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純粋理性批判(Q4)
- 「物体は広がり(延長)を持つ」は、分析的な判断によるアプリオリな認識。
- 1のような「分析的な判断によるアプリオリな認識」のみを純粋認識と呼ぶ。
- 「物体には重さがある」は、総合的判断によるアプリオリな認識。
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質問者が選んだベストアンサー
悩ましい質問が続いていますね。 こうした複雑かつ難解な問題点を、ど素人どうして論議しても、何の成果も生まれないのですが、実は、かって私も同じような悩みを抱えたことがありますので、お役に立たぬことを承知で、少々書かせていただきます。 当然、ご質問の本筋からは、かけ離れてしまうことを、お許し下さい。 まず、一連の関連質問に関しては、言葉の微妙な問題にかかわらずに、一先ず読んでしまうこと、と言った、アドバイスがあると思います。私も、そのようなアドバイスに従って、二冊の本を各々三回読みましたね。両方で都合半年以上、一年と言っても大差ない時間がかかっています。ただ、その後は、このような読書方法では、人生短すぎるわけで、主として解からないところだけを読み返し、それでもダメなら、書く、と言う方法を使っています。 書くと、読んでいるときとは少し違って、意外に判ったり、別の問題点が見つかったりしますから、お奨めです。 ただ、これは相手によりますよね、これから「カント哲学」を極めたいと言う人には、ナンセンスです、辛うじて、私の様に、カントさんは何を言っているのだろうといった、一寸した興味から読む人に対して有効なのでしょう。ご質問者様には、どうでしょうか。 さて、これだけでは、あまりにも回答者本位のお節介ですね、少しは質問文に敬意を払って何度も読み返さなければならないでしょう、一連の質問を読み返してみると、認識・判断・命題と言った単語にどうも拘りすぎるように感じました。 わたしの勝手な解釈ですが、カントさんの哲学では、認識・判断・命題の中で、命題はほとんど意味を持っていないと思います、つまり、認識も認識命題も殆んど同じことです、と思います。但し、認識と判断は明確に区別していると、理解しています。 そのためには、GBさんが以前の質問の最初に仰っていた、数学・物理学と言った学問の客観性といった問題意識を基礎におかないと、判りにくいと思います。 この質問が悩ましいと、口癖のように申し上げますが、実は、カントの、感性・悟性・理性と言った構造が、現在の脳物理学や分子生物学の最新の知見からすると、時代の限界と言うものを考えざるをえないのです。例えば、ベルクソンが言うように、「カントの誤りは、感性から悟性への道である」だったり、そもそも、悟性は、何処にあるの、脳の中には、神経細胞のモジュールだったかコラムだったか、或いはまた、神経細胞の構造は、サイクル(トートロジー)の構造があったりして、カントのいうような、実際には複雑ですがカントのいうような構造かどうかは、悩ましいところです。 つまり、学問の客観性とともに、感性・悟性・理性の構造を基礎に置いていますから、感性における認識と、悟性における判断(カテゴリー判断)、たぶん先の話でしょうが、理性における推論は厳密に区別する必要が、カントの場合、そうしないと、論理的に不都合なのだと思います。 ですから、 1.「物体は広がり(延長)を持つ」は、分析的な判断によるアプリオリな認識。 これを論理的に解釈すると、述語が、「判断による認識」となります。 カントの文脈では、どうなるのでしょうか、難しいですね。 「すべての変化には原因がある」という命題の解釈は上のどれに該当するでしょうか。 これについては、当該箇所を、読んでください。 手元に、岩波版が有りますが、おそらく、解釈ではないと思います。 兎にも角にも、頑張って、読み通してください。 確かに、もうすぐ難関がありますが、その先に、やっぱりカントはすごい、ていうのがあります。わたしの偏見かもしれませんが。では、頑張ってください。
お礼
ご回答ありがとうございます。 悩ましい質問、というか、子供電話相談的状況になっている(というぐらいの自覚はあります)ようで、回答者の方々には呆れられたり、諦められたりしております。 一旦わかったつもりになったことが実はよくわかっていないことだったりということに後で気づいたりして、もう大変ですが、それもまた哲学することの楽しさではないかと他の方々へのご迷惑も顧みず勝手に思っているところです。 gbさんもfishbowl66さんと同じようなことをおっしゃっておられましたね。 たしかに、地図を見ているだけではなく実地に歩き始めなければ、その地域を理解することは難しい、ということはあるでしょう。 しかし、私の場合は、地図記号の意味さえわからないという状況なので、これを一応理解しておかないと、行き止まりの道へ向かって進んだり、水飲み場だと思って原子力発電所を目指してしまうのではないか、という懸念が払拭できません。 とはいえ、走り続ける(ゴールが予測できないとはいえ)マラソンランナーであらざるを得ず、給水所の出現は有難いものです。 >書くと、読んでいるときとは少し違って、意外に判ったり、別の問題点が見つかったりしますから、お奨めです。 :そうかもしれませんね。参考になりました。 >カントさんは何を言っているのだろうといった、一寸した興味 :が、まさにきっかけです。 哲学的思考と、従来から興味を持っている考え(思想)との融合を図ってみたいという(意気込みだけは壮大な)思惑があります。 カントさんの言いたいことがある程度理解できたら、また他へ進みたいという心積りがありまして、浅く広くという指向に(おそらく)ならざるを得ないわけですが、カント信奉者の方には不興を買うこともあるかもしれません。 しかし、【可能な範囲で】なるべく忠実に理解する必要はあると思っています。 私の場合は、文字通り、年寄りの冷や水とお考えいただいて間違いないでしょう。 >つまり、認識も認識命題も殆んど同じことです、と思います。但し、認識と判断は明確に区別していると、理解しています。 :明確なご回答をありがとうございます。 >実は、カントの、感性・悟性・理性と言った構造が、現在の脳物理学や分子生物学の最新の知見からすると、時代の限界と言うものを考えざるをえないのです。 :こういったご見解を伺うとわくわくしますね。 非常に口幅ったいのですが、まさにおっしゃるとおりと思います。 ただ、(カントに限らず哲学の)限界かどうかを検証していきたいという思いもあり、そのためには脳の仕組みも勉強せねばならず楽しみです。 余談ですが、脳をはじめとして化学反応や物理的原理によって人間も宇宙も動いているというのが当面の私(だけのということでは無論あるはずもありませんが)の予測なのですが、しかし、それにしても、動く仕組みはわかっても、その仕組みがなぜ発動されるのか、という点に関してはまだ哲学の出番はあるような気もしています いずれご見解を伺えるだけの下地を作れるように精進してみたいと思います。 >感性における認識と、悟性における判断(カテゴリー判断)、たぶん先の話でしょうが、理性における推論は厳密に区別する必要が :ある、 ということですね。 悟性に関してはまだあちこち食い散らかしている段階ですが、かのGBさんもおっしゃっていたように、これに関する統覚の問題を早く皿に乗せてみたいと思っているのですが、何しろテーブルマナーを覚えないと着席もできないだろうな、というのが現在の心境ではあります。 光文社の中山元訳で読み始めていますが、古典文学とミステリーを合わせたような、格調高く興味尽きない、というのが今のところの印象です。 確かに非常に難しいのですが、次のページをめくるのが楽しみ、といった感じでしょうか。 「感じ」だけに終わらないように、ボチボチ読み継いでいきたいと思います。
補足
ついでと言っては大変失礼ですが、 >脳物理学や分子生物学 :分野でお勧めの書籍がございましたら教えていただけないでしょうか。 私は立花隆の「脳を鍛える」や、池谷裕二の「進化しすぎた脳」と「脳は眠れない」、他では「マンガ脳科学入門」ぐらいしか読んだことがないので。