感性vs理性:どちらが優れているのか?

このQ&Aのポイント
  • 感性は理性よりも重要であると考えられます。理性は論理的思考と推論能力を指し、感性は身体の五感が知覚する能力を表します。
  • 感性は情報を認識し、知識や情報を整理して意味を捉えようとする能力であり、理性はその整理された情報を論理的につなげて新たな意味を導き出す役割を果たします。
  • 感性は直感や感情を通じて真実に近づくことができるため、理性が間違った判断をすることもあります。感性は我々に直感的な知識や知恵をもたらし、理性が意志を巻き込んで欲望や横暴を生み出すこともあります。
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感性は 理性よりもえらい。

まづ 定義から入ります。  序  《理性》は 広くは《精神》全般を表わすこともあり 狭くは 或るコトから別のコトを論理的に導く(つまり推論する)能力を言うようです。  ひとの存在を 《身と心》に分けたとき その心のことを広義には 理性という言葉が表わす場合もあり 狭義には或るコトの意味の論理的な展開をおこなう能力を言うのだと見ます。    ひととおり定義をしておいて そのあと 表題について問います。  1. ひとの存在: 身と心 / 身体と精神 / 感性と理性  2. 自然本性: 身と心それぞれの性質と能力を言う。  3. 感性: 身の五感が知覚すること。  4. 悟性: 知覚を認識する。知覚は 世界事実に接して起こるゆえ 悟性は 世界の事実認識である。  5. 理性: 悟性の成した事実認識ないしその情報を整理しつつ――その一つひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらにあらたな(或る意味で将来へ向けての)意味を捉えようとする。この場合 しばしば意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理的なつながりに収斂していく。  6. 判断: 理性のおこなった推論とその結果について 或る基準によって取捨選択する。その判断基準は 一般に主観的な《よいかわるいか》である。おおむね善悪である。  7. 知解: 感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉えたあと理性がこれを意味づけさらにあらたな意味連関をみちびきだす。  あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念として整理し この概念をすでに――感性から一たん離したかたちの――観念としこの観念を 想像力にまかせてあやつりつつ 或る種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢をととのえ 判断過程へと送る。  ここまでが 知解という作業である。  8. 意志: 判断能力とその行為を言う。選択肢の中から 一般によいものをえらぶのであるが 良し悪しの評価と判断は やはり主観的なものである。(学習過程を経つつ くせ・ならわしとして培うようになる)。  8-1. 自由意志は 周知のように 必ずしも善と思うものをえらぶとは限らない。おのれの心にさからって負の善(つまり悪)をえらぶことも 少なくない。  9. 記憶: ただしこれら知解および意志に或る種の仕方で先行する自然本性の能力として 記憶がある。おぼえるというよりは 存在にかんするすべての(つまり本性としてすべての性質および能力の)あり方の秩序作用である。自己組織化のハタラキである。  9-1. 記憶は 悟性が認識した知識としての情報を むろん整序してその倉庫におさめる。  9-2. たぶん 狭義の理性による論理的な情報整理とは違った《身と心の全体にとっての》整序作用を持つというように思われる。  9-3. 言いかえると 《わたし》が意識していないハタラキであり 直接に意図(意志)もしていないそれであろうと思われる。  9-4. 記憶は 取捨選択した判断とその内容を実際に行為したという意志行為の実績を整序しつつ記憶し その記憶の中にとうとぶべき意味内容のたくわえを持つ。これは 知恵だと考えられる。  10. 知性: これは 知解という行為能力を言う場合が一般である。ただし 知恵をもふくめて言うこともあるか。  11. 境地: 《記憶・知解および意志》の三つの行為能力の全体を言う。つまり 自然本性の――特には 精神にかかわる――全体のことで 特定の《わたし》の実際の存在形式である。その状態である。知恵と知識とそして判断力あるいは度胸などを含めたかたちである。      *  さて 《感性は 理性よりえらい》について 次のように問います。  12. 狭義には理性は 良し悪しにかかわる判断を含まないから そのような倫理としての意志行為とは別である。  13. 広義には 意志やら知恵やらを含めた精神全般を指して言うのなら 理性は 善悪判断をおこなう倫理や道徳にかかわっている。  14. ただし この善悪の判断というのは 自然本性のあり方としてそれぞれの《わたし》の意志にもとづく主観的なものだと考えられるゆえ その主観としてはむしろ基本的には身体の感性において 良し悪しが――ひそかに・言葉に先行するようなかたちで――告げられていると思われる。  15. わが心にさからってウソをつくなら 顔をあからめることになる。さらにイツワリをはたらこうものなら 発言に際して言葉はしどろもどろになり 冷や汗が出る。  16. たぶんこのように感性は 理性に先行してハタラキを成し 理性よりえらいと思われる。  17. なぜなら ウソをつくにもイツワリをしでかそうとするにも ポーカーフェイスをよそおうのは バレるのを避けるという推論の結果であって そのように――むろん意志による判断とともにであるが――理性がチョンボをおこなっているのだと見られる。  18. ひとは 感情に流されるのではなく・ほんとうにはそうではなく そのような様相を呈しながら むしろ理性が意志を巻き込んでそれを欲し横暴をきわめるのだと考えられる。すべて理性のしわざだと見られる。意志をしのいでしまうようである。  19. この生身の存在にかんするかぎり社会力学上で 何が何でも 有力になるということ そうなれば勝ちなのだという理性のくだした安易な推論を 意志もつい負けて飲んでしまうようである。感性は そのウソに気づいているのではないか。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • hekiyu
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回答No.3

理性をとことんまで追求して、習熟し 我が物とすれば、それは感性に昇華します。 これが本当に、理解する、ということです。 哲学を本当に理解している日本人は殆ど いない、という意味はこういうことです。 哲学はキリスト教と密接に関係していますが、 キリスト教徒でない日本人は、理性では哲学を 理解できても、それが感性にまで昇華できない のです。 理性が感性にまで昇華すれば、それは 論語に云う 『七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず』 に、なる訳です。

bragelonne
質問者

お礼

 へきゆさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  総じて受け取ったところを言葉にしますと 定義に示しました《境地》としてお答えをいただいた。こうなると思います。  そうですね。ですから   ★ ~~~~  哲学はキリスト教と密接に関係していますが、  キリスト教徒でない日本人は、理性では哲学を  理解できても、それが感性にまで昇華できない  のです。  ~~~~~  ☆ の言葉どおりにと言いますか 何しろ《境地とか境涯》のことですから なかなか一般には言葉としてその中身がさらに明らかになるというのは むつかしいところがある。こういうことかも分かりません。  そうですね。わたしが分かっているかどうか そのことも問題になりましょうが いまここでさらに話を推し進めることが出来るとすれば たとえば 次のご見解に対していくらか違った見方をぶつけてみることでしょうか。  ★ ~~~  理性をとことんまで追求して、習熟し  我が物とすれば、それは感性に昇華します。  これが本当に、理解する、ということです。  ~~~~~~  ☆ とのご説明が示されたことに対して 質問者としましては ゲリラ戦のごとく次のように言ってみることではないかと考えます。  ○ (感性派の自己弁明) ~~~  理性によるものごとの理解・習熟の暁に 感性への昇華が得られるというよりは そういうよりは 感性はすでに理性によるものごとの問い求めの初めにそれに先行して 答えを出している。  この感性のハタラキについて 理性も意志も耳を澄まして見逃さないようにしなければならない。  そしてたぶん 理性がその自己の試練の果てに感性にまで昇華するというのは おそらく《境地》の問題であって そのときには《理性と感性とが それとして 一体となっている状態》であるのだろう。  おそらく《身と心》は自然本性として初めから一体であるのであって その一体なるひとりの存在である《わたし》として 感性も理性もそれぞれおのがハタラキをもって《わたし》の自己表現に貢献し合うことが肝心である。  ~~~~~~~~~~~~    次のように言うと ナショナリストと受け取られては困りますが   ★ 哲学を本当に理解している日本人は殆どいない、という意味はこういうことです。  ☆ という見方が示されるとき ですから 日本や クリスチアニズムの西欧やあるいはコンフュシアニズムの中国といった地域の差異にかかわらず  ○ 哲学や理性を超えたところで 《もののあはれを知る》   といった・先行する感性から出発するものの見方は すでにどの国でもおこなわれており それとしての知恵のかたちで 生活態度となっている。つまり 理性は境地にまで昇華し終えている。はずである。  それなのに 人間存在ならその存在論として要素に還元してしまって ああだこうだとあらためて議論し始めてしまった。  と総括しておけば 済むということになりませんか?    そして この質問の実際としましては とにもかくにも 理性だ自我だ自律だという教科書流儀の文章の氾濫に嫌気がさしています。そのような愚痴からの設問です。一向に局地的なものとは言え洪水が引いて行きません。そのような情況観です。  ありがとうございました。

その他の回答 (7)

回答No.8

 疑問を述べてみます。  人の存在、を「身」と「心」、そして「身体」と「精神」と二通りに表現してますが、これを「物質」と「精神」と入れ換えても異議はないと受け止めると、問題なのはそれに続けて「感性」と「理性」、と置いたこと、これが不自然です。  ここは「感覚(色、声、香、味、触)」と「三性(理性、感性、意志)」としないと、あいまいな世界を作りだしてしまうと思うのですが。  だから、「3.感性: 身の五感が知覚すること。」については次のように考えます。  身の五感(色、声、香、味、触)は感覚であって知覚ではない、という事。  佛の教えには、この五感のあとに第六感を置いていて、「法」と続くことは先刻ご承知のはず。  「知覚」とはこの「法」に当たるのではないでしょうか。        

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ 身の五感(色、声、香、味、触)は感覚であって知覚ではない、という事。  ▲(ヰキぺ:知覚) ~~~~  (ちかく, 英:Perception)とは、  動物が外界からの刺激を感じ取り、意味づけすることである。  視覚、聴覚、嗅覚、味覚、体性感覚、平衡感覚などの感覚情報をもとに、「熱い」「重い」「固い」などという自覚的な体験として再構成する処理であると言える。  ~~~~~~~~~  ☆ この中で    ○ 感じ取った刺激を意味づけすることは 《悟性》であるとも考えられます。  が けっきょく知覚は 感覚のことであり 感性と言えると思います。   ★ ~~~~~  人の存在、を「身」と「心」、そして「身体」と「精神」と二通りに表現してますが、これを「物質」と「精神」と入れ換えても異議はないと受け止めると、問題なのはそれに続けて「感性」と「理性」、と置いたこと、これが不自然です。  ~~~~~~  ☆ 《身と心》に対応するかたちで 《感性と理性》としたことは 《心》も広い意味でのもの(つまり精神一般)を言うと同時に 《理性》も それと同じ範囲を持つ広義のものです。  ★ ~~~~  ここは「感覚(色、声、香、味、触)」と「三性(理性、感性、意志)」としないと、あいまいな世界を作りだしてしまうと思うのですが。  ~~~~~~   ☆ 身が外界から刺激を受けて感覚を持つことを 身の自然本性としての感性と言うと思います。  身と心とのふたつに存在を分けてまとめたかたちでは その《心》は 感性に対する広義の理性であり 身体に対する精神であります。  精神の能力としては わたしの流儀では 《記憶と知解とそして意志》との三つに分けます。おおむね社会体における司法と立法と行政とにそれぞれ対応しており またそれらがまとまってひとつの組織体を成しているというかたちにおいても対応している。こう見ます。  理性は 狭義には 知解という行為能力のうちの推論のハタラキだと見られます。あたかも法律の作成作業にあたります。  行政は 個人における意志としてのように この法律の内容を執行します。  司法は 個人における記憶と同じように 法律の内容やその執行の内容について 整合性のある秩序を成しているかを判定します。  また 記憶はすでに蓄積した情報や知恵として あらたな法律の作成のための資料を用意しています。資料は 記憶の倉庫に秩序立ててたくわえられています。われわれが意識せずともまた意図せずとも 記憶は そのような作業をおこなっていると考えられます。  ★ 第六感  ☆ は 五感を超えた知覚を言うと思います。しかも それでいて イメージならイメージとして五感のいづれかの内に知覚されるものだと見ます。ヒラメキです。  あとは それを認識する悟性の作用が来て 概念として規定されるならこれを理性に送ります。理性はそこで 筋道立てた内容として把握します。次の一手としてのようにその中身をととのえます。  それでよしという場合は それは意志が判定します。  悟性と理性とは 知解という行為能力に属し 立法作業にあたります。(もっとも 国会において 法律を可決するかどうかについては もうすでに意志行為の担当になります。立法府の中の最終の決断は 知解能力ではなく 意志の能力がにないます)。法律を執行するのは 意志行為です。    もっと細かいことを言うとすれば 法律を執行するという意志行為において 実際の手続きをどうすればよいかは 悟性と理性による知解行為の担当となります。その知解内容でよいかどうか そしてまた執行の仕方がその意志行為としての内容でよいかどうか これらを判定するのは 記憶行為であり 司法行為にあたります。  三つの行為能力は 互いに入り組んでそのチカラをはたらかせます。分権であり分業しつつ あたかも三位一体です。

回答No.7

 ひととおりの定義、に少し疑問も。  その中の「3. 感性: 身の五感が知覚すること」  これは物理的な感覚と精神的感覚(?感性)とを混同しているように思います。相互に影響し合っているとは思いますが。  春うららの気分とか梅雨時の鬱陶しさは、肉体的感覚の影響を受けた心情の表れで、そうした働きを感性と表現するのだと思います。  その感性は物理的だけではなく、心理的刺激の影響も受けることは周知のことで、その刺激はその人の感情の嗜好に依って好悪となって表れるのだと思います。  そしてこうしたことを「解る」ことが「理解する」でありこの働きを理性と言うのだから、感性と理性とは別物かと思います。  水と油のように。  でも人間の精神は常に活動しているので、それはこの水と油をかき回して常に混ざり合わせている状態だと思え、したがって精神作用としては混沌としてしまうのでしょう。  また人を、いつも落ち着いていて冷静だ、とか喜怒哀楽が激しい人だとか評価することがあるように、個々においては“感性のえらい”人もいれば“理性のほうがえらい”人もいるようです。  ただ普遍的な意味では同等ではないでしょうか。  こんなことを考えてみました。      

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  特に見解の相違というまでには到らないと思いますが。  ★  春うららの気分とか梅雨時の鬱陶しさは、肉体的感覚の影響を受けた心情の表れで、そうした働きを感性と表現するのだと思います。  ☆ これは 言わば第一次の知覚であり 感性です。五感に受ける感覚のことです。その感覚が《心情》にまで達するかたちです。  ★ その感性は物理的だけではなく、心理的刺激の影響も受けることは周知のことで、その刺激はその人の感情の嗜好に依って好悪となって表れるのだと思います。  ☆ 知覚したものが 《心情》にまで達したり 悟性をとおして理性において概念ないし《観念》として持たれたりしますが この観念はすでに みづからの身と心の一体において心理的な作用を持ち得ます。  梅干しという観念を持っただけで ぎゃくに感覚がそれとして生まれます。知覚体験が記憶されていて そのことが想起されることによってだと思われます。  ★ そしてこうしたことを「解る」ことが「理解する」でありこの働きを理性と言うのだから、感性と理性とは別物かと思います。  ☆ 別ですよ。何故なら感性は 《酸っぱい》という知覚を〔理性のハタラキに成る〕観念によって起こすように刺激を受けますが これを《酸っぱい》と認識するようなハタラキは持ち合わせていません。感覚そのものを言わば用意しますが その概念的認識は 用意し得ません。動物は ことばを持ち合わせていません。  ですから  ★ ~~~~~~  その中の「3. 感性: 身の五感が知覚すること」  これは物理的な感覚と精神的感覚(?感性)とを混同しているように思います。相互に影響し合っているとは思いますが。  ~~~~~~~  ☆ については 感性と理性とのあいだでは《相互に影響しあっている》とも言えましょうし また一方で感性は 理性の持つ概念作用は持たないとも言えると思います。《混同》はないと思いますよ。    その《混同》ではない互いの状態は どうか?  ★ ~~~~  水と油のように。  でも人間の精神は常に活動しているので、それはこの水と油をかき回して常に混ざり合わせている状態だと思え、したがって精神作用としては混沌としてしまうのでしょう。  ~~~~~~  ☆ たぶん《水と油のように》ではないでしょう。水が相転移して水蒸気のごとくなって概念ないし観念となるのでしょうか。(あまりいい喩えではないようです)。  互いの影響にかんしては おそらく一般的に言って《理性》は 近代人において単独分立したと考えられます。独走し暴走しうると見ます。つねに 意志を巻き込んでのことだということでもあります。  それは 自分の感性を制御したいという意志から生まれたのかも知れません。ですが さらにその先を願いその先を狙って おのが意志をも味方につけ自分に従わせようと考えた。言いかえると 自分のことはさておき 相手や広く人びとを自分の思うように動かそうという魂胆を持った。  《わたし》は 世界にイリ(入り)するのではなく それだけではなく 世界の人びとをヨセ(寄せ)することをたくらんだ。人びとの感覚・心理そして意志をも 寄せ束ね靡かせる。  ヨセなる知性は 支配欲によって支配されたたましいである。と考えられます。理性の暴走です。あたらしく次々と文明の利器を開発して 人びとを吊って来たようです。  かんたんな事例を挙げます。  ミス・コンテストで優勝する人について 自分はうつくしいとは感じず思わない場合でも 社会としてのチカラがクウキのごとく優勢になって それにわが理性が従うなら わが意志もあるいはひょっとしてわが感性も同じように従うようになることがあります。  ★ 混ざり合わせている状態だと思え、したがって精神作用としては混沌としてしまうのでしょう。  ☆ というよりは 《混沌としてしまう》振りをしているのでしょう。美の感覚が そうそうは移ろいゆくわけではなく 美醜の判断がかんたんに麻痺してしまうわけではないでしょう。  現代人にとって 理性は――という意味は 社会的な力学上のクウキとして仮りに成った共同心理が あたかも各自の理性をになうかのようなかたちにおいてそのイツワリの理性は―― 王様の地位についているかのごとくです。    そこで感覚が――自然の感覚が――抑えつけられているとしたら ときどきは爆発してもおかしくはないでしょう。  従いまして  ★ また人を、いつも落ち着いていて冷静だ、とか喜怒哀楽が激しい人だとか評価することがあるように、個々においては“感性のえらい”人もいれば“理性のほうがえらい”人もいるようです。  ☆ というとき 《“理性のほうがえらい”》というのは 仮りのイツワリの理性がクウキとして優勢である場合を言うのみだと結論づけます。どうでしょう。

  • kurinal
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回答No.6

education,education,education と書けば、ご理解頂けたということでしょうか。 ああ、でもそれは「教えて教えて教え尽くす」ということでは、ないかもしれませんね。

bragelonne
質問者

お礼

 あっ いいえ。そうではなくて 文字通りわたしが 教育について・そして特に感情(ないし情操)の教育について うといということを言いました。  ご回答をありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.5

bragelonneさん、こんばんは。 「知覚すること」は、人それぞれ、と思います。 すなわち、「教育、教育、教育」ということかと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  感性とくらべるかたちで あなたのお題を伸ばしました。  知覚することは どう言いますか 理性で考えることが概念とその推論とにおいて 人びとに共通でありうるのに対して たしかに人それぞれに起こることだと思われます。    その知覚の内容が まったく主観という範囲を出ないかと言えば そうでもない。甘い・苦い・辛いなどそれぞれの内容は 人びとに共通のものだと思われますから。  教育は 理性を使うことについておしえることが出来るかと思います。感性を開き伸ばすのは 教育もむつかしいでしょうか。じっさいは どうなんでしょうか。詳しくも明るくもありません わたしは。  と考えました。

noname#156094
noname#156094
回答No.4

失礼ながら、ちょっと逆らってみました・・・ >感性は 理性よりもえらい えらくはないです。 ただ、せっせと働いているだけです。 理性から感謝されることもなく、褒められることもないまま いくら働いても何も貰えない、空っぽです。 そうなんです。 理性から、いつでも空っぽにしておけと言われている。 そのほうがお前らしくていいと言われている。 次から次へと、空っぽのところへ物を運んでは点検をしている・・・と 理性さんという監督が来て、これはこっち、あれは向こうと指示を出す。 黙々と働く感性君は誰からも好かれていますが 理性さんは時々衝突を繰り返してしるようです。 感性君を応援しましょう。 そういう意味では賛成です。

bragelonne
質問者

お礼

 へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~  えらくはないです。  ただ、せっせと働いているだけです。  ★ ~~~~  黙々と働く感性君は誰からも好かれていますが  理性さんは時々衝突を繰り返してしるようです。  感性君を応援しましょう。  そういう意味では賛成です。  ~~~~~~  ☆ ん?  そうですね。  ○ 感性は 問題ごとに 何げなくそうっと正解をほのめかす。ゆえに――それが 理性や意志によって取り上げられるかどうかを別として―― すでにえらい。  という趣旨です。   ★ ~~~  ただ、せっせと働いているだけです。  理性から感謝されることもなく、褒められることもないまま  いくら働いても何も貰えない、空っぽです。  ~~~~~  ☆ 感性は ふと正解を漏らしますが ふつうは 好き嫌いだとか 怒りや愚痴だとかをもっぱらその感情として担当していますから 感謝されることも褒められることもないでしょうね。  そのふと洩らした正解を意志が拾い上げてくれなければ あとは理性は たとえ感性の伝えた正解を自分が採り入れるにしても 澄ました顔で自分の考えたことだと言い それしか言わないでしょうね。ふつうの理性は すでにへそが曲がっているようですから。  というよりは 感性のふと洩らす正解について見逃すか聞いて聞かぬふりをするのかも分かりません。  たとえばルサンチマンといった感情ないし情念がありますが これも たしかに感性のハタラキではあるのですが そうだとしてもそのハタラキのいよいよ興るのは むしろ理性が あの仇ヤロウめ あいつだけは赦せん ただではおかぬわいと言うので 感情はますます掻き立てられるのだと考えられます。  感性そのものは いたって おしとやかです。いわば中立です。憎しみを持ったからと言って 決して腹に含むものがあってのことではなく そうではなく その憎しみのほうへと理性の敷く政策のもとにおいて駆り立てられるのみです。理性が静かな心のもとで 涼しい顔をしているなら 感性の担当する憎しみも ほどなく消えて行きます。  理性は 暴君になっているのではないでしょうか。  といったことを議論すること これも 理性によるのですが。

回答No.2

素朴な疑問なのですが、 言葉の定義の上ではなく、 人間の現実の精神活動において 理性と感性を切り分けることは可能なのでしょうか? 現実の人間の精神活動では理性と感性は相互に影響を及ぼしあっており、 「両者は不可分な存在」 と僕は考えております。 と言いながら、 僕は感性より”理性”に重きを置く派です。 「理性は時に取り返しのつかない過ちを犯しますけれど、 何度も試行錯誤を繰り返す内に、理性はその過ちを克服できる」 と、僕は理性の可能性を信じていますから。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこにゃあさん お早うございます。  そうですね。  ★ ~~~  言葉の定義の上ではなく、  人間の現実の精神活動において  理性と感性を切り分けることは可能なのでしょうか?  ~~~~~  ☆ たとえば言語習慣上よく聞くこととしては    ・ 感情に流されるな。  ・ 感情をコントロールせよ。  ・ 自我が確立されていないぢゃないか。(≒理性をはたらかせなさい)。  といったことです。感性がワルモノにされています。  これらの考え方に異をとなえています。  言いかえますと これらの考え方じたいが ふつうの自然本性のあり方に対する反措定だと見ますから わたしのこの質問の趣旨は 総合の立ち場です。つまり 反措定に対する反措定だと思っています。  わたしが わざわざ勝手に《生活の中において理性と感性を切り分けた》わけではない。こう考えております。  ★ ~~~~~  現実の人間の精神活動では理性と感性は相互に影響を及ぼしあっており、  「両者は不可分な存在」  と僕は考えております。  ~~~~~~~  ☆ これは ですから 趣旨説明欄の(11)の《境地》のこととして ここでは捉えています。  ★ ~~~  と言いながら、  僕は感性より”理性”に重きを置く派です。  「理性は時に取り返しのつかない過ちを犯しますけれど、  何度も試行錯誤を繰り返す内に、理性はその過ちを克服できる」  と、僕は理性の可能性を信じていますから。  ~~~~~  ☆ もし敢えて感性派といった立ち場を立てて議論をおこなうとしますと こうなります。  ○ (感性派の自己弁護) ~~~~  たいていの問題について ひとは感性においてすでに何がしかの答えを得ている。それを見逃す場合が多いと思われるが じつはそういうふうに感性は すでにはたらいていると言ってよいはずである。  ただしその答えを自分に分かるように明らかにする作業は 理性がおこなう。つまりは 人びとにその感性がほのめかした答えを明らかにして伝えるとき――行為は意志によっておこなうが――その起草者は 理性である。    あるいはまた マチガイがあったなら 反省をし 自己表現として軌道修正をおこなおうとするのも 理性である。しかもそれと同時に その方向性などの答えをすでに用意したのは 感性であると思われる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  どうでしょう。

回答No.1

 私には今回の質問は大変興味深い内容になっています。  感性のチカラは理性の働きさえも左右するのかもしれない。  意志は理性や感性の影響を大きく受けているのかもしれない。    これがとりあえずの感想ですが、多くの意見が寄せられることを期待しています。

bragelonne
質問者

お礼

 わいわいえいとさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですか。それは よかったです。わたくしも 多くの新しい知見を期待しています。  ★ 感性のチカラは理性の働きさえも左右するのかもしれない。  ☆ たぶん いまのところ時代の思潮による影響としてのようなかたちで 感性のチカラは 劣勢であると思います。    ★ 意志は理性や感性の影響を大きく受けているのかもしれない。  ☆ そうですね。どちらにもなびく。のかも分かりません。  上の情況からすれば 理性によるそれとしての説得のようなものに感性が屈しているとすれば 理性によって意志は よりいっそう大きく影響を受けているのでしょうか。  このように船出しました。

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     1. 知解行為においてものごとを知り世界を認識し存在をも思う――このことによって《存在》が成る のか?  2. モノの存在はいざ知らず ヒトなる存在は認識作業の以前にすでに成っている のではないか?  3. 人間は モノに還元されるのか?  4. ひとの意志は 知解行為と――そして記憶行為と――時間差をともなって一体であると思われるが 認識(知解)するというならすでにそれをしようとする意志もはたらいているはずだ。記憶・知解・意志なる三つの行為能力を持つひとの自然本性は 身とともに すでに存在している。という原点から出発するほかないのではないか?  5. この世に生み落とされたというところから出発するよりほかにないのではないか? 言わばモノがそのようにひととしての生命を持ったところからという意味である。  6. モノは認識によって存在するようになると言った場合 その認識をおこなう存在は では どのように存在することになるのか?  7. 認識等の知解行為をおこなう主体は すでにあくまで自然本性として存在を受け取り その動態としての存在を生き始めている。あとは そのことの認識作業は 言わば事後の知解行為に過ぎないのではないか?  8. 存在とは ものごころが着いたあとの 意志行為を中軸として生きられている。  9. このひとの存在は モノの自己運動についてはけっきょくのところ手に負えないのであるが その弱さ(つまりひとは受け身であるということ)においてながら モノの存在とは一線を画している。か?  10.  モノは認識しない。とりわけ意志しない。ただの自己運動のみである。しかもひとによって加工・操作される。よわいほうのヒトが えらいと見なずばなるまい。  11. 有るゆえに知るのであって 知るゆえに有るとは言えない。のではないか?  12. この《有る》が うつろいゆかざるを得ないものであることは また別の問題である。

  • 自然本性としての《むさぼらない》という能力

     自然本性としての《むさぼらない》という能力  ◆ 1. 《記憶‐知解‐意志》なる三つの行為能力として分析するのではなく おもに意志行為の具体的な内容に応じて《自然本性》のあり方をさぐるこころみです。  1-1. ひとに生まれつき備わった本性には たとえば《自然状態》と言われるごとくに《ものごとを限りなく欲する〔ゆえに 人は互いにあらそう〕》という思いや動きがあるとは見ない。――このように仮説した命題を問います。  1-2. 言いかえると 自然本性には《むさぼることはしない》という能力がそなわっている。――この命題を問うものです。  1-3. 《人は人に対して狼である》ではなく 《万人の万人に対するたたかい》でもなく そうではなく人びとは《非戦論において くにゆづりをおこなうことがある》。  ◆ 2. 《ものごとを欲する》という意志行為にかんして 次のように――西欧の精神科学にもとづき―― その内容を区分し それぞれについてやはり《むさぼらない》という能力が生まれつきそなわっていると言おうとするものです。  2-1. 《欲する》という意志行為を 次の《欲動・欲求・欲望》の三つに分けます。(いくらか 解釈に勝手な色合いを出しています)。  (α) 欲動( pulsion ): 存在するもしくは生きるということに関して ひとを否応なく突き動かすような感覚や思いや動きを言う。   ・(α‐1) これは 意志の発動する以前に起きるハタラキであるように思われる。  (β) 欲求( besoin ): 空腹を満たすというような――やはり意志に先行して起きる――身体自然にかかわる生理的なハタラキを言う。   ・(β‐1) 意志は 欲動や欲求が 意志に先行して起こしたそれぞれのハタラキを受け留め 一般にその中身を意志行為としておこなう。   ・(β‐2)  性欲は 意志に先行する欲求であるが 性行為はひとが意志によって・しかも互いの意志の合意によっておこなう意志行為である。〔→(γ-1)〕  (γ) 欲望( désir ): 欲動――つまりむろん 生の欲動――として起きたハタラキを受けてわれわれは 欲求をも満たしつつ 生活する。この生活においてわれわれが何かを欲するという感覚や思いやあるいはそのハタラキないしウゴキを言う。   ・(γ-1) しかもこれら《生活において欲する》ことの意志行為が自然本性としてそなわった生物なる存在としてわれわれは 互いが互いをそのような存在として受け留め認めている。つまり 生活は 共同性を持ち 社会生活をいとなむ。   ・(γ-2) ここで 意志行為をおこなう意志は いわゆる自由意志である。早い話が 欲動や欲求の自然なハタラキに――或る程度は――逆らってまでも《おのれの意志》を持とうとするし その《自由》を手放そうとはしない。   ・(γ-3) よって欲望は われわれが社会生活において これを欲する・あれを欲しない これをこのように欲する・あれを欲しないどころか排除しようとまで欲するなどなどと展開するあらゆる志向性を言うことになる。   ・(γ‐4) よってわれわれの欲望は 環境自然に対しても・《身と心》の自然本性に対してさえもそれらにおとなしく従う場合もあれば逆らって振る舞う場合もある。言いかえると これら《自然的および非自然的(つまりその意味で文化的)な〈欲する行為〉》を含む。   ・(γ‐5) よってわれらが欲望は 欲動に逆らったり欲求をねじ曲げたりそしてもろもろの社会的欲望についても 際限を知らないというほどに《自由に しかも時に 見境なく自由に》その想像力の翼に乗ったら乗ったでその行き着く先の宇宙の果てにまで進み入る。   ・(γ‐6) 欲望は《むさぼり》となり それとしての意志行為が現われるし 実際に起こされている。ところが・・・  ◆ 3. ・・・ところが このとき意志行為は もともとその自然本性にあっては 《むさぼり》を知らないのであり 《むさぼることをしない》という能力がそなわっている。と見る。  3-1. 言いかえると むさぼりを行なう欲望ないし意志は もともとの自然本性にはない。後天的な心的および社会行為的な現象である。に過ぎない。こう見る。  3-2. この命題の成否を問うわけですが これ以上論拠がないというその意味は タナトスなる死にかんする志向性が 死の欲動などと言われるごとくには 生来のチカラでもなければ本来のハタラキでもないということ これを言おうとしているものだからです。  3-3. 生の欲動のほかに 欲動はなくその中身にも複雑性はないという想定です。志向性の複雑は すべて《欲望》の段階における二次的で派生的な意志に発している。  3-4. 言いかえると 言ってみれば ひとはこの自然本性論としての問いにかんする公理を どのように設定するか。こういう問いになっています。  よろしくどうぞ。

  • 心は 感性から自由だが よくも悪くも自己表現する

     最近の国会での出来事から 芳しからぬと思われる事例を取り上げます。  ▼ 「口にするのも汚らわしい」…菊田真紀子氏発言に批判の嵐「ヘイトスピーチじゃないか」     産経新聞 11月3日(月)13時0分配信   http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141103-00000516-san-pol  ☆ すなわち 宮沢経産相の資金管理団体が SMバーへ支出していた問題で その支出の不適切さをなじるのに  ▼ 「あなたが口にするのも汚らわしいところに政治資金を支出していたこと  ☆ と菊田衆議院議員は言ったそうです。  ここで 心の問題です。先にむしろ図示してみます。:   事実(ものごと)::::感性::::::::::理性(心)   ____________________   SM バー・・・SM のイメージ・・《口にするのも汚らわしい》       《理性(心)》の現われとしては この事例ひとつに限りません。いろんな価値判断があります。  つまりは:  ○ 心は 感性から自由だが よくも悪くも自己表現する  この国会議員の場合の認識・評価は よくか悪くか どうなのでしょう。  つまり《心》論として この命題でよいか? と問います。         *  もう少し細かく趣旨説明します。:  知覚(感性)は 正直です。二枚舌やダブルスタンダードなどは ありません。  ところが もしこれにあたかも感情移入してのごとく事実認識するときには しかもそこに心による内容の評価がくわわります。価値判断するという事態が 起きます。  むろん心は 外界から来る刺激から自由です。刺激のもたらす必然性のごとき流れが 感情としてさらにわが身と心とに押し寄せて来たときにも それに対して自由な立ち場を採り得ます。じっさい採ります。  ここまでは おそらくふつうの事態です。  問題は 心が自由に採る態度について そこに価値判断が入って来るとき その判断(つまり 心)はこれまた さまざまであることです。  いまの事例で言えば:  1. SM バーをその姿のまま感じ取る感性が 第一次にあります。中立的で素直な内容なのでしょう。  2. そのあと 単なる感想としても・あるいはひととおりの価値判断としても 心の介入を経た認識・規定が起き得ます。  3. つまりは 心は――精神とそのハタラキとしての事実認識や対応策としての意志行為において―― 社会一般的に言って ふつうの妥当な判断となるものや いやちょっとおかしいぢゃないかと見られる規定とが 持たれます。  4. 心は 枠組みとしてのようにハタラキとしてある。なぜ枠組みかと言うと いちおう・ひとまづ かの正直で素直な感性をそのままみづから(つまり心)の中に 認識として取り入れるゆえです。これが 心なるハタラキの前提を成す。  5. そのあと心は その自由さを発揮して 感性の伝えたコトについておのれの見解をかたちづくる。またこれを 表明する。これは おそらくおのおの《わたし》の自己表現となるものである。  6. 問題はけっきょく 素直に捉えたさいしょの知覚内容について よく判断するかどうかなのでしょうか。  7. こういう図式による心の哲学でよいか? が問いです。          *  先ほどの事例には おまけの話があります。  ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~  これがさらに飛び火した。菊田氏が地元・新潟県長岡市のほだれ神社の奇祭「ほだれ祭」に参加している写真がネット上にアップされ拡散したのだ。  この祭りは、巨大な男根をかたどったご神体(長さ2・2メートル、重さ約600キロ)に初嫁をまたがらせ、子宝や夫婦円満、五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する霊験あらたかな神事なのだが、菊田氏が笑顔でご神体にまたがる写真は大きな反響を呼んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 身と心 感性と理性の問題について ご見解がありましたら どうぞお聞かせください。

  • 言葉を勉強しています。

    1つ目は「感性」です。 1 物事を心に深く感じ取る働き。感受性。 2 外界からの刺激を受け止める感覚的能力。カント哲学では、理性・悟性から区別され、外界から触発されるものを受け止めて悟性に認識の材料を与える能力。 と出ていましたが、どういう意味ですか?もう少し噛み砕いて教えていただけないでしょうか? と「感受性」です。 外界の刺激や印象を感じ取ることができる働き。 外界つまり、外の印象を感じ取るとは「自意識過剰」という意味なんでしょうか?こう理解すると2つがリンクしないので分かりやすく教えてください。お願いします。 最後に2つの使い方を教えてくれますでしょうか?よろしくお願いします。

  • 純粋理性批判(Q6)

    純粋理性批判(Q6) 「感性による直観と悟性のカテゴリーによって、対象は物自体ではなく現象として認識される」 この考え方は一応わかります(正確ではないかもしれませんが、その場合ご指摘いただけると有難いと思います)が、 「それゆえに現象としての認識には【客観的妥当性】がある」という結論になぜ至るのか、よくわかりません。 悟性のカテゴリーという分類は、認識のあくまで枠組みであるように思うのですが、この枠組みに対して客観的であるとか主観的(恣意的)であるとかいう表現が可能なのでしょうか。たとえば、 『2つよりないリンゴを見て、「リンゴが3個ある」とは認識しない』 というような意味での客観的妥当性、というわけではありませんよね。 「客観的妥当性」が何を意図しているのかよくわかりません。 また、同様に、「物自体の認識は主観的である」という記述があったように思いますが、これは、認識できないものを認識したと思うことが恣意的=主観的である、という意味でしょうか。 悟性に関する箇所はまだ読んでいないのですが、客観的・主観的という従来の概念に照らし合わせると、何か違和感があり、どうも気になっています。 非常に初歩的な質問だろうとは思いますが、どなたかわかりやすく解説していただけないでしょうか。     

  • カント『純粋理性批判』入門(黒崎 政男著)

    カントの理性、悟性、感性の概念が分からないと質問した時、「お勧めの入門書」をリクエストして読みました。 でも、これ私にはまだ難しかったです。 まず上記3要素の定義ですが、これはだいたい合っているのではないかと思います。 感性>感覚器官を通じた現実存在(仮に感官がそう認識するところの)の認知 悟性>(≒知性)概念的に考え悟ること 理性>総合的な考え(?) ちなみに古くは、 知性>インスピレーション、霊感、直観力、察知力、知識(人間の感官より上のもの)(?) で、どうもカントは実存在は不可知だとしておきながら、感性と悟性の合一によって世界は真だと言えると言っているようなのですが、このへんがチンプンカンプンで分かりません。 世界が感官で真かどうか分からないものであるのならば、感性を頼った思考もすべて真かどうか分からないのではないでしょうか? 何が「コペルニクス的転回」されて、「純粋(?)」「理性(?)」はどう「批判」されたのでしょうか?

  • カントの「実践理性」「判断力」という概念について

    カントの「実践理性」「判断力」という言葉の意味がよく分かりません。 純粋理性については、純粋に思弁的・論理的な認識を行う理性ということで意味は理解できます。 しかし、「実践理性」については、神や道徳法則や自由について語っているのに、なぜ「実践」理性なのだろうと思いました(どちらかといえば、「道徳理性」とかではないかと)。 信仰や道徳的行為は「実践」されるものであるから「実践理性」だといわれれば、確かにそうかもしれませんが……。 あと、「判断力」については、「美」という思弁でも実践でもない認識だから「判断」、ということでしょうか。

  • 意志、理性、感情、? 言葉の共有!

     通常、人の心の能力、作用を表すのに「意志、理性、感情」という言葉を以て、三つの働きを表現していて、ほとんどの人は、この表現に疑問を持っていないと思います。  私も今、こうして質問として取り上げてみようと思うまでは、さしたる疑問を持つことはありませんでした。  でもよくよく考えてみると《?》と思ったので次のように提案してみたいのです。  “意・理・感”にはそれぞれに“性”という言葉を付けてみてはどうでしょうか。  “意性・理性・感性”というように。  そしてそれぞれの性に、意には志を、理には解を、感には情を、付けて「意志・理解・感情」として“思索”するというのが、言葉の使用を“共有”することになるのではないのか、と思ったのです。  どうでしょうか。  よろしくお願いいたします。