市で、エアコンの効いた家に住み、エアコンの効いた会社で仕事をし、エアコンの効いた車で通勤をしているBさんが、エアコンの効いた快適な部屋から月を見て「美しい」と感じました。 さて、Aさんが感じた「美しい」とBさんが感じた「美しい」は同じでしょうか違うでしょうか? 東京の研究者X氏がAさんの心を研究し、「美しいと感じる心は○○である。」と言いました。これに対してインドの研究者Y氏がBさんの心を研究し、「美しいと感じる心は○○ではなく、△△だ」と言いました。 どちらが正しいのでしょう?それともAさんの美しいとBさんの美しいは実は別の感情であるから、異なった結論に達したのでしょうか? これを知るためには、Aさんの「美しい」とBさんの「美しい」が同じかどうかを判別しなければなりません。そしてこの判別方法が効果的であるためには、この判別方法をアメリカに在住する研究者Z氏が、ニューヨークで月を見て「美しい」と感じたCさんを調べて、Cさんの「美しい」がAさんBさんと同じかどうか判別できなければなりません。 このような判別方法を「測定」と仮に呼ぶことにしましょう。 科学であるためには、数値化は必要ではありませんが、測定は必要です。測定できなければそもそも同じものについて論じているのかどうかがわからなくなってしまうからです。 >「実証できなくても、納得できる(死後を含めて!)ような、意識のイメージ」が欲しいヒトも多いのではないでしょうか? それは当然です。しかしそれは科学ではありません。 胃カメラを開発したのは日本人だそうです。しかし、開発した日本人医師は町医者として地域の住民の健康を守る生き方を選びました。現在は小さな診療所を開いて内科医師として診療にあたっているそうです。その生き方が科学的に正しいと実証されたからではありません。胃カメラの研究者として生きることに納得できず、町医者としての生き方に納得したからです。 一方、医師のいない孤島に生まれ育った徳田虎男氏は、故郷の島に病院を創りたい、という思いから医師になり、さらに医療を充実させようと、国会議員になりました。 これは、政治家になることが科学的に正しい生き方だと実証されたからではありません。 政治に身をおく生き方に納得したからです。 こんなもん、科学的に正しいもクソもないでしょう。 これは科学が決めるべき筋合いの問題ではありませんよね。 大切な家族が死にました。身体は死んだけれど腎臓が他の人の体の中で生きていると思うと心が安らぐので臓器移植に腎臓を提供しました。 大切な家族が死にました。身体に傷をつけないであの世へ旅立ってくれると思うと心が安らぐので臓器移植への提供を断わりました。 腎臓が生きていると心が安らぐのと、傷がついていないので心が安らぐのと、科学的に正しいのはどちらですか? 腎臓が生きていて安らぐのは間違いなので、腎臓が生きているといって心が安らいではいけないのですか?傷がついていないから心が安らぐのは間違いだから、傷がついていないからといって安らいではいけないのですか? そういう問題ではないですよね。科学が決めるべき問題ではありませんよね。 科学は、事実は何か、事実の本質となる事実は何か、事実の原因となる事実は何か、を探究する学問です。事実とは関係のない、生き方とか、納得すると心が安らぐとか、そういった問題を扱うためのものではありません。
お礼
「科学と納得」、「測定と数値化」の問題ですが、話が難しくなりました。最初に指摘した「納得」のイメージは、例えば、ファインマンの「曲がってくる光の、到達時間を時計で測る」という解説です。「測るのは、観測者」で、「時計の針の角度((位相)が、計測結果」です。「直進する光が、最短時間で、光が曲がるほど、遅れ」が生じます。「多数の経路の観測結果をグラフ化する」と、「最短時間の位置が、直進する光」に対応する、という解説でした。これは、「力学のサイクロイド(等時曲線)が、最速曲線」という解説とほぼ同じです。「サイクロイド」の場合、「45度の斜線部分を、やすりで削り、1回削るごとに、玉を転がして、落下する時間を測る(観測者の設定)」ことを繰り返し、グラフ化して、「最短時間で転がり落ちるカーブが、サイクロイド」である、という解説で、「ファインマンの場合は、光学版」と考えれば『納得』ができます。「意識」の問題に、「観測者を設定すれば、事情が変わる」のでは?
- aokisika
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「心」に関する研究がどのように行なわれているのか知りませんが、今仮に「心」が一種の情報処理であると仮定すると、心が心臓にあるためには、心臓の中に情報処理を行なうような構造が存在しなければなりません。しかし現時点でそのような構造は発見されておりません。心臓の中にあって何らかの信号を伝達する機能がある構造物としては、拍動をコントロールしている刺激伝導系が知られていますが、もしこの刺激伝導系が「心」に関与しているのであるならば、ペースメーカーを装着した人は、装着の前後で心の働きに何らかの変化が生じているはずです。しかしながらそのような報告はありません。 また心が心臓にあるとしたら、心臓移植手術をした場合にその前後で心に変化が生じているはずです。しかしそのような報告もありません。 それを承知の上で、「心は心臓にある」と主張し、科学的なアプローチをするとしたら、まずやるべきことは、心臓移植やペースメーカーやその他の心臓手術の前後で「心」に変化が生じていることの証明です。現時点で「変化」が報告されていない、というのは単に「まだ」みつけられていない、というだけであって、「変化がないことの証明」ではありません。 ここで、科学的アプローチの本質が実験的検証であり、実験的検証の最重要項目が再現性であるとするならば、「心は心臓にある」と主張する研究者がすべきことは、心臓手術の前後における心の変化を測定するための測定方法の提案に他なりません。 質問者さんは、「測定機器の進歩」に依存し過ぎた「もっともらしい説明」がお好きでないようですが、科学的にアプローチをするためには測定器に頼らざるを得ません。 ところで質問者さんはどういう立場の人でしょうか?学生さんですか?研究者ですか?それとも一般の方ですか? まず、どんな情報もネット上に「かならず」あるはずだ、という思い込みを捨てましょう。ネット上にあるのは誰かが「インターネットに乗せて公開しよう」と考えた情報だけです。ネットにのせようと考える人がいない情報はネット上には存在しません。 私は大学卒業後4年間大学院生として研究の現場にいました。その経験では、研究とは競争です。ある現象を、誰が最初に発見するか。誰が最初にその現象が生じていることを証明するか。誰が最初にその現象のメカニズムを解明するか。そして最初に発見し、最初に証明し、最初に解明した人のみが、「最初」という栄誉(=業績)を獲得し、2番目以降はカスなのです。 ですから、「心は心臓にある」という科学的アプローチで何らかの結果を出した研究者はそれを大きく発表し、「最初」という栄誉を得ようとするのです。 dsu323さんが文献を探して見つけることができなかったとしたら、その文献は存在しないか、著者自身が大きく発表するだけの価値はないという評価をしている文献だ、ということです。 ですから、お探しの文献は存在しないか、わざわざ探すだけの価値のない文献かどちらかです。 わたしとしては、存在しないと思いますよ。
お礼
カナダに留学したヒトが、「心は何処にあるか?」と質問したら、「頭を指差した」のでびっくりした、という記事を見た覚えがあります。日本では、「胸を指差す」習慣からだろうと思います。「心は、意識の一側面(感情・情動)」のような感じがあります。将来を含めて、「意識を、実証する(=計測する)」ことができるのでしょうか?「計測できなければ、科学でない!」のでしょうか?現在の生命科学も、「生命や意識」には言及しません。「生命や意識の消失=死」だけが明確で、「死も、身体的特徴の検出で、宣言」されます。「医学は、死後は無」だそうですが、「死後の世界」で検索すれば、種々の見解があるようです。DNAのクリックも、脳研究のエックルスも、ノーベル賞受賞後の晩年には、「意識に関する知見」を得ようと研究している(た)ようです。「実証できなくても、納得できる(死後を含めて!)ような、意識のイメージ」が欲しいヒトも多いのではないでしょうか?理論構築は素人には困難でも、アイデアが出せる場合もあるのでは?また、独断的なアイデアに対する意見を聞けるのも、相談箱の長所では?ちなみに、「完成された心臓の構造・機能の細部」ではなく、「心臓への分化過程で、心臓構成細胞には、ゲノムの遺伝子領域の活性化パターンの違いが、記憶されている(ビットが立つのでは?)」と仮定すれば、「思考実験やモデル解析(情報という視点から!)が、不可能ではない」ような感じもあります。
- larme001
- ベストアンサー率44% (271/608)
「心が脳にある」というのが常識というのはどういった根拠なのでしょうか?少なくとも、現在の人間の認識論的意味では脳が重要な研究対象でしょうがそれをもってして脳にあるという結論をだした科学的論文(きちんとしたもの)は存在しないと思います。そして、「クオリア」というもの自体も定義が非常に曖昧なもので自然科学的な意味ではまだ定義されていないものだと思います。 個人的には「心」というのはあくまで「現象」を表す言葉だと思います。すなわち、何かしらの感情が高まり心臓の鼓動が速くなったりすることや、「頭が真っ白になる」というようなすべての感情の高まりを総して「心」というのではないかと。そうなれば自然科学的には「温暖化はどこでおきているのでしょうか?」という問題定義はあまり利口ではなく、「温暖化は何によって引き起こされるのか?」ということのほうが意味があります。あげられた、「クオリア」というのもつまりかなり漠然としたものでもあるのです。 そうすると心≒人間の感情と考えてしまうとすると、結局感情はどこでしょうじるのか?ということになります。ただ、感情というのは結局、外界としてのさまざまな刺激と人間のさまざまな生まれつきの本能が絡み合って生じるのでしょうから、どこというものが難しいいです。そして、人間の感情でも人によってその受けとらえ方が全く違ったりもしますね。結局はなんだかよくわからないとなってしまったり、、、。 心とか厳密な自然科学としては違いますが、養老さんの「唯脳論」などは「バカの壁」ほどかってな議論ではなく、面白いと思います。 「クオリア」の自然科学的な議論に関しては参考(wikiですが)とかに大雑把に詳しいでしょう。
お礼
有難うございます。最近、心理学専攻の研究者が、脳の生理学的実験を試みるようになったようです。「主眼のテーマが心理学で、実験データが脳・神経研究」ですから、自ずから、「心の科学書が、脳研究と相同」になるのかも知れません。これらは、読者の側からすれば、「納得できる」ような内容ではありません。「クオリア」についても、最近知ったばかりでよく分かりません。ただ、「心の存在場所について、注目する」視点には興味があります。詳しく述べませんが、「心は、意識の一側面(感情・情動)」で、「意識が、器官臓器によって、特殊化(別の側面を持つ?)されている」ような感じもあります。願わくば、「意識は、脳の機能局在部分も含めて、これらをアクセスする実体」という科学的成果の出ることを、さらに、「死後の意識との関連性について、結論が出る」ことも、将来に、期待しています。
- Tacosan
- ベストアンサー率23% (3656/15482)
そも「心」というのが「科学的に」定義されているんでしょうか?
お礼
関心を持っていただいて感謝します。舌足らずですが、「心の動き(感情・情動)と、外部環境情報に応答する脳・神経活動と結びつける(=相互関係)」だけの内容では、「脳研究の数ほど、考え方」が登場し、これらは、「心の理解」には至らないようなな気がします。「心の定義が可能になるような論理構築」の「ロジックを、例えば、心臓の構造と機能や、発生・分化(細胞分裂)のDNA・ゲノムなどに求める」ような考え方の存在を知りたいのです。これはまた、「心を、文字で定義」して、「歴史的な仮説」の組み合わせで議論する哲学的アプローチとも異なります。
お礼
深い考察、有難うございます。「心は心臓にある」という主張を持つヒト(アリストテレスなどの哲学を除く)の意見・論拠の存在を知りたかったのです。「心は、脳にあるか?、あるいは、心は心臓にあるか?」と問うように、「意識の存在場所は何処か?」という設問が可能なのでしょうか?「局部の損傷とその影響」は、「生きているヒトが、意識活動によって、言葉で語る」ことだと思います。「意識活動の内容が、感情・情動に関係している場合に、心という言葉」が用いられるような感じがします。この場合、「心は、言葉で語られる内容」で、「心臓や、脳などの局部細胞集団」には無関係ではないでしょうか?医者は、「病気を治すために、因果関係を調べる」のであり、「生きている(=意識がある)」ことが前提です。「意識が形成されるメカニズム」には、多分、「非日常的な思考」なので、問題意識は薄いかもしれません?文字数に限りがあり、他に言及できないのが残念です。