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純粋理性批判(Q2)の紹介
- 純粋理性批判(Q2)を読み始めました。
- 純粋な認識とは何かについて解説されています。
- 疑問が生じたので、誤解を解いてほしいとのことです。
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質問者が選んだベストアンサー
No2です。 上は純粋でアプリオな「認識」の例 下は純粋でアプリオな「判断」の例 なぜ下が純粋でアプリオな判断なのか。 それは原因という言葉自体が、「この世は因果律である」ということを言っているので、経験からくる判断ではなく、原因という言葉の意味から生まれる判断であるため、純粋でアプリオな判断なのである。 しかしこの命題を認識するには、現実がそうであるということを「経験」しなくてはならない。 だから純粋でアプリオな命題ではない。 どうもわかりづらいですね。
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- lu-mu-
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>「経験的なものがまったく混ざっていない認識を、純粋な認識と呼ぶことにしよう」 >という記述があるので、経験は認識の必須条件とはされていないのではないか、と思うから >です ええ、その通りです。経験は必ずしも必要ではありません。 今扱っているのは「すべての変化にはその原因がある」という命題です。 この命題に限って言えば、この事実を認識するためは変化という経験が必要です。 >【経験なしに、論理的に答えのわかる】『アプリオリで純粋な判断』とどのように違うの >かがわかりません。 例えば、物体は広がりを持つ、空間が存在する、自分が存在する、ということは純粋でアプリオリな命題ですが、これらの認識は動物ならほとんどすべての生物が持っています。 なぜなら、その認識がないと生きられないからです。 空間が存在することを認識しなければ、あの場所に移動しようなどということは意思しません。物体に広がりを持つことを認識しなければ、首に噛み付こうとは思いませんし、できません。もし広がりがないならただの点ですから首も何もないです。 しかし、その認識されたことを「意識する」ということは、人間以外行うことはないでしょう。 認識と認識されたことを意識するというのは別です。 では判断はどうでしょうか。 判断は、ある命題を意識する必要があります。 それから、これが真であるか偽であるかを検証します。 それが判断です。犬猫ハムスターにはできません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 辛抱強くお相手していただき感謝しております。 どうも、言葉の定義があやふやなままに質問しているものですから、色々とご迷惑をおかけしていることと思います。 私が何か(どこか)で勘違いしているのはほぼ間違いないと思われるのですが、どの部分を勘違いしているのかがよくわからない、ということなんです。 たとえば、005と007を合わせると、次のように言っていることになると私は思うわけです。 『「すべての変化にはその原因がある」という命題はアプリオリな命題であるが、純粋な命題ではない。変化という概念は、経験からしか引き出せないものだからである。』 とはいえ、 『原因という概念には、原因が結果と結びつく必然性という概念と、この[因果律という]規則が厳密に普遍的なものであるという概念が明らかに含まれている』 であるから、この命題は、純粋でアプリオリな認識ではないが、純粋でアプリオリな判断である、ということが言える。 う~む、果たしてこれで良いのだろうか・・・(-_-;)。 「純粋でアプリオリ」というのは「経験を介さずに、しかも(または、それゆえに)普遍的必然的」という意味だと今のところ理解しているので、005と007の文は、 「【この命題は、】経験を必要とする認識ではあるが、そのように判断することには経験を必要としない」 ということに(私の理解では)なってしまい、これが疑問の要点ですね、たぶん。 ほんと理解力(というか、むしろ今回の場合は読解力になるでしょうかね)がなくて困ったものです。 ちょっと関連質問も立ててみました。
補足
おっしゃっていただいたことがやっと理解できました。(と思います) #4で明快な回答があったにも拘わらず理解できなかったのです。 これに懲りずに今後ともよろしくお願いいたします。 本当にありがとうございました。
- lu-mu-
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認識とは何か、ある事実を「知る」こと。アプリオリで純粋な命題とは、判断をする前に、そして経験する前に、それが真または偽であると知ることのできる命題のこと。 判断とは何か、ある命題の真偽を「確かめる」こと。アプリオリで純粋な判断とは経験なしに、論理的に答えのわかる判断のこと。 前のレスは全部アプリオでコピペしてましたねorz
お礼
ご回答ありがとうございます。 #4の内容でよくわからなかったのは、 >しかしこの命題を認識するには、現実がそうであるということを「経験」しなくてはならない。 :という部分でした。本文に、 「経験的なものがまったく混ざっていない認識を、純粋な認識と呼ぶことにしよう」 という記述があるので、経験は認識の必須条件とはされていないのではないか、と思うからです。 >アプリオリで純粋な命題とは、判断をする前に、そして経験する前に、それが真または偽であると知ることのできる命題のこと。 :これは一応わかるような気がします。 「物体は広がり(延長)を持つ」といったような命題ですね。 今回のご回答によると、 『アプリオリで純粋な認識』というのは、【経験なしに、ある事実を「知る」こと】 となりますね。 これが、 【経験なしに、論理的に答えのわかる】『アプリオリで純粋な判断』とどのように違うのかがわかりません。 本論にも出てくる「物体は広がり(延長)を持つ」という純粋でアプリオリな命題に照らして考えてみたのですが、 認識という言葉を使えば、 『「物体は広がり(延長)を持つ」という事実を経験なしに知ることが、アプリオリで純粋な認識である』 判断という言葉を使えば、 『「物体は広がり(延長)を持つ」という答えは、経験なしに論理的に答えのわかるアプリオリで純粋な判断である』 となり、どちらも(認識という言葉を使っても、判断という言葉を使っても)同じようなことを言っていると考えることができるように思います。 拙質問に対するご回答としての『「認識」と「判断」という言葉の意味の違いではないか』とおっしゃった(と解釈しましたが)内容についてのご説明だと思いますが、上記のような理由で、もうひとつよくわかりません。 判断と認識という言葉に関しての明確な定義を私が理解していないだけなのでしょうか。 それとも、何か他に根拠があるのでしょうか。 未だによくわかりません。 わからないながらも、そのうち何とかなるだろう~!という調子で読み進めてはいるのですが、足元が覚束ない様子に残念ながら変化は無いようです。
no1の続きです。いや~すみません相当分かりにくい表現だったと自分でも思います。 まずno1の補足に答えたいと思います。 >純粋判断とは、経験に基づかなくても可能な判断だと思うのですが、その意味で、 >厳密な意味で普遍的である『判断』」が純粋であり経験していくうちに発生した必然性と因果律なので「純粋でアプリオリな判断」となる :というご説明はよくわかりませんでした。> まず純粋な判断というのは数学的物理的事象のことです。例えば目の前にある物質Aがあったとします。この物質が手で転がしたりなんかしてB的な変化を引き起こしたとします。ここで目の前にある物質そのものを認識からかき消す事は出来ませんよね?例えば私が目の前にある任天堂DSを「消えてなくなれ!」と唱えても消えません。そして仮にDSを転がして壊したとした場合その変化を自らの意思で変えることは出来ません。そういう意味で純粋なのではないかという意味です。そこで任天堂DSを手で転がせば変化が起こるという認識そのものはアプリオリな判断ということになるので黒崎氏はその両者をなんとなく「純粋でアプリオリな判断」と言ったのではないかと推測します。 >>(A)は命題そのものをいっているのに対して(B)はその命題の判断形式をいっている :『こうした実例を探すとすれば、「すべての変化には原因がある」という命題を示すことができよう。』と表現されているので、命題そのものについての記述ではないかと思うのですが。> なので命題そのものなんだけど(A)はアプリオリな認識であって(B)は因果関係を示しているのではないかなと思うわけです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 まだ、回答者さんのご説明を理解できるだけの下地が整っていないようです。 因みに今回揚げたのはカント自身の言葉(むろん訳ですが)です。
- lu-mu-
- ベストアンサー率15% (8/52)
その。~~~。の部分が省略されてるから矛盾しているように見えるだけでは?
お礼
ご回答ありがとうございます。 改めて省略部を補足欄に掲載しましたので、よろしければご見解をお聞かせください。
補足
Bを省略しないで書くと、次のようになります。 【】内が省略部です。 『人間の経験のうちには、このように必然的で、厳密な意味で普遍的である判断、すなわち純粋でアプリオリな判断が実際に存在することを示すのは、たやすいことだ。【自然科学からその実例を引き出すとすれば、数学のすべての命題がその好例となる。】日常的な知性の利用のうちに、こうした実例を探すとすれば、「すべての変化には原因がある」という命題を示すことができよう。この命題で使われている原因という概念には、原因が結果と結びつく必然性という概念と、この[因果律という]規則が厳密に普遍的なものであるという概念が明らかに含まれているのである。』
これは難しいね。回答がつきそうにないので答えますが、自信が薄いのですが(A)は「アプリオリな認識のうちでも、経験的なものがまったく混ざっていない認識を、純粋な認識」と書いてあるので・純粋な認識+非純粋な認識=アプリオリな認識・となります。ここで純粋というのはなにか?ということになりますがおそらく因果関係とか思考とかだと考えます。例えばカロリーを気にする人がダイエット計画するとした場合「カロリー」「ダイエット」というのはアプリオリな認識になりますが「『カロリー』を減らして『ダイエット』する」という因果関係の認識そのものは純粋な認識であるとするのだと思いますが(A)の場合だと非純粋な認識(『』の部分)が含まれるのでアプリオリな命題。で(B)は『判断』なのでここで使う純粋は「必然的で、厳密な意味で普遍的である『判断』」が純粋であり経験していくうちに発生した必然性と因果律なので「純粋でアプリオリな判断」となるのだと思います。ここで(A)は命題そのものをいっているのに対して(B)はその命題の判断形式をいっているのだと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 純粋判断とは、経験に基づかなくても可能な判断だと思うのですが、その意味で、 >厳密な意味で普遍的である『判断』」が純粋であり経験していくうちに発生した必然性と因果律なので「純粋でアプリオリな判断」となる :というご説明はよくわかりませんでした。 >(A)は命題そのものをいっているのに対して(B)はその命題の判断形式をいっている :『こうした実例を探すとすれば、「すべての変化には原因がある」という命題を示すことができよう。』と表現されているので、命題そのものについての記述ではないかと思うのですが。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ひとつの同じ命題に関して、 判断は純粋でアプリオリであっても、認識は純粋でアプリオリであるとは限らない、ということでしょうか。 >どうもわかりづらいですね。 :素直に、はい と申しておきます。 何かお気づきになりましたら、またお願いいたします。