• ベストアンサー

無意識ないしアーラヤ識をめぐって おうかがいします。

 この質問は 《QNo.4140486:人の業績は 人間そのものですか = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4140486.html 》を継ぐものです。  さしづめお伺いしたいことは 次のような主題です。  (1) 意識と無意識との関係が知りたいです。あっても 知り得ないという想定ですか。  《無意識》と規定すると 無意識という場やはたらきがあると捉えがちになります。記憶という行為において 含まれるであろうとは思います。ですが 実際には その働きは 意識し得ませんし なかなか 理解しがたいものです。想定する場合には どこまでを 捉えているのでしょう?  (2) 記憶と意志との関係を 無意識説の立ち場から おしえて欲しい。  人間の行為能力には 三つを想定します。記憶行為(≒司法)は ほかの知解行為(≒立法)や意志行為(≒行政)と どうかかわっているのか これを 無意識野を想定する立ち場では どう説いているのでしょう?   *  *  *  なお さらに趣旨説明として 掲げておきます。  この問いの課題は 一つ あって それに決まっているように考えています。つまり 《意識および無意識なる経験領域》と《それらを超えたさらに無の領域》 これら両領域の互いの関係や如何に? の一点だと思います。その具体的な視点が 上の主題です。  すでに 質問者も かなり問い求めを進めて来ております。(前の質問の質疑応答を参照されたし)。再掲します。  人間にとって 表象は 視認にせよ概念の把握にせよ 心の志向性にとって 或る目標を与えます。理想や理念のそれであれば その心の視像は 意志の目的とそこにおける休息になり得ます。  《記憶そして無意識野〔での出来事だ〕》と想定し規定すれば わたしたちは そこを あたかも探究の途上にありつつ 〔あたかも〕到達点として位置づけてしまいがちです。合点! 合点! 合点! というわけです。  早い話が 通り魔殺人事件での加害者にせよ被害者にせよ その原因究明に際して ポーンと 《アーラヤ識なる場における記憶行為の積み重なり》の説を出すと 《ああ 犯人は 無意識野だ》という早飲み込みに到らないとも限りません。  というよりは それでもよいのですが 問題は その先にあって では この無意識野におけるわが生命の息吹きでもあり しかもちょっとよそ道に逸れてしまったこのわが衝動を どうすればよいか これを 同時に 明らかにしてくれたまえ。そうしてこそ この《アーラヤ識》の理論の真骨頂があるのではないか。ということになります。のではないでしょうか?  《記憶》行為は 《意志(つまり これに色をつければ 愛です)》の行為と そして《知解(知識ないし経験合理性)》と それぞれの内容が 互いに時間的な食い違いをゆるしつつも おそらくは 一定の時系列において・もしくは一つの生涯において 互いの一体性を持つと考えます。わたしたちは それら三つの能力行為のあいだこに 互いの整合性を問い求めようとします。(ホンネとタテマエの食い違いと それの是正のようにです)。  このような時間的な差延を持った三つの行為能力の一体性に仮りに立つとすれば 記憶にかんする〔知解としての〕科学的な解明のほかに それと並んで 意志としての心の志向性のあり方 これも 大いに 自己主張をしてよいのではないか。こう考えますが いかがでしょうか。

noname#80116
noname#80116

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.24

 brageloneさん、大変ですね。  【神学(瞑想としての実践)と社会行為とを並行しておこなうというありきたりの結論です。】  ◎⇒その通りですよ、でもありきたりでしょうか?難しい、車の両輪ですね。いつでも、何していても、常に仰せの、奥の方の根幹的意識を生きているということですから、当たり前かもしれないがとても修練を必要とされますよ。これができればアデプト、偉大なるグル、ジーザス・クライストとお話ができますよ。Chrはクリシュナのクリと同じで普遍者という意味の位階を表す、古代言語の敬称なんですが。  【いちばん極端な話をしましょう。ネコをかぶって キリストに倣う生活を送ったとします。そのようにして 人生を全うしたとします。】  ◎⇒最初は真似ですしね、なかなか本物にならないのですよ。それでも、いつか本物が全てのご自分を染めてしまうでしょう。つまりその通りですよ、そういう全うだって、すごいのですが、まねやネコちゃんのままではない、というのが面白いですね。恵みでしょうか?  無理と不自然で、現状での本心とはどうもなんだか違うみたい、分からない。でもそうしていくより仕方ないのですよ。いわば有無を言わせぬ軍律です。平和は戦争のないことではない、とはロマン・ロランの魅せられたる魂でしたか。  自分に自儘と勝手を許さない。  まずそれ(タマスという)を自制する、そして野心的活動や名誉や業績心(ラジャスという)を超える。  そしてどんないいことであれ、努力であれ、精進や信仰であれなんであれ、善悪も超え、それからの報いを自分に帰さない(サットヴァという、いいことの報いを望む心に惑わされない)。  ということでいくと、本物になります。  

noname#80116
質問者

お礼

 krya1998さん お答えをいただきありがとうございます。  この議論 さいごまで よろしかったら すすめたいと思います。    ★ 本物  ☆ かどうか これが どうでもよいという結論にはなりませんか。  皆が にせものです。皆が ひょっとして 本物であるかも知れません。  あるいは 真贋の問題を一たん別として 指導者になる位というのは どのようにして決まるのか。指導者とて どこまで行っても 指導される者と 同じ境地ではないのか。つまり いまは 数学をおしえるとか 柔道のてほどきをするとか そういうふうに個別の課題について指導するというのではなく 人間形成そのものの問題です。  おそらく内面は どこまで行っても 大切です。と同時に あるいは それゆえにこそ――その勉強も修行も おこないつつ―― 外面について 自己表現をおこなうようにする。そしてこれは 仕事ということ その共同性というものに 目を向けていくこと。その見方に新しい視点を導入していくこと。そういう方面と場とが 無意識の――もしそれが重大な発見であり人間にとって根源のようにはたらくとするのならば――生きる道だと思うのです。  無意識は つねに 無意識のままに・つつましやかに はたらく。こう きちんと説明しつつ 言える理論であれば どれだけ よいかと思うのですが!?

その他の回答 (42)

回答No.43

トントントン)))) トン・テン・カ-ン☆ (*^^*)>゛゛゛あっ、どうも おばこんちはbrageloneさん。 何やってんだ?って??? ええ、日曜日大工をば、、、 取っ手付けとかないとあぶないでしょ-? ばりあふりー 『人生』 http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/767_14955.html 『文芸は男子一生の事業とするに足らざる乎』 http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/2681_6492.html 意味がちがう?そらそうでしょー こっちの方面は先に思い浮かんでなかった ↓ 【倒産とはどういうことか】 http://www.ytrd.com/kiki/tousantoha2.htm 【手形】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%BD%A2 【約束手形(やくそくてがた)】 手形の振出人(発行者)が、受取人またはその指図人に対して 、一定の期日に一定の金額を支払うことを約束する形式の有価証券のことである。 略称は約手(やくて)。 手形は、2~3ヶ月程度の中期信用を担う手段として広く利用されていることもあり 、日本国内で流通する手形のほぼすべてが約束手形である。 【手形の裏書とは】 http://www3.ueda.ne.jp/~motomura/tegata.uragaki.htm 【約束手形の見本】 http://www.nihonbussan.com/yakusokutegata.html 【手形取引】 http://www.biwa.ne.jp/~yonezu/boki_i/manande/tegata/tegata.html はじめに見ていたのは、原作者と作詞者という観点から眺めてた。 抜き出しの言葉なのだけれど、どちらもそれぞれの作品のキモ。 作品の一部分であり、尚且つ、その部分が作品全体を要約したもの。 原作者-台詞と作詞家-歌詞-文芸に属し文学に内包される 松本氏-漫画家(原作者)  槙原氏-シンガーソングライター(作詞家、作曲家、編曲家、歌手、演奏者) 松本氏ー高見沢氏(ALFEE)とタイアップ 主題歌「Brave Love」を依頼 作詞・作曲-高見沢氏(THE ALFEE) 歌い手-THE ALFEE(歌い手の一人に高見沢氏) 槇原氏ーCHEMISTRYへ歌を提供「約束の場所」 作詞・作曲-槇原氏 歌い手-CHEMISTRY http://www.mpaj.or.jp/whats/management/item01_01.html 印税の配分の話か? CHEMISTRYのCD『約束の場所』 http://music.yahoo.co.jp/shop/c/10/dfcl1295/ CDをみれば曲が4曲入っている 01: 約束の場所 作詞:槇原敬之 / 作曲:槇原敬之 02: still in my heart 作詞:川畑要 / 作曲:川畑要 nao'ymt 03: YOUR WORLD 作詞:堂珍嘉邦 / 作曲:堂珍嘉邦 谷口尚久 04: 約束の場所[Less Vocal] 作詞:槇原敬之 / 作曲:槇原敬之 それにしても“裏切らない”とは何なんだろう? 【Backing Track】 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011484245 印税の話からすれば、“カラオケ” 歌うだけの歌手には、歌唱印税は入らない 歌唱印税は作詞家・作曲家へ 歌を提供することへのインセンティヴか? 相互協力関係 槇原氏とCHEMISTRYとの間に於いての約束は 『約束の場所』のCDの中に槇原氏のスペースを 確保することと見ること出来ないか? CHEMISTRYのそれぞれが個別に作詞・作曲をてがけた作品をのせる のせることでCHEMISTRYの一人一人にも作詞・作曲印税が入る CHEMISTRYの歌い手グループとしてでは、相乗効果でCDが売れれば 歌唱印税も後からついてくる こちらもある意味でのマーケティング活動上のタイアップ? 松本氏ー高見沢氏(THE ALFEE)とのタイアップを見てみると THE ALFEEのCD『Brave Love』 http://music.yahoo.co.jp/shop/c/10/todt5110 CDをみれば曲が3曲入っている 01: Brave Love 作詞:高見沢俊彦 / 作曲:高見沢俊彦 02: Beyond The Win 作詞:高見沢俊彦 / 作曲:高見沢俊彦 03: Brave Love 作曲:高見沢俊彦 映画の主題歌として使用される使用料が印税で支払う恰好? 高見沢氏へ一人へ帰属するとする THE ALFEEの歌い手のグループとしてでは 歌う歌が映画の主題歌として用いられると CDが売れれば歌い手への歌唱印税も見込める 大きな宣伝効果が期待できる。 相互協力関係。 【漫画原作者に絵の著作権?(1999.2.26掲載)】 http://www.net-b.co.jp/jbox/C1/9609C101.htm#032 漫画「キャンディ・キャンディ」の著作権が漫画家だけにあるのか、ストーリーを考えた原作者にもあるのかが争われた民事訴訟で、東京地裁は2月25日「絵についても原作者に著作権がある」とする判決を言い渡した。 判決では、漫画は原作原稿を翻案して創作された二次的著作物とし、原作者の著作権を認めた上で、漫画家の主張である「現行は参考資料に過ぎず、ストーリーの骨子は自分で考えた」を退けた。 更に判決では、「漫画はストーリー展開、人物のせりふなどが不可分一体となった一つの著作物で、絵だけ取りあげて漫画家の専権に属するとは言えない」とし、「新たに漫画家が書き下ろした絵でも、原作者の許可なく複製したり配布したりは出来ない」とした。 漫画の分野同士の間では上記の著作権の定義が用いられるのだろうけれども 分野を越えた場合においても同定義を用いることは可能だろうか? 著作権侵害と投げかけた真意はどこにあるんだろう? 音楽の分野と漫画の分野の著作権の保護のありようのちがいを 問うているのか?はたまた、著作権の非親告罪化への抗議? 詞の意味…意味…意味のない言葉はない…意味… 「時間は夢を裏切らない(未来)/夢も時間を裏切ってはならない(現在)」 名を得て、権利を得たものにのみが受け取ることができる報酬 どんなに時間と労力を費やしても一向に道が開けてこない日々の暮らし 疲れ果て、投げ出しやめてしまえばどんなに楽か、そんな気にもなることだろう 名を得るとはなんと果てしない旅だろうか… “されど、あきらめるな。” いままさに旅を続けている名もなき旅人(かつての自分)へ向けて送るメッセージ。 ~原作者であり漫画家でもある者もかつて名もなき旅人だった~  “今、僕にできることを僕はしよう ” ― 名もなき旅人の君が 旅を 終えたとき ―   “ この旅が 無駄では なかった ” と、いえるように 【QNo.3784454 日本政府が霊魂の存在を認めたら】 ANo.18 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3784454.html 【著作権制度に関する情報】 http://www.bunka.go.jp/chosakuken/index_2.html 【著作権Q&A ~著作権なるほど質問箱~】 http://bushclover.nime.ac.jp/c-edu/question.asp 【ドゥルーズ『フーコー』 】 http://literaryspace.blog101.fc2.com/blog-entry-264.html http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/10_e5fa.html http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_5f93.html

noname#80116
質問者

お礼

 こんばんは littlekissさん。ご回答をありがとうございます。  ★ 漱石:『人生』 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  若し人間が人間の主宰たるを得るならば、若し詩人文人小説家が記載せる人生の外に人生なくんば、人生は余程便利にして、人間は余程えらきものなり、  不測の変外界に起り、思ひがけぬ心は心の底より出で来る、容赦なく且(かつ)乱暴に出で来る、海嘯と震災は、啻(たゞ)に三陸と濃尾に起るのみにあらず、亦自家三寸の丹田(たんでん)中にあり、険呑(けんのん)なる哉(かな)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 前半は 反語形式で言おうとするところではなく そうではなく 文字どおりが 正解なり。(漱石先生 あやまてり)。後半も――同じく漱石先生の負けなるものにて―― だからと言って 現在為すべきことを避けるための理由にはならざるなり。  ★ 漱石:『文芸は男子一生の事業とするに足らざる乎』  《QNo.4140486 人の業績は 人間そのものですか =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4140486.html 》⇒《A:さにあらず。〈ただいまそこにいる人・その存在〉が 人間である。それゆえ 職業は どれもみな同じ。つまり貴賎無し》。  あとは 前回・前々回へのお応えにて お応えするかたちです。  カンカンカァーン。ギーコギーコギーコ。トントントン。  本棚をどうぞ。(自分が欲しい)。

noname#80116
質問者

補足

 ★ 【ドゥルーズ『フーコー』 】  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  246ー7「〈神〉が存在するかぎり、つまり〈神〉という形態が機能するかぎり、人間はまだ存在していない。しかし、〈人間〉という形態が現われるとき、それはすでに人間の死を、少なくとも三つの仕方で内包しながら、現われるのである。まず、〈神〉が不在であれば、人間はどのようにして同一性の保証者を見つけることができようか。また、〈人間〉という形態は、それ自身、有限性の襞においてはじめて成立した。つまりこの形態は、人間に死をもたらすものである(・・・)。結局、有限性の力それ自体は、生命の組織平面の拡散、言語の分散、生産様式の不均衡、などを通じてはじめて人間が存在するようにするのである。」 http://literaryspace.blog101.fc2.com/blog-entry-264.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ (1) 良心の自由において抱かれる個人の信仰(それは 生きるという動態であり 次の事項との兼ね合いでは 自己表現としての生活態度につながるのが 基本である)と   (2) これを表現=外化=疎外する言表(語り述べたその文章)と (3) その分析(神学的・哲学的・社会学的など) これらは きちんと分けて扱う必要があります。たとえば はじめの一文  ★ 〈神〉が存在するかぎり、つまり〈神〉という形態が機能するかぎり、人間はまだ存在していない。  ☆ (あ) いかに憑依の原始心性であるとは言え 人間は 自己が存在しているなら 《ヨリ(依り憑く)》なるアニミスムの心性としてでも 信仰を抱き 神を頂く。  (い)★《〈人間〉という形態は、それ自身、有限性の襞においてはじめて成立した》という如く この有限で相対的な世界に 人は 《イリ(入り)》したのである。その成果は ★《つまりこの形態は、人間に死をもたらすものである》という如く 有限の生を自覚するということであり これは 《イリなる歴史知性》の自然本性に属するものである。  (う) もし上に引用の一文に合わせて捉えるなら 人は この《イリヒコ / イリヒメ》なる存在として立ち 《神のもとに・神とともに――神との一定の関係を自覚して それに依り憑くのではなく そうではなく この関係(つまり 信仰)を持ちつつ――生きる》ことが起きた。   (え) この信仰を抱いたあと 生きている自分と生きた神とを 観念に変えるという超歴史知性が出た。人間の知性・理性こそが 自己をも神をも包む力であると唱え始めた。これは 死ぬまでは 権力を握れば われこそが全知全能であるという理論である。  (お) このとき ★《つまり〈神〉という形態が機能するかぎり、人間はまだ存在していない》。権力者が 神であり さらにその上なる神は 権力者を通じてのみ あがめることが出来るという社会的な宗教形態が機能するかぎり 人間は死んでいるという意味である。(わたしの見るところ 日本人は すすんで そのように自殺しようとして生きている=つまり死んでいる様子である)。  ★ まず、〈神〉が不在であれば、人間はどのようにして同一性の保証者を見つけることができようか。  ☆ (か) こういう幼稚な議論が いまだに続いている。《イリ歴史知性》において 神は《不在》であるからこそ 生きているし それゆえ 自己が生きている。《不在なものの現在》 これが 信仰であると知っている。《顕在》させたのは 一方で 神の側からのはたらきであったか 他方で 上の(え)の《スーパー・イリ歴史知性》が勝手に押しつけたかである。  (き) 超歴史知性のなせるわざは 個人の主観におさまる信仰を 社会的に政治的に 顕在化し たいていは 押しつけたところにある。神の側からのはたらきかけは 一方で 個人の主観・こころにはたらきかけた側面と 他方で これを集団・組織・社会制度さらには上の政治的な顕在化と同じように 国教とした側面とに分かれる。後者は 人間の行為であると考えられる。  ★ 結局、有限性の力それ自体は、生命の組織平面の拡散、言語の分散、生産様式の不均衡、などを通じてはじめて人間が存在するようにするのである。   ☆ 自然本性が そもそも《有限性の力それ自体》なのである。いちいち ほかの要素を持ってくる必要はないと思われる。はじめから人間は存在している。(字数が尽きました)。

回答No.42

ANo.41の中で誤りがありました。 出ませか?←「ん」がぬけていました。→出ませんか?へ訂正します。 誤)と、しないと 《時は巡りくる そこに あなたが いるから》  は、出ませか? 正)と、しないと 《時は巡りくる そこに あなたが いるから》  は、出ませんか? ***************************************************************************   ☆ ということでしょう。けれども 《人》にせよ《夢》にせよ  《時間を裏切る / 裏切らない》ということには 馴染みません。 馴染みませんとは… ↑ 『人のこころは何ものにも束縛されない自由さ』を もっていることをおっしゃっているのでしょうか? 『融通無碍(ゆうずう‐むげ)』 考え方や行動にとらわれるところがなく、自由であること。 また、そのさま。 「―な(の)考え」「―に対処する」 時間はずっと流れてる 止まることなく 時計の針 元の場所から離れても  時の流れの中で 巡り来る 皿に乗った寿司  目の前を通り過ぎて行く 穴子が二貫  目の前を 通り過ぎて行く 過ぎ去った 皿の寿司 穴子 行き過ぎても 時が経てば  巡り回って 回って来る その時 どの皿を 選びとるか それは 自由だ! (*ただし、インターホン押して注文した品なら とらねばならぬ) 『裏切りの街角 』 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND828/index.html 『らせん階段』 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND54999/index.html 『季節の中で』 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND1469/index.html 『異邦人の視線』 http://www.kyoai.ac.jp/college/ronshuu/no-07/nishikawa.pdf

noname#80116
質問者

お礼

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  人がいるとするなら その 人が 存在する 場所が あるはず  夢は 人が 見ることやもの 描くことやもの  だとすれば 《夢はーーーーー裏切らない》は  《人はーーーーー裏切らない》と、おくことできませんか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ できません。理由は そのあとに あなたが書いておられるとおりです。  ★ 還る場所、存在する場所を人は守る(願望)  ☆ カッコ内の《願望》が それを表わしています。《裏切らないこともあるし 裏切ることもある》というのが 一般です。あとの句ですが 《決して》という言葉をつけて 言うことではありません。つまり  ★ “裏切らない”という言葉がやけに目に付く  ☆ ということでしょう。けれども 《人》にせよ《夢》にせよ 《時間を裏切る / 裏切らない》ということには 馴染みません。しかるべき文脈と条件を得て 何にしても 表現しようと思えば できると言える場合が ありますが それにしても そういう場合というのは 詩作品であればこそゆるされるというのが ほとんどだと考えます。  ですから 乱暴に言えば そういう意味の解釈を確定しないまま 歌っているのは  ★ 無責任です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《なじまない》というのは 合わない・適合しないという意味です。  ひとつのことについて きちんと処理できないということは すべてのことについて だらしないということになります。一つのことが終わらないのに 次の話へ飛んではいけません。いくらでもよそごとをしゃべろうと思えば できますけれど。

noname#80116
質問者

補足

 7月19日の記です。  新しい続編の質問に移ります。  よろしかったら どうぞ そちらでご回答をつづけてくださるようお願いします。 

回答No.41

● 意味がちがうと言っただけです。  その結果は どうなんですか? どうなったんですか? ★ 夢はみたいと こころにえがけば いつでも描ける どこにいても  ☆ という意味を出そうとするなら  ▲ 夢は時間を裏切らない   ☆ ではなく   ● 夢は時間を選ばない   ☆ になるでしょうね。次の句も 同じようです。  ▲ 時間も夢を決して裏切らない  ☆ ではなくて  ● 時間も〔どの〕夢を〔も〕決して選ばない(=差別しない)   ☆ と表現したとき   ★ 時は巡りくる そこに あなたが いるから  ☆ という意味合いが出ます。ただ――ただ です ただ―― 《時は巡りくる そこに あなたが いるから》という判断は 乱暴に言ってしまえば 無責任です。《そういう場合もあるだろうし そうでない場合もある。でも楽観的でいましょう》と言っていませんか。 「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」 仮に ↑ このなかに     ↑ 《時は巡りくる そこに あなたが いるから》 いるとします。   ●夢は時間を選ばない 時間も〔どの〕夢を〔も〕決して選ばない と、しないと 《時は巡りくる そこに あなたが いるから》  は、出ませか? そうでしょうか? 夢を見るにも こころに描くにも 夢を 見る人 描く人  人という存在が いないことには はじまらない 人がいるとするなら その 人が 存在する 場所が あるはず 夢は 人が 見ることやもの 描くことやもの だとすれば 《夢はーーーーー裏切らない》は 《人はーーーーー裏切らない》と、おくことできませんか? 《人》という言葉が来て、後に《裏切らない》と来ると “裏切らない”という言葉がやけに目に付く しかし、“裏切らない”の前には“時間を”というこ言葉がおかれている つなげて読めば、“時間を裏切らない” と 言い換えれば、守る、約束…還る場所、存在する場所を人は守る(願望) 歌は世につれ、世は歌につれと様変わりしても なお歌い継がれてゆくのではないでしょうか 無責任ですか? 【QNo.157010 「あなた」と呼ぶのは失礼なのですか?】ANo.6ANo.10 ANo.21 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa157010.html http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/050729sustain.html

noname#80116
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  人がいるとするなら その 人が 存在する 場所が あるはず  夢は 人が 見ることやもの 描くことやもの  だとすれば 《夢はーーーーー裏切らない》は  《人はーーーーー裏切らない》と、おくことできませんか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ できません。理由は そのあとに あなたが書いておられるとおりです。  ★ 還る場所、存在する場所を人は守る(願望)  ☆ カッコ内の《願望》が それを表わしています。《裏切らないこともあるし 裏切ることもある》というのが 一般です。あとの句ですが 《決して》という言葉をつけて 言うことではありません。つまり  ★ “裏切らない”という言葉がやけに目に付く  ☆ ということでしょう。けれども 《人》にせよ《夢》にせよ 《時間を裏切る / 裏切らない》ということには 馴染みません。しかるべき文脈と条件を得て 何にしても 表現しようと思えば できると言える場合が ありますが それにしても そういう場合というのは 詩作品であればこそゆるされるというのが ほとんどだと考えます。  ですから 乱暴に言えば そういう意味の解釈を確定しないまま 歌っているのは  ★ 無責任です。 

  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.40

#36です。 >☆ そのあと 《「より自由に、より創造的に、より楽しく」生きること》が 個々の人の意志の問題として 来ます。 「意志の問題」を唯物論で考えると、交感神経と副交感神経のような相対立する働きを持つ物質的組織間の確執を経て、やがてどちらかに均衡して、結論は自動的に決まってしまうことになります。そうすると、唯物論では、自由意志は存在しえないのか? 唯一考えられるのは、「乱数発生装置」を設けて、外部の条件とは無関係に、乱数に基づいて意思決定をするようにすれば、見かけ上は、自由意志を持っているように見える。これは、進化論の考え方と共通します。 人間は、自然状態が何万年もかけて生み出して来た進化のプロセスを脳内の物質でモデル化することにより、数千年、数十年、場合によっては、数分で実現するシステムを持つに至ったのだと思います。この結果、唯物論によっても、自由意志や創造を説明することはできるように思います。 ただ、この説明には、致命的な欠陥が一つあります。 それは、この説明だと、そもそも人間は「意識」などというややこしいものを持つ必要が全然ないということです。意識を持つ必要はなく、「情報処理機能」さえ持てばそれで十分だということです。要するに、「創造的機能を持ったロボット」で十分だということです。にもかかわらず、何ゆえ人間は意識等という楽しくも厄介な働きを持ってしまったのでしょうか、とても不思議です。

noname#80116
質問者

お礼

 kobareroさん まづ第一に 理論は 価値自由の内容を持ち得て 初めて理論となります。このことの確認は いいですか。  (完全な価値自由性は 望むのが無理でしょうが かと言って はじめから 自分の課題の解決に いい道具として立てるというのは むつかしい問題をはらみます)。  第二に わたしは 自分が 唯物論に立つとは言っていません。解釈がややこしく感じるようにわたし自身が述べた箇所があったこと それも知っていますが そうだとしても まづは 《ものすごく乱暴に仕分けすると》という条件をつけておられたのではないですか。  意識は 環界そして自身を含めた世界のすべてについて 知覚し表象したなら  その心像のすべてのことです。記憶におさめられたり 知解として取り出され 意志行為の要素となると考えられます。  そして 唯物論は ほんとうには 無神論という神学のことです。無神という神の信仰のことです。世界は もの(質料)のみから成るというのは 質料主義のことですが これが すべては――つまり意識は もとより 知解も意志行為も すべては―― もののあり方を反映したものだとなります。この思想は 放っておいても よいと思われます。貧困のひとかけらも ないようになるまで 平等を唱え続けるでしょうが 一部に そう言い続ける人びとも 自由意志でそうする限り いても 仕方がないと思います。

回答No.39

brageloneさん、細かいこところ見ていただいて  どもm( _ _ )m お手数をおかけします。 ●松本零士の文句の解釈は 同意見なんですね。 ↑ この場合は、同意というよりも協調を念頭において書いてるから⇒治める方向 ただ、この話(“訴訟”)とは別に モノ・コトの関係性が違えば話も変わる解釈も変わる 【ウロコアイザメ】 http://oldworld.ameblo.jp/oldworld/entry-10027617544.html 【『海 知られざる世界』】 http://www.nhk-ecatalog.com/_3068.html

noname#80116
質問者

お礼

 littlekissさん おっしゃっていることが分かりません。  まづわたしは 《訴訟》のことなどは まったく 別として 歌詞の意味だけを問題にしました。  意味がちがうと言っただけです。  その結果は どうなんですか? どうなったんですか?  ★ モノ・コトの関係性が違えば話も変わる解釈も変わる  ☆ 《モノ・コトの関係性》がどう違ったのか 分かりませんが とにかく《話も変わる解釈も変わる》ということで うやむやにするという意味ですか?  意味を確定しないことには 訴訟も何も この無意識の問題も何も 始まらないでしょう。わたしの解釈が妥当であるから もう引っ込めたということですね。《話》は変えようと思えば いくらでも変わるかも知れませんが 《解釈は 可能性の範囲内で 変わる》のであって 可能性の範囲を超えて変わるわけがないではないですか。  槇原氏の歌詞を大事に思って 歌っていることは 考えられません。おかしないか。意味がないのですから。さもなければ わたしの解釈を反駁するか 別の解釈を 明らかにすることだと考えます。

回答No.38

おはようございます、brageloneさん。 ●歌詞の解釈で わたしは ちがう意見ですね。 ↑ ちがってていいんです。(*^^*)  ▲ 松本零士:「時間は夢を裏切らない、夢も時間を裏切ってはならない」  ☆ 人間の夢というものは 《有効》であれば どれだけ延び延びになっても 時間過程の中で実現する。夢を抱いた人間のほうも なかなかその実現が延び延びになってしまったとしても あきらめてはいけない。時間過程において実現への途中のどこかの一点で 断ち切れにしてしまってはいけない。 槙原敬之:「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」 夢は時間を裏切らない :夢はみたいと こころにえがけば いつでも描ける どこにいても 時間も夢を決して裏切らない:時は巡りくる そこに あなたが いるから ・時間は夢を裏切らない ・夢は時間を裏切らない このふたつが成り立つには… 断ち切れにしてしまってはいけない~時は巡りくる、とすると ふたつあることで、ふたつがひとつにつながるでしょ? どちらの要件も満たす “ 焉んぞ一に帰す ”

noname#80116
質問者

お礼

 littlekissさん ご熱心ですね。ご回答をありがとうございます。  松本零士の文句の解釈は 同意見なんですね。  その前に 細かいことを。  ★ “ 焉んぞ一に帰す ”  ☆ 正確には 《焉んぞ一に帰さざらんや》でしょう。  ★ 夢はみたいと こころにえがけば いつでも描ける どこにいても  ☆ という意味を出そうとするなら  ▲ 夢は時間を裏切らない   ☆ ではなく   ● 夢は時間を選ばない   ☆ になるでしょうね。次の句も 同じようです。  ▲ 時間も夢を決して裏切らない  ☆ ではなくて  ● 時間も〔どの〕夢を〔も〕決して選ばない(=差別しない)   ☆ と表現したとき   ★ 時は巡りくる そこに あなたが いるから  ☆ という意味合いが出ます。ただ――ただ です ただ―― 《時は巡りくる そこに あなたが いるから》という判断は 乱暴に言ってしまえば 無責任です。《そういう場合もあるだろうし そうでない場合もある。でも楽観的でいましょう》と言っていませんか。  それと 松本零士の文句のばあいもそうなのですが やはり《その夢が 妥当で有効なものであれば》という条件がつくと思います。  ★ ふたつあることで、ふたつがひとつにつながるでしょ?  ☆ 微笑みたくなるようなフレーズですが ちょっと無理があると思いますが いかがでしょうか。

  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.37

>《この質問は 哲学のカテゴリにおいて 質問にはならない》という投稿があったことに基づき 判断した (笑)その「判断」なるものが、そもそも、おかしいのですよ。だから私に対する返答内容全体が、言ってもいないことを言ったことにしたうえでイチャモンをつけたに過ぎないような、お粗末極まりないものに堕してしまっている。後を続けるのもバカらしくなるというものです。まあ確かに、仏教を敵視しつつ、いつ果てるとも知れない遣り取りを延々と続けたくてウズウズしているあなたにとって目障りな投稿ではあったのでしょうよ。 とにかく!誰であれ他会員のネームを一部であろうと引用して誹謗的発言に及ぶということ自体が規約違反に相当します。こうした発言のどこに哲学的見地からの必要性があると言うのでしょうか。 あなたという質問者の返答内容自体は私にとって正直、興味が薄いものですが、例の規約違反相当にしてズレまくった(もっとも質問者に自覚が乏しいからでしょうが。いや「確信犯」かな?笑)以前のあなたの質問以来、精神病理的見地からの興味と或る予想を持って、おりおり観察させていただいておりました。 いやはや大変な自惚れやでいらっしゃるというか、その反面に、これまた大変な劣等感がおありになるように察しておりますが(これも一種のバランスを保つためなのでしょうか)一言で言って、思い込みが激し過ぎるために傾きも甚だ大きい、そのため自分で真っ直ぐ立っていられる自信もなく、むやみやたらと他者の肩にすがるだけでは飽き足らず、しまいに相手の頭のてっぺんにまで攀じ登らないと安心できない、そんなようすに見受けております。 私の周辺にも、あなたに似た暑苦しい「構ってちゃん」タイプの人がいますが、実際、その執拗さ粘着性が日常生活でも周囲の人たちから鬱陶しがられているのではありませんか?それを怨みに思うばかりで自己を検討するなどは考えもしないのでしょうね。自己愛のカタマリでいらっしゃるから! 聞けば60歳代とか。自分の先々こうはならないようにとの戒めにさせていただいてます。その面で、あなたといえども世のなかのために役立っていると言えなくもないですよ。弊害も大きいとは思いますが(笑) 今回の「無意識」云々に関して、この方面の知識がおありで明瞭的確な回答能力をお持ちであるはずのかたたちが一人として参加されないのもフシギなことですが(と言うか一貫して、あなたの質問自体に参加されない) 相手してもらうことを期待されたまま、こちらの事情で参加できないでいると、それだけで気分的に負担を感じます。そのくらい、あなたの発言は他罰的で期待マンマンで、ガツガツと物欲しげです。そのうえ、まわりくどくクダクダしく、一通り読むだけにも骨が折れる。何人もの人から指摘されてるじゃないですか。しかもズレてることを指摘しても、それを理解できないのか認めたくないだけなのか、よりいっそうネバ~と絡んでこられる。結局、同じことを何度も何度も説明させられるハメになる。時間と体力を奪われる。世のなか時間の有り余ったエネルギッシュな人ばかりではないですし、あなたの相手をするよりも重要なことなんて、いくらもありますので。何度も削除されれば自分の問題点に少しは気が付きそうなものですけどね! 現に何人の親切な回答者たちが寄り付かなくなりましたか。最後まで残るものが、あなたのレベルを示すものです。それで満足していれば宜しいでしょうに何様のつもりかしりませんけど自分の気に入るままに付き合ってくれなかったからといって偉そうに、落ち度のない他会員を断罪するかのような発言に及ぶことは慎んでいただけませんか? 私に言わせれば、あなたが餓鬼的「人間以前(まったく、言うに事欠いて!笑)」です。 滅多にしないことですが、一応、運営サイドに連絡しておきます。                                 

noname#80116
質問者

お礼

 次の箇所は 事実であり 省みなければならないかも知れません。  ★ 誰であれ他会員のネームを一部であろうと引用して  ▲~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ソクラテスの「産婆術」です。イロニー(皮肉)によって相手のドクサ(臆見)を打ち壊していき、相手がエピステーメ(叡智)に到達する手伝いをするという「対話術 dialektike techne」。弁証法。めちゃめちゃ人に嫌われるやり方です。嫌われちゃって嫌われちゃって、最後には毒杯をグビグビあおぐことにもなりかねません。 (《QNo.68425 独我論と日常感覚 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa68425.html 》 ANo.8) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.36

#32です。 結論です。 ものすごく乱暴に仕分けすると、brageloneさんは唯物論者で、私は、唯心論者だということだと思います。このギャップを埋めるのは、容易なことではなさそうです。 ただ、私は、唯物論も唯心論もこの世界を見るための「モデル」に過ぎない、すなわち、道具に過ぎないと考えています。ですから、宇宙を見るのに、屈折望遠鏡を使うか、反射望遠鏡を使うかの違いと同じです。 要は、自分の課題解決に、どちらの道具が役立つかということです。私の場合、「より自由に、より創造的に、より楽しく」生きることが課題ですので、それには、唯物論より、唯心論の方が「役立つ」との判断です。

noname#80116
質問者

お礼

 たぶん 問題は 次の一点にあるでしょうね。  ● 理論というものは それ自体において 《自分の課題解決に、・・・道具〔として〕役立つかということ》から自由であるのではないか。  ☆ そのあと 《「より自由に、より創造的に、より楽しく」生きること》が 個々の人の意志の問題として 来ます。

  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.35

>たぶん ご自分が わたしの考えに似た見解を持っていて あたかも おれが その質問をしたいのだと言っているのではないでしょうか。 「似た見解を持っていて」「おれが その質問をしたいのだと言っている」 誰が 「見解が似ている」「したいのだと言っている」 と思いたいのですか? あなたの質問のようなことは私は一度たりともしたいと思ったことがありません。 見解が似ているともサラサラ思いません。 恐らく、以前に、どなたかとの見苦しい規約違反丸出しの長い遣り取りがあったとき私がそれを注意したおり、あなたが、カン違いが原因の往生際の悪いイチャモンをつけてきて私にピシャッと遣り込められてしまったことをいまだに根に持っておられるかと見受けます。 「自分に見解が似ている」「自分と同じようなことをしたがっている」と言いたがるのは心理的精神的な或る種の深い問題を抱えている人が、よく言いたがる典型的なコトバです。あなたと同じようなセリフを吐く人に、過去に、このサイト内でも付きまとわれて大きな迷惑を被ったことがあります。 構ってもらいたさの余り、下劣な手段を使わないことです。他者も損ないますが、御自分のためになりません。                    

noname#80116
質問者

お礼

 解釈にかかわる事項は別として 事態にかんする注目点が 違っています。  《この質問は 哲学のカテゴリにおいて 質問にはならない》という投稿があったことに基づき 判断したわたしの見解を述べたまでです。

回答No.34

こんばんは、brageloneさん。 【デリダのエクリチュール論とその応用可能性】 http://www.hirokiazuma.com/texts/ecriture.html 【槙原さんと松本さん対立 歌詞、無断使用か自作か】 http://news.goo.ne.jp/article/kyodo/entertainment/CO2008070701000751.html http://www.tokyo-np.co.jp/tochu/article/entertainment/news/CK2008070802000179.html 「時間は夢を裏切らない、夢も時間を裏切ってはならない」 「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」 (*とんちんかんなこと言ってたらスルーしてください。m( _ _ )m ) というのも… ここまで書かれたものを一通り読みました。 読んでいくうちに近しい出来事がパパパパパ)))))っと浮かんでくる。 うん、上にあげた松本さんとマッキーのかの訴訟記事が… お歌の世界って、ひとつの括りの中にこの場合この二人属してる。 同じ集団に属する。そして、みため同じ様な歌詞なんだけれど… 時間的差異・方向的差異があるように思うんだ。 ・今の時点   ⇒「時間は夢を裏切らない、夢も時間を裏切ってはならない」 《自分にいいきかすように 内へ向かって》 ・将来へ向けて ⇒「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」 《他者へ語りかけるように 外へ向かって》 内と外の役割を分担しあったかのようなそれぞれの歌詞 まるで、反目し合いながらお互いがお互いを支えあってるようにも思えてくる。 自己保存。 同じ集団(お歌の世界)に属すれば、歌も無数にある。 ともすれば、無数の歌の中に埋没してしまうかもしれない。 忘れてならないのが、松本氏は漫画家でもある。 歌が忘れ去られたとしても、アニメから歌を思い出すかもしれない。 アニメが忘れ去られたとしても、歌からアニメを思い出すかもしれない。 そして、よく似た歌詞なら、ひとつが思い出されるときに もうひとつも無意識の海から引き揚げられるんじゃないいんだろうか? “訴訟”というひとつの出来事が刻印として意識に刻まれたのだから

noname#80116
質問者

お礼

 littlekissさん おはようございます。ご回答をありがとうございます。  歌詞の解釈で わたしは ちがう意見ですね。  ▲ 松本零士:「時間は夢を裏切らない、夢も時間を裏切ってはならない」  ☆ 人間の夢というものは 《有効》であれば どれだけ延び延びになっても 時間過程の中で実現する。夢を抱いた人間のほうも なかなかその実現が延び延びになってしまったとしても あきらめてはいけない。時間過程において実現への途中のどこかの一点で 断ち切れにしてしまってはいけない。  ◆ 槙原敬之:「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」  ☆ 基本的に意味不明です。強いて解釈すれば:夢を抱くなら 一定の目標を決めて進むからには 実現の時をも決めて それを裏切らないように努めなさい。そうすれば 時間のほうが――つまりは 周りの人びとや社会のほうが―― それについて来るものだ。  ★ 将来へ向けて / 《他者へ語りかけるように 外へ向かって》  ☆ 語っているかも知れないけれど あまりにも主観的です。強引です。  いかがですか。  * 《あまりにも主観的》という意味は    《無意識》をも 自分の味方に 何が何でも つけてやる。   おれが やると言ったら やるのだ。 という内容のことです。スルーしなくて ごめん。m(_ _)m

noname#80116
質問者

補足

 ★ 【デリダのエクリチュール論とその応用可能性】   ☆ この著者の議論 そして J.デリダ J.ラカン G.ドゥルーズ これらについては まったく 何を言っているのか 分かりません。批判的な意味を帯びさせて言っていますが 良さをおしえていただければ それについて 勉強してまいります。  そのほか J.クリステワ゛ ガタリ ほかにもいましたね。もう忘れましたが この種の議論には ついて行けません。残念ながら 意味が取れません。あしからず。

関連するQ&A

  • やっぱし無意識の概念は要らないのではないか?

     (α) 《意識にのぼっていない記憶野における情報》もしくは《潜在意識》と言えばじゅうぶんではないか?   (β) これは 無意識という概念ないし領域を想定する必要すらないと言おうとするものです。  (γ) 《アーラヤ識》も 同じくふつうの《記憶》ないし《潜在意識》という用語で足りるのではないか?  (δ) 第七識のマナ識は もし仮りに《意志》と言うならそういう精神のひとつの行為能力である。《自我執着心》と言う場合には その種の意志の発動となっている。自我つまり私に執着しない〔で《わたし》たちを生かそうとする〕ふつうの心としての意志もある。  このような(α)から(δ)までの問い求めは つぎのヰキぺの説明内容をさらに深めつつ明らかにしたいという趣旨のもとにあります。  ▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98  フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、  20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 思想や芸術への影響のうち要らない部分・まちがいの部分を明らかにし 捨てるべきは捨てたいという趣旨です。  (ε) さらにヰキぺの記事のうち つぎのチョムスキーの生成文法仮説〔そのうちの用語法のほう〕にもうたがいを持ちたいという魂胆です。   ▲ (ヰキぺ:同上) ~~~~~~~~~~~~~~~  ノーム・チョムスキーの生成文法は、人間の大脳に、先天的に言語を構成する能力あるいは構造が備わっていることを主張している。  子供は成長過程で、有限数の単語を記憶する。単語は、単語が現われる文章文脈と共に記憶される。しかし、子供の言語生成能力は、それまで聞いたことのない文章、従って、記憶には存在しない文章を言葉として話すというところにある。「記憶したことのない文章」を子供が話すということは、それは記憶ではないのであり、それではどこからこのような文章が湧出するのか。    それは「意識でない領域」、または「無意識」から湧出するのだと言える。チョムスキーの考えた普遍文法の構造は、無意識の領域に存在する整序構造である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《記憶という行為能力は みづからの領野としてそれじたいに秩序作用とその構造を持つ》と考えます。《おぼえる》とは《その知識や情報じたいをととのえる》ことだと考えます。  おぼえたものを想起しそれらの知識要素を筋道立てて推論に用い最終の判断のための材料を用意するのは 《知解》というもうひとつの精神の行為能力だと見ます。これに判断をくだすのは 《意志》という能力行為です。  精神(ないし心)は《記憶・知解・意志》の三つの行為能力から成るという見立てです。社会形態における役割になぞらえれば 順に《司法・立法・行政》に当たるという見方です。  ここでも《無意識》という領域を単独分立させる意義はないと見ますが どうでしょうか?

  • 無意識ないしアーラヤ識をめぐって おうかがいします。(続編)

     この主題じたいが 広い範囲のことがらを扱うと思いますが この質問も 項目がいくつかあります。  質問の基本的な志向内容は なぜ無意識の理論を必要とするのかです。なくてもかまわないのではないかという見方からです。  (A) 《wiki:無意識=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98》の中から 質問です。  (1)《言語能力は先天的であるので これは 無意識の領域である》との趣旨で伝えていますが これは 《記憶という行為能力》に含まれるとすればよいのではないか。  心臓の鼓動は 意識し得ますが なぜ動くのかは意識し得ません。では そのことを称して 無意識と言うのかと言えば そうではないはづです。それと同じように 意識し得ない言語能力を わざわざ無意識と呼ぶ必要はないように思われます。  (2) フロイトは《精神分析の理論の応用として、個人における「良心」、社会における「道徳」の起源を、無意識の抑圧構造の文化的な作用として説明した》というとき 《「抑圧する無意識」は 実証できない》とも同時に批判しています。上の応用は 分かったようになっているだけではないですか。言いかえると 意識的にしろ無意識的にしろ 《わたし》が 世間に倣ったり反発したり 発現しようとする自己を抑圧したりあるいはいろんな形で表現したりしているというただそれだけのことではないですか。  (3) ユングの理論に対して wikiは次のように批判しています。 《「神へとみずからを高める無意識の構造」は実証できない。しかし、「ユングの基本理論」と「ユングの思想」は分けて考えねばならない。ユングの理論は反証可能性を持たず、現代的な範疇での科学としては、成り立たない》。つまり 記憶なり精神なり《わたし》の自己同一性のことを 《無意識》という言葉でわざわざ指し示す必要もないのではないでしょうか。  (B) 《wiki:唯識=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98》の中で質問です。  (4) 《三性》を立て   ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1.遍計所執性(へんげしょしゅうしょう):〔自己が世界を描き出したという〕構想された存在  2.依他起性(えたきしょう):相対的存在、他に依存する存在  3.円成実性(えんじょうじっしょう):絶対的存在、完成された存在 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ の如く――つまりはいわゆる《仏性》のごとく―― 最終的に《円成実性》を想定するときには その扱いが 《有神論》のようになるので微妙ですが そうではなく あくまで《識・こころ》も実体ではないという大前提に立つならば(立つのですから)  そうするならば なぜそのような《相対的で移ろい行くアーラヤ識》を《根本の心》として出してくるのですか。なぜ すべてを取り仕切る働きであるかのように  ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この〔アーラヤ〕識が前五識〔* つまり眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(嗅覚)・舌識(味覚)・身識(触覚など)そして〕・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、更に我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ということになるのでしょう? 《わたしとその記憶行為またその知解行為そして実行としての意志行為》では 足りませんか。世界とわたしとが互いに応答するというその相互作用という見方では 足りませんか。  * ご回答の中で 精神分析の継承・発展として ラカンやクリステワ゛を出されたときには 分からないなりについて行きますが そのほかの人びとを出されれば 一から尋ねてまいります。

  • 人には認識能力がある。なぜ?

     人には認識能力がある。なぜ?  認識するという行為能力は 広く言えば知解能力だと思いますが しかもこの知解(特には理性)は むしろ意志という能力行為にしたがう。  〔むろん 意志と知解とは いまひとつの行為能力である記憶とともに 時間差のある三位一体を成すと考えられる。  意志行為の内容について 知解はその合理性如何んを正す。  そのとき 記憶という情報源から資料の助けを借りる。うんぬん  最終的に おのれの主観真実として 記憶と知解と意志とがともに同じ内容を持って一体であることを志向していると考えられる。その三位一体が実現するのは 時間過程の中にある〕。  なぜ人間には 世界を――感官で知覚したあとこれを概念化して――認識するという知解能力があるのか?

  • 神による人と世界とのデザイン

     1. ≪場≫が生まれる。(あるいは 元からある)。時空間として動いている。  2. 場が揺らぎ コトとしてある。  3. コトなる場が揺らぎ過ぎて 別の部分的な場が生じた。モノとして分かれる。  4. コトを起こしている場が 元の場とそこから分かれたモノとから成るようになった。  5. 場も言ってみれば存在であるが のちに人間は そこから分かれているモノのほうに≪有るか無いか≫の存在を見ようとする。  6. 人間は 場についても その知性を当てはめてそのモノとコトから成る世界を捉える。  7. 場がゆらぐ。場が場する。世界が世界する。というとき 初めの場や世界を ≪記憶≫と呼ぶ。  8. 記憶なる精神が精神するとき そこに≪知解≫が生じていると見る。納められた情報が 倉庫から出て顕在化する。  9. 記憶と知解との突き合わせをつうじて ≪意志≫が発出する。知解は 自分が部分観でないかとおそれて記憶に相談する。その結果である。  10. モノがモノするとき 熱を帯びユラギのほかにさらにエネルギーを生じさせる。このエネルギーを意志が帯びる。  11. 光のタトヘとして言って ≪光源≫が 記憶である。記憶が記憶するとき ≪発耀≫としての知解が生まれる。記憶と知解とのすり合わせをつうじて ≪明るさや温かさ≫としての意志が現われ出る。  11-1. 意志行為には プラスとマイナスとがある。そういう自由度が生まれつきそなわっている。明暖と暗冷との両面が表わされる。  12. 記憶は 社会形態としては 司法に当たる。知解は 立法である。意志が 行政にあたる。  13. この三つの事項の一体性が ≪神のデザイン≫である。三位一体なる神という想定になる神論から解釈したものである。  14. 神としての三位一体は 時間を超えているので ≪父なる神≫と≪子なる神≫とその両者から発する≪聖霊なる神≫とは 絶対の同一である。それぞれの個はほかの個と・そして全体とも それぞれひとしい。時間的な変化はない。  15. 人間の精神における≪記憶 ‐ 知解 ‐ 意志≫なる一体は・そして国家としての≪司法 ‐ 立法 ‐ 行政≫の分立=協働も それぞれ時間差をともなった一体性である。  15-1. 行政のおこなったことが 司法によって≪あとから≫その合法性いかんがあらそわれる。わが意志行為も あとで記憶に照らして間違っていたと分かることがある。  16. 人の一生のあいだには 意志ないし行政の行為が記憶ないし司法の判断とついぞ合致しないままに終わるということさえ あり得る。悪貨が良貨を駆逐し 表現のあやとして言って 巨悪はほろびず生き延び得る。  17. ≪因果応報説≫が 現実につねに当てはまるとは言えない。それは 時間的な意志行為には ズレがあり かなしいかな神の普遍的・不可変的な一体性は 破られ得る。相対性が絶対に対して勝つ。  17-1. 相対世界における或る人の意志行為に 絶対なる神が勝ったとすれば それはその意志行為のあやまちが明らかにされたことを意味するが そのような認識と判断は あくまで相対世界における人間の≪意志による知解≫としての判定である。それを神にかこつけて表現したに過ぎない。(神が勝ったのかどうかは 分からない)。  18. ≪ plan → do → see ≫のサイクルは ≪知解→意志→記憶(秩序作用)≫または≪立法→行政→司法≫のそれとして捉えられる。  19. これらのことをいにしへの聖書記者は 次のようにタトへにおいて記した。  ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  20. 以上が 神のデザインについて曲がりなりにも哲学として考えようとした議論です。添削をどうぞ。

  • 認識は 存在に先行しない

     【Q:存在と存在理由・・・】の姉妹質問です。ついでに問います。  1. 知解行為においてものごとを知り世界を認識し存在をも思う――このことによって《存在》が成るのか?  2. モノの存在はいざ知らず ヒトなる存在は認識作業の以前にすでに成っているのではないか?  3. 人間は モノに還元されるのか?  4. ひとの意志は 知解行為と――そして記憶行為と――時間差をともなって一体であると思われるが 認識(知解)するというならすでにそれをしようとする意志もがはたらいているはずだ。記憶・知解・意志なる三つの行為能力を持つひとの自然本性は 身とともに すでに存在している。という原点から出発するほかないのではないか?  5. この世に生み落とされたというところから出発するよりほかにないのではないか? 言わばモノがそのようにひととしての生命を持ったところからという意味である。  6. モノは認識によって存在するようになると言った場合 その認識をおこなう存在は・そしてその認識の能力は では どのように存在するようになったのか?  7. 認識等の知解行為をおこなう主体は すでにあくまで自然本性として存在を受け取り その動態としての存在を生き始めている。あとは そのことの認識作業は 言わば事後の知解行為に過ぎないのではないか?  8. 存在とは ものごころが着いたあとの 意志行為を中軸として生きられている。  9. このひとの存在は モノの自己運動についてはけっきょくのところ手に負えないのであるが その弱さ(つまりひとは受け身であるということ)においてながら モノの存在とは一線を画している。か?  10.  モノは認識しない。とりわけ意志しない。ただの自己運動のみである。しかもひとによって加工・操作される。よわいほうのヒトが えらいと見なずばなるまい。  11. 有るゆえに知るのであって 知るゆえに有るとは言えない。のではないか?  12. この《有る》が うつろいゆかざるを得ないものであることは また別の問題である。

  • 自然本性としての《むさぼらない》という能力

     自然本性としての《むさぼらない》という能力  ◆ 1. 《記憶‐知解‐意志》なる三つの行為能力として分析するのではなく おもに意志行為の具体的な内容に応じて《自然本性》のあり方をさぐるこころみです。  1-1. ひとに生まれつき備わった本性には たとえば《自然状態》と言われるごとくに《ものごとを限りなく欲する〔ゆえに 人は互いにあらそう〕》という思いや動きがあるとは見ない。――このように仮説した命題を問います。  1-2. 言いかえると 自然本性には《むさぼることはしない》という能力がそなわっている。――この命題を問うものです。  1-3. 《人は人に対して狼である》ではなく 《万人の万人に対するたたかい》でもなく そうではなく人びとは《非戦論において くにゆづりをおこなうことがある》。  ◆ 2. 《ものごとを欲する》という意志行為にかんして 次のように――西欧の精神科学にもとづき―― その内容を区分し それぞれについてやはり《むさぼらない》という能力が生まれつきそなわっていると言おうとするものです。  2-1. 《欲する》という意志行為を 次の《欲動・欲求・欲望》の三つに分けます。(いくらか 解釈に勝手な色合いを出しています)。  (α) 欲動( pulsion ): 存在するもしくは生きるということに関して ひとを否応なく突き動かすような感覚や思いや動きを言う。   ・(α‐1) これは 意志の発動する以前に起きるハタラキであるように思われる。  (β) 欲求( besoin ): 空腹を満たすというような――やはり意志に先行して起きる――身体自然にかかわる生理的なハタラキを言う。   ・(β‐1) 意志は 欲動や欲求が 意志に先行して起こしたそれぞれのハタラキを受け留め 一般にその中身を意志行為としておこなう。   ・(β‐2)  性欲は 意志に先行する欲求であるが 性行為はひとが意志によって・しかも互いの意志の合意によっておこなう意志行為である。〔→(γ-1)〕  (γ) 欲望( désir ): 欲動――つまりむろん 生の欲動――として起きたハタラキを受けてわれわれは 欲求をも満たしつつ 生活する。この生活においてわれわれが何かを欲するという感覚や思いやあるいはそのハタラキないしウゴキを言う。   ・(γ-1) しかもこれら《生活において欲する》ことの意志行為が自然本性としてそなわった生物なる存在としてわれわれは 互いが互いをそのような存在として受け留め認めている。つまり 生活は 共同性を持ち 社会生活をいとなむ。   ・(γ-2) ここで 意志行為をおこなう意志は いわゆる自由意志である。早い話が 欲動や欲求の自然なハタラキに――或る程度は――逆らってまでも《おのれの意志》を持とうとするし その《自由》を手放そうとはしない。   ・(γ-3) よって欲望は われわれが社会生活において これを欲する・あれを欲しない これをこのように欲する・あれを欲しないどころか排除しようとまで欲するなどなどと展開するあらゆる志向性を言うことになる。   ・(γ‐4) よってわれわれの欲望は 環境自然に対しても・《身と心》の自然本性に対してさえもそれらにおとなしく従う場合もあれば逆らって振る舞う場合もある。言いかえると これら《自然的および非自然的(つまりその意味で文化的)な〈欲する行為〉》を含む。   ・(γ‐5) よってわれらが欲望は 欲動に逆らったり欲求をねじ曲げたりそしてもろもろの社会的欲望についても 際限を知らないというほどに《自由に しかも時に 見境なく自由に》その想像力の翼に乗ったら乗ったでその行き着く先の宇宙の果てにまで進み入る。   ・(γ‐6) 欲望は《むさぼり》となり それとしての意志行為が現われるし 実際に起こされている。ところが・・・  ◆ 3. ・・・ところが このとき意志行為は もともとその自然本性にあっては 《むさぼり》を知らないのであり 《むさぼることをしない》という能力がそなわっている。と見る。  3-1. 言いかえると むさぼりを行なう欲望ないし意志は もともとの自然本性にはない。後天的な心的および社会行為的な現象である。に過ぎない。こう見る。  3-2. この命題の成否を問うわけですが これ以上論拠がないというその意味は タナトスなる死にかんする志向性が 死の欲動などと言われるごとくには 生来のチカラでもなければ本来のハタラキでもないということ これを言おうとしているものだからです。  3-3. 生の欲動のほかに 欲動はなくその中身にも複雑性はないという想定です。志向性の複雑は すべて《欲望》の段階における二次的で派生的な意志に発している。  3-4. 言いかえると 言ってみれば ひとはこの自然本性論としての問いにかんする公理を どのように設定するか。こういう問いになっています。  よろしくどうぞ。

  • 認識が存在に先行するか?

     1. 知解行為においてものごとを知り世界を認識し存在をも思う――このことによって《存在》が成る のか?  2. モノの存在はいざ知らず ヒトなる存在は認識作業の以前にすでに成っている のではないか?  3. 人間は モノに還元されるのか?  4. ひとの意志は 知解行為と――そして記憶行為と――時間差をともなって一体であると思われるが 認識(知解)するというならすでにそれをしようとする意志もはたらいているはずだ。記憶・知解・意志なる三つの行為能力を持つひとの自然本性は 身とともに すでに存在している。という原点から出発するほかないのではないか?  5. この世に生み落とされたというところから出発するよりほかにないのではないか? 言わばモノがそのようにひととしての生命を持ったところからという意味である。  6. モノは認識によって存在するようになると言った場合 その認識をおこなう存在は では どのように存在することになるのか?  7. 認識等の知解行為をおこなう主体は すでにあくまで自然本性として存在を受け取り その動態としての存在を生き始めている。あとは そのことの認識作業は 言わば事後の知解行為に過ぎないのではないか?  8. 存在とは ものごころが着いたあとの 意志行為を中軸として生きられている。  9. このひとの存在は モノの自己運動についてはけっきょくのところ手に負えないのであるが その弱さ(つまりひとは受け身であるということ)においてながら モノの存在とは一線を画している。か?  10.  モノは認識しない。とりわけ意志しない。ただの自己運動のみである。しかもひとによって加工・操作される。よわいほうのヒトが えらいと見なずばなるまい。  11. 有るゆえに知るのであって 知るゆえに有るとは言えない。のではないか?  12. この《有る》が うつろいゆかざるを得ないものであることは また別の問題である。

  • 《自我・超自我・無意識》の理論は まやかしである。

     (1) すでに 《無意識》という領域については 批判が終わってもいるようです。    ▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~  § 広義の無意識と潜在意識  フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、  20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。  ~~~~~~~~~~~~~~~  (2) とにもかくにもこの単に意識していないというのではなくわざわざ《無意識》という領域を設定した場合の概念というのは ひじょうに厄介な分析道具だと考えられます。つまり 要らないはずです。  意識できない・意識していない・意識したくないといったかたちで《意識の外にある》ことがら これは 意識に現われたとき認識すればよい。ただこういう問題だと考えます。すべて記憶の倉庫にしまってあると見ればよいわけです。  なぜなら 意識の先を越して――ということは 意志による判断を省みずに――行動に移ったという場合 それはそれでも事後的に《わたし》の意志行為であると見なせばよいわけです。  これをわざわざ無意識のしわざであると言うものですから ややこしくなる。思ってもいないことをやらかしたとか 人を突き動かすものには意識の底の自分にも分からない力があるのだとか 人間の行為ないし現象をわざわざややこしくしているはずなのです。どれだけ怪しく妖しい力が突き動かしたにしても それらはすべて人間の・そしてわたしの《自然本性もしくはそれのへそ曲がり》から来ています。  すべての思惟や行動は――無意識からであろうがどうであろうが―― わたしが引き受けることがらです。意志行為は中軸ですが 《わたし》がむろん全体なのですから 無意識であったゆえにみづからの意志が関与していなかったとしても それはわたしの行為である。このことは はっきりとしています。満員電車でほかから押されて起こした動きも 故意でなくても 《わたし》の行為として引き受け これにそれとして責任を持ちます。  すなわちパーツを取り出し――それも要らないパーツであるのに―― 思いや行ないについてそのパーツの所為にする。ここに間違いがあると考えられます。  (3) わたしの中に自我・超自我・エス(《それ・あれ》・無意識)をわざわざ取り上げ取り出したときから わたしの分裂が始まったのではないか?   二重人格などありえません。ですが 自我なら自我が全体としての《わたし》から単独分立したときから もうひとりのわたしという観念が生まれその横行が始まったのでは? 超自我さえ単独で あたかもわたしの代わりになるかのような扱いを受けてしまいました。  無意識を研究するのは なぜかカッコよいとさえ見られるという一面も生みだされました。  (4)  《超自我性》も《無意識のものが意識されるようになったエス性》も 全体としての《わたし》の思惟や行動にとっての材料や選択肢となることがらであると言うべきです。ということは 何がエスで何が抑制因かという区分は――選択肢の内容をそのときの判断において把握していればよいわけですから―― 要らないと見られます。  欲動かそれを抑制するかという観点のみではなく そのほかの自分の中の要因やあるいはその場の相手や果ては情況一般といった観点をも含めてとうぜんのごとく総合的に判断するのであり それをおこなうのは 《わたし》です。  (5) いま・ここにあってわたしと自称しているわたしが存在しているというのみではないか? わたしという人格 あるいは 人格としてのわたし。  自我という人格あるいは人格としての自我とは言わないでしょう。しかも原語は 《 das Ich ( the 'I ' ) 》であり自称に用いる《わたし》のことです。《これこれが わたしの意見です》というところを 《・・・わたしの自我の意見です》とは言いません。言えません。  (6) なぜ《わたし》を分けてしまい 引き裂いてしまうのか。その精神分析のどこが 学問でありましょう。勝手にみづから病いの殿堂を建てているようなものではありませんか?  《自我》とは 《わたし》のパーツである。しかもそうだとすれば 要らない。  《エス・無意識》も ただ《逸る気持ち》とでも言えばよいであろうし 《超自我》は《内に省みる心》とでも言えばよいはずなのでは?

  • 感性は 理性よりもえらい。

    まづ 定義から入ります。  序  《理性》は 広くは《精神》全般を表わすこともあり 狭くは 或るコトから別のコトを論理的に導く(つまり推論する)能力を言うようです。  ひとの存在を 《身と心》に分けたとき その心のことを広義には 理性という言葉が表わす場合もあり 狭義には或るコトの意味の論理的な展開をおこなう能力を言うのだと見ます。    ひととおり定義をしておいて そのあと 表題について問います。  1. ひとの存在: 身と心 / 身体と精神 / 感性と理性  2. 自然本性: 身と心それぞれの性質と能力を言う。  3. 感性: 身の五感が知覚すること。  4. 悟性: 知覚を認識する。知覚は 世界事実に接して起こるゆえ 悟性は 世界の事実認識である。  5. 理性: 悟性の成した事実認識ないしその情報を整理しつつ――その一つひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらにあらたな(或る意味で将来へ向けての)意味を捉えようとする。この場合 しばしば意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理的なつながりに収斂していく。  6. 判断: 理性のおこなった推論とその結果について 或る基準によって取捨選択する。その判断基準は 一般に主観的な《よいかわるいか》である。おおむね善悪である。  7. 知解: 感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉えたあと理性がこれを意味づけさらにあらたな意味連関をみちびきだす。  あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念として整理し この概念をすでに――感性から一たん離したかたちの――観念としこの観念を 想像力にまかせてあやつりつつ 或る種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢をととのえ 判断過程へと送る。  ここまでが 知解という作業である。  8. 意志: 判断能力とその行為を言う。選択肢の中から 一般によいものをえらぶのであるが 良し悪しの評価と判断は やはり主観的なものである。(学習過程を経つつ くせ・ならわしとして培うようになる)。  8-1. 自由意志は 周知のように 必ずしも善と思うものをえらぶとは限らない。おのれの心にさからって負の善(つまり悪)をえらぶことも 少なくない。  9. 記憶: ただしこれら知解および意志に或る種の仕方で先行する自然本性の能力として 記憶がある。おぼえるというよりは 存在にかんするすべての(つまり本性としてすべての性質および能力の)あり方の秩序作用である。自己組織化のハタラキである。  9-1. 記憶は 悟性が認識した知識としての情報を むろん整序してその倉庫におさめる。  9-2. たぶん 狭義の理性による論理的な情報整理とは違った《身と心の全体にとっての》整序作用を持つというように思われる。  9-3. 言いかえると 《わたし》が意識していないハタラキであり 直接に意図(意志)もしていないそれであろうと思われる。  9-4. 記憶は 取捨選択した判断とその内容を実際に行為したという意志行為の実績を整序しつつ記憶し その記憶の中にとうとぶべき意味内容のたくわえを持つ。これは 知恵だと考えられる。  10. 知性: これは 知解という行為能力を言う場合が一般である。ただし 知恵をもふくめて言うこともあるか。  11. 境地: 《記憶・知解および意志》の三つの行為能力の全体を言う。つまり 自然本性の――特には 精神にかかわる――全体のことで 特定の《わたし》の実際の存在形式である。その状態である。知恵と知識とそして判断力あるいは度胸などを含めたかたちである。      *  さて 《感性は 理性よりえらい》について 次のように問います。  12. 狭義には理性は 良し悪しにかかわる判断を含まないから そのような倫理としての意志行為とは別である。  13. 広義には 意志やら知恵やらを含めた精神全般を指して言うのなら 理性は 善悪判断をおこなう倫理や道徳にかかわっている。  14. ただし この善悪の判断というのは 自然本性のあり方としてそれぞれの《わたし》の意志にもとづく主観的なものだと考えられるゆえ その主観としてはむしろ基本的には身体の感性において 良し悪しが――ひそかに・言葉に先行するようなかたちで――告げられていると思われる。  15. わが心にさからってウソをつくなら 顔をあからめることになる。さらにイツワリをはたらこうものなら 発言に際して言葉はしどろもどろになり 冷や汗が出る。  16. たぶんこのように感性は 理性に先行してハタラキを成し 理性よりえらいと思われる。  17. なぜなら ウソをつくにもイツワリをしでかそうとするにも ポーカーフェイスをよそおうのは バレるのを避けるという推論の結果であって そのように――むろん意志による判断とともにであるが――理性がチョンボをおこなっているのだと見られる。  18. ひとは 感情に流されるのではなく・ほんとうにはそうではなく そのような様相を呈しながら むしろ理性が意志を巻き込んでそれを欲し横暴をきわめるのだと考えられる。すべて理性のしわざだと見られる。意志をしのいでしまうようである。  19. この生身の存在にかんするかぎり社会力学上で 何が何でも 有力になるということ そうなれば勝ちなのだという理性のくだした安易な推論を 意志もつい負けて飲んでしまうようである。感性は そのウソに気づいているのではないか。

  • 自我意識とは記憶が作り出すものなのでしょうか?

    ヒトだけが持つと言われる「自分」という概念、 すなわち自我同一意識(アイデンティティ)は、 記憶を源泉として成り立っているものなのでしょうか?     *** 私は自分の過去が記憶でしかないことに気がつきました。 自身の一秒前の行動と二十年前の行動を振り返ると、 両者では記憶の“鮮度”が異なります。 しかし両者とも、自分が行った無意識の動作を、 記憶を頼りとして客観的に認識していることに 所詮変わりはありません。 そして、自分の過去が真実なのか否かについては、 他人の証言や物証を自身の記憶と照合する以外には 確かめようがないことにも気がつきました。 仮に途中で自身の過去についての記憶が 何らかの事故で変容していたとしても、 自分一人だけではそれに気がつく由もありません。 自身という認識は記憶に過ぎないのでしょうか? また、冒頭の話題との関連で、 もう一つ派生的に記憶についての疑問が湧きました。 精神的トラウマが原因で多重人格になった人は、 互いに他の人格でいる時の記憶がありません。 その一方で、コトバを話したり字を読んだなどの 後天的学習により習得した基本的能力の一部については、 大抵どの人格であっても発揮できるようです。 母語については後天的に習得するものとはいえ、 無意識的行動をつかさどる領域に まるで本能のように刷り込まれるためなのでしょうか?