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信仰とは?宗教学の視点から考える
- 宗教を学問として学んでいる方は、神様の正体の一部をご存知かと思うのですが、日ごろ、神の存在をどのように捉えているのでしょうか。
- 信仰の根源は、人の潜在的な死への恐怖から来るのかもしれません。
- 信仰は科学的に証明できることが多い一方で、そのように信じることで安心感や心の癒しを得ることができるのかもしれません。
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自然を拠り所にするのは、自然が、誰をも差別せず、等しく振る舞うからだと思います。別に自然が天国を作って死後に待っていてくれるわけではないのですが、自然に帰ると考えることで心の安らぎが得られるのには理解を示せます。
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- yuniko99
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私の実家には神棚も仏壇も生まれた時から在りません。 人間は考えること(哲学)をしないと進歩はありませんが 考えてばかりでは(信じないと)行動が出来ません。 真っ暗な闇の中に足を踏み入れるときに そこに支えてくれるものが在ると 無や虚無・死ではない 生きて存在する希望があると幾ら考えても 真理が分からないのだから 最後は信じないと生きていけません 不安です。 私はキリスト教もその系の新興宗教等も神道系も幾らか勉強しました 仏教は般若心経の解説を読みました。永平寺で買いました。 しかし今は自分の考えができたので シンプルに 愛と存在と永遠を信じています。 人間がそれを信頼する事が出来る と言うか それを目指していくのが良いのだと信じています。 それが僕が長いこと考えた中間報告です。おそまつ。
お礼
>しかし今は自分の考えができたので シンプルに愛と存在と永遠を信じています。 人間がそれを信頼する事が出来ると言うか それを目指していくのが良いのだと信じています。 羨ましい。そんな境地に辿り着きたいです。 私はまだ迷ってばかりです。 ありがとうございました。
- michael-m
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>日本人は、木や岩などの自然に神秘的な力が宿っていると信じていましたが、現代では、 天災や自然破壊による影響などの特別な場合を除いては、自然が人の生死に直接影響を及ぼす例は少ないことは誰もが分かっています。 残念ですね。判っているようで全く判っていない。 森羅万象に神が宿っているからって「自然が人の生死に直接影響を及ぼす例は少ない」と言うこととは全く関係ないですよ。結局あなたはキリスト教などの「神観」でしか物事を判断できないだけです。神道もその範疇でしか考えられないんです。 何かしなければ信じない、神ならば科学的に解明できない現象があるはずだ。それは科学と言うものも理解していないって事です。科学と言うのは自然の成り立ちを解いているだけ。であれば神の動きも科学的に解明できて当たり前でしょう。それで信じるとか信じないとかいうのは信仰ではありません。 神社に行って清清しい気持ちになるのは必ずしも樹木の被い神社である必要もナイし、逆に樹木の中でもそうなならない神社もある。思い込みといえば何も言うべきもナイだろうけど、それでは科学的にも仕組みを証明しているともいえない。いい加減な自称科学信奉者ほど、偶然とか心理的と言う言葉を使いたがる。そんなものは科学でもなんでもないですよ。 抽象的な想像で「科学的に説明できる」もヘッタクレもありません。説明するなら科学的にキチンと説明しなければ何の意味もないのです。 祈りと言うものは心に自然に発生するものです。期待、望み、願い・・人間が前向きであるならば必ず自然に心の中に生まれてくる心情。その心情を公表する場、それが神社やお寺での拝礼なんです。
お礼
>祈りと言うものは心に自然に 発生するものです。 その『自然』が何なのか考えてみようと 思い、投稿した質問です。 科学的な側面から信仰を解明できたとしても、 その教えを否定するものではありません。
- amenhotep2000
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gorotto_hitsujiさん 追伸です。 聖書のマタイによる福音書2章を読んでもらうと分かりますが、誕生したイエス・キリストを最初に拝んだのは、星に導かれてきた、東方の占星術の博士か、貧しい羊飼いとされています。 この東方の占星術の博士とは、おそらくマニ教徒と考えられているそうです。なぜ、ユダヤ人でなかったというと、旧約聖書を読んでもらえれば分かりますが、ユダヤ人にとって占いは罪びと(軽蔑する職業)という考えだからです。 東洋だけではなく、西洋にも星占いの伝統はあります。 人の上には満天の星空が輝いており、人はそれぞれの、何らかの星に導かれて生きているのでは? しかし、都会暮らしの私には2等星くらいまでしか見えず、メガスターを買ってプラネタリウムを自宅に作らないと、はっきりした考察はできません。 あしからず。
お礼
占い=軽蔑すべき職業ですか。 ユダヤ教にもそのような考えがあった のですね。差別されているばかりの 人たちかと思っていました。 シェイクスピアでユダヤ人の金貸しが 出てきた話がありましたよね。 あれを思い出しました。 ありがとうございました。
- amenhotep2000
- ベストアンサー率31% (72/227)
gorotto さん おはようございます。kurinalさん了解です。 ところで、現在、私はインフルエンザA型にかかってしまいました。 昨日は40度の高熱で、脳みそが一部溶けたものと思います。 ところで、インフルエンザとは「星の悪い影響(インフルエンス)」から造語されたと何かの本に書いてました。 信仰についての回答にまだ出てないようですが、現在において、中国の陰陽五行説を信仰している方はいないのでしょうか? 平安時代の安部晴明のような方。 「死せる孔明生ける仲達を走らす」で、孔明が死んだとき、茫々たる赤い星が落ちた。 漫画 「北斗の拳」では、死が近づくと、死兆星が現れる。 なにやら、オリオン座の一等星の、赤い星、ベテルギウスがもうすぐ、爆発消滅するらしいですが、その時、地球上の偉人が、どなたかなくなるのでしょうか? まだ、38度もあり、安静にします。高熱で脳みそが融けた人の戯言と思ってください。
お礼
その後、お加減はいかがでしょうか。 そろそろ良くなっているとよいのですが。 私がこの質問を投稿したきっかけは、 今、困っていることがあり、いつも以上に 神様の存在を信じたい気持ちになったから でした。 では、神様とはいったい誰なんだろうと 思ったときに、昔から語られている スーパーマン(キリスト、仏陀、日本の神々) のような存在と、潜在的な死への恐怖なども 含めた人の心理から生み出されるものなのでは と考えました。(同じ話をすでに記載した かもしれませんが) しかしながら、皆さんのお話を聞いていて、 結局、信じている神の存在とは自分自身というか。 でも自分を信じることって難しいときがあります よね。頼りない自分が不安で仕方ないとき。 それから、少し先の未来が分からないという 単純な不安を抱えているとき。 でもスーパーマンであれば、いつでも強くて、 未来のことも見通せて、そんな存在に 自分自身を置き換えるというか、そうすれば、 弱い自分でも、また前に進める、それが、 信仰なのかと、『理性的な私』は思いました。 そして、そこから信じなければ叶わない、 また努力しなければ実現しないというような 教えができるのかもしれないとも思っています。 でも、『感覚的な自分(理性的な自分の対義語 としておきますが)』は、超越した存在はいる、 いてほしいと思っています。 私も疲れて、熱にうなされたような状態で ものを考えていますね。 聞いていただいて、ありがとうございました。
- kurinal
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gorotto_hitsuji様、こんばんは。(このような、やりとりについて)ご寛恕ください。 (amenhotep2000様) >「間違っていたら、軌道修正をすればよい。そのための哲学カテにおける投稿と回答です。」 こりゃまた、失礼しました。 >「私の人権も侵害しないでね。」 勿論、「人権は不可侵」が、基本です。 (だれか、間違えて侵害でもすれば、補償問題でしょう)
お礼
私は、最近、何かあるごとに、 言葉だけでなく、行動も伴わないと いけないなと思っています。 ここでは、議論(=言葉)しか できないのですが、では、どのようにして、 『人権は不可侵』を言葉で体現できるか、 そのように考えてみてはどうでしょうか。 本当は、いろいろお考えをお持ちなのだと 思うのです。もしかしたら、言葉にするのが 苦手なのかもしれませんが、できれば、 前向きな表現でお聞かせいただけると、 楽しい場にできるのではと思っています。 よろしくお願いいたします。
> この神様の存在を信じる気持ちは、 どこから来るのでしょうか。 人の潜在的な死への恐怖からでしょうか。 まず、信じる信じないという表現と情動は不適切であり ながらも、言葉の欠点として弁えて用いるという気付き に、いずれは至る必要があるかと 例えば、霊的恐怖は、未成仏霊の波動を(霊的な)本能 で知っている為に、なにかの切欠として自分で起こす場 合と、ほんとに未成仏の霊人がいる事で、恐怖のスイッ チが入る、という状況のそれぞれと同時を観察出来るか と それと同じように、他の存在に対しても、それぞれに反 応すべき性質を人は持ち、霊的レベルの違いを感受する 機能のような物が、人には備わっているのだろうという 間接的自己確認が出来るかと(探求・自己確認に興味が あり、素養があれば) > それでも、合格祈願、厄払い、えんむすび、 ありとあらゆるお願いをしに、神社に行きます。 日本人は、神道からどのように安心感を得ている のでしょうか。 んー?、色々な影響は当然なのだろうけれど、割りと近 代まで?、実は大らかで土着的だった物をキレイ事に編 纂した物が神道なのでは?と 人々のそれなりの素直な気持ち・信仰心のような気持ち による癒やしや霊的働き掛けと、、人々から与えられた 想念エネルギーによって創造された一時的半実体の意識 ・意識体という神仏様方によるパワーによる癒やしや霊 的働き掛けを人々は受けている、という感じかと ただ、一時的半実体の意識・意識体というのは、人以上 の存在ではないようなので、高い霊的背景の存在達の管 理の許にあり、許しや計らいなどがなければ、なにもご 利益のような物は起きない、という仕組みのよう、、こ のような事も自己探求・自己確認出来ればいいかと 一時的半実体の神仏様方というのは、天界という存在の 表現手段か?、キリスト教の秘教でいう、大天使達が創 造・維持している、自然霊・自然神と呼べる存在(5次 元のより上の存在のよう)の、4次元での多様な仮現で あるらしい それでも、一時的半実体の神仏様方というのは、レベル ・性質の違いはあっても、自然霊・自然神を通し、高次 元の存在と繋がっている、とはいえるよう
お礼
>一時的半実体の神仏様方というのは、レベル ・性質の違いはあっても、自然霊・自然神を通し、 高次 元の存在と繋がっている、とはいえるよう 神様は存在するというお考えなのですね。 >高い霊的背景の存在達の管理の許にあり、 許しや計らいなどがなければ、なにもご利益 のような物は起きない、という仕組みのよう、、 こ のような事も自己探求・自己確認出来れば いいかと 自己探求ですか・・・ 迷い、悩みながら生きるのも自己探求の うちでしょうか。 ありがとうございました。
- ways
- ベストアンサー率31% (79/253)
神様は、僕たちの親なんです。親元から離れて地球に生まれる。神様は親ですから、僕たちを見守ってくれる。 神様は目に見えない存在。仏像などに宿ります。愛や心も目に見えない。だから、大切なものは目に見えない。感じるもの。 木などの自然は意識を正気に、心を健康に正常にしてくれます。田舎の人が大らかで穏やかでたくましいのは、豊かな自然の恵みを存分に受けているからかもしれません。 「気」が自然のものから出ています。人の体からも気が出ています。気が正しいから「正気」と書きます。
お礼
他の質問サイトのスピリチュアルカテを 見たところ、確かに、仏像に話しかけられた、 神社のお社の奥から良い香りがしたなどの エピソードが投稿されていました。 私も本当にそのようなことが起こるのではと 思っています。 でも、普段、その仏像が助けてくれている という実感が得られることは少ないでしょうし、 また、助けてくれるから信じるというのも、 違うのでしょうし、でも、信じるために、 ときどきその存在を感じたいですよね。 自然とは、それを感じさせてくれるもの なのかもしれません。 そして、人もまた不思議な存在です。 たしかに人からエネルギーは出ています。 そのエネルギーを良いが態に保つには、 心身が健康であることは第一条件として 挙げられるつ思います。ときには、その エネルギーが外部の影響を受けると いうことも十分にありうることです。 自然も人も、私たちの想像が及ばないくらい 神秘的な存在です。 ありがとうございました。
- titelist1
- ベストアンサー率25% (712/2750)
宗教を学問として学んでいても信じる気持ちが無いとそれは哲学であって信仰ではありません。神様が居ないと思っているとお願いをしても叶えられる気持ちにはなれません。叶えられるには自分の行動が大事ですが、熱心にそれを行なうことがないので実現できないのです。 私の場合には山や岩のような自然を神様だと思ったことはありません。信じるのは元々は人間であった神様です。キリストも釈尊もその意味では神様ですが、私が信じる神様とは少し違っています。また宇宙の創造主を神と思う気持ちもありません。 私は仏教徒ですが、釈尊の教えを知り、それを信じることで人生の道しるべにしたいと思っています。したがって、お寺では祈祷や祈願をしたことはありません。しかし、神社の神様には毎年正月には祈願をするのです。両親の仏壇にも家内安全をお願いをするのです。神様や先祖を敬う気持ちを人間は持って生まれたものだと思っています。幼き時から信じる気持ちが先にあって信仰は理屈ではないのです。
お礼
>幼き時から信じる気持ちが先にあって 信仰は理屈ではないのです。 私も信仰が生活の一部となっていて、 いくら理論を並べても、心では割り切れない そういった気持ちも『神』の正体の一部 であると考えています。それが、さらに 寺社仏閣に参拝したときの『安心感』 に繋がっているような気もしています。 願いが叶う ↑ 行動 ↑ 信じる気持ち ↑私もそう思います。 信じる気持ちは大切ですよね。 人を強くします。
- 177019
- ベストアンサー率30% (1039/3444)
古代において人々は、自然界の未知なる力に対して畏敬の思いを懐き「カミ」なるものを想像し更には死者、先祖への追慕の念などから「祖霊神」を祀りました。更には国家平定に伴って豪族などが自らの立場の優位性を示すため「神話神」を創作することにつながり、さらに後世には功績をなした人をも「人物神」として祀る形に発展させました。このような神道はわが国固有の信仰をつくり教義体系が定まらないまま八百万の雑多な神を崇拝し、神社を中心とする多神教となってしまいました。 あくまでもあらゆる神々は正しい仏様の臣下の立場にあり、その仏様を信じる衆生を護り助ける事が神々の役目であります。
お礼
>あくまでもあらゆる神々は正しい仏様の 臣下の立場にあり、その仏様を信じる衆生を 護り助ける事が神々の役目であります。 本地垂迹説でしょうか。 どの宗教もそうなのでしょうが、 いろいろな考え方を取り入れる過程で、 本来の姿が分かりにくくなってしまって いますよね。 今回の質問では、 仏教が伝来する前の日本人の信仰が、 日本人の生活や生き方であったと仮定し、 神道について考えてみたいと思いました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。 2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。 (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~ 経験事象 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知ったものごと) 非経験の場(因果関係から自由な場を想定する) 非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。 (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~ 信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観 -------------------------- 考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教 感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。 もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。 4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。 (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~ =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空(シューニャター)・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ(大日如来) 仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) G. ユダヤイズム:霊霊一如 霊:ヤハヱ―;(エローホ=神) 霊:われ H. イスラーム:霊霊一如 霊:アッラーフ(イラーハ=神) 霊:われ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。 よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。 すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。 有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。 なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。 むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉は 神の依り代です。神を知りたいというとき引く補助線です。
お礼
私は、bragelonne様のように、 きちんと考えたことはないのですが、以前、 ヤーウェも、キリストも、アッラーも、釈尊も みな一つで、私たちの前に現れる時に、 その姿を変えているのではと直感的に思った ことがありました。 >神は 概念ではないのですが 人間の言葉で ・つまり概念として何とか理解しようと ひとはつとめます。 他の方も同様のことをおっしゃっていました。 神の正体は、人が理解しようとした結果の産物 なのかもしれませんね。 話しはそれますが、結論までの導き方は 哲学独特の手法なのでしょうか。 まだまだ勉強が必要そうです。 ありがとうございました。
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お礼
私が知る限りの神道の考え方に沿っていて、 いちばん自然に受け止められた回答でした。 自然と一体化することで、心の安らぎが 得られるのでしょうか。 天国を約束してくれているわけでもないのに、 信じられる気持ちってすごいですね。