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科学信仰

科学は自然の様々な面を論理的に矛盾がないよう理論的な説明をつけようとします。 そしてより矛盾がなく、うまく説明ができるものが正しいとされます。 その根底の精神には自然とは完璧なもので、一見無秩序に見えてもよく見れば 実は秩序立っていて矛盾することなどない。 だからこそ矛盾する理論は間違っていると言うのでしょうが そもそも自然界は論理的に整合性が取れるようにできているのでしょうか? 結局のところ、科学も信仰の一つにしか過ぎないのではないでしょうか? 回答よろしくお願いします。

みんなの回答

  • NURU_osan
  • ベストアンサー率50% (297/593)
回答No.14

 No.2および10で回答したものです。  No.10の御礼を受けて再回答します。 >では科学では矛盾があるから間違っているとはいえないわけですね。<中略>ただそれだけのことなんですね?  矛盾が生じる理由を納得できるように説明できる可能性があるのであれば間違っているとは断言できません。そして多くの場合、可能性は残されています。  同時に矛盾が無いからといって正しいと断言もしません。仮説の一つとして、他の仮説よりも有力になるだけです。  他の方も言っている様に科学は絶対的に正しい尺度などではないのですよ。単なる仮説の集合にすぎず、今「正しい」とされていることは暫定的なものでしかありません。当然「間違っている」という評価も暫定的なものに過ぎません。  もし、ひとりの科学者があなた個人に「間違っている」と言ったのなら、おそらく仮説そのものを否定したのではなく、その仮説の背景にある考え方が「科学的ではない」「論理的ではない」と言っているのです。つまり仮説が間違っているという意味ではなく、仮説を導き出した考え方が間違っているという意味です。  あなたは科学の正しさについて色々と疑問を抱いているようですが、あなたにとって重要な命題は科学そのものではなく哲学の分野で扱われている問題です。そしてその命題への回答は17世紀に一度提示されています。あなたはあなたの質問の答えを知るために、デカルトの「方法序説」や実存主義について学ぶべきです。  他の回答者の方々はあなたの抱いている疑問について既に自分の回答を得ており、それをあなたに余す事無く提示しています。私のは特に極端な説明の仕方でしたが、それぞれの回答者が「こう説明すれば納得しやすいだろう」と思う仕方で説明しているだけで、言わんとしていることはほぼ同じです。いずれあなたも同じ回答に辿り着くとは思いますが、あなたが理解するためにたどるべき道は他の回答者の方とは違うのかもしれません。  あなたは既に得られる回答は得ており、後はどう理解し、納得するかだけです。つまり、残りはあなたがどう考えるかの問題です。  これ以上ここで質問を繰り返しても押し問答になるだけでしょうから、この辺で回答は締め切ったほうがいいでしょう。既に提示されている回答を弄び、徒に質問を繰り返すと今度はあなたの誠意が疑われます(あなたにそのようなつもりが無くても、回答する側に対して非常な労力を強要することになるので、このスレッドを読む人はあなたに悪意があるのではないかと疑ってしまうでしょう)。

noname#194996
noname#194996
回答No.13

>>人間の理解の仕方が正しい(ようだ)といっているだけなのです >だからその理解の仕方がなぜ正しいと言えるのですか? 自然に法則があるかどうか、これを科学者は懸命に探っているのですが、 ある自然のふるまいが人間のたてた法則に近似していることがわかったとき、”人間の理解の仕方が正しい(ようだ)”といえるのです。 正しい、というのは、人間のたてた法則が正しい(ようだ)と言うことなので、それは自然が正しいといっているのではありません。正しいとは、論理的に正確だということで、善悪の意味で正(邪まの反対)しいといっているわけではありません。 >なぜ論理的に説明できると正しいと言えるんですか? 1+( )=2 の場合、( )は 2ではなく 1 です。そういう意味で正しいということです。 これが論理的に正しい ということです。 >もし仮に自然が矛盾を内包したものであったとしたら  そもそもが論理的に説明できません。 その通りです。 >矛盾を持つ理論でなければ自然を理解することはできないはずです。 自然が矛盾をはらんでいれば、理解は出来ません。矛盾を持つ理論は理論ではありません。 >回答者様の言うように科学が、一般的に予想できたり計算できたりしてうまく 人間に利用できる可能性が増すことを目的にしているのならば 矛盾を持つ理論を構築する意味が無い。だってきっと利用できないだろうから。 そういうことです。 >科学は自然の真理を探究するものだと もちろんそういうことですが、自然の真理に矛盾がある間は、その矛盾を論理的に解決するまで、決して人間は自然を理解できないと思います。 最初にも言いましたが、人間の思考は矛盾をそのまま理解できるような構造にはなっていないのです。

  • mojitto
  • ベストアンサー率21% (945/4353)
回答No.12

#7です。 #3様のお礼を見て思ったのですが… >反証可能性という考えが、自然に矛盾はないという信仰に支えられてる これは違いますよ。 その仮説から導かれる結果と異なる結果が出た場合、それは(その実験、観察において)その仮説が否定されただけであって、自然の矛盾うんぬんには一言も言及していません。 つまり自然は別の秩序に成り立っているか、それとも無秩序なのかの問いに対する答えではありません。 >そもそも自然界は論理的に整合性が取れるようにできているのでしょうか? この問いに答えるには、“すべて”の自然現象において、論理的整合性が“間違いなく”取れていることを確かめる必要があり、つまり断言できるものではありません。 ただし「そもそも自然界は論理的に整合性が取れるようにできている」という姿勢も否定できるものではなく、例えばガリウムやゲルマニウムなどはその整合性から存在が予言されたもので、方法論として間違いではありません。 もちろん「そもそも自然界は論理的に整合性が取れるようにできている」が“誤った思い込み”になり、アインシュタインの宇宙定数のような失敗もあるわけですが… >そしてより矛盾がなく、うまく説明ができるものが正しいとされます。 そもそもこれが大きな間違いです。 科学にそんな指標はありません。 すべての仮説が反証可能性を孕んでいるように、確実に“正しい”ものは存在せず、検証されるたびに“より正しい”になるだけで、うまく説明できているものは“美しい”だけです。 どうも質問者さまは「科学はこういうもの」と決めてかかり、自分の意図とする捉え方をされている印象があります。 #7でも回答をしましたが、科学そのものを誤解されているのでは…と思います。 信仰のように“神”に値するものがあれば、そもそも科学の範疇から外れてしまいます。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.11

 No.8です。 (1)>「自然は矛盾なくできている“との認識”」は一つの仮説であってそれが直ちに科学上の真理とならない →ならば、なぜ >論証過程で矛盾が生じれば最初に戻って検証からやり直す ↑このようなことが起こるのですか?自然は矛盾なくできているとは限らないのに、なぜ矛盾が生じたら自らの見解を修正しようとするのですか? (2)>自然は矛盾なくできている→これは仮説といいますけど、科学者はそれを盲目的に信じているからこそ、あえて整合性が取れるように自然を解釈しようとするのではないでしょうか。 (3)>盲目的でないとするなら、「自然は矛盾なくできている」この命題をどう論証するのでしょうか?。また論証した人はいるのでしょうか?。  少し誤解を与えてしまったようですので、改めてお話しさせていただきます。  (1)一つの事象に対し、幾つかの見解が提起された場合、それぞれの見解を示す根拠が「論理的」に正当性が担保されているか、異なる見解から寄せられる意見(反論)に対し十分に納得させるだけの根拠を示す事が出来るかなどが問われることはおわかりでしょう。Aという意見に対しBの立場から「その説明には少し疑問がある」との意見が示された場合、誠実な科学者あるいは科学的精神を持つ者としての対応は決まっています。「それはこのような実験と実証を経て示された結果である」との根拠を提示することです。そしてその根拠を提示するには自らの見解を再検討し、もしその過程に(結論として導かれた見解と実験データから抽出された結果との間)何らかの齟齬か見つかった場合には、結論を修正することになります。論理過程に誤謬があったなら、結論との整合性に疑念が発生することになります。つまりは「結論は論証過程に整合性が担保されている時にのみ成立する」逆に「論証過程に問題がないならば結論が誤っている」との単純な問題です。  (2)“自然は矛盾なくできている”との命題に対し、ではそれが「果たして本当にそうであるのか」との問い掛けをするなら、命題に対する2つの立場が既に存在することになります。一方は「自然は矛盾なくできている」を是とし、他方は否とする立場。では前者を主張する立場はそれを論証するためにどのような行為をとり、後者を主張する立場はどのような行為をとるでしょうか?。  両者が共に「科学者」であるなら(後者は科学者などではありませんが)、再検証するはずです。そして検証過程に矛盾や問題点がなかったならば、そのまま主張を変えないことになります。そしてその「検証および検証過程の整合性に対する判断」は学術論文ならばレフェリーシステムによって下されます。前回お話ししましたように「だからこそ~」の詭弁など通用しません。  (3)「自然は矛盾なくできている」との取り敢えずの共通認識を立証するために、地球物理学やら生物学やら遺伝学などと様々な分野の研究者が近代以降それぞれの研究領域からのアプローチを試みてきました。またこれからもこの問いに「この分野の研究成果からは、この様にして、“自然は矛盾なくできている”とのテーマに一つの根拠を与えることができた」との研究視角と方法論からの説明が行われ続けていくことでしょう。  哲学も科学も批判と検証を繰り返すことで今日の段階を迎えていることはご存知と思われますが、その根底には「前提と過程を疑う」姿勢(誤っていたら訂正する)があることで新たなパラダイムを切り開き、自らを創造的に発展させていく可能性を秘めています。信仰にはこうした創造性はなく、教義などの狭い枠の中で強引なこじつけを行い自らの不合理性を暴露し続けてきたにすぎません。思惟と信仰の違いはこうした点にあります。

  • NURU_osan
  • ベストアンサー率50% (297/593)
回答No.10

 No.2で回答したものです。  「世界は矛盾無く成立している」とする前提条件はどこからくるのか?  科学も宗教も「世界をどう理解するか?」という目的のために存在しています。「どう理解するか?」ということは、言い方を変えれば「どのように説明できるか?」ということです。  では、あなたは何かについて矛盾のある説明をされて納得することができますか?  矛盾のある説明をされて納得する人はまずいません。人を納得させられないと言う事は、すなわち説明できていないと言う事です。説明できないということは理解できていないということであり、「世界をどう理解するか?」という目的を達成できていないということです。  つまり、実際に矛盾がこの世界に存在するかどうか?は、実は・・・極端に言えば・・・どうでもいいのです。  頑是無い子供が繰り返しするような「なんで?」という質問を極限まで追及しても、最後まで説明できることこそが重要であり、それが真理と完全に合致するかどうかは絶対ではありません。ただ、極限まで追求された「なんで?」に対する回答が実際の観測結果と合致し続ける限り、結果的に必然的にその説明は真理と合致していくであろうだけのことです。  無矛盾性というのは世界が成立している背景にある真理や前提などではなく、世界を理解し説明するための要求なのです。世界が矛盾無く論理的に整合性が取れるようにできているのではなく、世界が矛盾なく論理的に整合性が取れるように出来ていると信じられているわけでもありません。  ただ、世界を理解したい(納得したい)という欲求に応えるための、納得できる(つまり矛盾の無い)説明のみを期待されているのです。

tttyyyuio
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 では科学では矛盾があるから間違っているとはいえないわけですね。 というより、合ってるとか間違ってるとかは問題じゃないのですよね? 矛盾がこの世界に存在するかどうかはどうでもいいことなのだから この世界が整合性が取れているかどうかということだって同様にどうでもいい。 ただ、矛盾した説明じゃ納得できない。 真実かどうかなんて問題じゃない、納得できればそれでいい。 ただそれだけのことなんですね?

noname#194996
noname#194996
回答No.9

NO.6 です。 >実際に科学者のしていることは 自然を論理的に説明しようとしているし、論理的に説明できるものが正しいとされて、 実験事実と矛盾するものは間違っているとされます。 これは正に「自然は秩序立っていて矛盾することなどない」という信仰に 支えられているじゃないですか。 あっ、そうではないのです。 自然(のある振る舞い)が論理的に説明できれば、それはその自然が正しいのではなくて、その振る舞いが一般的に予想できたり計算できたりしてうまく人間に利用できる可能性が増す、ということです。これを「人間がその自然を理解できた」ということにしているのです。 決してその論理的に動いてくれる自然がただしい、といっているわけではありません。その人間の理解の仕方が正しい(ようだ)といっているだけなのです。 >実験事実と矛盾するものは間違っているとされます。 事件が間違っているのか、人間が仮に組み立てた理論が間違っているのか、その辺ですが、決して自然自体が間違っているとは科学者は考えません。 ですから >自然は秩序立っていて矛盾することなどない とは彼らはまったく考えては居ないのです。 間違っているとしたら100%人間なのだと考えるのが科学です。 真理は自然にあります。 これは、むしろキリスト教的な考えでもあります。 (ちょっと誤解をまねきやすい言い方ですが) こういった考え方が、西欧で科学が生み出された原因かもしれないという人も居ます。

tttyyyuio
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >人間の理解の仕方が正しい(ようだ)といっているだけなのです だからその理解の仕方がなぜ正しいと言えるのですか? なぜ論理的に説明できると正しいと言えるんですか? もし仮に自然が矛盾を内包したものであったとしたら そもそもが論理的に説明できません。 矛盾を持つ理論でなければ自然を理解することはできないはずです。 ただ回答者様の言うように科学が、一般的に予想できたり計算できたりしてうまく 人間に利用できる可能性が増すことを目的にしているのならば 矛盾を持つ理論を構築する意味が無い。だってきっと利用できないだろうから。 科学は自然の真理を探究するものだとばかり思っていたのですが どうも回答者様によれば違うみたいですね。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.8

 「ああ言えばこう言う」タイプの質問者へ一言。 「科学」は認識の上に成り立つ行為です。つまり「哲学的思惟の結実」とも換言できる。 デカルトの「我、思う。ゆえに我、在り(ego cogito, ergo sum)」の意味をもう一度お調べになっては如何ですか?。  >>「絶対的な存在」に相当するものが「自然は矛盾なくできている」というものです。  これは等号で結び付けることのできないものを強引に結び付けているに過ぎない断定です。この様な言辞を私は行っていません。「自然は矛盾なくできている“との認識”」は一つの仮説であってそれが直ちに科学上の真理とならないことなど賢明な質問者様にはおわかりでしょう。  「科学上の真理」の類例がアルキメデスの原理であり、また地動説であり、そしてウェーゲナーの大陸漂移説であり、それらが「それ以前の“定説”を事実と証拠に基づいて覆し、現時点では“合理的説明”がなされている」ことで「取り敢えずの真理であるとの認識」が共有できている。少なくとも「科学」は「前提を疑う」ことから始まる。これは科学における哲学的視座の存在を示す拠り所です。  これに対し「信仰(=宗教)」のスタンスは、その「前提」に対する疑義を持つことすらタブー視することで「絶対的価値の存在」を前提とする。もしこのようなスタンスで人類が発展してきたのであれば、未だに天動説も天地創造も真理となることになります。にもかかわらず、そうした考え方が現在では少数派であるのはなぜだとお考えですか?。反証を否定するだけで自らの合理性を十分に説明できないからでしょう。つまり「信仰」の最大の拠り所は「不可知論」に行き着いてしまうことの証です。  「始めに結論ありき」が信仰であるならば、「嘘くせぇ」として前提への疑いから始めることが科学であり哲学である。論証過程で矛盾が生じれば最初に戻って検証からやり直す。こうした過程の積み重ねが哲学を初めとする学問(「知を問う」)の歩みであり、そこに数多くの峰々がある(=人類史としての歴史の足跡)。  >>信仰における絶対的な存在を信じるように自然は矛盾なくできていると信じているからこそ実験事実と反するからという理由で、この理論は間違っていると言うのではないですか。それは経典に書いてないから間違っていると言うのと同じじゃないですか。  この「~であるからこそ」が問題なのです。自身を相対化し得ない立場の人間がよく使う表現です。また「経典に書いてないから間違っていると言うのと同じ」この屁理屈も成り立たない。信仰の持つ最大のデマゴギーは「教典に書いてあることが全て」とのスタンスであり、他の見解は認めないとの点にあります。中世ヨーロッパの「聖書至上主義」と同じです。そしてその「聖書」を疑うことから近代の合理的精神は始まる。  >>そして科学だってこの「自然は矛盾なくできている」ということに疑義を示すことすら認められていないですよ。  こうした事実がどこにあるのでしょうか?。生物界における食物連鎖は実証され、地球上に生物が発生したのは有機タンパク質の合成による、との一先ずの共通認識が実験結果を踏まえた論証からも説明されていますね?(今では古典的なオパーリンのコアセルベート説、これを補完するのがユーリー・ミラーの実験)。  >>「だって今の科学者の仕事はすべからくこの信仰の下になされているのですからね。自然は矛盾なくできているとは必ずしもいえないのだから」  これは質問者の「主観」であり、それを以て「真理」であるとはいえない。従って「矛盾だって許容されるべきなんて言ったら馬鹿にされるだけです」このような結論ともいえない罵倒も成り立たない。矛盾が生じたなら、科学は直ぐにその原因を探ろうとする。なぜなら自らの合理性を説明する必要があり、それなくして科学は科学として成立しえないとの存立基盤に立脚するから。もしその合理性に不具合があるならば、科学的認識を持つ者は自らの見解を修正する姿勢を示す。  他方、信仰はその反対の姿勢をとる。「事実の方が間違っている」との詭弁を用いることで信者をたぶらかし、信者も盲目的に従う。質問者様が「であるからこそ」「だって」と自らの見解とは一線を画するスタンスに拘泥し続ける限り科学論や認識論をテーマとする哲学を学ぶことは困難であり不向きであることだけは確かです。

tttyyyuio
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >「自然は矛盾なくできている“との認識”」は一つの仮説であって >それが直ちに科学上の真理とならない ↑ならば、なぜ >論証過程で矛盾が生じれば最初に戻って検証からやり直す ↑このようなことが起こるのですか? 自然は矛盾なくできているとは限らないのに、なぜ矛盾が生じたら 自らの見解を修正しようとするのですか? 自然は矛盾なくできている、これは仮説といいますけど 科学者はそれを盲目的に信じているからこそ、あえて整合性が取れるように 自然を解釈しようとするのではないでしょうか。 盲目的でないとするなら、「自然は矛盾なくできている」この命題を どう論証するのでしょうか? また論証した人はいるのでしょうか?

  • mojitto
  • ベストアンサー率21% (945/4353)
回答No.7

質問文にある考え方が、まさに「科学は万能だ」「科学で解明できないことはない」と考える“科学信仰”者の典型ですね。 しかし科学を信仰している人は、実は科学にそれほど詳しくなかったりします。 科学的に“わからない”“わからないかもしれない”というのを体験していないからこそ、そのような考え方になるのです。 そういう人にとって“わからないもの”は認めづらく“わかるはずだ”と非科学的に結論付けたいんです。 ただ残念ながら今の科学でもわからないことは多々あり、むしろ何がわからないことなのかもわからないのが現状です。 科学者は教祖とは違い、常に彷徨っていると言っても過言ではないでしょう。

tttyyyuio
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

noname#194996
noname#194996
回答No.6

科学精神と科学信仰とは違います。 科学信仰というのは、私見では矛盾した言葉で、そういうものがあったとしてもそれは科学ではありません。 質問者様は >自然とは完璧なもので、一見無秩序に見えてもよく見れば 実は秩序立っていて矛盾することなどない。 こういう考え方があって、それを、ひょっとして「科学信仰」なのだと仰りたいのでしょうか。 それは違うと思います。 科学者は、自然が完璧なものだとは考えては居ないと思います。 完璧でいてほしい、論理的であってほしいと願っているような向きはあると思いますが、それは、そのほうが人間は理解しやすいからです。 >そもそも自然界は論理的に整合性が取れるようにできているのでしょうか? そういった疑問を地道に突き詰めてきたのが科学の役割だったと思います。 一般に人間の頭は、論理的に整合性が取れるようにできているものを理解することが得意なのです。 普通の理性はそういったものしか理解できない、といってもいいと思います。 ご参考になれば。

tttyyyuio
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >科学者は、自然が完璧なものだとは考えては居ないと思います ↑実際に科学者のしていることは 自然を論理的に説明しようとしているし、論理的に説明できるものが正しいとされて、 実験事実と矛盾するものは間違っているとされます。 これは正に「自然は秩序立っていて矛盾することなどない」という信仰に 支えられているじゃないですか。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.5

 失礼、「(全ては総体的である)」は、「(全ては相対的である)」の誤変換でした。

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