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心の哲学:心の哲学的説明と科学的説明の違い

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お礼率 27% (24/88)

 心について科学哲学の立場で勉強していますが、壁にぶつかってしまいました。
それは、心について、哲学の立場で説明することと、科学の立場で説明することの違いが判らなくなってきたのです。

 哲学では、心に関する「概念」を論理分析していくことだ。科学では、「仮定」と「実験」で理論を実証していくことだ。との説明がありました。しかしながら、哲学での「概念」は当然のこととして科学理論をも踏まえたものであります。

 そうすると、哲学の概念の中にも科学理論が内包されているわけで、そのような概念とは、科学理論とどのような違いがあるのだろうか、という疑問に突き当たってしまったわけです。

 これは、哲学するとはどのように思考展開していくのかという疑問にも通じることです。アドバイスと参考文献の紹介をお願いします。
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レベル9

ベストアンサー率 53% (31/58)

 けっこう固まってきました。「内部観測」に関して、自分の理解にまだまだ修正の余地があることを自覚していますが、自分が知る領域に引き付けてある程度把握できた気がします。
 ここでも回答されているmotsuanさんの質問「人間にとって物語とは何なのでしょう?」(下記URL参照)への私の回答No.8で書いたのですが、「ガダマーの解釈学」。これで途中までは行けそうです。それをここに再掲(コピペ)するのはいくら何でも暴虐ですので、そちらはそちらで軽く目を通していただくとして、ここでは簡単にかいつまんで書きます。

 ガダマーは、ある文章(特に古典)が内包している「意味」を客観的に読み取ることは不可能だと断じています。というのは、文中のある単語の意味はそれが置かれた文脈に規定され、その文脈もまた文章全体の中で位置付けられて意味を持ち、さらにはその文章そのものが、それが書かれた社会や時代背景という大きな「文脈」の中で意味を持つものだからです。「客観的に」読み取ろうというのであれば、それらすべてが「客観的に」把握されていなければなりません。ところが、逆に見ると、文脈は単語から形成され、文章全体は文脈から形成され、社会や時代背景はその文章を含む雑多な文物から形成されています。つまりここには「どうどう巡り」が生じてしまう。単語と文脈、文脈と文章、文章と社会は、互いに他方に依拠して支えあっている。…どちらか一方が「客観的に」固定されていれば、他方も客観的に固定できる見込みも立つのですが、それは事実上不可能です。したがって、ガダマーは「文章の客観的読解は不可能だ」とするのです。
 このあたりの問題の枠組みは、内部観測論の「内部観察者」と「観察対象」との関係にきわめて近いものがあると感じました。完結した系を外部から観察する「外部観察者」とちがって、内部観察者は完結していない(開放系の)系の中で、対象を同定する「文脈」、その文脈を規定する文脈、その文脈を…という無限遡行を強いられるのです。ここでも「客観性」というものは、素朴な自然科学が前提する「カルテジアン・カット」のように簡単には得られません。

 さてしかし、ここでガダマー先生には「脱臼」していただかなくてはなりません。百歳を越える御高齢なのですが…。
 というのは、やはり問題が「人の心」となりますと、ガダマーがテクストを相手に構想した解釈学とはまた別の問題が生じるからです。
 ガダマーが相手にしたのは、あくまでも「古典」でした。現代のわれわれと、過去との間の「文脈」の差異、これがあるがゆえに「問いと答えの弁証法」が生じ、テクストと読者の双方を巻き込んだ運動となり、その中で「地平」が融合していきます。その運動全体こそが「真理」であると彼は述べています。そこでの「真理」は、それが掴まれてしまえば運動が終結するというような「客観的な」ゴールではありません。無限の、開放系の弁証法です。
 前の書き込みでも述べましたように、人間および社会を相手とした知は「開放系の知」であらざるをえません。ガダマー解釈学も開放系の知にはちがいないのですが、それでも既に完結した「テクスト」、および既に完結した「過去」を相手にしています。これに対し、私たちが考えようとしている「心」は、現在のものを当然含みます。したがってなおのこと「完結していないもの」と言えましょう。テクスト以上に。
 この点に注目しますと、例えば「人間とは何か」という設問は次のように分解できます。すなわち、
   「人間は何であったか」(過去への視線)
   「人間は何でありうるか」(未来への視線)
です。
 前者については、一定の時間の区切りさえつければ、何とか答えが得られる可能性があります。ところが後者に関しては、やはり未来というものの本質的原理的予測不可能性ゆえに決して解答は得られません。また、過去は常に「現在」が積み重なっていくことで膨大に膨れ上がっていきます。そのことを考えると「過去」を片付けるのも容易ではありません。
 同様のことが「心とは何か」という問いに関しても言えるでしょう。この問いもまた、
   「心とは何であったか」
   「心とは何でありうるか」
という二つの問いに分けられます。以前予告申し上げていた「文学っぽいアプローチ」というのは、実はこの前者の問いに関わるものでした。「心の真実の姿を覆い隠しているかもしれない《近代の神話》」を剥ぎ落とすために、過去のさまざまな時代、さまざまな地域との間に「問いと答えの弁証法」を経験することを通じて「心」というものを見ていく…そういうようなことでした。
 でもやはり、それだけでは話は済まない。…と、こう来ますと、satonohukurouさんの問題意識である「幻影肢」からはガンガン話が飛びまくるわけですが、本質的に予測不可能が未来が絡む以上は、少なくとも「心の可能態」に関して説明するところまでは行っていないと「心の哲学」として充分なものにはならないのではないかと考えます。これ、ものすごいことですので、もちろんsatonohukurouさん独りでやれってことじゃないです。関連学界全体でそっちもやんなきゃいけないのではないかと。
 「心の可能的なあり方」だと、まずは「脳」。心を担う物質的基盤として。心的内容を納める器として。
 そして「心理学」。…以前の書き込みをお読みいただいてお分かりと思いますが、私は過去、および現行の心理学にはあまり厚い信頼は寄せていません。一定の有効性はあるでしょうが、いつでも「エセ科学」に堕しうる。少なくとも思索の素材を提供する学、そしてできれば、素朴実在論的実証主義を乗り越えた学となってくれれば…と願います。
 でもって「哲学」。人間および世界を捉えようと試みる知としての。
 要するに物質的基盤から観念に至るまでの多層的なレベルのどこかに還元するのではない、その全体が絡み合った複雑系として「心」を眺めてみる必要があるのではないかと思うのです。それができるのは「科」に分化した「学」たる「科学」ではなく、哲学でしょう。

 幸いなことに、前の書き込みでも紹介しましたように、カオス論などへの注目あたりから、科学の側から人文諸学への歩み寄りが始まっております。「カオス」というのは、解釈の対象たる「自然」の側から人間に突きつけられた「否」であろうと思うのです。「問いと答えの弁証法」を稼動させるところの「否」。それに科学はようやく耳を傾け始めた。ですが哲学を初めとする人文諸科学は、太古の昔から一意に還元できない人間的諸現象を宿命的に、当たり前に相手にしてまいりました。この点からして、「歩み寄り」は「科学の側からの」歩み寄りです。人文諸学の側からではなく。
 ここから、「哲学の見方」と「科学の見方」という両者の区別には神経質になりすぎることもないかな、とも思えたりするわけです(哲学と科学を截然と区別すると、哲学もまた仕切りの中に囲われた「科-学」の一つに成り下がることにもなりますし)。ただ、「科学」が示すことどもを盲目的・無批判に受け容れるのではなく、その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む…そういうことでよいのではないかと考えます。

 何やら話が拡散して、ご研究には直接役立つ範囲を逸脱しているのではないかと恐れますが…いかがでしょう。
お礼コメント
satonohukurou

お礼率 27% (24/88)

ご回答の皆さまへ

 No50 の回答にお礼をし書いている現在も、議論ははるかに先を行っております。お礼が遅く申し訳ございません。serpent-owl さんから結論をいただきましたので、少しコメントさせていただきます。

serpent-owl さまへ

 長い間、本当にありがとうございました。また返礼が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。serpent-owl さんにゼイゼイと息を切って、振り落とされまいと、付いて行くのがやっとという状況です。
 多岐にわたるご回答をいただきましたが、お礼としてまして、私の最大の関心事に限定し理解できたことと、私の本質問から得た私の考えを述べたいと思います。

 「心」に関する「知」が有する性質=「開放系の知」であり「完結していないもの」である。このパースペクティブからは「過去への視線」と「未来への視線」が得られる。
 過去は現在の累積でありその無限性から説明が困難である。未来は本質的原理的に予測不可能である。予測不可能性から少なくとも「心の可能態」に関する説明が必要ではないか。すなわち、「脳」、「心理学」、「哲学」など、いわゆる物から観念までの各階層のいずれかに還元するのではない『その全体が絡み合った複雑系としての「心」を眺めてみる必要』がある。

 科学は、自らの拠り所であった実証主義から現象(世界)を説明することに限界があることの自覚から人文諸学への歩み寄りが始まっている。このような現況からすると、「哲学の見方」と「科学の見方」の区分に神経質になることもないのではないか。要は、真理を追究する態度で重要なことは、「その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む」ことではないのか。

 大変貴重なそして重い回答でした。心という事象をいかに説明するのか、ということを勉強していくうちに、哲学での分野での説明と、科学での分野での説明の態度に疑問を持つようになりました。それは、哲学で使用している心に関する知識は科学的知識をも根拠としてしているのではないか、それなのに科学において心は学の対象足りうる資格を有するのかという問題を有するのではないのか、この2つの疑問のために、一体「心を説明する」と言うことはどういうことなのだろうか、という問に突き当たる羽目に陥ってしまったのでした。

 serpent-owl さんの回答から私が学んだものは、

「心の性質(本質)を理解せよ、そしてそこから出発せよ。既存の論理に還元するな。」

でした。

 serpen-owl さんは、心の本質を「カオス」ととられておられました。「開放系の知」としての本質です。先に引用しました「心の科学は可能か」(土屋 俊、認知科学選書)で、土屋は結言に代えて心の説明の困難性について、心の「文脈依存性」を指摘しています。すなわち「私」と「社会」を内容に含む概念は形式的処理が困難である、としています。serpent-owl さんの回答にも通じるものがあると感じました。

 そこで、心の概念を説明していくうえで問題とすべきは、「複雑系」、「文脈依存」で性格づけられる心を説明するに相応しい「論理」を見出していくことだと思います。心の概念を説明する論理として「カオス」、「量子論」、「進化論」・・・(たぶん他にもあるはずですが、これから勉強していきます。)が議論されているのだと思います。
 
 「心の可能態」に思いをいたすと、なんだか「心」がますます果てしなく遠くのものになるように感じますが、とりあえず、第一歩を踏み出すために、私に何ができるかを考えてみたいと思います。

本当に貴重なご意見ありがとうございました。多くの方に参加していたできましたので、その方々にお礼をしなければいけません。もう少しオープンにしておきます。そして、少しずつ終末態勢とさせていただきたいと思います。
投稿日時 - 2001-04-08 17:26:14
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その他の回答 (全82件)

  • 回答No.14
レベル7

ベストアンサー率 0% (0/5)

みなさま、お久しぶりです。 某君からの伝言です。 「クオリア・マニフェストに来れ」 ...続きを読む
みなさま、お久しぶりです。

某君からの伝言です。
「クオリア・マニフェストに来れ」
お礼コメント
satonohukurou

お礼率 27% (24/88)

はじめまして。
「クオ・マニ」へのご紹介ありがとうございました。
早速、「クオリア」についての論文などを読ませていただきました。
これらは、科学者が科学論文を記述しているとしてよろしいのでしょうか。

「クオ・マニ」の資料の中で、
日本経済新聞1999 年10 月3 日掲載記事として、次の記述がありました。

意識のナゾ 第5 回
「色ない場所に色つくり出す」
>私 たちの心の中のクオリアと、脳の中のニューロンの活動などの物理的プロセス
>の間には、どのような関係があるのだろうか? これは、哲学上の大問題であると
>ともに、意識を問題にし始めた脳科学にとっても重大な問題である。

心の問題は、哲学上の問題でもあり、科学上の問題でもある、という表現はよく見かけます。あまり気にもかけなかったのですが、いざ哲学の論文を書こうとすると。さて、心に関する哲学論文と科学論文と何が違うのか?と言うことに疑問を持ってしまいました。

 実際、「脳とクオリア」(茂木健一郎)を読んで、その違いがよく判りません。よく判らないのは、そもそも心について科学論文が成立するのだろうか?というところです。他者の心は観察できないのではないでしょうか?心に関する仮設を証明するための実験は出来るのでしょうか?ということで、科学の根拠としての客観性が担保できていないのではないかという疑問を持つからです。
 そうすると、ただ推論だけで(概念分析)論理が展開されているのではないかと思います。それでは、哲学ではないか、ということになるわけです。

 それとも、こんなことに疑問を持つのは愚問でしょうか。
もし愚問としたら、哲学と科学を区分することもナンセンスとなるのでしょうか。
どうもよく判りません。
投稿日時 - 2001-03-27 21:10:03
  • 回答No.83
レベル9

ベストアンサー率 53% (31/58)

 これ以上質問者を煩わせるつもりはありません。「的外れ」との趣旨は充分に立証されたと思いますので、私は満足です。  予定通りに質問をお締めください。>satonohukurouさま
 これ以上質問者を煩わせるつもりはありません。「的外れ」との趣旨は充分に立証されたと思いますので、私は満足です。

 予定通りに質問をお締めください。>satonohukurouさま
  • 回答No.40
レベル9

ベストアンサー率 53% (31/58)

 halkaさま  まず、誤解なきように。別に「けしかけられた」から反論しているわけではありません。前にも書いたように「あいまいなうなずきあいで問題点をうやむやにしたくない」から話を詰めようとしているだけです。(とはいえ、「幼児虐待する母親」の解釈があまりに問題を卑小化しておられたため、少々感情を害したことは否定できませんが、しかしそれも前に書きましたようにあくまで具体例であって、本論ではありません。) ...続きを読む
 halkaさま
 まず、誤解なきように。別に「けしかけられた」から反論しているわけではありません。前にも書いたように「あいまいなうなずきあいで問題点をうやむやにしたくない」から話を詰めようとしているだけです。(とはいえ、「幼児虐待する母親」の解釈があまりに問題を卑小化しておられたため、少々感情を害したことは否定できませんが、しかしそれも前に書きましたようにあくまで具体例であって、本論ではありません。)
 「質問1」に関しては「心を哲学的に見る作業には論理学で充分。可能と価値を含めた論理学ならよい」とのお答えをいただきました。「質問2」に関しては、「自己否定状態を回復するために対象価値を変換するか、もしくは事実世界に働きかけて可能性を変換するかである」とのお答えをいただきました。ありがとうございます。
 「質問6」までのお答えが出揃うまでコメントは控えようかと思っておりましたが、軽く感想だけ述べます。
 「質問1」へのお答えにつき。事実命題を巡る論理から価値命題は演繹できません。すると、命題論理に可能と価値を導入するということは、まったく異なった公理系を持つ論理を混在させることになろうかと思われます。新たな公理系の構築になろうかと。もちろん「完全性」を証明された公理系を援用することもできません。すると、その公理系の無矛盾性証明からやらなくてはなりませんね。
 「質問2」へのお答えにつき。「自己否定の状態に陥った人間が、価値変換を選ぶか可能性の変換を選ぶか」という二者択一の必然性が、お示しの論理式にどう表現されているのか、というのが質問でした。答えになっていません。その二者択一は、結局「確率」ですか? ならば確率をどう論理式で表現するのですか。それとも「その個人の決断」ですか? ならばその「決断」を下した「心」は論理式のどこに表現されているのですか。…答えになっていません。

 なお、ニーチェの言う「価値転換」と、halkaさんの言われる「価値変換」とは、何の関係もありません。老荘思想も同様です。
 それから、「絶対的な価値」に関する私の考えについてのご質問、「絶対的な価値についてお考えになったことはありますか?」ですね。「あるなし」を選べ、と。
 Have you ever thought about the absolute value? でっか? ほな、
 Yes, I have. でんな。「ある」です。「考えたことは、ある」。
 でも、これって「証明」するまでもないですよ。私がそれについて考えたことがあるということは、「証明」するまでもなく、私が白状します。「考えたことはあります」。はい。で、それが何か問題なのでしょうか? 「全貌」というのは、halkaさんの「心・命題同一説」の全貌という意味で用いた言葉でしたが、関係…あります?

 では、残りの質問へのお答え、お待ちしています。
  • 回答No.39
レベル5

ベストアンサー率 0% (0/3)

そもそも主観客観はカント以前ではその概念内容が現在とはまったく逆になって いたときいています。 subjectumはもともと、ギリシャ語のhypokeimenon(下に横たわるもの)のラテ ン語訳であって、「変化するさまざまな性質の根底にあって変わらないもの」とい う意味である、というのが本来の意味であったそうな・・・。 この意味に対峙する客観とは移り行く本質の束の間の表象であったとか・・・。 ...続きを読む
そもそも主観客観はカント以前ではその概念内容が現在とはまったく逆になって
いたときいています。
subjectumはもともと、ギリシャ語のhypokeimenon(下に横たわるもの)のラテ
ン語訳であって、「変化するさまざまな性質の根底にあって変わらないもの」とい
う意味である、というのが本来の意味であったそうな・・・。
この意味に対峙する客観とは移り行く本質の束の間の表象であったとか・・・。
この意味を引き継げばむしろ表象であるがゆえに観察にこだわっているといえる
のかもしれません。
>それに…yahooに行ったところで、事情の分からない人もたくさんいるわけですから
わたくし、かの地ではpandora_mashのHNでやっています。
えげつない私の姿が知られてしまいそうですね。
>今度やったら管理部に死人が出るまで罵り倒すだけのことです。
ほほほ、たのもしき・・・。
パニックの語源であるパーン神が怒り始めると死者が出たそうでございますね。
それにしても、斯様な様になったのはわたくしがserpent-owlさまの美しきお言
葉に魅せられてsatonohukurouさまの質問回答に便乗して、あなたさまをけし
かけたことにあるやもと反省しております。
もちろんsatonohukurouさまに論理学ファンになっていただきたいとの思惑
が本来の目的でございましたが・・・。
いまとなってはgooの管理者さまのご温情にすがるばかりでございます。

>質問1:「人間の心は命題論理や述語論理で記述できるとお考えですか?」
> ・・・「できる部分もある」ことを認めるという程度のことです。でも、それで
>「心を哲学の視点から見る」作業に充分でしょうか?
前回、前々回に述べたような観点から私は論理学で充分かと考えます。
従来の論理学は一般命題のみでしたが可能と価値を含めれば如何でしょうか?

ニーチェなどもあなたのおっしゃる通り価値変換で永劫回帰思想を述べており
ます。それから宗教?かどうか老荘思想などはズバリ価値変換ではございま
せんか?無用の用・・とか。ただ価値は一元論二元論で語りうる実態などでなく、
時空と同じく議論領域と考えるのが私のやり方です。
後悔という感情がありますが、たとえば選択を誤ってつらい思いをしてしまった、
さて今になって悔しい、何とかあの時間を取り戻したい。
そこでツァラトウストラは言うわけでございますよ。超人は辛いがゆえに再びそ
の生を繰り返そうとするのだ!!
でも価値変換する構造的なものをもっと述べても良いのではないでしょうか?
今ある現実に只けちをつける御仁もいらっしゃりますが、それは自己慢心から
くる天邪鬼です。今の苦痛がたまらなくて、そうだ!と価値変換するのがニーチ
ェなのですね。可能変換はできないわけですからVS=1を達成するのは価値
変換しかないわけです。つまりこれは論理学というわけです。

>そして、私は、halkaさんの考え方は否定できるものと予想しております
>(全貌が明らかではありませんので断定はできませんが

全貌といえばserpent_owlさまは絶対的な価値についてお考えになったこと
はありますか?対象Fが価値を持つ場合、それを実現しさえすればVS=1は
達成されて意識の目的は終わるというわけです。
それについて、あるなし、をお選びくださいませ。そしてそれは論理的真理であ
るか否かを証明できたら私の勝ち,satonohukurouさまから点数を頂く、という
ことではいかが?

satonohukurouさま!! 何卒お聞き入れくださいませ!!
  • 回答No.37
レベル7

ベストアンサー率 25% (1/4)

>「立場のないものが哲学することである。」は、立派な立場ではないでしょうか。 >ですから・・・その「立派な立場」というものがそもそもないものを哲学と呼びましょう。 >「立場に見合う論理展開」とはその「立場の擁護」 にもなってませんか? これ無限連関しませんか? これは呼びましょう・・・といっているので「呼びかけ」です。 この「立場」とは発言者の立場を指します。 ...続きを読む
>「立場のないものが哲学することである。」は、立派な立場ではないでしょうか。
>ですから・・・その「立派な立場」というものがそもそもないものを哲学と呼びましょう。
>「立場に見合う論理展開」とはその「立場の擁護」
にもなってませんか?
これ無限連関しませんか?


これは呼びましょう・・・といっているので「呼びかけ」です。
この「立場」とは発言者の立場を指します。
正に単なる立場です


>哲学の場合そもそも説明をする必要のないものです。
>そもそも説明の必要のないものに理屈を付ける場合の
>その「説明」とはその「必要」に対する説明と相成ります。
必要無いのに必要?その必要性の説明??

発言者の言う「哲学」の定義を問うています。
「必要のない」は私の言で後者の「必要」とは発言者の必要です。

>そもそも・・・

ほっとけ!
  • 回答No.17
レベル10

ベストアンサー率 40% (54/135)

 いつも回答されているみなさんに教えていただいている身なのですが、私もちょっと考えて見たので、回答欄を汚させてください。  自然科学によって心を解明しようとすれば、まず間違いなく脳の仕組みをしることだと思います。できれば、程よいレベルで脳の情報処理システムを記述し、そのシステムの状態と心の状態の関連づけができれば、心が記述できたと思うのだと私は思います。(これを心の状態 X とそのシステムの状態f( ...続きを読む
 いつも回答されているみなさんに教えていただいている身なのですが、私もちょっと考えて見たので、回答欄を汚させてください。

 自然科学によって心を解明しようとすれば、まず間違いなく脳の仕組みをしることだと思います。できれば、程よいレベルで脳の情報処理システムを記述し、そのシステムの状態と心の状態の関連づけができれば、心が記述できたと思うのだと私は思います。(これを心の状態 X とそのシステムの状態f(X)と便宜上表せたとして置きます。)
 でも、心の状態ってなんでしょう?とりあえずできそうなところから始めると、単純な感情の分類(というより、細かな分類は不可能なのでは?その人の人生を全部記述しないと、本当に細かな感情は表現できないし、記述したとしても、その記述を受け取った(読んだ)人はその人の感情を理解したことにならないような気がします)で怒っているとか笑っているとか状態を決めて=つまり、細かい感情の部分を無視して似たような感情の共通部分として、たとえば、(共通部分 いろいろな悲しい感情 Xi (i=0,1,2,...))= よくある悲しい感情として
 f(共通部分 Xi) = 共通部分 f(Xi)
のようなことを考えて、f(*)がわかったというような気持ちになるでしょう(左辺が普遍的主張で、右辺の操作は多分実際にはいろいろな悲しい感情Xiに対して脳の情報処理システムではなく脳の動きによって生じる生理反応の個別の記述の共通する現象を見出すという操作になると思います。右辺の悲しい感情Xiはその感情の細かい部分を記述しなくても良く単純に 個別の現象 f(Xi) を観察し共通の状態を見出せばよいわけです。ここで、f(*)は単なる生理反応という意味に少しずれちゃってますね)。そして、これをもって脳の情報処理システムを記述できたとし、さらに、f(*)の構造から心のシステムを理解したとするのでしょう。でも、この等式って本当に成り立つのという気がします。f(Xi) (i=0,1,2,...) それぞれがそれなりに大きな違いのような気もします。
 以上の極めて単純な予想でも3つも困難(脳の情報処理システムの記述、心の記述、普遍化による個別性の欠落)があり、ちょっとこのままでは難しいのでは?と思っています。

 一方、哲学は全然知らないのでなんともいえないのですが、イメージというか私の希望として、心の状態を記述し、それにより心の状態のシステムを解明して欲しいものだと思います。心の状態を記述とは上記の「いろいろな悲しい感情Xi (i=0,1,2,...)」ような分類(区分)にとどまらず、その性質を記述する(言語体系を作り上げる)ということです。個人的には、人は一回しか人生を生きれず個々の人生には個別性があるとすれば「心の状態」の記述には物語のようなものが必要なのではないかと思っています。しかし、それは「学」となるのかというとどうなのでしょうか?哲学がいつの日か心の説明に成功することを待っています。
(でも、哲学って私の誤解かもしれませんが「問いを立てる」ことが成果のような印象があるので説明に成功するというのはどんな状態なのか予想できません。)
  • 回答No.43
レベル7

ベストアンサー率 25% (1/4)

果てしなき議論?を追っていって・・・さて素朴な疑問。 「学」とは何かというと、ヘーゲルを齧った私には『精神現象学』序文に見える「教えうるし学びうる、方法的かつ体系的なもの」という定義が思い浮かぶわけです。 >大学生だった頃の私は「そお~だよなぁ」と同感したものです。そして、そういうものではない諸学を「いいかげんな学問」と思っていました。が… 私もそう思っていました。  ヘーゲルって、 ...続きを読む
果てしなき議論?を追っていって・・・さて素朴な疑問。

「学」とは何かというと、ヘーゲルを齧った私には『精神現象学』序文に見える「教えうるし学びうる、方法的かつ体系的なもの」という定義が思い浮かぶわけです。
>大学生だった頃の私は「そお~だよなぁ」と同感したものです。そして、そういうものではない諸学を「いいかげんな学問」と思っていました。が…

私もそう思っていました。

 ヘーゲルって、江戸時代の人です。(…何人か、ズッコケました?)
 その「体系」が崩壊していることは論を待ちません。彼は『歴史哲学』を体系に包摂することで世界精神が歴史の中に現象する必然性を記述し、「歴史を知として所有」したつもりだったかもしれませんが、現実の歴史では現実的なものは理性的になってるとは限りませんし、理性的なものは現実的になっているとは限りません。
>お~い世界精神、どこ行ったんだ~? てなもんです。

これには異議あり。
ヘーゲルが主張しているのは「世界精神がどこかにある、ないしどこにあるか?」ではなくまして「歴史を所有する意思」でもありません。あくまで彼の主張は「電光石火で私(ヘーゲル)が世界精神である」としているに過ぎない。


 「現実」は永遠に完結しない。「知」は現実を「所有」できない。原理に回収しきれない新たなものを生み出しつづける。「完結した体系」にはまとめられない。…社会学という学問は、まさにそういう現実に直に立ち向かうフロンティアなのだと思うのです。「学として」まとまるはずなどない。そして、
>それは恥ずべきことではなく、むしろ誇るべきことである、と。

社会学は「フロンティア」などではあり得ない。
社会学を専攻するものが謙虚なのはあれが経済学と同じく個々の「立場」上の記述以外にないことを思い知らざるを得ないからです。
こいつは笑止!
  • 回答No.44

pikittoさんへ >社会学は「フロンティア」などではあり得ない。 >社会学を専攻するものが謙虚なのはあれが経済学と同じく個々の >「立場」上の記述以外にないことを思い知らざるを得ないからです。 >こいつは笑止! serpent-owlさんが >「百人の社会学者がいれば、百通りの社会学がある」などと。 と書いた上で >まさにそういう現実に直に立ち ...続きを読む
pikittoさんへ
>社会学は「フロンティア」などではあり得ない。
>社会学を専攻するものが謙虚なのはあれが経済学と同じく個々の
>「立場」上の記述以外にないことを思い知らざるを得ないからです。
>こいつは笑止!
serpent-owlさんが
>「百人の社会学者がいれば、百通りの社会学がある」などと。
と書いた上で
>まさにそういう現実に直に立ち向かうフロンティアなのだと思うのです。
>「学として」まとまるはずなどない。
と書いてることを読み落としてますね。
つまり、serpent-owlさんは
「個々の立場の上でしか成立しえず、『学』としてまとめようもないものを、
必死で『学』としてまとめようともがく行為はフロンティアというに値する
険しく厳しい道のりである。」
と言っておられているのではないかと解釈するが、あなたはいかに解釈する
「立場」によりこれを「笑止!」と言い捨てるのでありましょうか?
(serpent-owlさん身勝手なる解釈を付け加えることをお許しください。)

人をけなし、罵倒する行為はその人の言わんとすることを理解し、
その矛盾点をついたうえでするものです。
そうでなければ、あなたはあなたの思考停止を露呈し、
あなたが「笑止!」どころか「失笑」をされる「立場」になる結果を
呼びます。

さて、まず、あなたは「立場」をなんと規定するか説明願いましょうか。
人は生まれながらに「立場」を有するものではなかろうか?
しかるに、あなたの弁ではあなたは「立場」を有さぬように言われている。
しかし、「立場」を有さぬ者が議論などするだろうか?
できれば、下劣な罵倒、中傷以外でお答え願いたいものです。
あなたが、「失笑」をされる「立場」になる結果を招かぬように。
  • 回答No.50
レベル5

ベストアンサー率 0% (0/3)

fwappyさま >茂木氏のクオリア理論に賛同しているわけではありませんよ。 そうでしたか、ごめんなさい・・・。なんとなく茂木様に基本的に賛同していると考えて おりました。 >見えの構造とは何でしょうか? 特定の光波に対して如何なる色が対応して、また特定の部位の疾患が色彩を見分ける 能力をそこなわせるとか・・そうした知識です。 >ところで、なぜ貴方と私のコミュニケーションが ...続きを読む
fwappyさま

>茂木氏のクオリア理論に賛同しているわけではありませんよ。
そうでしたか、ごめんなさい・・・。なんとなく茂木様に基本的に賛同していると考えて
おりました。

>見えの構造とは何でしょうか?
特定の光波に対して如何なる色が対応して、また特定の部位の疾患が色彩を見分ける
能力をそこなわせるとか・・そうした知識です。

>ところで、なぜ貴方と私のコミュニケーションが
>貴方なり私なりに依存しない「透明」なものだと
>考えられるのでしょうか?
>「わかった」のは誰ですか?

fwappyさまの区分わけで気になるのは、全ての知識が主観的で個々人に依存している
としてしまうことは「この赤い花は薔薇です」という言明と「この薔薇は美しい」という言明が
両者とも主観的言明であるというだけの認識しかもてなくなってしまうのでは、ということ
への懸念です。
もしあなたの区分に従うなら天文学の教科書に「火星には衛星が二つあるのに地球には
一つしかないのは残念である」といった記述が出てきそうです。

>その前に、貴方がいう「共通性」を明確にする必要がありましょう。
如何ですか?

ここでわたしのいう共通性とは・・・
先に述べたわたしの論旨をご覧になればわかるとおもいますが、時空という議論領域に
現れる他者の時空における対象の存在言明は共通であると思います。
あなたが「いま、目の前に薔薇がある」という言明に対してわたしが知覚できないとしたら
その命題を真とは判定できません。わたしはあなたが嘘を言っていると判定するのです。
その種の命題を事実命題としてあなたとわたしは共通の判定ができると思います。
しかしあなたが「薔薇はいいねェ」といって、たとえわたしがそれを嫌っているとしても、あ
なたが嘘を言っているとは考えません。
ゆえにそうした命題は議論領域により差異が出る、としてなんとかまとめようとしています。
それがすなわちsatonohukurouさまにおける「哲学」と「科学」の差と考えるからです。
fwappyさまの場合こうした分類はまったく意味がないということでしょうか?
  • 回答No.51
レベル5

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  > ニーチェの「価値転換」は、・・・「事物に備わった力への意志によってなしうることをさせない 力=反動的な力によって形成された価値体系を反転させ再構築すること」です。 そうでございますかねぇ? わたくし「ツラトゥストラ」とか「善悪の彼岸」とかをみますと、かれは自分の事を「わたしは 人類に最高の贈り物をした」とかの自己讃美をしているでしょ。 もし、おじ様の言うような事ならニーチェは ...続きを読む
 
> ニーチェの「価値転換」は、・・・「事物に備わった力への意志によってなしうることをさせない
力=反動的な力によって形成された価値体系を反転させ再構築すること」です。

そうでございますかねぇ?

わたくし「ツラトゥストラ」とか「善悪の彼岸」とかをみますと、かれは自分の事を「わたしは
人類に最高の贈り物をした」とかの自己讃美をしているでしょ。
もし、おじ様の言うような事ならニーチェは社会主義者とか社会改革に乗り出していたのじゃ
ないかと思いますよ。見る限り、彼の関心事は一個の人間に対しての物だったと感じ
ますが・・・。まあ、おじさまがそういうのだからかまいませんわ。

> 次に「論理学のおさらい」について。「2-a」、すなわち全称肯定命題の
例として「東京は日本の首都」を挙げるのは、・・・

これはだめ!
私の提示したのはアリストテレスのA,I,E,O、すなわち全称肯定判断、全称否定判断、
特称肯定判断、特称否定判断とはちがうものですよ。
一部ダブりますが・・・。
全称肯定判断は「人間は哺乳類である」のようなもの。わたしは(全ての)-(全ての)と言ったでしょう。
だったら「哺乳類は.人間である」ともいえてしまうはずでしょう。これは(全ての)-(ある)の事例です。
東京-日本の首都、ではじめて全ての)-(全ての)になります。
それに、あっさりと・・・

>他は大体合意できる…かな。しかし…あまり意味のある仕事をなされたとは思えません。
>お時間をかけたであろうと思いますので、こう言ってしまうと申し訳ないのですが。

いってしまってよろしいのですか?
クオリアの茂木様は認識の根本を
「この宇宙の根源的存在形式は、物質である。物質の振る舞いの様子は、物理法則で
書くことが出来る。特に,宇宙の中の物質の振る舞いの様子をもっとも普遍的に記述する
事の出来る『究極の理論』がすくなくとも近似的には存在するはずである」
と言っておられます。
ところで、私の提示した「存在-繋辞同値説」はこうした物質実在論に真っ向から対立する
物です。これも言葉の分析から来たものですが・・・。
ふくろうおじさも唯心論的発想がもとになってカオスとか文学を論じるってことですか?
もしこの辺をうっかり素通りしたのなら、私の愛の小部屋の調教物です。
わかっていらっしゃるのでしょう?

> これについては、まず「全称命題は一つの反例があれば偽とされる」という原則を指
摘しておきます。これこそ釈迦に説法でしょうが。

白いからすはどうの・・・の全称汎化問題は最近ここでやりました。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835217&tid=a43a43a4acjqa4c0a4hc0a43a6a4nbda165&sid=1835217&mid=81>
あら、イチゴ姫様かえしてたのおそいのでしらなかった。だいぶ嫌われちゃった。
でも全称汎化問題についてはやってないようですね。
では、ふくろうおじさまは「佐藤村の問題」はどうかえしますか?すなわち
経験命題で「限定付きの項」が「限定なしの項」に変わることもあるのではないかって
おもうんです、の回答を頂けますか?

>かような単純な命題でも、「現実には」多義的なのです。

これは他者の主観命題にあれこれ解釈を加えようとするからです。
もともと、主観命題の真偽判定は本人にしか出来ません。

【寸劇】
ふくろうおじさま:「私(serpent-owl)は、halkaさんを可愛らしい素敵な人だと思っている」
           この場合、「ホントのキモチ」を私自身が表明しています。
はるか     :まあ、うれしい!!
ふくろうおじさま:是非言葉通りに受け止めてほしいのですが、しかしこれをしも「皮肉」と
          :捉えることも不可能ではないのです。
はるか     :理屈っぽい事ぬき!!
ふくろうおじさま:決定不能。「証明」できますか?私の本当の気持ちを。
          :私自身にすら、証明はできません。
はるか     :うそでもいいです。証明もいいです。わたし、信じてますから・・・♪
         :わたしのめをみてホントっていって。(σ_σ)ムキュゥ
         http://www.pandoramash.com/hal/MVC-010S.JPG

>「反例」は、いくらでも御用意申し上げることができると思います。

とはいっても本人が納得すればそれで「証明終り」ってことでもいいのではないでしょうか?

> では「2」~「4」です。 やはりまだ「答になっていません」。
>その「不幸にも選択」というのが何から生じたのか、が問題なのです。

う~む、それでは(4)には適応できないかもしれませんが最高裁判所の示した
http://www.courts.go.jp/
「2001/4/4 トピックス 重大少年事件の実証的研究」について、リポートを確認して
その実証に基づき、その問題を解決するためにどうしたらよいかを
・ガダマー解釈学におけるカオス論 (serpent_owlさまの主張)と 
・心・命題同一説(はるかの主張)
の立場から解決策として提示したものをsatonohukurouさまに比較評価していただくと
いうのはいかがでしょうか?

とりあえず、まとめに精進します。
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