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認識は 存在に先行しない

 【Q:存在と存在理由・・・】の姉妹質問です。ついでに問います。  1. 知解行為においてものごとを知り世界を認識し存在をも思う――このことによって《存在》が成るのか?  2. モノの存在はいざ知らず ヒトなる存在は認識作業の以前にすでに成っているのではないか?  3. 人間は モノに還元されるのか?  4. ひとの意志は 知解行為と――そして記憶行為と――時間差をともなって一体であると思われるが 認識(知解)するというならすでにそれをしようとする意志もがはたらいているはずだ。記憶・知解・意志なる三つの行為能力を持つひとの自然本性は 身とともに すでに存在している。という原点から出発するほかないのではないか?  5. この世に生み落とされたというところから出発するよりほかにないのではないか? 言わばモノがそのようにひととしての生命を持ったところからという意味である。  6. モノは認識によって存在するようになると言った場合 その認識をおこなう存在は・そしてその認識の能力は では どのように存在するようになったのか?  7. 認識等の知解行為をおこなう主体は すでにあくまで自然本性として存在を受け取り その動態としての存在を生き始めている。あとは そのことの認識作業は 言わば事後の知解行為に過ぎないのではないか?  8. 存在とは ものごころが着いたあとの 意志行為を中軸として生きられている。  9. このひとの存在は モノの自己運動についてはけっきょくのところ手に負えないのであるが その弱さ(つまりひとは受け身であるということ)においてながら モノの存在とは一線を画している。か?  10.  モノは認識しない。とりわけ意志しない。ただの自己運動のみである。しかもひとによって加工・操作される。よわいほうのヒトが えらいと見なずばなるまい。  11. 有るゆえに知るのであって 知るゆえに有るとは言えない。のではないか?  12. この《有る》が うつろいゆかざるを得ないものであることは また別の問題である。

みんなの回答

回答No.3

概念整理って表記したのは、存在という意識は経験内容の集積である事柄対象の後ろで意識経験している主格がある。 それが知覚し判断し、紡ぎ出してその主格たる意識が現象界に関与してくる。 そしてその主格たる意識は紡ぎ出した経験内容を言語が内包する概念で整理する作業をさせる。 だから、知覚し判断し、紡ぎ出した経験内容は通常は言語で把握しているつもりになっている。 つまり概念整理という作業に敢えて敷衍したが、これは余計なことでしたね。 あなたの質問にそこまで敷衍して説明申し上げようと思っただけです。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。

回答No.2

認識=存在させている究極意識の知覚と紡ぎ、そして概念整理でしょう。 だから同じものであり、同時ではないですか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうなんですか。つまり どうも多くの人たちが存在や実存――つまり《わたし》ですね――をめぐってわたしに言わせると どこかちぐはぐな捉え方をしている。一部にそう思われる見解を書いておられる。  〔《個人のみの信仰》と《集団としての特にオシエにもとづく思想活動なのに信仰を説く宗教》とが まるでチャランポランであったりします。  信仰は 組織とはいっさい関係しません。外に出ません。  また オシエは人間の言葉で書かれているかぎり 考えるものです。鵜呑みにするものではありません。オシエを信じるという言い方は マチガイです。  あるいは 要するに さとりは 身と心とから成る《わたし》の実存つまり現実の問題であるのに いつも形而上学に飛び立って行って雲の上の話をしていたり〕。  概念と現実の実態とを混同してませんか?  《存在》は なるほど抽象的な概念として捉えて 神の域にまで・つまりその霊性としての物自体だとか絶対精神なりあるいはアートマン(霊我)やブッダター(仏性)のことにまでつなげて議論されたりしますが それは何はともあれ 或る時この世に生まれ出て来ていま・ここに実際に生きている一人ひとりの人間のことです。人間存在にもとづき捉えられた概念です。  認識は――あるいは広げて 記憶(司法)と知解(立法)とそして意志(行政)の三つの行為は―― 存在している人間がおこなうことです。特には《知解》を言います。  知解行為は あたかも立法行為のごとく 世界のあらゆるものごとを科学として認識し規定して行きます。  おのれ一人においても言わば科学行為をおこない世界を認識します。その成果にもとづき思惟し行動を起こします。何をよしと考え何を・如何におこなうかは 意志が決めます。  知解と意志のそれぞれの行為内容について――それらがつねに記憶の中に秩序立てておさめられることも然ることながら―― さらになお良し悪しを吟味するのは 記憶の整序作用とともにはたらく意志です。意志せず意識もないまま 記憶という行為能力は 整序のハタラキをおこなっているとも見られます。  これら記憶と知解と意志の三つの能力行為は 言わば身体を基体としておこなう精神の働きです。精神のハタラキであって あくまでもこの《わたし》が人間存在として現実におこなうものです。わたしなる身もそしておそらく心も やがては移ろいゆきしかも朽ちて行かざるを得ないものと思われますが この果敢無い現象であっても 現実の現象であることに間違いない。  くりやさんは この現実の――おそらく現象にしか過ぎない一面を持つゆえにだろうと思いますが――さらに基底にまたは奥に何か変わることなく移りゆくことのないものを想定しておられる。いわく:  ★ 〔* この現実の人間たる《わたし》を〕存在させている究極意識  ☆ この《意識》というのは おそらく広い意味での《存在》のことなのでしょう。《変わらざる永遠の存在》とそのチカラまたハタラキのことなのでしょう。  ということは 《認識》を――この経験世界におけるもろもろの現象や事象についての科学行為としてのほかに―― 経験世界を超えたところの・いま上に想定した《無限なる存在》についても当てはめようとされている。  ★ 認識= 《存在させている究極意識》の知覚と紡ぎ、そして概念整理  ☆ 《知覚と紡ぎ、そして概念整理》を言うのでしょう この場合の《認識》は。  これらの説明は・つまりここで用いられた表現は いわば比喩によるものと考えられます。  つまり 超経験の場を経験世界における精神のハタラキによって捉え得るとは思えないからです。  《超経験の場 すなわち 永遠の存在》は 科学行為として人間が認識し規定するものではなく ただ《不死性や不可変性》としてわれわれ人間が勝手に想定するものです。昔の人たちがすでに《神》という言葉で使っていて言ってみればすでに想定済みであったものをわれわれはそのつど事後承認するかのように想定しているものです。  ですから この神のチカラとハタラキを――想定し受け容れた(信じた)あとはその《神と我れとの関係》をめぐって――何らかのかたちでなお《知覚し 概念整理し その概念をしかるべくおのれの観想として信条として紡ぎなさい》と言っている。  でもこれは 厳密に言えば 認識ではありません。なぜなら 《想定の受け容れ すなわち信仰》は 経験思考を超えています。それを認識する・科学することはありません。  言いかえると 信仰の《非思考》なる動態から ヒラメキをつうじて得られる言葉や概念や思惟を こんどは《認識》するわけです。それが 観想であり瞑想や観照とも呼ばれ 初めは神秘的なものでしかないイメージなどであったものを出来るものなら 経験思考で分かるように言葉にして表現する。――これが おっしゃるところの《認識=存在させている究極意識の知覚と紡ぎ、そして概念整理》でしょう。  これらは 現実の存在たる人間の《わたし》が おこなっている精神行為です。  よって 認識は 存在と同じものではなく 《同時》でもありません。  認識は 存在がおこなうものであり 存在に先行することはなく 《同時》かどうかの規定にはなじみません。    

回答No.1

本文を読むのが正直面倒なレベルなので、一つだけ確認を。 表題の「認識は存在に先行しない」の認識が、その存在に対する物ならば当然じゃね? それ以降の本文は、読むまでもないただの落書きに過ぎない。 まあ、表題の認識と存在を正確に定義できていない上での議論なので、 正直、言葉遊びの域を出ない印象があります。

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