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100%の信仰ではありません。(キリスト教徒)

3年前に洗礼を受けたプロテスタントのキリスト教徒です。 教義に疑問を抱き、1年半ほど教会を離れたあと、3ヶ月ほど前からまた教会に通うようになりました。 ですが、教会や牧師の教えに、100%頭から同意するという気持ちは、今もありません。 たとえば、自分は輪廻転生はあると思いますし、他の宗教の教えにも興味はあります。他の宗教を否定する気持ちは全くなく、共通するところや、互いに学べるところがあると思います。 聖書に関して曲解もあるような気がしてなりません。 つまり、イエス・キリストのことは大好きなのですが、 人間のつくった教義に対しては、不信をいだいてます。 聖書を読みつつも、精神世界の本や、ヒンズー教、仏教のことも少し勉強しています。 聖書以外にメインで読んでいるのは、パラマハンサ・ヨガナンダ氏の著作です。彼の設立したSRFなる団体にも顔を出しましたが、すでにヨガナンダ氏の理想とは離れた集団になっていると思われたため、行くのはやめました。 自分がこのように考えるのは、 信仰への興味が薄いのではなく、信仰を真剣に考えた結果です。 しかし、このような考えを持っていることは、教会の人には言えないまま、申し訳ない気持ちを抱えつつ、少し距離をおいたつきあいをしています。 本当はもっと仲良く付き合いたいのですが、このように隠し事をしている状況では、居心地も悪く感じています。 また、隠したままでいるのが心苦しいだけでなく、自分の考え・状況を理解してくれる人がほしい、と思います。 自分の状況を、クリスチャンの人に話してみるか、 キリスト教会とは別に、またスピリチュアルな集まりなどに、どんどん顔を出してみるか・・さらに秘密が増えてしまうわけですが・・ 一人で信仰を求めようとして教会を離れたこともありますが、 うまくいかず、自分は一人でやっていける段階にはない、ということもよく分かりました。 信仰の仲間といえる人が欲しいのです。 うまくまとまっていない質問文ですみませんが、 アドバイスをください。お願いします。

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難しい問題ですね。 でも、あなたの感性が真実を求めているからこそ、生じる苦悩だと思われて仕方ありません。 その、純真な真摯さは失わないで欲しい、それを、保ちつつ解決に向かって欲しいと、強く願っています。 さて、自分で考えた解決方法ですが、あなたの場合、現状のキリスト教では、満足できないのでこのままでは、苦悩が大きくと思えます。 また、一人になる孤独もつらいのでそれも、出来ないでしょう。 それで、現状は、キリスト教の仲間関係を保ちつつ、ホームページを作って自分の日々考えることを記載されたらいかがでしょうか? 日本中には、あなたと同じ苦悩を持っている人は数多くいると思います。それらの人から、意見が聞けるように、掲示板を作るといいと思います。 そこから、同じ悩みを持つ仲間が見つかることもあるでしょうし、アドバイスをいただけると思います。 気長に、対応したほうがいいと思います。(哲学も勉強されるのもいいと思いますよ。) それから、あなたの苦悩は、あなたを大きく成長させる力になると思います。 頑張ってください。 .

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質問者からのお礼

>現状は、キリスト教の仲間関係を保ちつつ、ホームページを作って >自分の日々考えることを記載されたらいかがでしょうか? >日本中には、あなたと同じ苦悩を持っている人は数多くいると思います。 >それらの人から、意見が聞けるように、掲示板を作るといいと思います。 良いご意見をありがとうございます! やってみようと思います。 リアルの友人には教えないでブログを書くような感じですよね。 以前、mixiで日記をつけたことがあります。 リアル友達に見張られているような気がして、自由に書けないので、3ヶ月でやめちゃいました。 何度かホームページをもとうとしたことがありますが、 私は、恥ずかしながらそういうこと、長つづきしなかったんですよ。これまで。 だから、自分はこういうの無理な人間なんだ、とか、 好き勝手に書いたらまずい、とか、 自分にいろいろな制約をつけていたことに気づかされました。 ここ2年ほど、一人で日記はつけてます。毎日ではないですが。 だらだらと好きなことを書いてます。日記はホントに好きなことがかけるので楽ですが、他の人と考えを共有できたら、と思うこともよくあり、ブログも書いてみたいと、ずっと思っていました。 いつも、他の人のブログを見に行って、たまーにコメントするだけ(そんなところは恥ずかしがりなので・・・)でした。それでも、自分と少しは共通点のある人との出会いがあるものですが、自分から発信する側になるというのは、さらに強い磁石のような気がします。 ブログって、いちおうテーマをもたないといけないんですよね? 私の場合、精神的なことを中心に、ホントいろいろなことに渡ってしまうと思います。 ただの日記になるような?気もしますが、やってダメならそこからまた考えればよいのでしょうかね! おっしゃるように、気長に、対応したいと思います。

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その他の回答 (12)

  • 回答No.13

 【ですが、そこのSRFの人たちからは、堅苦しく真面目で閉鎖的な印象を受けました。神との交わりを楽しんでいる人の顔とは、私には思えませんでした。】  ◎SRFの修道尼やモンクさんのことか、ご参集の会員の方かわかりませんが。  そのような印象でしたか。まじめな方たちだと存じますが、義務ややることがたくさんあるのでしょうね。会員さんはいろんな方がいますからね。  あくまでもご印象ではないでしょうか?日本にきて、こちらの会員さんに会われると、それ以上に堅苦しい印象をもたれるでしょうね。神との交わりですか。楽しんでいる。  いろんな楽しみと、いろんな状態、そして外見も様々ですね。 【>あなたの向上の事を第一にお考え頂く事が大事なのです。 >瞑想会とはそんなものです。自分はキリスト教会に先に通いだしたので、先入観があったようです。 そう考えると、SRFも違って見えるのかもしれません。】  ◎みなさん、無論私も。先入観のない人、ない意識はないんですが。こればかりはね。 【100%期待に応える回答、については、回答者の方に、私の代わりに問題を解決していただくことまでは期待していません。できるなら自分で解決したかったです。ですが、今の私では未熟者で、この件になると、心が波立って見えません。わたしはキリスト教会の人たちを愛していて、お世話になりながら裏切り続けているようで、心苦しくて引き裂かれる思いです。】  ◎私がそう申したのは、あなたの状況などからのあなたの期待されているだろうものがあろうと存じましたのです。かいけつについての100%の問題ではないのです。  ◎お言葉の中で感じるのは友人たちにたくさんのバプテストの方がいるのですが、何か重なって見えます。彼らと私は違いますし、お互いその認識でやっています。この辺はお付き合いの仕方が違うでしょうね。アメリカのキリスト者については。 【ですが、教会や牧師の教えに、100%頭から同意するという気持ちは、今もありません。】  ◎「100%頭から同意するという気持ちは、今もありません。」ということは基本的に違うのだという事。受け入れていないのだということだと理解できそうです。  ◎それが発展すると、牧師さんや他の方のお話をばかばかしく思うようになるでしょうね。適宜に決まりをつけて、ご自分の考える教えをもたれることだと存じます。関係が外面化し、状況はひどくなるのではないでしょうか? 【たとえば、自分は輪廻転生はあると思いますし、他の宗教の教えにも興味はあります。他の宗教を否定する気持ちは全くなく、共通するところや、互いに学べるところがあると思います。】  ◎輪廻転生についてもどう受け取るか、一様ではありません。支配者の服従者への都合いい論拠だという言い方もあるし、そういうことを批判するのを動機・契機として、輪廻転生に消極的態度をとる人もおられますし。  ◎一つ体系を正しいと感じても、それは他の体系のある部分を正しいと感じることを禁じる事にはならないと存じます。カントの全体をなるほどと思い、私は日本のラディカル革新の活動者・党員ですが、マルクスもカントもその限りではそうだろうと思い、一定の枠と前提で認めるだけです。中国思想(老荘、儒教)も仏教思想、日本の武士道も。でも、今はParamahansa Yoganandaの解説は一番根底にし、全てについて正しく、通じるものだと存じております。 【聖書に関して曲解】  ◎Paramahansa Yoganandaの教えも、一定の行と生活が伴って、理解と受け入れが可能と為ります。理論構成だけでは在りません。私は10年ほどの労組の書記長として、必要上法学を専攻しましたが、これは定義と論理が命です。そして理論的妥当生と具体的妥当性です。グスタフ・フォン・ラートブルッフの事物の本性。 しかしParamahansa Yoganandaの教えは一つで全部を貫きます。これは地上の論理も超えております。だから行と生活は不可欠の世界です。そのことをどこまで普通の日常のみんなと分け合う生活ができるか。それが教えの理解の要めです。 聖書も多分そうなのかも知れません。いずれも100人いれば、100通りの内容となり、しかも同じ一つなのでしょう。聖典をそのまま受け取りには、扉を開く鍵が必要でしょう。 【つまり、イエス・キリストのことは大好きなのですが、】  ◎Self-Realization Fellowshipもイエスをグルのお一人にしております。でも私にはイエスはあなたほど身近に感じる事はできません。キリスト教の地域との差かもしれません。 私は互いに対極しあっている老子と孔子を、そして肥前の山本常朝を、西郷隆盛を、勝海舟と山岡鉄舟をすごく身近に感じます。無論景仰しております。イエスについては西洋人の何かがたくさん付着している感じです。 【人間のつくった教義に対しては、不信をいだいてます。】  ◎そういう感じをもたれたら、決別しかありません。あるいは細川として飲み込んで行くことが出来ないのですか? 【聖書を読みつつも、精神世界の本や、ヒンズー教、仏教のことも少し勉強しています。  ◎あまり賛成をしません。 【聖書以外にメインで読んでいるのは、パラマハンサ・ヨガナンダ氏の著作です。彼の設立したSRFなる団体にも顔を出しましたが、すでにヨガナンダ氏の理想とは離れた集団になっていると思われたため、行くのはやめました。】  ◎このことは上に書きました。  この後のことは、違う質問で皆さんがあなたに回答されておられますね。私はそういう性格の事項だと存じますので、敷衍は控えます。

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質問者からのお礼

krya1998さん、再度ありがとうございます! お答えを読みながら、krya1998さんに私がお願いしたいアドバイスが、どの部分についてなのか、はっきり書いてなかったと分かりました。 なので、たくさんお答えいただいたのですね。 ですが、求めていた答えは、見つかりました。 皆様のご助言をいただくうち、自分の内から出てきました。 先の結論ではなく、目の前の一歩先のともし火ですが、信じてたどっていきます。 いただいたアドバイス、大変勉強になります。 krya1998さんは私とは違った視点で物事を捉えておられて、この体験自体も私には貴重なものです。 ありがとうございました。

  • 回答No.12

まあいろんなことがあって学び成長していくんじゃないかな~ 他人からああしなさい。こうしなさいと言うのは本当の意味で悔い改めにもならないしね。 問題は何故読むのか?と言う事になりますね。 牧師を見てそのとおりにするなら聖書はいらない。 どこかの宗教団体みたいに何も考えずに寄付だけしてればいい。 私自身教会には行ってませんよ。 見つけ考えるのはあなたです。私はあなたの救い主でもなく あなたは私の弟子でもありません。宗教団体に入っているなら 上の言う事を聞いているだけでいいのですがね~ 信仰と言うのはそんなモンじゃないですね。 本質ですか?探しなさい 求めなさい。 抜けている事ですか?聖書をじっくり読む時間を作ってね。 旧約聖書かな~

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質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます! やはり、組織として運営されると、当初の目的と手段のすり替えが多かれ少なかれ起こってしまい、さらに年月が過ぎたりすると形骸化したりするものなのでしょうね。 組織とはそういうものだというふうに捕らえようと思います。 あまり組織に期待しないと。 逆に組織の方は、完全に組織の方針に従うことを要求するかもしれないし、それに従う人も多いのかもしれませんが、組織の目的より個人の目的が重要であるということも覚えておこうと思います。 私が信仰の仲間が欲しいと思った理由が見えてきました。 相手が自分の師とも思える方ならば最良ですが、 そうでなくとも、たがいに見習える相手と共にあることで 自分を形作りたいということと、 裏切りながらお世話になり続けているという罪悪感の許しを求めているのでした。 見習える相手については、当面はいろいろな人を少しずつ見習いつつ、よき人を探すことを続けたいと思います。 罪悪感のゆるしにつきましては、今まで一人で抱えてきましたので、こちらで質問して聞いていただくだけでも少し晴れました。この上、信頼できるクリスチャンの人にも打ち明けてみようと思います。 そしてそれ以前に、打ち明けた相手が何と言おうと、それに動揺しない自分の意思を、自己の奥深くに確認しようと思います。 ありがとうございます。おおよその路線は見えてきました。

  • 回答No.11

 kanakyu-さんのご期待に100%応える投稿は殆どの方ができないのではないでしょうか?  それは殆どの方というより全部の方が、あなた自身でもなく、あなたの開始者でもないからだと存じます。  一なる神が多なる神になって、初めてこの創造界があるように、人はたった一人ですが多なる人となっています。  この枠組みを普通は常人には越える事はできないのですね。  であるが故に私たちは超えられない多様性、千差万別の中におります。  それでどんなに言葉を尽くしても、あなたとグルと神しかあなたの問題に答える事はできないのです。  そしてまた超えられない枠での外見的多様な私たちは、外見的に多様な経験をし、そのことば表現も多様で、あなたがいう経験の切り口を私たちは類似の経験でしか理解できないのです。  この辺りがあなにとっては、多分食い足りないご回答だと思う側面でもありましょう。  kanakyu-さんはSRFのお話をされていますね。  私も実は45年ほどやっています。東京瞑想会もよく存じております。その前は10年ほどハタヨガ、一応本格的に。  西洋哲学の論理構成や、中国の思想、日本方の文芸や美学、哲学などの著述を跋渉したりしていて、クリヤのイニシエーション直前で25年ほど躊躇しました。  イニシエーションはだから20年くらいしかたっていません。  95年にはニルヴァーナンダさんがそして、少し前には本部から2回ほど僧侶が来ましたね。  でも加齢で弁解してはいけませんが、傘寿への途中で、東京瞑想会にも不義理をしていますが、一緒に瞑想するということはあなたと同一の人がくるわけではありません。  そしてあなたがこうであると思う人がくるわけでもありません。  そして瞑想だけのためにくるのが本来で、他の事は何も考えることは無用です。  あなたの向上の事を第一にお考え頂く事が大事なのです。  そこで評論や価値判断をすることは意味がないのです。つまりご自分の向上のためには。  瞑想会とはそんなものです。  必要な事は自分とそして深奥の存在に対面して、受け取るだけです。  今の瞑想会が私たちのグルの教えから離れているという仰せは、本当だとするととても憂慮することです。  なお率直にものを言わせてもらいますが、そういうご判断をできるあなたは本当にSRFの教えの本旨をご会得されたと言い切れますか? そういう方ならここのご質問は出てまいりません。  あなたとあなたの前にあるものを世界がどうだという認識と、その認識の主体が問題なのですが。    このサイトで自我がどうのというご質問が挙がっていますが、そのご質問との私のこの投稿との区別ができることが必要です。  そういうことの上でなお、現在の瞑想会がグルの教えから離れているということであれば、これは由々しき問題です。  哲学のカテにはできるだけ訪問しない事にしておりましたが、偶々遭遇しましたので敢えて所存を投稿し、諸先輩にもご相談したいと存じます。 まことにありがとう御座いました。  付加となりますが、たいへん示唆的なご回答がたくさん寄せられましたが、みなさんのご回答をどうか少しでもあなたのお役に立つようになさってください。  私もご回答にはとても勉強させられ、感謝しております。  重ね重ねになりますが、あなたに必要なコメントはあなたとあなたの深奥に入る事から、もたらされることであると存じます。  私もご質問のことに申し上げる事は多々ありますが、ここで言葉を文章にして読んでいただくよりも、そして考える事ではなくご自身の深奥に入ることであるとだけ、申し上げます。  考えて判ることではないのです。自分のあり方の問題です。

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質問者からのお礼

krya1998さん、ご回答ありがとうございます! 私は海外在住です。 こちらのSRFへ行きました。瞑想グループではない方です。 ヨガナンダ師の理想どうこうの点は、調子に乗って言いすぎました。 深い理解もなければ、SRFの内情も知りません。 まさか東京瞑想グループの方がごらん下さるとは思ってもおらず、 うれしいと共に、己の浅はかな考えを恥じる思いです。 よく知りもしないで適当な文を書いてしまい、深くお詫び申し上げます。 悩みが高じての判断の誤りと、大目にみてくださいますようお願いします。 ですが、そこのSRFの人たちからは、堅苦しく真面目で閉鎖的な印象を受けました。神との交わりを楽しんでいる人の顔とは、私には思えませんでした。 それは、正直な感想です。 >あなたの向上の事を第一にお考え頂く事が大事なのです。 >瞑想会とはそんなものです。 自分はキリスト教会に先に通いだしたので、先入観があったようです。 そう考えると、SRFも違って見えるのかもしれません。 100%期待に応える回答、については、 回答者の方に、私の代わりに問題を解決していただくことまでは期待していません。できるなら自分で解決したかったです。 ですが、今の私では未熟者で、この件になると、心が波立って見えません。 わたしはキリスト教会の人たちを愛していて、お世話になりながら裏切り続けているようで、心苦しくて引き裂かれる思いです。 ただ、人の知恵を借りなさい、表層的な問題の解決を超えた結果を得る、という神の意思を感じたので、ここはその流れに身を任せてみようと思いました。 貴重なヒントや、体験談などいただくことで、私自身の中に変化をもたらされることを期待してのことです。 krya1998さん、 具体的なアドバイスそのものは今回省略なされたようですが、本気です。困っています。 この未熟者の私に、ぜひお知恵を貸してください。

  • 回答No.10

100%の信仰じゃなく1%の信仰があればOK牧師も建前でいいますが本音はどうか?牧師はほかに休日がありますが私たちは奉仕してるのはおかしいですよね。  ある牧師はお寺に座禅に行かれる方もいるでしょうし、実家に帰ればお墓があるしお坊さんにお経を上げる場合もあるでしょう。 >教会や牧師の教えに、100%頭から同意するという気持ちは、今もありません。 聖書は何を信じなさいと言ってますか?牧師の言葉ですかね~ 牧師も死んだらまた教会も変わりますよ。変わらないのはなんですか?

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質問者からのお礼

katyan1234ご回答ありがとうございました! 変わらないものは真理ですね。 すべて永遠に私たちはひとつの愛だ、ということですね。 そうでなかったことはこれまでもなかったし、 今もないし、これからもない。 (「聖書的」でなかったらすみません。私の本当の信念です。) この質問は、なかなか誰にもいえなかったのですが、やはり思い切って質問してよかったと思います。 私は自分に厳しすぎるところがありましたから、100%というのは私にはある意味禁句なのかも知れません。 ありのままの自分で「ある」こと、それが今の私にできることだと思いました。 ご回答に対してちぐはぐなお礼に感じられたらすみません。 今素直に感じたことを、書かせていただきました。

  • 回答No.9

No.7です、 >宗教関係では仕方ないのでしょうが、批判的な部分を読むのはつらく感じられましたので、お手柔らかにおねがいします! かなりオブラートに包んだつもりではあります。 「宗教はヘドロだ」と言う人もいるわけで・・・ 神学者たちの幼児虐待、すなわち自分が受け持つ教区の子供の信者に対するレイプ件数を挙げられるよりマシですよね。 バチカンは1000件以上のこの手の裁判で訴えられているようですが、この数は氷山の一角。 聖職者1人1人が、それぞれ一体何十人の人生が始まったばかりの子供の信者の人生を破壊するお仕事をしているのか とか言われるよりマシでしょ。 >信者というのは、いわば見習いや生徒みたいなものですよね。 >なのに、めざすところが高すぎる。 じゃあ、神学校に入ってはどうですか? 今の生活はしていたい、だけど修道士のような生活が理想。 そうなると今の生活を捨てなければならない? いえ、私の知っている人は牧師で、朝の5時から3時間 祈りの時間を設けており、暇さえあれば、夜中までずっと祈っているそうです。 毎日途中礼拝を3回やる以外は、ずっと祈りをしているそうです。 結婚をされており子供さんもおり、子育てをしつつ、それでも一日のかなりの時間を祈りの時間にしているそうです。 説明をされたことがありますが、ものすごく熱い信仰心を持っていると思えました。 絵でしの仕組みについて説明されましたが、「それカッバーラだね」と思えました。 >けれど、自分は教えられたことを鵜呑みにできるような人間じゃないんです。 ええ、他の情報を前回リンクしましたが、お読みになりました? キリスト教がどうしてあのような思想になったのかお分かりになったと思います。 英語だとわかりずらいのなら、 http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20080512 3つある絵のうち最初の画像の下に右矢印があると思います。 それをクリックすれば動画が流れます。 長いですが、一つの情報として観ておく価値はあると思います。 この動画が長くて観れないのなら、結局 聖書を読まず、内容を知らない どこにでもいる なんちゃって信者の域を出れないのではないでしょうか。 それはあなたが嫌う教会の人たちとあなたは変らない、彼らもあなたも同じ泥沼の底の住人、言えると思います。 陰謀説? そこまでひどくない? でも 少なくとも、どうしてイエスと同じような神話が沢山あるのか、どうしてイエスのいたとされた時代よりも何千年も前からあり、その後も名前は違えど同じような人生を歩んだという人たちの物語が出現したのか (イエス物語も含め)の謎が解けると思います。 同じ内容で、支配者が同じ概念を信仰しろと言ったら、名前は違うけど内容は同じだからいいかぁ ってなるんじゃないでしょうか。 そえゆえ キリスト教は他の地域でも受け入れられたのだと思えます。 これが全く違ったら、受け入れられなかったでしょうけど。 知ってます? 旧約聖書の創世記と古事記の創世記は内容が同じだって。 >他の人はみな、ウンウンと聞いてそのとおりだと思っているようにも見えます・・が、他の人もそういうところがあるのかもしれないですよね。いわないだけで。 どうでしょうか? 私は聖書のある偏にすごく興味を持ち、それでその内容を知るために、見学者としてしばらく通ったことがあります。 で、あなたと同じことを感じました。 私の信者に対するイメージは、あなたが理想とするイメージと同でした。 でも現実は、礼拝が終れば、ごくごく普通の人。 礼拝中と礼拝後が全然違う。 礼拝後は、信仰の話は一切出ず、世間話。 外国の礼拝も見学したことがありますが、礼拝中はみなさんストイックですごいですよ。 エクスタシーの極地の表情で、「おお ロード」と両手を広げ叫び、失神者続出。 でも礼拝が終って教会を出たら、幸福に満ちたいきいきとした歩みかというと、ダラダラ。 でも聖書の話になると、イキイキ。 実は外国にいた頃、盛んに教会に行くよう誘われたんですね。 毎日やってきては、聖書を開いて神はいかに私を愛しているかを切々と説いてくれました。 もう これは私に信仰心を与えるというより、信仰を他人に説明する自分に酔いしれている としか思えなかった。 そこまで1人エッチ状態をされると、私はもう唖然とこの自慰する人(女性)を冷めた目で黙って見つめるしかなかった。 だって1人エッチが終るまで、酔いつづけて止らないとわかっていたから。 人をエサに1人エッチ状態のこの熱心な信者。 あなたが目指す敬虔な信者生活は、他者からみれば1人エッチに見え、引かれるかもしれない。 でも、本人は他人など関係ないから、冷めた目で見られているということに気づかない。 教会の礼拝は1人エッチをする時間。 そう考えれば、信者は礼拝が終れば、1人エッチ時間が終わったので、普通の自分に戻りその本来の態度をするようになる ってことに納得がいく。 礼拝の時間以外に1人エッチを持続したければ、聖職者になるのがいいかも。 他のことをせず、ずっと一日一人エッチをしていればいいわけですから。 >私は、世間知らずもいいところで、自分の身の程はいたいほどよく分かったので、少なくとも今はひとりでやっていける段階ではないと思ってます。生きていく指標が必要です。助け合える仲間も。 要するに同じような価値観を持つ他者が欲しいってことですよね。 孤独からの逃避ですよね。 新世紀エヴァンゲリオンってあるんですね。 シンジって男の子が主人公。 シンジ つまり神児 神の子とひっかけています。 この子は他人の命令を実行することにやすらぎを持っている。 他人の価値観に自分を合わせることで、他人から捨てられることを防ごうとしたわけです。 孤独 一人ぼっちになるのは絶対にいやだから、他人に言われた通りにする。 これが彼の処世術だった。 だからマスターを次々変えて寄生し続けた。 アスカは、子供を恐れないタイプ。 いい子でいれば、他人は自分に注目してくれると思い、常に優秀であり続けようとした。 人から注目をされるためにものすごい努力をしたわけですが、スワンと同じく、水の上は何事もないかのように余裕でいるので、自信に満ちて見えるわけです。 シンジはそんなアスカもマスターにして、アスカに服従することで安心感を得ようとした。 「僕に命令してよ。アスカじゃなきゃ駄目んだんだ」と言うシンジに対して「嘘ね。 あんた誰でもいいんでしょ。 ミサトもファーストも怖いから、 お父さんもお母さんも怖いから 私に逃げてるだけじゃない。 あんた誰でもいいんでしょ。」 で、シンジはアスカの首を絞めたんです。 http://74.125.153.132/search?q=cache:XctW_pEqX7AJ:homepage3.nifty.com/mana/main-story3.htm+%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%80%80%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%9F%E8%AA%B0%E3%81%A7%E3%82%82%E3%81%84%E3%81%84%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%97%E3%82%87&cd=1&hl=ja&ct=clnk 『これは、相手を憎んでいるのではなく、相手から捨てられるのが、ただただ怖いのです。』 さて、一見だらだらと脈絡なく書いているように思えるかもしれませんが、ちゃんと考えて書いてますので、もうしばらくご辛抱を。笑 信者の人に前回に書いた内容と同じようなことを言ってきたし、実際上にリンクをしたサイトを見た信者も多いと思えます。 上にリンクした動画は世界各国で翻訳されて配信されたのですが、ダ・ビンチ・コードのようなエンターテイメント性 つまり娯楽性が無いし、 信者は信仰に求めるのは 真実ではなく 孤独からの逃避であったのであれば、あの動画を見て真実とされる説明をされても、動じないわけです。 だって宗教を信仰しているわけではなく、孤独からの逃避で群れているだけだから。 一つの真実が明らかにされたとしても、信じていたわけじゃないので、ダメージは無く、別のコンビニに向かうだけです。 別のコンビニの前では人々がまた群れているって知っているから。 >100%共有しあえる仲間がいれば理想でしょうけど、そういう考えは幼稚なんですねきっと。 アスカの言葉を借りれば、「嘘ね。 あんた誰でもいいでしょ。それが一番楽で、傷つかないもの。ホントに他人を好きになったことないのよ。 自分しかここにいないのよ。その自分も好きだって感じたことないのよ。」 私の首絞めたくなりました? 笑 破壊の後は何も無いのか? シンジは結局 マザーを破壊することで再生しました。 エヴァゲリでは、人々は孤独からの逃避として、統合を望み一つになったんです。 これが永遠の至福。  他人と一つになったので他人がいない状態。 価値観が違う人が全くいない世界。 人々は結局 これを望んで一つに統合した。 すると他人はいないので、価値観の違いから他人と衝突することもないし、他人から傷つけられることもなければ、自分が他人を傷つけることも無いわけです。 だって他者が存在しないのだから。 でもそうなると、自分もいないわけです。 人は自分と他人を比較することで、自分の存在を自覚できる。 自分がなんたるかがわかる。 でも、比較する他者が存在しなければ、自分も存在しえないわけです。 さて、あながた目指す究極のものは、全人類の統合です。 でも そうなると あなたはいなくなります。 それでも いさかいの無い永遠の至福を選びますか? シンジは何故エヴァに乗るのか の問いを考えた。 エヴァ、アダムとイヴのイブのひっかけでもありますが、エヴァー 永遠でもあるんです。 肉体がエヴァー。 そこに魂を宿し、エヴァーとシンクロすることで、エヴァーは動く。 あなたが宿っているエヴァー。 そのエヴァーが永遠の至福を望んでいる。 どうしますか? エヴァーの言うことに耳を傾けなければシンクロ率は低下し、エヴァーは動きません。 しかし シンクロ率400%になると、あなたは存在しえなくなる。 我々は、生と死の間にのみ存在しえるのです。

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質問者からのお礼

kigurumiさん再度のご回答ありがとうございます。 参考になるご意見・主張を提示してくださるのはありがたいのですが、 そんなにケンカ腰では、どんなによい考えでも受け入れる側は大変です。その苦労をご理解ください。 >今の生活はしていたい、だけど修道士のような生活が理想。 市井にありながら、どれほどまでの境地にあれるかを見本を示し、 人々を励ませる人となることが夢です。 今はまだまだ、そのための中間目標をさぐっている最中です。 ほとんどのキリスト教徒は、キリスト教組織がもつ問題をわかっていないし、わかりたくない人も少なくないでしょう。 キリスト教の教義、また組織については、私も疑問をもっており、 むしろそのために困っているため、今のような質問をする状況になっているのです。 しかし、医者の一人一人が、今の医療システムの大きな問題に責任を持つことができないように、一人一人のキリスト教徒にそこまで大きな視点でものをみろ、と私は今の時点で語ることはできません。本人が自分で疑問を持って立ち上がらなければ。 特に表記はありませんが、あなたの私への本当のご提案は、キリスト教組織から完全に足を洗うことのすすめなのではないか、と思われました。私はその予定はとくに考えてませんので、それのみが主張なら今後はご遠慮ください。 >さて、あながた目指す究極のものは、全人類の統合です。 >でも そうなると あなたはいなくなります。 >それでも いさかいの無い永遠の至福を選びますか? はい。のぞみます。それ以外に、本当の望みはないです。 それを読んでわずかでも動揺したりNOと言うのは、自我(エゴ)への執着が強い人、真理の探究への目覚めから遠い人のみでしょう。 私が探求しているのは宇宙的な真理で、キリスト教の世界支配ではありません。最終ゴール以外の全ての望みは、その究極目標のための中間目標に過ぎません。 集合意識としての進化が必要なので、この人生を生きている間は現実的に不可能で、たぶん何万年とか長い年月が必要でしょう。

質問者からの補足

貼っていただいた二つのリンク、興味深く拝見させていただきました。 シンジの「見捨てられ不安」についての話は、今現在の私の悩みについては、参考になるところはなさそうでした。 動画の方は、物理的レベルの話なのですね。 歴史的事実は、きっとそうなんでしょうね。貴重な知識でした。 気に入ったところは繰り返して見ようと思います。 真理の探究をしている人も、さまざまな段階があります。 私の真理の探究は、霊的段階の話なのです。 唯物的レベルにはないので、知識として参考になるのみで、探究の姿勢については何も変わらず、むしろ良き材料となります。 この動画をご紹介することで、お相手の宗教意識に疑問をもたせるのが目的であれば、今後は、唯物思考の人を選んでされる方が、効果があるかと思います。 >「宗教はヘドロだ」と言う人もいるわけで・・・ 宗教については、私自身の姿勢は、大体おわかりいただけたと思います。私も究極的には宗教組織が不要になることを望んでいます。 ただ、あなたとアプローチの仕方が違うのだと理解しました。 上記のように、自分の批判はましな方なんだからありがたく思え、という姿勢で宗教を批判しても、人の心は動かせないのではないでしょうか。 あなたの目的が、人々の幸せであり、よりよい世界を作ることであるなら、愛をもって人の心を動かすしか、本当の手段はありません。 争いを引き起こすような姿勢そのものが、争いを引き起こしてきました。争い好きな人は、自分の痛烈な批判には鈍感で、人の言葉には敏感に悪意を探し出します。争いを作り出す心は、すすんでこの世に地獄を作り上げているようなものです。 質問者の身でありながら、たいへん僭越・失礼なことを申し上げていること、申し訳なく思います。 わたしからの真摯な気持ちです。悪意や争いとして受けとらず、ご考慮いただけたらと思います。

  • 回答No.8
noname#97416

宗教というものが、混沌や争いを生み出す理由の一つとして意識やエネルギーに対する洞察の浅さや無知な上で、現状をその時の都合で良いようにしようとする短いスパンでの改善策として、神様を引き合いに出してたりしてきた訳ですが、浅い認識に於いては集団操作の結果でしかありませんでした。 そもそも、輪廻云々という思想や仏教的な観念も旅の途中で学んだ上での・在るもの・として純粋に輝けた彼の全てを肯定できないなら、同じように輝けることはないでしょう。 夜空にあまねく輝く星たちのように、多くの人が輝けるようにと・・自分の得た喜びを他の人達にもと思い、先を見通す事ができた上で沢山の聖人は勇気をもって闇に飛び込んでいきました。 気功と瞑想と祈ることができれば、一人でも一人ではないと分かる時がやってきます。 自分の祈りの場所を確保して、神様や天使たちの幸せと皆の幸せを祈ることを続けていれば、清浄な空間ができて、それに波長が近い意識体やエネルギーレンジにアクセスしたり、オーブに似た光や粒子が飛び交ったり・・貴女の望んでいたような事が少しでも実現するでしょう。 四つ足の肉を食することを控えて、健康な身体でいることも大切です。 何処を向いても、難しい状態の最中ですが、貴女の信仰が成就すればと思います。

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  • 回答No.7

今キリスト教の派閥はたくさんありますが、2000年ほど前は今とは比べ物にならないくらい、もっと沢山の派閥があったのだそうです。 聖書にしても、派閥で聖書の内容が違いますよね。 古代では200くらいの福音書があったと思われており、ある時点で4つだけが正しい福音書で、それ以外は偽書だ とするため、3人の聖職者が聖書を作ったことで、それが今日の聖書と呼ばれるものになったわけです。 プロテスタントとカトリックでは聖書の内容物が違いました。 ルターはいくつかは間違えているとして、プロテスタントの聖書はカトリックの聖書とは違うようになったし、その他の派閥もまた内容物が違うわけです。 で、「自分達が唯一正しい」としないと気がすまなかったかけで、カトリック派閥のプロテスタント派閥に対する虐殺とか、聖書をめぐって血で血を争う共食いが近年まで起っていたわけです。 聖書が違うってことで、許せない とぃう怒りが殺意に変り、イエスを信じるもの同士が殺し合いをするまでになった。 キリスト教が誕生したことで、人類史上かつてない規模の殺人が起るようになったわけです。 もし、キリスト教が起こらなかったら、人類の歴史はうんと平和だったってことですね。 残念ながら起こったことで、イエスを信じるものたちによる殺戮の歴史となってしまった。 さて冷戦自体の後に、このままいがみ合っていてもしょうーがない、愛を平和を説くキリスト教が、それを信じることで憎しみを倍増しちゃ 存在悪になってしまう ということで、聖書くらい同じものを使いましょうよ となってきたわけです。 憎しみを起こす原因を改革することで、信者同士の争いを減らそうという動きがあったので、共同訳ってものができた。 その血の歴史を本をあなたは読んでいるわけです。 さて、それでも聖書の内容は信じるが、自分が通っている教会のやり方が気に入らない と、別の宗派に移動したり、あっちこっち変わってもまだ不満足で、とうとう新しいグループを作ったり、と派閥が増えているわけですが、それでも2000年前の数とは比べ物にならないそうです。 返信んで感じたのは、あなたは信者は教会内で修道士のような状態であるべきだ と思っているんじゃないかと。 キリスト教は最初の頃、文盲者、精神薄弱者、精神障害者たちに広められたそうです。 つまり福音書の内容をちっとも理解できない人を勧誘していったのだそうです。 これは、プラトンの考え方からそうなったのではないか と。 イエスの磔刑の場面の脚本を書いたのはプラトン。 え? プラトンって紀元前4世紀くらいの人じゃないかと思うでしょう。 そうです、イエスがいたと言われる時代より何百年も前の人です。 彼は真理を知りえる者はいいが、真理を知らない人は知らないゆえに悪業をやってしまうのなら、真理を知っている人の言う通りにしてさえいれば、悪業をしなくてすむ という考えだった。 ゆえにキリスト教の指導者たちは、悪行をやっても自覚ない人たちを救うという趣旨で、そういった人たちを勧誘していったわけです。 信者にする対象は悪者と考えられる人たち。 ヒトラーはそれらの種類の人たちを、ポアしましたが。 まあ ともかくキリスト教の指導者の言う通りに信者はしてさえいれば安心なはずなのです。 でも、派閥により指導者の考え方が違うし、指導者のリーダーシップが無ければ、礼拝は歌会、その後はお茶会・井戸端会議になってしまう。 烏合の衆状態の教会になってしまい、本来の自覚なく悪行をしてしまう人が悪行をしないですむように という本来の目的が遂行されないことになる。 それじゃあ 通っている意味が無い。 で、結局「こんなんじゃ駄目だ」と思ったら、自分がこうあるべきだ と思っていることをやっている教会に鞍替えしたらいいと思うんです。 それか教会に提案すればいいんじゃないかと。 ただし、うっとうしい人だと、あなたは思われることがわかっているので、自分の意見を言わず、身をひくという選択をしたわけですよね。 多くの人が日曜日に お歌うたって、寄付して「自分はいいことをしたー」という気持ちになって、それが快楽としているでしょうから、それじゃ全くそこいらの非信者のやっていることとなんら変わりないので、信者であることとそうではないことの差が無い なんて言おうものなら、せっかくいい気分に浸っている信者たちに冷水浴びせるようなものですから。 で、心を厚くしておられるところに、冷水を浴びせる結果になると思うのですが、、、、 ロード・オブ・ザ・リングって映画を観たことがあるでしょうか。 トールキンの指輪物語がベースです。 で、トールキンはその発想をどこから手に入れたかというと、プラトンの国家のギュゲスの指輪です。 また出てきましたね、プラトンという名前。 キリストの磔刑の場面もプラトンの国家がベースでしたが、ロード・オブ・ザ・リングもプラトン。 これがキリスト教は別名プラトン教 と言われるゆえんです。 さて、そのプラトンは十字架にかけられ鞭打たれ槍で疲れることで、その人が全くの善人であったということを証明できるという論を出しましたが、その内容は一体どこからもってきたのか。 エジプトです。 10戒はエジプトの死者の書がオリジナルですが、イエス物語のベースはエジプトのオシリス、太陽崇拝。 オシリスの概念や死者の書も、もしかしたら、それより前の人類が作った物語がベースかもしれませんが、、、、 遡ってわかるところまでだと エジプトでした。 エジプトの神殿の壁画に残っている。 残念・・・・ 人間が作った物語だったんです。 実際の人物ではない。 実在していますよ、今も。 今日も今の時間だと、存在が確認できます。 神とは太陽のことだったんです。 12使徒は実在の人物ではなく、星座だったんです。 太陽の軌道上にある星のグループを、古代の人は12に分けた。 だから太陽が12の星座とともに旅をする⇒太陽であるイエスが12使徒をひきつれ旅をした。 古代の人は星座から、神話を作りましたよね。 空想力がすばらしく、星を人格化して、物語を作った。 ギリシャ神話は、実際神がいてそれを人間が観察した記録ではなく、星座を見て人間が物語を作って楽しんだ。 確かに太陽のお陰で地球の生命体はその恩恵にあやかっているという事実はある。 だけど、大気圏ができなければ、生命は地球で誕生しても、すぐ絶滅するしかなかったんです。 大気圏ができたことで、太陽などからやってくる有害な宇宙線をある程度シャットアウトできた。 それが成功したので、単細胞から多細胞になり、知的生命体である人間が誕生して、太陽や星をみて物語を作ることができたわけです。 記憶喪失。 人類は記憶喪失になっているので、遺跡を調べてこうだったのか とわかるしかない。 さて、太陽崇拝 大いに結構。 「太陽のお陰で今日 おいしーものが食べれますし、体内でビタミンを作れます お天道様ありがたやー」 これでいいじゃないんでしょうか。 今以上のことを望む欲により、苦しい思いをするのなら、贅沢な欲望を持つ自分が、イライラの元だとわかれば、信者や教会のやり方を批判せずにすみ、改心して穏やかになれるんじゃないかと。 日曜ごとにお歌うたって、余った金を教会に寄付して自己満足に浸る。 その金を指導者が、マフィアに渡したりテロリストに渡して、国家転覆をされた場合は、自分の善意が化けて悪になった と善が偽になったことを嘆くしかない。 プラトンもあのときはまさか、自分のアイデアが個人の利得に利用されるとは思っていなかったと思います。 プラトン教 本来なら人を幸福にするはずだったが、他の人の手に渡ったとき悪に転じた。 これを偽善と呼ぶ。 http://en.wikipedia.org/wiki/Zeitgeist,_the_Movie Zeitgeist 日本語で時代精神と訳されています。

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質問者からのお礼

kigurumiさん、長文の回答ありがとうございました! 新しい視点から、自分の知らないことを語っていただいてありがとうございます。 また自分でも調べてみようと思います。 宗教関係では仕方ないのでしょうが、批判的な部分を読むのはつらく感じられましたので、お手柔らかにおねがいします! 回答していただいてるのに文句いってすみません。 >あなたは信者は教会内で修道士のような状態であるべきだ  >と思っているんじゃないかと。 たぶんここです!!ズバリ 私はどうも完璧主義なのです。 信者というのは、いわば見習いや生徒みたいなものですよね。 なのに、めざすところが高すぎる。 私はいったい何様のつもりなんでしょう。と自分でも目が覚める思いでした。 けれど、自分は教えられたことを鵜呑みにできるような人間じゃないんです。 他の人はみな、ウンウンと聞いてそのとおりだと思っているようにも見えます・・が、他の人もそういうところがあるのかもしれないですよね。いわないだけで。 私は、世間知らずもいいところで、自分の身の程はいたいほどよく分かったので、少なくとも今はひとりでやっていける段階ではないと思ってます。生きていく指標が必要です。助け合える仲間も。 100%共有しあえる仲間がいれば理想でしょうけど、そういう考えは幼稚なんですねきっと。 80%でもそれなりに満足できて、もう一箇所よそでも80%で満足して、あわせたら160%になるのでしょうか。 折り合いのつけ方が下手なんですよね。恥ずかしながら。

  • 回答No.6
noname#98440

お礼ありがとうございます(^^) 信仰心については「聖書」と出来るだけ毎日、向き合う。ちょっと、サボる事も有りますけど<(^^) 朝晩&迷いの有る時には必ず祈る。 教会から遠退いたのは、教会への協調性を求められたから。 私の家族は、一般的な日本人で、キリスト者では無い。ここが問題点として、教会の中で孤立。 あと、個人的には「祈りの場」というより「井戸端会議の集会所」のように思え、耐えられず?<(-.-)>!これでは、駄目と、行かなく成りましたね。

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質問者からのお礼

moyu7さん、追加質問に回答ありがとうございました!! そうでしたか お一人でもご自分自身の信仰をつらぬけるmoyu7さんは強いです!! 自分の家族もキリスト教ではありませんが、 とくに反対や無理解もなく、それで幸せならいいんじゃない、と容認の態度です。 教会も、私が教義に100%賛成していないという秘密があること以外、かなり良いので、自分のほうこそ申し訳ないくらいです。

  • 回答No.5
noname#98440

私は「プロテスタント」で受洗し、約9年に成り、教会から遠退いて4年くらいに成ります。 色々な諸事情が理由ですが、私は信仰を守り続けます。 教会ばかりが、信仰の証だとは思いません。これも一つの「信仰の自由」だと思います。敬虔な方からすれば、不信仰かもしれませんが、自分を貫く信仰に対する、これも「意志」です。 広い視野で、物事を見る事は良いと思います。 一つに拘らず、 他の宗教(教派) 哲学 思想 など、幅を持つ事が、人生の指針に成るなら、大いに良いと思います。 宗教には「強制」が有っては駄目ですからね(^^)

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質問者からのお礼

moyu7さん、ありがとうございます! 慰められました。 もし差支えなければ、なぜ教会を離れたのか、 その後どのような形で信仰を保っておられるのか、 経験から教えていただけるとうれしいです。

  • 回答No.3

 kanakyu- さん こんにちは。はじめまして。わたしは 聖霊によるバプテスマを受けたと自称するキリスト者です。水による洗礼は受けておらず 教会ともかかわっていません。  その者の考えですが まづ イエスの言うことをそのままこの世でおこなうことは無理ですよ。  すべてを投げ打ってかれについて行くことは 生活が成り立ちません。あらゆるひとに対して隣り人になることは とうぜん――実質的にはイエスもそう言っていると考えるのですが――身近な家族からでしょう。親をほったらかして 信仰に打ち込むといった生活は考えられません。  ひととして生まれて来て うそを言ったことのない者はいないでしょう。税金を多少はズルをして少なくしたいと思うのは ほとんど誰にもある経験ではないでしょうか。  たとえば いまの政治家がどうであるか分かりませんが 昔は おそらく金の出入りは表と裏とに分かれて 都合よく処理されていたでしょうね。そのときにも 一応の規律はあったのです。精神的には私心の無いこと 具体的にはわたくしの事柄には使わない すべて公共の政治活動(と言っても派閥の子分のためといったところでしょうが)のためにその裏金と言えども使うのだという暗黙の了解事項です。それなら 法律に違反していても 大目に見るということを互いに誓い合っていたのではないでしょうか。  罪 ということばで認識することがら。社会に生きていくには 罪ではないかとおそれる人間関係上のふるまいにおこない。これらから自由になるのは 無理です。人間わざでは無理です。  ▲ その罪がおおわれる者はさいわいなれ。   ☆ です。自分では――自分ひとりの能力と努力とでは――罪をまぬかれるように生きるのは それこそラクダが針の穴をとおるようなことです。  このあいだ引用するによいと思った文章は 《かの人がそのあふれる恵みによって われわれの犯した悪と罪とを 犯したあとからあとから 滅ぼしている》(アウグスティヌス)というものです。  これは 読みようによっては いわゆるモラル・ハザードを起こしてしまう内容ですが きわめてありがたい歴史観であるとも考えます。  《霊によって――つまりは 無根拠によって――前へすすみましょう》というのですから 《罪は ありがたいことに知らず知らずのうちに おおわれてしまっていた》という日々の生活なのではないでしょうか? 日々死んでいますとも パウロは言っています。  日々死んでいるなら 日々生きていることでしょう。これは誰が生きているのでしょう? ここに生きているのは 誰でしょう?   まづ真っ先にあなたに かの人が隣り人になってくれるのではないでしょうか。すでに成ってくれているのではないでしょうか。仲間はそのあたりから出来てくるのではないでしょうか?  どうでしょう?

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質問者からのお礼

bragelonneさん、ご回答ありがとうございます! >イエスの言うことをそのままこの世でおこなうことは無理ですよ。 そういう話じゃない・・と思いましたが、 ある意味そういう話ですね! 教会の言うことを100%信じよう、という気持ちがなければ 教会にいてはいけないのだ、という思い込みがありまして。 他の人もそんなそぶり見せないし。 >無理です。人間わざでは無理です。 私は自分に完璧と強制を求めていたようです。 どうも完ぺき主義で、しかも自分を強くコントロールしてしまうので困ります。 菜食主義を一年ほどやってみたことがありますが、バランスの欠いた完璧菜食主義をしたため、体調も悪くなったことがあります。 >自分ひとりの能力と努力とでは――罪をまぬかれるように生きるのは >それこそラクダが針の穴をとおるようなことです。 なるほど。 まるで、泥水の中にあって真水でいようとするようなものですよね。 自分をゆるしたいと思います。 その後の部分は、よくわかりませんでした。 >まづ真っ先にあなたに かの人が隣り人になってくれるのではないでしょうか。 慰められました。ありがとうー

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    キリスト教で最も戒律が厳しい(あるいは信仰の篤い)宗派はどこでしょうか?(クリスチャンの方に質問です) 私は20代前半の男です。これまでの二十余年、無宗教(厳密に言えば家系は父母ともに浄土真宗です)を貫いてきましたが、今現在クリスチャンになること(=洗礼を受けること)を検討しています。 聖書を学生時代に読んで大きな衝撃を受け、また実際にクリスチャンの知己を得た体験がきっかけなのですが、私の現在のスタンスとしては、日本語で聖書を読み、あれこれと自分の頭をたよりに思索にふけるという、いわば無信仰の自由主義神学派の様な曖昧なものです。 私としてはそろそろ聖書を「読む」ことから「生きる」ことにシフトしなければ、これ以上安らかな心境で生きてゆけないという危機的な情況に対峙しており(精神が弱いのです)、教会に通うことも検討しているのですが、その際にどの宗派を選ぶのかという点で迷いが生じています。 もちろん、細かな教義を一つ一つ検討するのが良い方法だとは思うのですが、これまでさんざんエセ自由主義神学の方法で自分勝手に聖書を解釈してきた私にとって、そうした出口のない教義問答に明け暮れていたらいつまでも洗礼に辿り着けない気がするのです。 そこで至ってシンプルに、己を律するという意味合いも含め、最も戒律の厳しい宗派に身を投じてみたいと考える様になりました。 もちろんパウロが云う様に「律法よりも信仰が先立つのだから、戒律の厳しさを尺度にするのは本末転倒」というご批判があるかもしれませんが、自分にはやはり、その信仰を他者に対し裏付ける律法の遵守がとても重要なのです。これは勝手な意見ですが、やはり上の言葉を隠れ蓑に、多少戒律に違反したって構わないじゃないかと言って過度の飲酒や姦淫を平気で行う「なんちゃってクリスチャン」だって少なからずいると聞きますし、そういう信仰の薄い信者の多い宗派に入って幻滅する位なら、いっそ自己のマキシムに厳格に生きる無信仰者でいるほうがよっぽどマシだと本気で思うのです。 モルモン教などの新興派閥も含め、この宗派は戒律が厳しい、といわれるキリスト教宗派があれば、あるいは実際に信仰されていれば、その内実を教えてください。カトリックやバプテスト、エホバの証人などは厳しいと聞きますが、実際の所をお聞かせ頂ければ幸いです。

  • キリスト教徒の条件

    教義上は、イエスを救い主として受け入れることですが、 現実には、 1)月例献金を含む献金をして教会を維持すること 2)奉仕を行い教会を維持すること 3)聖職者をゆるし共に歩むこと が必要です。 司祭は棄教する人も多いそうですが、期待しすぎると幻滅するのでしょう。かえって棄教した方が正直かもしれません。反面、高齢まで残っている場合は組織内での立ち廻りに長けていた場合もあるのでしょう。聖職者も傷つく状況が多くやめていくようです。 キリスト教徒は、聖職者をゆるし支えて、金銭・労働面で教会を支えるという設定になっているのですが。。。。。。。。 この不況の中でそんな余裕のある人間は数少ないと思うのですが、いかがでしょうか? 企業内も労働紛争が多発して弁護士が跋扈する社会状況です。 伝統宗教としてのキリスト教も問題を多々内含しており、新陳代謝が滞る組織内部の刷新も進んでいませんよね。宗教を行う人間というのは、超楽天的=鈍いのでしょうか? 自分をも超える鈍さとは「死」ということだと思いますが、紙一重だと思うのですが。 よく牧師から「神の前では馬鹿になれ」と言われ、内心その説教に反発を感じていました。 最近宗教が見えなくなってきました。 このままでいくと、アンチ宗教分子に転換しそうですが、こうなるのは凡人だからでしょうか?

  • 信仰のお誘いについて

    信仰のお誘いについて カテゴリー違いならご指摘ください。 わたしは仕事の関係でプロテスタントの方々と仲良くさせていただいています。 わたし自身は無宗教です。 信仰というのは考え方の一つ道徳観の一つのありかたで、信じられるものがあるのはいいことかもしれないな、くらいに思っています。 聖書はひととおり読んだのでなんとなく内容は知っているし、礼拝に参加したこともあります。とても興味深くおもしろいものだと思いました。 ただ、自分がクリスチャンになろうとかキリスト教の教えを信じようとは思えません。 礼拝に何度も誘われます。 過去5,6回参加しましたが、寄付を要求されたり改宗(?)のお誘いを受けたりもなく、アットホームな空気の中受け入れていただけました。 なので悪い印象はないのですが、どうしても自分はそよ者だと感じてしまいますし、誰に何を言われなくてもなんかこのまま参加していては(クリスチャンになる気もないのに)いけないような罪悪感を覚えていかなくなりました(日曜日に仕事が入って行けないという事情もあるのですが) 聖書やいろいろな神様に関する書籍をたまにプレゼントされます。 中にはわざわざ購入したような真新しいものもあり、ちょっとプレッシャーを感じてしまいます。 仕事がらクリスチャンの方々と親しくなるのは必須で、信仰がらみのお話も興味深く聞いているので、純粋な好意からみなさんしてくださっているのだとわかっています。 だけど、「キリスト教の良さを知ってもらって、ゆくゆくはクリスチャンの仲間になってもらいたい」という期待は絶対あると思うのです。 その期待がプレッシャーです。 礼拝を断わり続けるのも辛い。わざわざ下さる書物などを読まないわけにいかず、だけど感想言うにも気を使う。だけど興味無いんでノーサンキューとも言いづらく。 何かを信仰したこともないので、下手に拒否したら相手がどんな気持ちになるのかもよくわかりません。 今までのらりくらりとお誘いを交わしてきましたが、このままでいいのかとても悩んでいます。 クリスチャンの方々には失礼な質問かもしれません。不快にさせてしまったら申し訳ありません。