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純粋理性批判の構成について
こんにちは。純粋理性批判について質問があります。 純粋理性批判全体を通じて問われていることは「いかにしてアプリオリな総合判断は可能か」であると言われていますが、これは批判全てを読み終わって初めて証明可能となるのでしょうか? それとも、批判の途中で既に証明はされていて、その後は補足や付けたしといった形になるのでしょうか? といいますのも、現在超越論的弁証論を読んでいるのですが、感性論や論理学に比べると(それでもまだ難しかったものの)これは全く理解ができません。 この弁証論の(そして弁証論以後の批判の)、先の問いに対する立ち位置はいかなるものなのでしょうか? ここを読み解かない限り、あの問いへの答えへは全くたどり着けないのでしょうか? 感性論においてすら、ある種限定的であれ、総合判断の可能性への道は開けたのではなかったのでしょうか? どなたかアドバイスをいただけませんか? 今読んでいる箇所が、本全体の中でいったいどのような位置づけであるのかを知りたいのです。 よろしくお願いします。
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- kurinal
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こんばんは。 「理性」とは、「イチ「宗教」の(設定する?)善悪」(を知る、か・・・)でしょうから、 「理性的な判断」と、「合理的」とは、違うわけです。 (といえ、「「合理的」のほうが酷い、非倫理的!」というのも、的外れかと) 以上について、は、(日本国)憲法の教科書を一読されるのが、まずはオススメかと。
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
ご自身を哲学的批判にさらし続けて、自分自身に近づくことで 立ち位置もカントが言いたいことも分かると思います。 純粋理性批判は、あるがままの説明とそこからの展開です。 哲学的批判にさらし、自己矛盾を解消していき 自己統一性に近づけば近づくほど、理解できると思います。 超越論的弁証論は、自己統一からの適性概念が ある程度確立しないと、読み手が受け取れないので 「そう言うものがあるらしいよ」 「へ~~~」 で終わるだろうと思います。 理性と感情が統一され、知識が最適に活用できれば 三大批判は身に付いています。 知識と思考だけで、本当に理解できるものではないと思います。