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真の哲学は、全身全霊で、体験と論理で、宇宙、生命、人生の真理を、理解体

真の哲学は、全身全霊で、体験と論理で、宇宙、生命、人生の真理を、理解体得する、人間的知的営みのことと理解しています。一般の哲学は「脳」的に偏っているように感じます。それでは、哲学の本旨に反します。科学は哲学に似ていますが、再現性のないものは科学的に実証できないので、宇宙を検証できない致命的欠点があります。哲学は仮説で論証します。あるいは、一人の「人体=小宇宙」によって検証します。つまり哲学は「宗教+科学+芸術」の総合作業です。現実的にはこれが限界でしょう。で、現実にある総合作業が「ヨガ=世我」なのであることを知りました。皆様のご意見をお寄せ下さい。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.1

ようこそ密教の世界へ。これを機会に顕経と密教はどう違うかを調べて見ると面白いですよ。 さらに、これを切掛けに、南方熊楠が土宜法竜に宛てた書簡集『南方マンダラ』を読むことをお勧めします。河出文庫で手に入ります。南方が20才代後半にロンドンにいた頃、たまたまロンドンにいた30才代後半の僧侶法竜に送った書簡集です。法竜は後に真言宗高野派の管長になった高僧です。この書簡の中で南方は「仁者、宗教のことを知りたしという。これ仁者仏に信厚ければ到底能わざるかもしれぬ」、要するに、お主は坊主だから宗教のことは判らんだろうと言って、法竜に宗教の講義をしたものです。哲学って何なんなのだ、そして、日本人の中にこれだけ度肝を抜くような桁違いな人間が存在したのかと言うこと知る良い機会です。多分もう既にご存知でしょうが、南方は粘菌学者であり、日本での最初の環境保全運動家であり、さらに柳田國男と共に日本民俗学の創始者の一人とされる巨人です。自然科学の世界で最も権威が在るとされているイギリスのネーチャー誌に、日本人として最も多くの論文の掲載を許された方で、未だにその記録は破られておりません。 序でにこの機会に南方の「履歴書」(『南方熊楠文集1』、東洋文庫)も読んでみると、人間とは何かを考える良い材料を与えてくれます。これは南方が粘菌に関する研究所を作るための資金を無心するために、ある銀行の頭取に宛てて書いた履歴書です。8メートルにも渡る巻物に細字の筆でびっしり書いた物です。私は和歌山県白浜にある南方熊楠記念館にお参りして、熊楠神の書いたこの巻物を実際に見て来ました。活字にして70頁を越えており、日本人の書いた最も長い履歴書とされています。   なにごとのなせる技かは知らねども かたじけなさに涙こぼるる 人間とはここまで巨大で崇高になれる者かと、目から鱗の落ちる経験を幾らでもさせてくれる本ですので、貴方の質問の回答を与えてくれる大変良い本だと思います。

yonaoshi-c
質問者

お礼

みなかたくまくすの名前と業績の一部は知っていましたが、あらためて読んでみます。ところで、平野レミさんは、氏の孫でしたね?粘菌は植物、動物の中間のような生物でしたか?「中間」の研究が大事と思っています。ヨガ、瞑想、矛盾克服、世界平和・・・中間意識の強化が必要と思います。寺田寅彦氏は「境界」の物性解明が究極のテーマといっていますが、いかが思われますか?

その他の回答 (7)

noname#122986
noname#122986
回答No.8

真の哲学とは、貴方の言われる通りです。真理を追究することと思います。 絵空言の哲学は、一生涯に渡る時間の浪費と思います。

yonaoshi-c
質問者

お礼

哲学とは「ヒロソヒ」の明治時代の西あまねの翻訳でした。直訳すれば「愛知」です。「知的、論理的作業を楽しむ」というぐらいの翻訳がニュアンスであろうと思うのですがいかがでしょうか。哲学というといかにも机上の悶々脳学問の印象です。哲学を楽しむひとりとして思うことは、人生の生活全てが哲学だということですが、「哲学」ということばは独特の個性をもったものとして一般では理解されますので、当然認識の立場の違いが生じます。それで、こだわるのは「最初にお互いに共通語彙を決めること」なのですが、悲しいかな皆さんその趣旨に賛同されません。哲学に限らず、全てのことに当てはまることと思います。特に哲学を志す志士ならこのことにこだわらずにこだわって欲しいと思います。 dasoku:こだわらずにこだわる、とは広く深く長く集中するが、捉われず囚われず捕らわれず自由に、ということです。 投稿ありがとうございました。

  • pupurr
  • ベストアンサー率18% (129/705)
回答No.7

仏法の解説では、身口意の3業を使うという文があります。  行動し、語り合い、経を唱える。 また宇宙、生命、人生は一つのものです。  宇宙の外に、生命があるわけではなく、宇宙の中に人も生命もあり、その存在も含めて宇宙といいます。  ですから、人間も宇宙の一部であるといわれますし、自分と宇宙も一体であるといいます。  人間は酸素なしには生きられないため、植物と人間の酸素と二酸化炭素の交互依存で成り立っています。  この離れた物体が相互依存して、生を補完しあってるのがこの宇宙のそれぞれの関係ではないでしょうか?  ですから、エゴなど自分勝手な意識にとらわれて、森林伐採や環境破壊など、補完してる相互依存の関係を壊してることは愚かなことであるといわれるのです。 宗教+科学+芸術」の総合作業とは、人生そのものではないでしょうか。  そうしたら、自分の生活の当たり前なところに、真理があるはずです。特別なところではなく、今ここにあるということでしょう。  しかし、それがまだ意識できないレベルというのもあります。  「意識」の進化という言葉があるとおりにです。  自分でもきずかない「他者」への補完作業が、自分でもしているということに気づくところから、出発し誰でもその働きが、自分ではわからないが「ある」という寛容さを持つところから、総合作業が完成に近づくのではないでしょうか? >>一般の哲学は「脳」的に偏っているように感じます 脳科学では、それを超えた超人は、わからないでしょうね。  当然「脳」をこえる事は、できないでしょう。  ヨガとは、現実的に総合作業であるなら、ヨガだけで生きられるといえるでしょうか?  リラックス法などの視点はわかりますが、作業の一つではありますが、  総合作業といわれれば、現実は「生活」でしかないのではと思います。 総合作業はすべてに見出せると思いますよ。  一つだけというのは、「かたよった」考えですね。 つまり、至高によって、すべて総合作業になりえます。

yonaoshi-c
質問者

補足

ベストアンサーにしたいような回答を頂きありがとうございます。ベストは言い過ぎですかね。ベストアンサーにしてしまうとコーナーが閉じてしまうのでベターにしておきます。 そもそも人間の生活(生き、活かし合う)が即ち哲学なのだとすればいいのです。ヨガの語源は「ユイ ユヒ ムスヒ 結い」と聞いています。インド本土というより、南インド地方の言葉の様です。ヨガよいうと何か特殊のイメージをもたれるのが世間一般の認識でしょうが、真理を求める目で認識するとなれば、表面上の認識では浅すぎます。ヨガ=ムスヒというイメージにすればまた、ニュアンスの違った認識が広がると思いますが。世我とすれば、人間と宇宙のむすび探求、つまり「人間生活すべて」が世我となります。言葉の持つ「象徴性」に囚われず、独自に広く深く認識解釈すればいいのです。ただし、対話する者同士でそのことを共有して居なければ無意味では有ります。本当のヨガ=世我を実践実行されたことはありますか?愚問ですね。人間生活そのものが世我なのですから、ほとんどの人は知らず知らずのうちに世我っている訳でした。イノチの働きも「ムスヒ バランス 循環 調和」と定義されます。生きていることはそのまま「バランス」現象なのです。病気はバランス回復作用・現象と観ます。世我的認識です。究極の時間に単位は不要です。空間にも単位は入りません。しかし、日常生活の便宜のために単位が有ります。究極の尺度と人間スケールでの尺度は違うのが当然なのでしょう。ところで、時間と空間の共通する単位が有りますが、それは「回転」です。瞬間にも一単位の長さがあり、一番小さな空間にも大きさがあります。量子論です。単位は秒でもメートルでもない、もっとも物理的ながいねんで「回転」なのでした。つまり、時間と空間とが区別つけられない状態、現象が、宇宙の究極現象で、論理に反しません。もっとも論理的です。哲学とはこういう結論を導き出す作業でもあるのです。科学には出来ません。 断定して譲らなければ「偏執宗教」にナリマス。あくまでも哲学の立場は、仮説ですから、皆さんのご意見を期待するわけです。わくわくしながら、別の見方の出るのを楽しみにして居ます。これが、哲学の醍醐味では無いでしょうか。自説を無限留寿都村やり押しつけません。これ以上は解説不能というどん詰まりまで、テーマを追い詰めるのです。一人の力では限度が有ります。皆さん一緒に、真理を追い詰めてみませんか。般若心経の最後に、ギャーティギャーティパラギャーティパラサンギャーティ ボディスヴァハ というサンスクリット語の呪文がありますが、一つの解釈では「ゴウゴウイケイケドンドン、突き抜けると真理に至る」となるそうです。ギャーはGO、行く、ギョウと同義なだそうです。なるほどとおもえます。心経の前文は「0 空 循環」をといていますから、そのだめ押しでしょうか。

回答No.6

>現実にある総合作業が「ヨガ=世我」なのであること その通り。しかし、思考と感覚を追及する事が真の哲学であり、ヨガは、その追及の仕方の一つだと、個人的には、思うけどね。

yonaoshi-c
質問者

補足

<仕方の一つ ヨガという言葉に、独特のイメージをお持ちならそれをご破産にして考えてください。一般的なヨガのイメージなら「~の一つ」という解釈も当然なんですが。ヨガはユイの訛と考えられています。ユイとは、結い、結ひ ユヒ ムスヒ、つまり「動静 陰陽 明暗 男女 苦楽 幸不幸 硬軟 大小 天国地獄 善悪 美醜 好き嫌い 問題回答 こころと身体 0,1 有限無限 時空 矛盾・・・」つまり、哲学の問題を総合的に捉えているのが「ヨガ」なのであると言葉の理解ができるなら、ヨガがどこで発生したか、一つの宗教か、哲学などの考え方の「狭さ」に気付かれるでしょう。人間が「イノチ 世界」について疑問を持った瞬間に「哲学」は発生しそれを「ヨガ」といったかどうかは別にして、概念は「ヨガ ムスヒ」なのですから、それが真実です。歴史のうそホントの煩わしさは無くてよいのです。ということを前提にして哲学に関わらないと、とっちらかって結局は迷宮入りの論議になります。言葉の定義自体が哲学の真の目的でもあり、最初の仕事なのですが、そのことを理解されていない方がほとんどではないのかと憂います。因みに「宗教」の定義は「証明不能、不要の絶対的教え」。ですから、論議の対象になりませんから、哲学カテゴリーとしてはこの定義がよいか悪いかということになります。「哲学」の定義は「あらゆる事象、現象を総合的につまり、全身全霊、感覚、精神、感情、理性、意識etcあらゆる方法を駆使して、人間的に、脳で論理的に処理して、快適に人生を送るための道を見つける営み」とでもしておきましょう。脳コンピュータで情報処理するだけでなく、それを生活に活用するところまでを含めて「哲学」とします。その意味で哲学は「世我」なのです。部分的な意味での~の一つなどと云う狭い認識ではないことがお分かりかとおもいます。一つの意味には「全体」という意味もあります。全体的総合的に哲学しないのでは、哲学にならないことを強く主張したいと思います。皆さん哲学を楽しみましょう。そのためには、使う言葉の定義についての論議が最初なんですがねえ・・・・

回答No.5

オレの存在を論棚から削除ねがいます 絶対に理解されない自信さえ有ります

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.4

「脳的」より「意識的」だと思います

yonaoshi-c
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 「意識」のあり場所はどこか?「あらゆるものの境目にある」と定義します。意識は全身皮膚、細胞膜に存在していると考えますので、哲学とは「まともな意識ともいえる」になります。「脳的」というのは「脳細胞による情報処理」という意味に限定してのことです。脳だけでは不十分なのは言うまでもありません。脳と全身意識の融合が世我・ヨガの訓練の「我の訓練」です。全身意識と宇宙との融合は「世の訓練です」世と我の融合がヨガの本旨ですが、皆さんの認識はどうでしょうか。ポーズとか瞑想とか断食とか、呼吸法とかに限定したイメージ=固定観念では哲学になりません。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.3

パーリティピタカ(パーリ語三蔵)は、心・生命・生きることについての論理的道徳的理性的な、探求の方法論・実証方法・実証結果・の参考書のようなものと感じています。 ヨガはBhagavat-giitaaの定義では神に定めたられし義務。 他の使い方としては「ヨガ」は単に「修行」という意味でもあるそうですね。 実践的には概念への没入(サマタ冥想)から、得た体験に概念付けする道と、 得た体験はただ「体験した」とほって置く道があり、 他の道としては、ありのままに観る(ヴィパッサナー修習)という主観・エゴによるフィルターを捨てる道があると思います。 サマタ冥想によって得た体験ただ体験したとほって置き、ヴィパッサナーに役立てる道がパーリティピタカの道かなぁと思ってます。 個人的には「宗教」と聞くと概念の決め付け信仰が頭に浮かんでしまいますが、 「心を扱う」という意味ならパーリティピタカは心を扱う科学的に、気付きによる探究という意味では、「宗教+科学」といえるかもしれません^^ 「芸術」については、ちょっと定義がわからないです^^; ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

yonaoshi-c
質問者

補足

他人の説、考え方、過去の資料など尊重し参考、引用するのは大切なことです。そのようにして、文化は熟成していきますから。技術も積み重ねですからそれは大切なことです。同時に、個人的直感のオリジナリティも大事です。そのオリジナリティが「芸術」でしょう。アートです。芸術の「術」は邪魔ですね。技術は洗練されて価値がでますが、アートは「洗練されると輝きがくすむ」傾向があります。ピカソはそれに気付いて、下手うま路線を切り開きました。子供のセンスがアートともいえます。 絶対を根拠とするのが宗教で、客観性を根拠とするのが科学とすれば、哲学はその両方の間で悶々と試行錯誤し続けるものと定義できるでしょうか。これくらいに簡潔に定義しないと、哲学論議がかみあいません。ネットに期待する点は「専門家の固定観念に縛られずに、多数の意見が交流できる」点ですので、その趣旨をご理解いただいてお付き合いさせて下されば幸いです。

回答No.2

 提題に対応していませんが、すみません。  「ヨガ=世我」は、yonaoshi-c のご解釈かも知れません。  ヨガを検索するとでてくると思いますが、ヒンドゥ語ですね。  一体、没入、融合という意味という説明もあります。何との一体化というと自分の、そして世界の根源との、基盤との一体という意味だそうです。  何がそれに一体になるか、それは自分になってきているものだという事です。  ご質問の文章は難解ですので、私が理解するには相当時間がかかります。すみません。

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