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科学とは何かまたは科学の定義についての考察
八百屋さんに、八百屋って何する仕事ですかと訊けば、野菜を売るんだよ。と答えくれますが、科学者に、科学って何ですかと訊いても答えられませんでした。そこで。自分なりの科学の定義を考えたのですが、穴があったら教えて頂ければと思います。 「科学とは、人間に、普遍的に認識された現象を、ある前提において、言語や数式などの記号によって抽象化したもの」です。説明します。 幽霊がよく出る場所というものが、ある。ある人は幽霊を見たといい、ある人は見てないという。目撃談というものは、そういうものだ。 では科学はそのことについて何が言えるか。何も言えないのである。いいところ、こういう場合には、それに似たものが目撃されることもある、と言うのが精一杯で、絶対にそんなものは存在しない、とは言えない。 何故か。 科学は再現性を有し、かつ万人に認識される現象しかあつかわない。再現性のないもの、特定の人間にしか認識されない現象については、何とも言えない。 科学は結論として、普遍性を保証しているわけではない。つまり「宇宙のあらゆる現象には再現性があり、かつ万人によって認識されうる」という命題の真偽は手付かずのままなのだ。 ただ科学は、黙々と、再現性があり万人に認識される現象についての法則を求めてきただけなのだ。言ってみれば、霊現象は、先程の命題を偽とする有力な証拠にも成りうるのである。 認識、という問題については後に述べるとして、ここでは、ただ、認識なるものが、その対象を万人が等しく認識することが可能か、とだけ言っておこう。つまり、白、と言った場合、私が認識するところの白が、他人にとっては、私に取っての赤にみえないとも限らない。同じだ、と証明することは論理的には不可能なのだ。 さらに、科学はいろいろな前提を必要とする。世界を前提によって、ピン留めしなくては、そもそも法則など求められない。 科学が用いている前提は多岐にわたる。一番基本的なのが、アリストテレスが唱えた、排中律(ある命題は真か偽のどちらかである)同一律(A=Bのとき同時にA≠Bということはありえない)だ。それから因果律(Aという現象とBという現象が連続して認識される場合、AをBの原因といい、BをAの結果と言う)も挙げられよう。他にも前提は無数にある。上記三つの前提は、科学のみならず、科学の土台となる論理学、数学、の土台ともなっている大前提の大前提だが、種々の科学法則は、それら前提の積み木の上に成立しているもし、それらの積み木が誤っていれば、当然、その法則自体間違いだということになる。 そこで例えば、熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)について考えてみると、一番上段の積み木は「閉じられた系に置いて」という前提がある。 科学法則は決して絶対などではない。もしそうならば、生命などというものが宇宙に存在する筈が無いからだ。だが、生命はある。どういうことかというと、生命が存在した場所は「閉じられた系」ではなく、「開かれた系」なのだ。プリゴジンは散逸理論を唱え、そのことを明らかにした。科学は前提が世界と一致する範囲においてのみ、有用なのだ。 さて、「いわゆる現実」という名の物語の正当性の根拠とされる科学の根拠とも呼べる、排中律、同一律、因果律の正当性はどこにあるのだろう?それらを正しいとする根拠は何処に有るのだろうか? ない。 A=Aが正しいと論理的に証明することは不可能だ。それはあらゆる論理の出発点なのだ。論理学はA=Aを真だということにして、論理を進めていくのである。それ自体を正しいとする根拠は何処にも無い。ではなぜそれを正しいとするのか?それは正しいとしたからである。 信仰とは「根拠が無いものをあると信じること」だとは述べた。これは、まさしく信仰に他ならない。科学も結局は信仰からスタートしているのだ。 因果律についてはどうか? ヒュームは、原因と結果は、時間的連続性をもって認識される、二つの現象に過ぎないと言った。つまり、Aという現象の次にBという現象が認識されたとしても、その二つを原因と結果という関係で結ぶのは、結局のところ「物語」だといった。再現性など役に立たない。例えX(Xは正の整数)回AとBが連続して認識されても、X+1回目がどうなるかは分からない。分かる、とするのは物語の行なう独断で、それを保証する論理的根拠はない。結局のところ、こないだもそうだったから、今度だってそうだ、ということなのだ。 量子力学という科学において、ハイゼンベルクは不確実性理論により、因果律を実験的に、否定してしまった。そこでは現象が原因と結果では結ぶことができない。 次に、言語や数式などの記号によって抽象化したもの、ということについて考えてみよう。これはただ、ゲーデル不完全理論を挙げれば、その欠陥は明らかになる。 つまり、あらゆる論理体系はその内部に証明不可能な前提やパラドックスを含んでいる、ということだ。 以上、見てきたように、科学はその内部に破綻(矛盾や証明不可能な前提)を含んでいる。 いかがでしょう。
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- thegenus
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No.4のお礼ありがとうございます。 (No.4のお礼) >『まあ、そう仰らずに、真正面から「科学」とは何かについて「考え」てみませんか?』 科学の定義の真正面とは科学的にどんな対象ですか。正確な定義というものがありますか?そんなものの正確さを求めるよりも科学とされているものを全部列挙した方が正確でしょう。定義が果たすべき効果を列挙に代えて終わりです。それが「正確な定義」です。 (No.4のお礼) >『「大統一場理論」の考察も「無意味」と言えば「無意味」になってしまいます。』 どういうご考察か知りえませんが、無意味でいいと思います。そもそも幽霊の無意味さや必要性とは違います。 誰よりも科学に完全性を求めながら、科学は絶対ではないと言い、完全でない科学は、破綻を含んでいる、科学の正確な定義を教えて下さい?と言われても科学の否定にしか聞こえないのです。 (質問文) >『霊現象は、先程の命題を偽とする有力な証拠にも成りうるのである。』 霊現象の実証性がないのに証拠になりえますか? 霊を正確に定義されて、実証性を、(不完全性を包含するとおっしゃる自然)言語でいいから示されて下さい。それが科学的手続きです。 不確定性原理も不完全性定理もその論理体系な中から起こっているのです。外圧ではないのです。霊現象の方は科学外なのです。 (No.4のお礼) >『何せ、「価値観」が「意味」を決定する、というのがどうやら、仰る論旨の前提になっているようだからです。』 意味とはそういうようなものじゃないのですか?意味の正確な定義を教えて下さい。なければ意味ないじゃん。 質問者さんは霊現象を肯定されてそういう物を含ませたいのですか。その他のオカルトや科学の矛盾を包含させたいのであれば、オカルトを科学で説明したり、新しい科学を作ったりして、まとめるべきであり、科学の定義を個人的に操作しても何も変わりません。 言うまでもなく、科学の定義の議論は、人文社会科学に閉じた言葉遊びなのです。日本海なのか東海なのか何が正確ですかと大差ありません(日本から見れば東ではないのですが)。日本海と呼ばれている海に関して自然科学的な研究をするのに自然科学的に関係しません。 (No.4のお礼) >『 「科学」には必要ないのだ、とも受け取れるような気がいたしました。果たしてそうでしょうか?』 そうです。必要性を証明して下さい。 (No.4のお礼) >『所で、「整合性」と「実証性」については、何処かで述べています。「再現性」「普遍的」という言葉を使っておりますが。』 整合性と実証性は、再現性と普遍性とは違うように思います。 後者は科学に完全性を求めらている証拠です。誰よりも科学に完全性を求めらているのでは永遠に有意義な科学の定義にたどり着けないでしょう。自然科学の定義の体系化は自然科学には必要ないという事実はそのままんです。 (No.4のお礼) >『要は「科学」の「定義」づけは「無意味」である、あるいは「どうとでも定義できる」と理解してよろしいでしょうか?では、「科学哲学」や歴代の「哲学者」たちは、いったい何を「考察」していたのでしょうか?』 そうです。そして哲学者は幽霊を考察してきたのです。 自然科学者がSF文学を楽しみ、語り、ヒントを得る事もあるでしょう。哲学は自然科学が存在するために必要なのではありません。あの観念的なアインシュタインも科学に関する哲学は哲学者にまかせるというような扱いをしています。科学者にとってどうでもいいことだからでしょう。 不確定性原理や不完全性定理はそれをもって他の論理を無効にする物ではありません。 生きる事と死ぬ事は仏教以外に同時に選べませんが、そう言う新しい排中律であると哲学するのが能力のある哲学者であると思います。哲学者は哲学能力が私よりもないのでしょう。 科学哲学は煮詰まっているのを感じませんか?あきるでしょう。科学の知らない事を勉強する方が先です。その方が世界が広がります。幽霊界よりも現実的に広い知識体系です。 探されている定義は霊現象を含む物を希望されていますか? これが今回、一番大事なところです。 それが分らないと自然科学は分らないと思います。 霊現象を自然現象として物質的に確認するのも必要ですが、科学の定義にこだわる質問者においては、その前に科学に含ませたい対象を正確に定義されなければなりません。して下さい。でないと幽霊の考察・質問です。 科学原理主義者以外、科学を絶対視していません。特に日本人には科学絶対論者は少ないと思います。
- masa2211
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>「科学とは、人間に、普遍的に認識された現象を、ある前提において抽象化したもの」 おそらくは、デカルトの「方法序説」を採用したものと思いますが、だいぶ改悪されています。 改悪後だと、たとえば性善説や性悪説といったもの(道徳や宗教)も科学になります。それでいいの?? 人間の行動原理は、明らかに、「人間に普遍的に認識された現象。」それを言葉で説明しているから、完全に定義を満たしています。 また、通常では非科学に分類されるもの(たとえば血液型性格判断)も科学になります。 血液型と性格は、「人間に普遍的に認識された現象。」だし、「ある前提」というのは、具体的には統計無視ですが、前提が正しい場合に限るという条件は付いていません。条件つけた場合、「間違った科学(天動説、定常宇宙論、その他間違っていることが判明し廃棄された仮説の全て)」も科学ではないことになります。 通常、「間違った科学」は科学に分類し、非科学は科学に分類しません。 というわけで、OWARI2012 さんの定義では、世間の通常認識と大きなズレがあります。 >科学者に、科学って何ですかと訊いても答えられませんでした。 この前提も甚だ怪しいです。たとえば、 カール・セーガンの「人はなぜエセ科学に騙されるのか」 マーティン ガードナー 「奇妙な論理」 アシモフの「科学エッセイシリーズ」 などに書かれています。そして、内容は大体共通。 ・未知のものを調べる際に使う方法のうち、正しい方法だと認識されているもの。 要するに、「方法」であるわけで、研究対象物には左右されないということ。 幽霊の研究だからといって科学でないと決め付けることはできないし、 物理法則の研究でも科学で無い場合もあります。 具体的には、 たとえば、相対性理論で、今知られているのとは別の式で説明する理論を立てたとして、 立てるまではいいんだけど、「その式ではすでに知られている○○という現象の結果が合わない」 と反論されたときに、その反論を無視したら、無視した時点で科学ではなくなってしまいます。 で、理論を立てる際に、「その理論が正しいか間違っているか検証する方法が無い」場合は 科学ではないとするのが通常。(反証可能性と言います) たとえば、神の定義をキリスト教での定義とすると、「神を試してはならない」ということに なっているから、検証する方法が無いという理由で科学ではないのです。 ですから、科学なのかそうでないのか見分けるには、「反証可能性」使えば大半OKですが、 グレーゾーンが残ります。グレーゾーンが残ることを称して、 「科学は方法論ではない」と批判もあるけど、あくまで、大半は「反証可能性」の一発でok。 重要な例外として、宇宙論における人間原理みたいに、原理的に反証できないものが 科学の中に混じっているので、「反証可能性」だけでは全面解決とはいかないけれど、 幽霊とかスプーン曲げとからなら、「反証可能性」だけで大半を刈り込めるでしょう。 ※たとえば、スプーン曲げの場合、トリックできない環境で曲げられるかどうか実験していれば 科学でありそうでなければ非科学とみなすということです。 >以上、見てきたように、科学はその内部に破綻(矛盾や証明不可能な前提)を含んでいる。 これ、考察として致命的です。前提に突っ込みどころ多数あるのはさておき、結論が正しいとして、だからどうしたらいいと考えているか書かれていません。こう結論付けた以上、科学を使ってはダメなのか、使うときは限界を意識すべき、という意味かどちらかなんだろうけど。 で、内部破綻とは、不完全定理由来の言っているわけですね?それを持ち出していいなら、全ての学問が内部破綻しているといっていることになります。 たとえばコンピュータですが、 不完全定理による破綻とは、 ・メモリー無限大、処理速度無限大のコンピュータを使った場合でも計算できないものが少なくとも 1つ存在する。 現在で計算できないものは腐るほど存在。どうでもいいことじゃないか。 科学に置き換えると、 内部破綻とは 宇宙全体をシミュレーションをするとき、それは正確ではない。なぜなら、 宇宙の物質の一部の物質を使っているから、シミュレーションするという行為自体で 結果が変わり、そのことが反映できない。 ※不完全定理は、この手(=自己参照)の問題が必ず存在する、という定理です。 これも、どうでもいい問題にすぎないと思うが。 ゆえに、重大問題をほっておいてどうでもいい細かいところだけ議論しているとしか思えません。
お礼
仰る通りかも知れませんね。けれども、何度も言うように、ここで問題にされているのは、わたくしが、俎上に載せた「科学」の「定義」について、何処をどうすれば、「科学」とは何かを正確に「定義」できるのかであって、批判はありがたいのですが、批判とともに「科学」を「定義」づけしてい頂きたいと言うことです。重ね重ね、ご批判はありがたいと思いますが、まったく「科学」を「定義」することについては触れられていないのは残念です。申し訳ありませんけれど、では、「科学」とはなにかを正確に「定義」してみたものを、ここにUPして頂けますでしょうか?その上でわたくしの「定義」と「比較し」検討することで「科学」とはなんぞやという疑問に対しての回答を得たいと思います。どうかよろしくお願いいたします。 どうでも良いことかも知れませんけれど、それを言ったら、全て宇宙に存在するであろう「事象」はみな、どうでも良くなってしまいます。いかがでしょうか。個人的な価値観をできるだけ排除して正面から「科学」の「定義」付けを、して頂けませんでしょうか? よろしくお願い申し上げます。 加えるに、いただいた回答の中に「科学でありそうでなければ非科学と見なす」というお言葉が「無自覚に」使われておりますけれども、ここで「問題」にされているのは、まさにその「科学」とは何かということなのです。おわかり頂けるでしょうか? いずれにせよ、わたくしの質問に対して、真摯にお答え頂いたことには、感謝いたします。
補足
今までお付き合いいただいた、皆様方には感謝いたします。 しつこいようですが、ここで、整理しておきましょう。 質問を簡潔に言えば 「科学」とは何か? です。つまりは「科学」の「定義」づけです。それが分からずにいったい「科学」は何をどうしたら「科学」と呼べるのか分かりません。 例えば「これは科学的だ」とか「これは科学的ではない」と良く見聞きいたしますけれど、肝心な「では、科学的とは何か」もわからず、何故、そのようなことが断言できるのか、全く分かりません。そういうことです。 「正しい科学」も同じです。はっきり言ってそういうときの「科学」はただのイメージでしかありませんよね。「科学」が何かも分からず、何故「正しい」か「正しくないか」が分かるのか、全く分かりません。 ご批判は沢山あると思いますが、なにが「科学」かについては、はっきりとした答えを受けていない気がいたします。 できれば、ご批判とともに「ここは、こうではく、こう言うべきだ」という回答を求めております。 わたくしの「科学の定義」はあくまで、出発点です。それを土台に、話を進めようと言うことです。「科学」って何だ?と言う疑問に、ある程度の「定義」づけをしたいというか、しないといけないと思うからです。 と言うことで、よろしくお願い申し上げます。
- thegenus
- ベストアンサー率49% (330/673)
質問文では、項目を実に見事に並べられましたね。 >『いかがでしょう。』 そんなことよりも、お悩みは、幽霊を科学的な存在にしたいという事ですか?目的がないのであれば言葉遊びです。 >『「科学とは、人間に、普遍的に認識された現象を、ある前提において、言語や数式などの記号によって抽象化したもの」です。』 まず出発点が大穴でしょう。 それは科学ではなく抽象化記録作業ですよ。 整合性や実証性が無視されています。 陳腐ですが、反証可能性やパラダイムシフトという考え方がありますね。どちらも科学の整合性を問題にしています。 学問が対象を言語によって抽象化するのは当り前ですから、質問者さんの定義は「科学とは現象を記録・表現したもの」と短くできます。 それは科学ではありませんよね。 その定義に従えば抽象的な概念である幽霊がもはや科学になっています。そんな科学は科学としての価値を持ちません。ただの概念の集合です。 幽霊という超自然現象を自然現象として認めて同じ事です。体系的な説明が要るのです。互いに矛盾なく支え合った知識の中に存在しているから科学的存在なのです。 色が同じ色に見えているかどうかというお話で普遍性の反例を挙げられているのですよね。科学的に、同じ色に見えていると言っている人も多いかもしれませんが、私は科学は同じ色に見えているとは言っていないと思います。ある波長の光に対して反応したかどうかだけが科学なのです。同じ色とか言っている人を基準にされない方がいいと思います。色は各自の頭の中にある観念的存在ですからね。輪郭線と同じです。 そもそもはっきりしない定義を議論しても始まりません。定義をもてあそぶのは人文社会科学の詭弁です。 ある法則に運用するにあたっては定義があります。しかしそれら法則をあつめた知識の集合名の定義はどうでもいいのです。たとえば物理という科学名は、理学でも究理でもナスでもいいのです。さらにその定義を議論をするのは物理科学とは無関係の非科学的な人文社会科学の詭弁なのです。すり替えで科学と認定するのに成功しても言葉の中だけ絵空科学的存在であり、実際には何の意味もありません。 極論すれば科学とは言葉であると定義すれば幽霊は科学です。この作業は無意味です。そういううまい定義を探されているだけなのですよ。なんなら幽霊は科学的存在であると定義してもいいのです。矛盾も何もありません。他の自然科学も何ら困りません。ナスでもいいからです。 現在、自然科学と呼ばれている学問の内容によって、幽霊に整合性があるかどうかを検討して、整合性があるとなれば、幽霊は自然科学的存在です。 その判定をする自然科学の定義から整合性を除外したらどのみち自然科学にはなりません。どうしても自然科学の仲間入りをしたいのであれば、幽霊と既存の自然科学を一つの科学にまとめられる新しい科学を用意しなければなりません。それは幽霊を科学にしたい人の仕事です。課題は定義探しではないのです。
お礼
お答え頂ありがとうございました、要は「科学」の「定義」づけは「無意味」である、あるいは「どうとでも定義できる」と理解してよろしいでしょうか?では、「科学哲学」や歴代の「哲学者」たちは、いったい何を「考察」していたのでしょうか? 「意味」が「在る」か「ない」かは、「主観」によりませんか? 結局の所、「それを言っちゃおしまいよ」という感想をいただきました。まあ、そう仰らずに、真正面から「科学」とは何かについて「考え」てみませんか? たとえば、仰ることを僕なりに解釈させて頂きますと「大統一場理論」の考察も「無意味」と言えば「無意味」になってしまいます。 何せ、「価値観」が「意味」を決定する、というのがどうやら、仰る論旨の前提になっているようだからです。 所で、「整合性」と「実証性」については、何処かで述べています。「再現性」「普遍的」という言葉を使っておりますが。 あまり、引用はしないよう気を付けていたのですけれど、わたくしが言いたいことは「ポパー」に対する「ファィヤーアーベント」の 批判に似ているかと思います。「反証可能性」については。しかしながら、よくよく拝読させていただいた所、要は「科学哲学」など 「科学」には必要ないのだ、とも受け取れるような気がいたしました。果たしてそうでしょうか? これは素朴な疑問です。いずれにせよ、お付き合いいただいて感謝いたします。ありがとう御座いました。
NO.1 です。 仰る「科学の定義」の「不備?」について書いたつもりなのですが、ちょっとはしょりすぎたのかもしれません。 >普遍的に認識された現象を抽象化したもの とは 言語で確定された既知の諸現象、つまり現時点における確定された科学の成果 という意味のように思えます。それで、疑問点としてあげたのは、まだ普遍的に認識されておらず、したがってまだ言語で確定されていない諸現象に対する解明へ向かっての努力作業は「科学」には入らないのかどうか、ということです。 ちなみにその一例として、幽霊や超能力などの「現象」を解明しようという動きを上げてみたのですが、私見として、私はそういった研究も「科学的態度」であたるならば科学に加えてもいいのではないかと思うものですがどうでしょうか。
お礼
わかりやすく、書いて頂き感謝しております。ありがとうございます。 「普遍的」の意味は二つ込めました。そこを分けないといけなかったのかも知れませんね。 まず、一つ目の意味。 認識する側の問題です。 つまり、在る事象を、すべての認識者に観測されうること。 二つ目の意味。上記と同じ事象が全ての時空間において観測されうること。 「普遍的」とはその二つを意味しています。 それから、「認識」は全ての観察者が「認識」できるもの、という意味です。 僕は見えたけど、僕は見えなかった、という現象について科学は扱わない、 という意味です。 「現象を抽象化したもの」とは、何でも良いですけれど、在る事象が起きた として、上記の問題をクリアしている場合においてのみ、「科学」はその事象 を扱う事ができるという意味です。「抽象化」とは、要するに方程式などの数学に置き換えられうる ということです。 一寸、議論がかみ合っていないようですね。多分僕の無知から来ていることは分かるのですが……。 つまりは「言語」についての解釈問題が、含まれているということは、分かりました。 ああ、多分「抽象化」の意味として、僕は数学しか考えていませんでした。 「抽象化」イコール「言語化」と捕らえれば分かりますが、会っていますでしょうか? エウリカ! 僕が言いたかったことは、認識が普遍的でもない。または、普遍的に認識されたしても、 言語化(抽象化)できないものは科学は扱えないということだと思います。 要は「再現性」がないし、「普遍的に認識」もできない、さらに、その事象を言語化(抽象化) できない、事象は科学の手には負えない、ということだと思います。 仰るところの、科学的に、努力作業をすること事態が、できない現象が、存在する可能性を、否定することはできない ということです。 僕が提案させて頂いた科学の定義では、幽霊やスプーン曲げといった事象を科学は扱えないと言うことになります。 なぜなら、幽霊を観ることに「普遍性」はないし「再現性」もない。スプーン曲げも同じくです。 そういった現象にどうしたら、「科学」がアプローチできるのかを、考えています。逆に僕の提案した定義をどう変えたら 科学は、幽霊といった事象を扱えるのかも考えないといけないですね。 ところで、ここで確認しておきたいことは、その「科学的態度」とはなんぞや、という疑問こそが問われているということです。 つまり「科学(的態度)」の定義づけをしてみたかったのです。で、しました。それをここにUPしました。で、その定義は正しい のかどうかの検証を皆様方に、お願いしたかったということです。 長くりましたが、お付き合いいただきまして、ありがとう御座います。何か良い案がお浮かびで在れば、ご意見を拝聴させてくださ い。わたくしとしては「科学」の定義づけ、をしたいのです。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
量子論(不確定性原理)が否定したのは、因果律ではなく 決定論です。 「因果律の否定」とは原因と結果(=因果関係)が不明確に なるという事であり、それはたとえば物理でいえば、自由に 光速を超える事によって起きるが、実際には、量子性その ものが光量子として、光速不変性を代表しています。 その「量子」を単位とし、クォーク>素粒子>原子>分子> 細胞>個体(脳=心)といった階層現象性(単位の相互作用 において安定した反応が上位階層の単位となる)において、 経験の蓄積による現象表面的定性化で、原理的な確定化 (=無限不確定化)を経ずに、有限的存在性を派生させて いるのです。 日常的感覚の延長(有限的存在性の先入化)において、 「不確定性によって矛盾している」というのは、主客転倒です。 矛盾(いい加減な認識による(有りもしない)表面的な捉え方) こそが存在性の源泉です。 対象を先入化する事が間違いの元なのです。 全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づき、 無限に詰めると存在確率の山が平らになり、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、 認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は 光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。 量子論的世界像では、有限な存在性は観測によって生じています。 不確定性原理の相補的不確定性を、確定化して無限不確定性に 発散させないよう、階層現象表面(仮象)的に“いい加減”に捉える 事で、有限的な存在性(宇宙)は派生している、ていう。 自我仮説と時空仮説の相補分化‥‥全ては、あなたが存在する ための(物理的根源にまで遡った)補完なのです。 相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対によって しか存在性は無い、という帰結を潜在的に持っています。 絶対的時空や客観的存在というのはない、というものであり、 認識性(相対)を除外した存在は、無=無限不確定性になります。 我々は「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」ので、 「存在するのは現在」と考えますが、真の『現在』とは、認識体の 感受表面での量子相互作用(光速)のみであり、その経験(過去 =超光速)による予測(未来=光速下)として時空的広がりは発生 しているのです(無の不確定性無限の潜在としての、「自我仮説 性」の相補としての「時空仮説性」)。 「自我仮説」が、宇宙膨張=光速の低下=物体収縮=不確定性(h) の収束におけるhの減少の時系列化である時、それが架空の 時間軸となって、空間的確定性としての無限不確定的空間性が、 超光速(過去=経験=時間)と光速下(未来=予測=空間)に相補分化 する受け皿となり、同一軸の延長が仮説的に直交基底をなす事で 相補的不確定性を生じ、経験による予測=現象表面的定性化に おける有限的存在(=非光速)を幻出しているのです。 その仮説的時空軸は(相対性理論において時間項がマイナス ゆえに)等距離点に「ライトコーン」と呼ばれる、0の界面を生じます。 なぜライトコーンかというと、それこそが光の描く軌跡だからです。 「何か有るんじゃ?」という疑問(自我仮説)の相補として生じた 時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という無の射影と して、存在は生じていると言えます。 換言すれば、無いとは分からない事が有なのです。 その、「我々の感受における存在性がいかに虚妄か=単位と 相互作用のくり返しによる階層現象性への還元の果ての無 への回帰」こそ科学の本質である。
補足
長文のコメントに貴重なお時間を割いて頂き、感謝いたします。 ただ、わたくしが、「科学」の定義した、そもそもの疑問である「科学とはなにか」 に対しては、全く触れられていないのが残念です。それから。わたくしが仮説として 定義づけした「科学」についてにも、触れられていません。 いずれにしても、教えて頂いたことは、大変勉強になりました。 ありがとうございます。
>「科学とは、人間に、普遍的に認識された現象を、ある前提において、言語や数式などの記号によって抽象化したもの」 化石科学ですね。 現在進行形の努力アイテムは似非科学? あげあしとりかもですが、 1例として超心理学は科学かどうかという問題提起が可能です。 終わりのほうの論文は私には理解不能なのです(汗;)が、そのあたりで解決されているのならいらぬことを言いました。
お礼
コメントありがとうございます。 大変、思慮深い、お答えありがとうございます。感銘いたしました。 昼間、空で光っている、あの丸い光は(どういう仕組みで)何故光っているんだ? という問いに対して「あれは太陽だ」と答えるのと同じだということですね。たとえていえば。 よく分かります。 ヒトは習性として、自分に理解出来ないものに対しては、レッテルを貼り、自己 が構築した世界観が崩れないようにします。そうすることで自己の世界観 を守ります。何故そういう行動に走るのかというと、ほとんどのヒトは、質問が、あくまでただの言葉だということを忘れ、自己存在の肯 定(劣等感の克服、や、自尊心を保ち続けること)と、世界観を結びついているからです。 また、たとえ話をしましょう。とある小学校のクラスにひとりだけ変な奴がいたとします。クラスメイトたちは 彼が理解出来ません。最後に彼らはいいます「あいつ変人なんだよ」と。これが、「レッテル張り」です。 上記の説に乗っ取った回答が、「化石科学」だと理解いたしました。ありがとうございます。 「現在進行形の努力アイテムは似非科学?」 の意味が全く分かりません。申し訳ありませんでした。 そもそもここでは、上記のお答えに組み込まれている「科学」についての考察をしています。 つまり科学とは何かと問われているということです。似非かどうかは問題外かと。 それから、「超心理学」とは何か定義してください。でないと、会話が成立しませんので。 繰り返しになりますが、「科学かどうか」を問うているのではなく、「科学とは何か」と問われているということです。 いずれにしても、楽しい時間が過ごせました。ありがとうございます。
補足
質問は「科学」の定義づけをしたので、その理論に穴はないかと、いうことです。そこをしっかり押さえて、御批評願います。 まず、引用して頂けるとありがたいです。定義の何処かを。そうして引用した部分が、これこれこういうわけでおかしい、といった形で 回答して頂けると助かります。 ありがとうございました。よろしくお願いいたします。
お礼
長文の批評ありがとうございます。しかし、私の質問について、ご理解頂いているとは思えませんので、こちらからお答えする代わり に、伺わせてください。長くなるので一つ一つ質問させていただきますね。長いと、混乱を招きますから。 「科学」の定義の真正面とは「科学的」に……(引用)「」はわたくしのつけたものです。 の「科学」とは何ですか?「科学的」と「科学」は違うものなのですか? つまりは、そこを、はっきりさせたいのです。
補足
ただの価値判断に話しがすり替わってしまったので、これでこの話を終えます、 わたくしの力量不足で、真意が伝わらなかったことをお詫びして、 これで終わりにいたします。 ありがとうございました。