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自我・超自我・無意識の理論はまやかしである
- 無意識の概念は実証されないものであり、思想や芸術に影響を与えている
- 無意識の概念は分析道具としては不要であり、意識の外にあることは意識に現れたときに認識すればいい
- 自我・超自我・無意識を区分する必要性はなく、判断や行動には総合的に判断する『わたし』が関与している
《自我・超自我・無意識》の理論は まやかしである。
(1) すでに 《無意識》という領域については 批判が終わってもいるようです。 ▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~ § 広義の無意識と潜在意識 フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、 20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。 ~~~~~~~~~~~~~~~ (2) とにもかくにもこの単に意識していないというのではなくわざわざ《無意識》という領域を設定した場合の概念というのは ひじょうに厄介な分析道具だと考えられます。つまり 要らないはずです。 意識できない・意識していない・意識したくないといったかたちで《意識の外にある》ことがら これは 意識に現われたとき認識すればよい。ただこういう問題だと考えます。すべて記憶の倉庫にしまってあると見ればよいわけです。 なぜなら 意識の先を越して――ということは 意志による判断を省みずに――行動に移ったという場合 それはそれでも事後的に《わたし》の意志行為であると見なせばよいわけです。 これをわざわざ無意識のしわざであると言うものですから ややこしくなる。思ってもいないことをやらかしたとか 人を突き動かすものには意識の底の自分にも分からない力があるのだとか 人間の行為ないし現象をわざわざややこしくしているはずなのです。どれだけ怪しく妖しい力が突き動かしたにしても それらはすべて人間の・そしてわたしの《自然本性もしくはそれのへそ曲がり》から来ています。 すべての思惟や行動は――無意識からであろうがどうであろうが―― わたしが引き受けることがらです。意志行為は中軸ですが 《わたし》がむろん全体なのですから 無意識であったゆえにみづからの意志が関与していなかったとしても それはわたしの行為である。このことは はっきりとしています。満員電車でほかから押されて起こした動きも 故意でなくても 《わたし》の行為として引き受け これにそれとして責任を持ちます。 すなわちパーツを取り出し――それも要らないパーツであるのに―― 思いや行ないについてそのパーツの所為にする。ここに間違いがあると考えられます。 (3) わたしの中に自我・超自我・エス(《それ・あれ》・無意識)をわざわざ取り上げ取り出したときから わたしの分裂が始まったのではないか? 二重人格などありえません。ですが 自我なら自我が全体としての《わたし》から単独分立したときから もうひとりのわたしという観念が生まれその横行が始まったのでは? 超自我さえ単独で あたかもわたしの代わりになるかのような扱いを受けてしまいました。 無意識を研究するのは なぜかカッコよいとさえ見られるという一面も生みだされました。 (4) 《超自我性》も《無意識のものが意識されるようになったエス性》も 全体としての《わたし》の思惟や行動にとっての材料や選択肢となることがらであると言うべきです。ということは 何がエスで何が抑制因かという区分は――選択肢の内容をそのときの判断において把握していればよいわけですから―― 要らないと見られます。 欲動かそれを抑制するかという観点のみではなく そのほかの自分の中の要因やあるいはその場の相手や果ては情況一般といった観点をも含めてとうぜんのごとく総合的に判断するのであり それをおこなうのは 《わたし》です。 (5) いま・ここにあってわたしと自称しているわたしが存在しているというのみではないか? わたしという人格 あるいは 人格としてのわたし。 自我という人格あるいは人格としての自我とは言わないでしょう。しかも原語は 《 das Ich ( the 'I ' ) 》であり自称に用いる《わたし》のことです。《これこれが わたしの意見です》というところを 《・・・わたしの自我の意見です》とは言いません。言えません。 (6) なぜ《わたし》を分けてしまい 引き裂いてしまうのか。その精神分析のどこが 学問でありましょう。勝手にみづから病いの殿堂を建てているようなものではありませんか? 《自我》とは 《わたし》のパーツである。しかもそうだとすれば 要らない。 《エス・無意識》も ただ《逸る気持ち》とでも言えばよいであろうし 《超自我》は《内に省みる心》とでも言えばよいはずなのでは?
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#23です。 >《自我》とは 《わたし》のパーツである。しかもそうだとすれば 要らない。 《エス・無意識》も ただ《逸る気持ち》とでも言えばよいであろうし 《超自我》は《内に省みる心》とでも言えばよいはずなのでは? : そもそも、すでに、このように述べておられますから、自我もエス・無意識も超自我も(言葉が違うだけで)その存在は認めていることになります。 仮に《超自我》を《内に省みる心》と言った場合、何がどう違ってくるのか、その当たりが不明確ですよね。 省みるわたしと省みられるわたしが分裂するわけですから、要するに運用の違いということでしょう。 わたしとしては別に他の言葉でも構いませんが、大事なのはその中身、思考法だろうと思います。 このスレにおいては、そのことを正面から取り上げる形にはなっていないでしょう。 肝心の議論が傍系になってしまっている。 建設的ではないというのはそういうことです。 > 《わたし》でありつづける。 これで たたかいは すでに勝利です。 : 「>《わたし》でありつづける」 これは何にでも言えることだと思います。 そのための方法論の問題でしょう。 方法論の比較をしても仕方ないと思うのですが。 ある方法論を批判するのは構いませんが代替案がないと・・・。 しかも、(もしあるなら)その代替案についての論議こそが大事なように思われます。 今回も文中で触れておられるのかもしれませんが、出だしが出だしなのでどうも焦点がぼやけてしまっている可能性はありそうです。 >《わたし》がいま・ここにいるという自覚だけでも すでに勝利だと考えます。 : そうですね。 ただ、そのように自覚できないのが神経症なのですから、どのようにしたら自覚できやすいか、ということだと思います。 続く項目も順次拝見しましたが、自我をわたしと置き換えて表現することによる有意な根拠が見出せなかったので、あえてコメントは控えさせていただきます。 >大波津波の起こる社会の歩き方じたいには 何も言わないし むしろそれが自己運動をするにまかせている。まかせていることによって 一定数の患者が確保され 自分たちはおまんまが食える。こういう構図になっていはしますまいか? : その方面の実体は全く知りませんが、ブラジュさんの説でいくと人はみな評論家か政治家を志すべきだ、ということになりそうですね。 結局、真理(であるかどうかという問題はおいといて)を知ることによって人は一番安定するんじゃないかなと思います。 大波津波に対して何か言うから有意義ということには必ずしもなりません。 > エス・超自我・自我のシステムによって内面へ向かう自省のこころみは 無駄に終わる。こう考えます。 : そういう見解があっても良いと思います。 ◇ #22さんとのやりとりでエディプス・コンプレックスが挙がっているようなので、若干触れてみます。 コンプレクスというのは本来複合という意味で、錯綜のように解釈してもよいと思います。 他の女性を母親と重ね合わせること、勘違いすること、とも言えます。 母親の子に対する愛情は一般的に言って相当強いもののはずで、しかも自我(と言うとまた怒られそうですが)の芽生える以前からの付き合いで、言ってみれば自分の一部として生きた時代を経るので半端ではない環境刺激として脳に記憶されないほうがむしろおかしいと考えるのが自然です。 詳しいことは知りませんが、大なり小なりこのコンプレックスは人間であれば誰もが持っているものでしょう。 ただ、錯綜しているからといって社会生活上支障がなければ問題視する必要はありません。 それがどうした、で済むわけです。 この用語はギリシア悲劇から題材を得ていますが2つの意味から命名されました。 ひとつは、男児が母親に対する愛着と忌避、父親に対する尊敬と反抗という相互矛盾を乗り越えて、それらを年齢を経るとともに解決し統合していく過程で精神的昇華が得られる、つまり超自我性が育まれていくという構図を示したものです。 また、エディプス王が国内の災厄の原因を調べていくうちに結局自らの行為がその原因であったことを突き止める、という過程が、内面にあるにもかかわらず本人が気づかない無意識にあるものを浮かび上がらせることによって悩みを解決するという分析手法と酷似しているというのが2つめの因子です。 このように、幼児からの心理的発達過程とそれを探る手法を表した用語で、近親相姦云々はこの用語の要旨とは殆ど関係ありません。 以上、一素人の個人的見解も多く含まれていますので悪しからずご了承願います。 今回のスレはこんなところで失礼します。
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- 畑 茂夫(@Flareon)
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今回のテーマだと、ほぼ心理学の全てに「そんなもんありゃしねー」を宣言することになりますが、単純に学問としての役割の違いを明白にする取り組みだけで十分ではないでしょうか。 知性を題材にするのと心を題材にするのは違うでしょうが、これは哲学が自らの所在について論議が空転していることの弊害もあるでしょう。 自らが存在すると決定したうえでの論議を他方でされると、そこで空転している哲学はむなしくなります。 ですが心が原因で病気や奇行に走る病があるなら、心理学はさらに探究を深めてもらわないと社会的に困ります。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ですが心が原因で病気や奇行に走る病があるなら、心理学はさらに探究を深めてもらわないと社会的に困ります。 ☆ これが一般に言われるところの《器質による病い》なのではないでしょうか? つまり ★ 心が原因で・・・ ☆ なのではなくて じつはそうではなくて 初めからの身体の部位やはたらきに不具合いがあるということではないでしょうか? ★ 心が原因で ☆ というのは ここで取り上げている社会力学上のチカラ関係としての圧力によって 《アース役はつらいよ》という弱さの部分だという見方をしています。 この《弱さ》というのは じつは わざと《弱い》と言っているのですが その現象を分析するとおもしろいと思っております。 つまりは 一般にアース役を引き受けてもそれを超えていける強さを持つというのは じつは 病いにかかっているのだという見方です。 言いかえると この《強い》人びとがやがてガミガミ電波を意識の排泄のごとくに出すようになるということ。この磁場にあって ほんとうに強い人たちは アース役を引き受けてその影響じたいは受けるのですが 受けるのですから それ相応に《弱さ》が出ます。つまり 強いチカラを持っているから 弱さをも出します。 のちにガミガミ電波を出すようになる人は 弱いからアース役を引き受けたとき 早々にその磁場から何とか逃げ延びる工夫を考えます。まるで《わたし》を脱ぐようにして 別の人格のようになる。そうしてそのあと ガミガミ電波を飛ばせる地位にのぼると その弱さと病いがもろに出て来る。 このような分析です。
- Tefu_Tefu
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こんにちは。 学問を勉強し始めたばかりのど素人の考えですが。私も、bragelonneさんのおっしゃられるように未知の分野の問題なので心理学においては、それでいいのではないかと思います。 ただ、福岡伸一さんの本を読んでいて、(DNAに関しては、かなりの批判があり、また、パクリ本と言う批判もある本ですが)、ギルマンとシャーリーが発見した情報伝達物質ペプチドと自立神経と神経節の存在する場所、これが、貴方に似た人がおっしゃていたパウル・シュレーバーや心理学やシンクロニティーに関わってくるのかなと思いました。 http://www.zoology.or.jp/news/index.asp?patten_cd=12&page_no=326 http://okwave.jp/qa/q6566741.html
お礼
ご回答をありがとうございます。 ○ シュレーバー回想録 ☆ これの解説を読んで あらためてご返答いたしますので お待ちいただけますか?
補足
★ 福岡伸一さん ☆ について よく知りません。後回しになります。何かありましたら くわしくおしえてください。 ○ シュレーバー回想録 ☆ をめぐって述べます。 ▲(村丼 翔:症例シュレーバー) ~~~~ ――フロイト再読(9)―― http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/8476/1/80845_47.pdf ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ によります。この論文は 途中までですが それでも反応を持ったのでしるします。 ▲ ~~~~~~ 1)感覚の変容:「強度の感覚過敏」 2)解釈と反応の異常:ひとつながりの手順となるべき思考の過程が連続性を失い、分裂してしまう。 3)妄想と幻覚:前二者の 感覚の超過敏状態および思考過程の障害の必然的帰結だという。 4)自我の変容:シュレーバーの妄想には「錯覚に基づく迫害観念」が含まれているが、これはやがて、迫害者たちは白分の身体を女のそれに変え、娼婦としてもてあそぼうとしているのだという妄想へと発展してゆく。 5)感情の変化:陰性症状としては、他人への共感といった生き生きした感情の動きが感じられなくなり、患者の感情がいわば平坦化して、冷たいロボットのようになることを言う。 6)行動の変化:分裂病患者の「引きこもり」 ~~~~~~~~~ ☆ わたしは(4)の ▲ 自分の身体が女性化しているのが「分かる」。 ☆ というところで わたしのここでの精神分析批判の域を超えていると思いました。休息を必要とする状態だと思うという意味です。 たとえば 「ドーパミン仮説」については そのドーパミンが過剰に成ったりする現象の説明ではなく なぜそのような現象が起こるかをここでは問うていました。それが 社会力学上のチカラ関係から来るのではないかというものです。《アース役はつらいよ》の問題なのではないかと。 それについてたとえば 次を参照しておきます。 ▲ ~~~~~ 「ドーパミン仮説」は・・・分裂病にかかってしまった人の脳のなかで、どんなことが起きているかを説明できる理論に過ぎず、なぜドーパミンが過剰になるのか、つまり分裂病の病因そのものはまだ謎であることを忘れてはならない。 分裂病については、まだまだ分からないことがたくさんあるのだ。(p.66) ~~~~~~~ ☆ そうして それでも社会力学上のチカラ関係にかかわると思われる出来事としては いわゆるキリスト教の教義をめぐっての議論から来ているようです。いわゆる異端としてのグノーシス主義の問題であるようです。 ▲ ~~~~~ 「神の言葉」を聞く人は世に少なくないが、シュレーバーの場合、それが宗教的予言ではなく、「病気」になってしまうのは、彼描くところの「神」界は「上位の神」あり「下位の神」ありの世界で、最高神は「神」界の下っばどもの行いを完全には統制しきれぬというグノーシス的状況が現出しているからである。 いや、正しくはグノーシス的と言うより、ゾロアスター教的状況と言うべきだったかもしれぬ。彼が名付ける「上位の神・オフルマズド=アフラマズダ」/「下位の神・アフリマン=アーリマン」という光/闇の神の名は、ゾロアスター教に由来するものだ。 分裂病にありがちな迫害妄想は、前述の通り「下位の神」とその末端の代理人であるフレッヒジヒ(* =主治医)、正確には「フレッヒジヒの魂」がシュレーバーに神経接続し、彼の「魂を殺害し」、身体は女性のそれに変えて慰みものにしようとしているのだ、と解釈されてシュレーバー妄想体系のなかに位置づけられることになる。(p.70) ~~~~~~~ ☆ このグノーシス主義とは 神とともに悪(悪魔)をも神と同列に置く考えです。おそらく 至高の善なる神という観念によっては 人間の思考の世界が持たない(耐えられない)ようになるかも分かりません。善だけでは 息が詰まるというような話になってしまっているのではないでしょうか。 つまりそれは 観念ですべてを律するようになるからなのですが つまり神は観念ではないと知れば済むことなのですが その問題は すでに次のように触れました。 ☆☆(No.13お礼欄) ~~~ ★ 河合隼雄さん ☆ は ただのばかです。ユングにしたがって 悪魔を第四位の神とする神の四位一体説に就き 悪は善だ 善は悪だとおおむね言っています。こんなばかばかしい話はありません。神は悪魔に勝つ 悪魔は神に勝つ これら両方の命題を同時に言っているのです。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この思想によっては あたまが錯乱しないほうがおかしいと言えるかも知れません。 ▲ ~~~~~ シュレーバーの説くところによれば、彼の「神経病」とは、「神」が光(太陽光線)を通して彼の神経に直接に語りかけてくること、すなわち「神経接続」してくることによって、はた目から見れば病気のような症状が発生するという事態を指しているのである。(p.69) ~~~~~~~ ☆ といった具体的なかたちも伝えられてはいますが。 従いまして この質問の扱う範囲としては 《わたし》のむしろ外側のこと すなわち社会力学上のチカラ関係の中に置かれたときのクウキのごときふわっとしたしかも圧力です。そこに焦点をあてています。 言いかえるとそのあと 状態が篤くなってしまったあとについては 分からないともなります。 でも社会圧については その入り口の問題としては 出来る範囲で最大限に問うていきたいとも考えます。 グノーシス主義などは その思想じたいが破綻しているのだと はっきり言って行かなければいけないと考えます。 《わたし》のほかに 自我などといった独自のものはないのだ。エスも無意識も 決定因だなどと考えることにおいて おかしいなどなどです。 神経組織の問題については 触れ得ずじまいでした。力が及びません。
決定論としているわけではないですが、そういう推察ができるということを個人心理学では言いたいのだと思います。 まあ決定論いなかは私は詳しくないのでこれで退散します。
お礼
ご返答がおそくなりました。ご回答をありがとうございます。 そうですね。決定論か否かについて まだ調べていません。ひとつには 一般の人びとがどのように受け取るか こういった方面から考えてみたいと思ったことからでした。 専門的な方からの投稿はまだと言うべきなのでしょうか。つまり 上の論点も むしろそういった回答者からの投稿に俟とうと わざとしているところがあります。 もう少し開いています。 ありがとうございました。
>ですから 無意識なる欲動が人にはたらくことはそれが《決定論》であるかどうか これを問い続けるということ。これに尽きると思うわけです。どうなんでしょう。 まあそれは昔から議論されていて、「フロイトの理論は局所的」だとか「性欲主義者」などの批判の声は多々あったのですよ。 私もフロイトの理論がすべてだと思わない主義者の一人です。 例えば胃の消化作用なんかも無意識の命令でおこなわれている訳ですが、その影響で「気持ちが落ち着いた」という意識作用が生まれたとしましょう。そうすると普通医学的には「おなかいっぱいだから人間の本能では休息モードに入ろうとしているから気分が穏やかになった」とか言う筈ですが人間社会のなかでは「上司に叱られるのが怖いから」とか「会社から解雇されるのが怖いから」などの多様な理由から本心では気持ちが落ち着いているがうわべ上一生懸命に仕事をするという行為が発生する訳ですが例えばそのような行為の場合個人無意識の視点でいけば「気持ちが落ちついているが上司から大目玉食らうのが怖いし給料も値上げしてもらいたいし上層部の方に就任したいという欲求の方が上回っているので一生懸命仕事をしているようにふるまう」というのが無意識の意図でしょうが当人の意識はそう思っておらず「自分は当然のことをしている」とか「自分は優れた人間」とかそのような形に変形して意識的に感じているなどの人の場合個人に置いては恐怖や金欲、支配欲が上ってきてまじめに仕事をしているとなるわけですが他の視点から行けば「上司にビビってる」とか「出世欲が強い人」とか「生活安定のために働いている」などの多様な視点を設ける事ができるわけで明らかに複合的な作用により人は行動しているわけで他の視点でいけば決定論とまではいかないかもしれませんが個人心理に置いてはそういう見方もできなくはないというのが無意識の欲動がどうのこうのと言っている人の理屈というになると思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ええっ? 無意識による決定論になるのですか? ★ ・・・多様な視点を設ける事ができるわけで明らかに複合的な作用により人は行動しているわけで他の視点でいけば決定論とまではいかないかもしれませんが個人心理に置いてはそういう見方もできなくはないというのが無意識の欲動がどうのこうのと言っている人の理屈というになると思います。 ☆ よく読み取れなかったのですが ここは ★ 決定論とまではいかないかもしれませんが個人心理に置いてはそういう見方もできなくはないというのが・・・ ☆ この ★ そういう見方もできなくはない ☆ というのは ○ 行かないかも知れないけれど言うとすれば 決定論である ☆ という見方なのですか? これは 考えてみれば 無意識というのは実証できず検証できないと考えられますので もう放っておくしかないのではないでしょうか? 自分でそう考えることまでは 自由でしょうから。 何だか敗北のようなのですが 防波堤は出来たわけです。わたしは 寄せつけませんという立札が立ちましたから。みなさんも そういう考えの場合には 同じようにするとよいのだと思います。
☆ まやかしというのは――あるいは詐欺というのは―― 一部分では 人びとにとって共通の真実が入っていて あとはその構成の全体がおかしい。成っていないという場合を言います。 確かにその意味ならば仰る通りだと思いますが辞書的には「ごまかすこと。また、そのもの。いかさま。いんちき」と書いてあるのでそちらの意味で捉えると必ずしもそうとも言えない部分があると私は書いた訳です。 ☆ おそらく《決定的にはたらく》というのでなければ 《わたし》の中に部分的にそういう作用が起きるという見方に全部吸収されていくものと思われます。精神分析学という学を立てる理由はありません。 ん~まあ精神分析学会的にその当時は表現したというだけの話であって ☆精神分析学という学を立てる理由はありません。☆というのも意味が分からないといいますか医学的な発展における学問だからという話なのだと思うのですが?hakobuluさんのやりとり見てもやはり意味が分からないです。 ☆ そのとおりのことですし その意味は 仮りにまれにそういった疾患が見られたとしても ただそれだけのことだという見方です。つまりは ふつうの《わたし》なる人間理論にあっても 精神の内面を分析することはあるわけです。その要因が《決定的にはたらく》かどうかで たもとを分かちます。 ああまあそういう見かたはできますね。あくまでフロイトの理論であってそれ以上でも以下でもないものだと捉えればよろしいのではないでしょうか?そんなこと言うと宇宙の起源を調べてどうするんだとか?意味があるかないかわからない経済理論打ち立ててどうするんだ?とかそういう話しになりますよ。 ☆ これは まったくおっしゃるとおりのことです。敵対していると考えます ということはその論文なり理論なりを見て不愉快に思ったという話ですかね?それなら私は退散します。そこまで付き合っていられません
お礼
ご回答をありがとうございます。 ☆☆ これは まったくおっしゃるとおりのことです。敵対していると考えます。 ☆ この《敵対》の意味を ひとつ例示します。 自我という用語すらも問題だと思っていたら あろうことか《他我》という言葉までもが使われているようです。 その中身など何もないのにです。 これは コミュニケーションにとって重大な問題です。こういう意味です。 あとは ていえんとさんは まあるくことを治めようとなさっている。こう見ました。その見方においては 特にコメントをつけることもありません。と言いますか だいたいそのような中庸における姿勢もありうるかなと思う。そういうことです。 ですから 無意識なる欲動が人にはたらくことはそれが《決定論》であるかどうか これを問い続けるということ。これに尽きると思うわけです。どうなんでしょう。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#21です。 >それは 特に日本社会では クウキないし社会通念としての常識ないしあるいは世間の眼によって わが心も気持ちも萎縮し さらには自分からその積極的な自己表現というものを知らないうちに抑えてしまっていた。ととらえ返すことです。 : それはまさに自我の強さがなければできないことです。 「とらえ返しなさい」と言ってできるなら苦労はしないと思いますが、その論法が精神分析よりも優れているという根拠はなにかありますか。 神経症に陥っている方は、大体自分が悪いと思っているはずです。 君は悪くない、悪いのは社会なんだと言ってなかなか納得できるものではないでしょう。(納得できる方はそれでよいと思いますし、わざわざ自我云々を持ち出す必要はありません) ただ、自分が悪いのではない、自分の自我が弱っているだけなのだ、と説明して納得する場合もあると思います。 神経症に罹るような方は大体が超自我の占める割合が高い傾向にあります。 超自我は別に善や理想の権化というわけではありません。 赤ん坊時代は誰しもエス100%です。 母親さえも自分のエスの一角であり、つまり他者と自分との区別がありません。 しかし、やがて自我が芽生えしばらくして環境(特に親)からの規制を受けることになります。 この規制というのは結局のところ、赤ん坊時代から引き継いでいる(つまり自らの母体とも言える)エスの抑圧に他なりません。 エスというのは自分が快と感じる事ですから、それを抑圧することによって結果として善が導かれることもあります。 しかし、超自我はあくまで抑圧自体が仕事なので、必ずしもそのものが善であったり理想であったりという性質を持っているわけではありません。 兄弟の持っているおもちゃを欲しくて取り上げようとするエスに対して、親からの叱責であきらめたり我慢したりする、あるいは謝ったりする、その心の動きが超自我ですが、これはあくまで抑圧という使命を果たしたにすぎません。 適度にエスを満足させ、しかし超自我による規制も適度に働いている、というバランスをとった状態で社会的な顔が形作られるわけですが、そのバランス状態を自我と呼びます。 むろんバランスですから崩れやすいものです。 超自我による抑圧が働きすぎてエスが萎縮してしまった状態が神経症です。 一応自我がバランスを保っている状態です。 ここにきて、自分が悪いわけではなくバランスが悪いのだという認識が可能になります。 責任を他者に転嫁するための分析ではありません。 自分の内部の心理構造を認識することで良いなら良いなりに悪いなら悪いなりに納得が得られ、それが安定につながります。 そういうわけで、 > この事態について そのように社会的なチカラ関係から来るとは見ずに どこまでも内面へと入って行くのが 精神分析としての ★ 抑圧と無意識という概念 ☆ だと考えます。必要ないわけです。 : という見解はたぶん違うと思われます。 相互萎縮合戦云々というご見解は非常によくわかりますし大いに賛同できますが。 「>社会的なチカラ関係」から来るとわかっていても対処の仕様がない、という個人の現実から始める必要があるのではないでしょうか。 そういった環境の構図を理解することによって納得できるとはわたしには思えません。 環境からの刺激を統合するエネルギーの枯渇こそが問題なわけなので。 >基本は――病いの原因は―― 社会力学にあるのですから。 : それはそうですが、精神分析が心の内面に連れ去るということではなく、社会に対する視点の転換を促しているのではないかと思うのですけどね。 エスも超自我も、そして自我も全て社会という環境(刺激)を抜きにしては語れない心の動きのことなので。 タイトルの件に限ってはやはり見解の相違ということになってしまいそうですね。 それでは。
お礼
ご回答をありがとうございます。 主題ないし論点がはっきりした議論ですね 今回は。 一つひとつ まいります。少しづつ観点がちがっているように思います。 ★ ~~~~ それはまさに自我の強さがなければできないことです。 「とらえ返しなさい」と言ってできるなら苦労はしないと思いますが、その論法が精神分析よりも優れているという根拠はなにかありますか。 ~~~~~~ ☆ ここで自我が持ち出されるということは 世間の通念や思潮とまったく同じ次元で言わば対決をするという構えになると思うのです。 もし仮りに 自我――《 das Ich =〈わたし〉なるもの》――がほんとうにはたらくものであるとすれば それば 世間の縦横に錯綜する眼差し関係〔としての社会力学〕を すずしい顔をしてながめていることでしょう。 個人のチカラでは何にも出来ないからと言って 何かをやればよいというわけのものではないはずです。そんな自我なら それはただの対抗意識です。せいぜいが 反骨精神のようなものです。 何もしない。何もしないたたかいがあります。これが どうしようもなく人間にそなわった《わたし》としての存在力です。相手が自由意志を初めから踏みにじる態度に出て来ているのなら その無効を言わず語らずに――そこにただいるという存在だけのチカラで・またこのことは レチサンスとも言えると思われますが 語らないでいるそのことで しかも千年二千年かかったとしてもの精神で―― 《わたし》は 人間としての有効な存在にとどまる。《わたし》でありつづける。 これで たたかいは すでに勝利です。もしこれが勝利でないなら――つまりまだまだ相手は つまり世間という得体の知れない親分は 実際には勝ち誇っているのですが それを横目に見つつでも すでにこちらの勝利でないなら―― お天道さまは すでに最後の爆発を起こして消えてしまったときだと見ます。 《とらえ返す》について わたしは 消極的な内容しか触れませんでした。 ☆☆ それは 特に日本社会では クウキないし社会通念としての常識ないしあるいは世間の眼によって わが心も気持ちも萎縮し さらには自分からその積極的な自己表現というものを知らないうちに抑えてしまっていた。ととらえ返すことです。 ☆ 積極的な自己表現が しかも往々にしてその自己の文体を確立し得ないどころか 単なる自然の表出さえ知らないままに 抑えられてしまっている。と捉え返すこと。――これだけを言いました。何もしないたたかいです。わたしの中で《もっともわたくしなるもの》が 社会人ともなればいよいよささやかにでも芽吹いて来ているのを知るはずです。 自己主張という言葉が持つ意味合いにつながるような自我の《燃え》ではなく しづやかな・しかも日常的な生活のあゆみとしてのような《萌え》なのだそうです。つまりは この萌えに拠るオタクの人びとも それとして《わたし》の何もしないたたかいをたたかっている。こう考えられます。 《捉え返し》をどこまで 自覚して おこない得たか。まだ 分かりませんが 案外着々とやっているかも知れません。あるいは まだまだ空回りしているかも分かりません。 ★ ~~~ 神経症に陥っている方は、大体自分が悪いと思っているはずです。 君は悪くない、悪いのは社会なんだと言ってなかなか納得できるものではないでしょう。 ~~~~~ ☆ 敢えてここでそういう言葉を出すとしますと 《敵》は 世間〔に流通している悪貨としての中身の薄いコミュニケーションなる磁場〕です。ということは その世間をつくっているのも 自分ですから 自分も敵なる悪魔に奉仕しています。人はみな 共同責任を負います。 つまりは そういう《わたし》なる存在の位置関係 つまりはもっと根源的には人間の置かれた存在の条件 これを知って 社会力学の流れを切り換えそしてその水を良くして行こうということになるはずです。 しかも じっさいそのように積極的に行動するのもよいと思いますし 思いますが 《わたし》がいま・ここにいるという自覚だけでも すでに勝利だと考えます。 ★ 自分の自我が弱っている ☆ という表現の意味するものは たぶん《わたし》が世間の中で萎縮してしまっているという事態を指すのだと思います。世間に《自我》で相対しているなら そのままその自我が弱っていると見るのでしょうが そのような意味での自我を自覚しこれの対立関係こそが 社会であると思い成したときから すでに《わたし》は矮小化してしまっています。 《意識の対立とその均衡》 といったチカラ関係は もともと欧米の人たちの社会慣習です。日本社会は 《情感の共同性とその破綻および修復》といった過程をあゆむと思います。そして前者の歯車が われわれの社会に同時に備えつけられ回り始めたときから 今に到っては共同性の破綻の修復は もはやかなわないというほどの病的状態になってしまったのではないでしょうか? 《わたし》が 文学においてだったのかどうか 《意識の流れ》として現われまた表現される。そしておそらく もともと(その昔から)人と人とは対立するものだと思って来た節のある欧米人が 意識の対立とその均衡という基礎( basis =歩み)を見い出したかたちでは なるほど自己主張のつよい自我なる概念で《わたし》を捉えたかも知れません。しかもそれでも その自我は わたしのことです。わざわざ二重に捉える必要はないはずなのです。 韓国では まだ儒教がつよくはたらいて――と言いましょうか―― 長幼の序や家族共同体が生きていて このヨーロッパ型の《資本主義的市民》として互いに意識を対立させつつ生きるという基礎には 反感と嫌悪があるようです。わが日本は もうズタズタに切り裂かれてしまったでしょうか? どうでしょうか? おそらく この局面に限ってさえも 《自我》などというまやかしものを出して来てこれを言い続けるというのは いただけません。本場では《わたし》のことなのですから。 まだいっそのこと 自己チューで利己主義を徹底しましょう。そうすれば やがてそのガリガリ亡者の資本主義の中からさえも まだまだ不死鳥のごとく一人ひとりに《わたし》は復活して来ることでしょうとでも言っていたほうが ましです。 ★ 精神分析が心の内面に連れ去るということではなく、社会に対する視点の転換を促しているのではないかと思うのですけどね。 ☆ 上に述べたような情況では 心の内面に向かって自省をおこなっても 《内面の成り立ちとしては均衡状態としてのではあっても 他者に向かっては むしろ対立軸としてのような自我》をととのえようとしても たぶん逆効果にしかならないと考えます。自我が 均衡だということは それが均衡させるエスも超自我も 部分機能だということです。けっきょく煮詰めた見方ではそれを《わたし》があやつることになるのでしょうが それによって出来ることは やはり均衡状態の回復とその保持ということになります。 もし均衡ないし中庸が大事だとなるならば それは 社会の秩序としてのそれです。ところが この秩序が およそ有力ではあっても人間の意志行為としてなかなか有効なものではあり難い社会力学じょうのチカラ関係によって成り立っている。だったら いくら内面において均衡が成っても つねにこれをおびやかす大波にさらされている。 つねに――精神分析によっては―― 防波堤に開いた穴のほころびを治す程度のはたらきしか得られません。というよりも そうすることによって 大波津波の起こる社会の歩き方じたいには 何も言わないし むしろそれが自己運動をするにまかせている。まかせていることによって 一定数の患者が確保され 自分たちはおまんまが食える。こういう構図になっていはしますまいか? エス・超自我・自我のシステムによって内面へ向かう自省のこころみは 無駄に終わる。こう考えます。 ★ 社会に対する視点の転換を促しているのではないかと思うのですけどね。 ☆ いっさいないと考えますが どうでしょう? 鏡像段階だの象徴界だのと言ってもワケの分からないことばかりです。
>理論がわざわざエスなり超自我なりのそれぞれ独自の領域とその作用を設定しているところに まやかしを見るのです。というのも その部分的な作用を取り出すなら ふつうに《わたし》の中の心的現象として起こっている――つまりその限りで 精神分析の言うところの心の動きもそれとかさなっている――とは見るからです。 三つの要素への分割理論であって しかもその要素がほとんど決定的な役割を果たすと見るなら そのことがただの憶測であるに過ぎず まやかしである。こう問うています。> まあそれをまやかしと見るか否かは話は別になるような気がします。例えば我々が今使っている科学技術も我々人間が認識したものだからまやかしであると言っているようなものでまやかしと見るか否かは当人の心情によるところでフロイトの推測をどう捉えるかという問題で単にbragelonneさんがまやかしと捉えたいという願望があるというだけの話のような気もします。もし書くなら「間違いではないのか?」と書くべきなのではないかと思います。 >というのも その部分的な作用を取り出すなら ふつうに《わたし》の中の心的現象として起こっている――つまりその限りで 精神分析の言うところの心の動きもそれとかさなっている――とは見るからです。> まったくもってその通りだと思います。 >三つの要素への分割理論であって しかもその要素がほとんど決定的な役割を果たすと見るなら そのことがただの憶測であるに過ぎず まやかしである。こう問うています。> 憶測とは言えると思いますがまやかしかどうかは今だ決定付け難いと思いますが? >その作用の拠って来るところが エスならエスないし無意識 あるいは超自我なら超自我というように それぞれ独自の領域を持っておよそ決定的にはたらくと もし説いているなら それは 明らかにまやかしである。こう批判しています。> 決定的に働くと言っているのかどうかしりませんがそのような性質を推定しているということなのだと思います。 >エディプス・コンプレックスなる精神疾患により帰結されるのだなどとなると ちゃんちゃらおかしい。精神分析などは 屁の河童。と言わざるを得ません。> これは単純にご自身が精神分析を敵にしているだけの話なのではないかと思うのですが?
お礼
ていえんとさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 追って補足欄にでも お応えを書き込むつもりでいますが まづは基本的な考え方として ちょうど はこぶるさんとのやり取りがすすんでいますので そちらを参照願えませんでしょうか? 直前と直後のやり取りが 資するかと思うのですが どうでしょう? ★ これは単純にご自身が精神分析を敵にしているだけの話なのではないかと思うのですが? ☆ これは まったくおっしゃるとおりのことです。敵対していると考えます。などなど 追ってお応えします。
補足
★ まあそれをまやかしと見るか否かは話は別になるような気がします。・・・もし書くなら「間違いではないのか?」と書くべきなのではないかと思います。 ☆ まやかしというのは――あるいは詐欺というのは―― 一部分では 人びとにとって共通の真実が入っていて あとはその構成の全体がおかしい。成っていないという場合を言います。 したがって 欠陥なり間違いなりという部分は すでに触れましたが エスないし無意識あるいは超自我が あたかも独立した作用力であるかのように設定しているところだと述べました。その作用が 作用そのもとしてはふつうの《わたし》の中にも部分的に見られるであろう。こう言っています。 ★ 決定的に働くと言っているのかどうかしりませんがそのような性質を推定しているということなのだと思います。 ☆ おそらく《決定的にはたらく》というのでなければ 《わたし》の中に部分的にそういう作用が起きるという見方に全部吸収されていくものと思われます。精神分析学という学を立てる理由はありません。 ★ ~~~~~ >エディプス・コンプレックスなる精神疾患により帰結されるのだなどとなると ちゃんちゃらおかしい。精神分析などは 屁の河童。と言わざるを得ません。> これは単純にご自身が精神分析を敵にしているだけの話なのではないかと思うのですが? ~~~~~~~ ☆ そのとおりのことですし その意味は 仮りにまれにそういった疾患が見られたとしても ただそれだけのことだという見方です。つまりは ふつうの《わたし》なる人間理論にあっても 精神の内面を分析することはあるわけです。その要因が《決定的にはたらく》かどうかで たもとを分かちます。
- hakobulu
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#19です。 細部にこだわっても水掛け論になるので次の点についてだけ反応してみます。 > わたしとは わたしを生きる動態です。それは 自同律なのです。自己同一性なのです。それでよい : とは言える人ばかりならことは簡単でしょう。 そう言えない(思えない)人に大してはどのように対応されるおつもりですか。 エス・自我・超自我という思考法より明らかにすぐれた何かがあるのであれば、また、優れていることが実証できるのであれば、その根拠とともに教えてください。 > それ以外の説明はむしろ 自分を離れてわたしを捉えた見方になりましょう。 : まさに自己を客観視するためのものですから、それは当然です。 このように言うと、客観視の弊害について反論されると思いますが、その場合は、客観視する必要がなくても人は全て平穏である、という根拠をお示しください。 特に精神分析は神経症治療が契機となって芽生えたもののようですから、批判するのであれば対案を提示する必要があると思われますが。 また、その正当性が実証されているなり、明らかに優れているという根拠も必要になるのではないでしょうか。 それがなければ建設的とは言えませんし、不毛の論議になってしまいませんか。 別にわたしは専門家でもフロイト信者でもありませんが、抑圧と無意識という概念が彼の最大の功績と考えています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 たぶん 次の命題について考え方や捉え方を変えるという作業が 第一歩であるかも知れません。 ★ 別にわたしは専門家でもフロイト信者でもありませんが、抑圧と無意識という概念が彼の最大の功績と考えています。 ☆ 無意識のうちに・つまりこの場合は意識していなかったし気がつかなかったのに わたしは 自分の気持ちや少しは抵抗しようとする意志をも抑えてしまっていた。自分で自分を抑圧してしまっていた。 という事態に落ち入ったなら それは 特に日本社会では クウキないし社会通念としての常識ないしあるいは世間の眼によって わが心も気持ちも萎縮し さらには自分からその積極的な自己表現というものを知らないうちに抑えてしまっていた。ととらえ返すことです。 社会の中で世間の眼の飛び交うこの社会力学上の磁場の中で わたしは いつしか・人は慎み深い態度がよいと思ったからか ともかくどういうわけか わたしはわたしの存在に対してあたかも自分で金縛りをかけていた。周りの人びともそうしているのだし みなと一緒に出る杭を打ち 互いに足の引っ張り合いに むしろ無意識のうちに 興じていた。 言いかえると この相互萎縮合戦に参加しない・できない場合には――わたしのように それでも そんな非人間的な幽霊と顔無しとゾンビの世間ゲームは やめろ 目をさませと言う場合をのぞけば―― やがて世間の眼は 引きこもりとでもレッテルを貼り だいじょうぶだよ 専門医がいるから 診てもらって来なさいと言われて そのときから半ば除け者とされる。 この事態について そのように社会的なチカラ関係から来るとは見ずに どこまでも内面へと入って行くのが 精神分析としての ★ 抑圧と無意識という概念 ☆ だと考えます。必要ないわけです。 ただし その引きこもり状態が昂じて来るという場合は やはり出て来るでしょう。そうして 実際に――基礎医学は 精神分析とて同じでしょうから―― ついに患者となってつらい日々を生きることになる。 その《患者》を さらにさらに内面へと連れ去って行く精神分析は 病いを余計に篤くするだけだと言わねばならないでしょう。 基本は――病いの原因は―― 社会力学にあるのですから。 おそらく いわゆる器質として病いに罹る場合 これはあるかも知れません。あるかと思います。ですが それ以外はすべて 社会源病だと見ます。 ★ 特に精神分析は神経症治療が契機となって芽生えたもののようですから、批判するのであれば対案を提示する必要があると思われますが。 ☆ この対案と言えば そのように見方を変えるということですが 社会力学上のチカラ関係に原因があるとするなら たとえば全国的に《あぁ アース役はつらいよ。けっこう毛だらけネコ灰だらけ・・・》と大合唱すればよいでしょう。 《精神分析屋さん 内面における無意識やら抑圧やら内攻的なツール それを言っちゃあおしめえよ》とでもつけ加えましょうか。 みなさん ガミガミ電波には気をつましょう。またその電波を発する前に・その一秒前に それはただの八つ当たりであって 意識の排泄に相当するという事実に注意を向けましょうと。 あるいは その意識の排泄を 一手に引き受ける人間がいます。名をぶらじゅろんぬと言います。すべて 受け留めて ごみ処理工場としてはたらきます。あとは酸素か何かが出て来るだけですから 安心して吐きつけてみてください。 いますでにかなり重症である場合 それは必ずいつかどんでん返しで一気によくなりますから。たぶん いまの《患者》さんの半数は そのように内面に革命が起こるはずです。大船に乗った気持ちで 養生してくださいと。 つまりそれというのも いままでガミガミ電波の排泄をおこなって来た人びとが ほんとうに反省し 人間(現実)が変わるときが来ると考えられるからです。天地がひっくり返るほど それらの人たちは心を入れ替え 前史から後史へと 一気に突入して行くと思われますから。 ★ エス・自我・超自我という思考法より明らかにすぐれた何かがあるのであれば、また、優れていることが実証できるのであれば、その根拠とともに教えてください。 ☆ 根拠はありません。ただ 今までの生き方は――社会力学のあり方は―― 人間の自然本性に反すると思われるからです。必ずその出直しのときが来ると思われるからです。 何もしない。何もしないたたかい。 おそらく もし病いの道をたどって来ていたなら その道を必ずしも引き返すというのではなく むしろ同じ道をあゆみ その道を――その病いのトンネルを――突き抜けて明るい場に出るというシナリオになるかと考えます。 わが心は 大海である。波風はただうわべをかする心理の動きであると。
>《自我・超自我・無意識》の理論は まやかしである> まやかしというよりフロイトの理論には欠陥だらけであるという表現の方が的確だと思います。無論すべてではないですが 1なんでもかんでも家庭が要因になる。 2なんでもかんでも性で片付けてしまう。 というこの2点。(以外にまとめると少ないですが)だと思います。脳科学的に見ても臨床判断では欠陥が次々と見つかっているのは事実です。 また1の家庭についてですが超自我や自我の発達が必ずしも親とか家庭環境が要因になるとういうのは無理のある理論で他にもおじいちゃん、おばあちゃん、兄弟、姉妹、出かけた先でのインパクト、遊び、テレビ、ゲーム、パソコン、友人関係、運動、趣味等々挙げれば幾らでも出てくる刺激の要因により複合的に超自我、自我の発展があるというのが正解でしょう。それをなんでもかんでも家庭にしてしまうやりかたに当時のユングやアドラーなどは批判的だったと思います。またすごいことに同性愛で男性どうしで愛を紡いでいる人に対して「女性と付き合いなさいよ」という声をかけたというエピソードまであります。これは完全に自分の理論が破綻してしまう恐れによる発言としか思えないです。ただフロイトの理論がすべて間違いではないというポイントでまやかしとまではいかないかなと思うところです。 超自我というのは罪悪感や罪意識などの気持ちとして表れ、エスというのは個人の本能的性質、自我というのは現実とエス超自我の複合的刺激による適応、順応、防衛等の役割ということです。ここまでは良いですがこれは全て個人に置いての理論であり個人がどう感じるかどのような行動を取るかという役割の精神構造を語っているに過ぎず多様性を欠いているのは事実です。朝起きて日の光を感じるのも脳であり他にも色々な刺激を受けていることは事実でそれを感覚器官の刺激でお終いみたいな理論なので欠陥があると言わざる終えないのは事実でしょう。 2の性で片付けてしまうというのもフロイトの欠陥的なものです。フロイトは性を神様みたいな存在にしていた側面があり性欲理論があるから自分が維持できる見たいな側面がありました。確かに性が象徴される側面があることは事実ですがすべてにおいて性であるというわけでないのです、フロイトの精神分析理論をみると最終的に性であるという見解をだすわけです。しかしながら脳科学が発達してきて性のみでないことは明らかであり、ある程度修正されているのではないかと思います。 最終結論、欠陥はあるがまやかしとまでいかないということになると思います。
お礼
そうですね。中庸説でしょうか? まづは ご回答をありがとうございます。 《心的決定論》 これを初期に説いたようですが そしてその後どの程度修正されたのかという問題にもなりましょうが その要素によっておおよそ人の精神状態や行動が規定されてくると言うまでになるなら それは 部分的な欠陥なのではなく 理論じたいのまやかしであるのではないか。これが 質問の骨子です。 これはまだ撤回する必要はないと ここまでのやり取りのあとにも 思っております。 ですから 質問者としては むしろ《欠陥》なのではなく 理論がわざわざエスなり超自我なりのそれぞれ独自の領域とその作用を設定しているところに まやかしを見るのです。というのも その部分的な作用を取り出すなら ふつうに《わたし》の中の心的現象として起こっている――つまりその限りで 精神分析の言うところの心の動きもそれとかさなっている――とは見るからです。 三つの要素への分割理論であって しかもその要素がほとんど決定的な役割を果たすと見るなら そのことがただの憶測であるに過ぎず まやかしである。こう問うています。 おっしゃるように 性の動きは 精神分析の理論によらずとも ふつうにあり得ます。家族の人間関係がそこにからんで来るということも あり得ます。それとして部分的な作用としてなら 起こり得ています。 質問者の物言いは そのほかにも作用はあるではないかということによりも――ていえんとさんは そのように回答されていると思うのですが そうではなく―― その作用の拠って来るところが エスならエスないし無意識 あるいは超自我なら超自我というように それぞれ独自の領域を持っておよそ決定的にはたらくと もし説いているなら それは 明らかにまやかしである。こう批判しています。 エディプス・コンプレックスのその神話の人 オイディプスは 実の母と交わったと言っても 幼い時に分かれてしまっていて 母とは知らずにそのようになったのですし もう一点としては 国王としての立ち場の問題があります。性関係という要素によってのみは規定されない政治的な動機ないし要素が 明らかにはたらいています。 ですから この神話から単純にマザコンという症状をみちびくというのは 無理がある。そんなものは それとしての部分的な作用があると言うのみである。 しかも たとえ知らずとは言え 親と交わったあとオイディプスは そのことを悔やみどうすることも出来ないというあきらめに落ち入り みづからいのちを断つというひとつの筋が伝えられているとしても じつはほかにも筋のちがう物語が伝えられているようなのです。 マザコンが何だという物語の筋です。決して自暴自棄に落ち入ることなどなく オイディプスは生き延びて 国王をまっとうしたのだったか とにかく そのような精神疾患になるなどということはなく 生きつづけたという伝承もあるそうです。(出典は 高津春繁でしたか)。 つまりは これこそが 民衆のふつうに健全な《わたし》のすがたであると考えられます。 みづからいのちを断つということは そのこと自体が 意志を無視するという意味で無効の行為だと見ますが そのことが エディプス・コンプレックスなる精神疾患により帰結されるのだなどとなると ちゃんちゃらおかしい。精神分析などは 屁の河童。と言わざるを得ません。 おそらくフロイトは 資本主義とあとはサドか誰れかとの掛け合わされてできた鬼っ子だと考えられましょう。このすっとこどっこい野郎め! といまからでも言っておかなくちゃあ。
- hakobulu
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#18です。 > ★ 〔☆ 《精神のあり方またそれをめぐる《わたし》の動態は 部分的機能ないしその作用には還元され得ない》という見方に対して〕 還元されるという主張はおそらく誰もしていないはずです。 ☆ とおっしゃっていますが どうもそうではなさそうです。 : (1) 還元という語の解釈の違いかもしれませんが、おっしゃりたいことはよくわかりました。 この点について特に反論する気はありません。 ただ、 「心の現象は、すべて無意識の心的な法則にしたがっている」と言ったのだとしても、そのことが必ずしも意志の無効性を主張したことにはならないでしょう。 あくまで自我の母体としての無意識(エス)の存在を示しているだけです。 人間は食べなければ死んでしまう。 と言ったからといって食べることだけが人間の要素なのだということにはならないのと同じです。 食べなくても生きていけるような錯覚に陥らないようにすることが大事だという暗喩に似たものと解釈して良いと思います。 フロイトというのは言ってみれば前人未到の山頂にアタックした登山者のようなもので、その軌跡が必ずしもベストのものでないことはたしかですし、それは本人も(晩年になって)認めていた節があります。 後発隊として多くのアタックがなされたわけですが、先人と同じルートを辿る必要も無く、また、より登りやすいルートの開発もなされているやに聞いています。 フロイト教に陥っている人はおそらくほんの少数派でしょう。 しかし、その骨格は意味のある内容になっていると思います。 端的に言うと無意識、及び抑圧という視点のことですが。 (2-1) >前者の「私」としての自我は、1923年に『自我とエス』を公開するまで使われていた用法であり、意識や思考に近い意味で使われていた。しかし意識―無意識という対立構造、局所論を放棄した1923年以後は無意識的防衛をも含む意識の構造と言う意味で自我という言葉が使われるようになった。 : という記述がたしかにありますね。これはおそらく次のような意味ではないかと思われます。 フロイトは当初、心の作用を意識・前意識・無意識の3つに区分していたようです。 しかし、いわゆる防衛機制というものが自我の目論見としか思えないにもかかわらず無意識的に行われる現象であるため、境界線を明確に引くことに無理を感じた、ということではないかと推測します。(実際のところはわかりませんが) 乱暴に言えば、意識・前意識・無意識という区分の次世代区分としてエス・自我・超自我が誕生したと言ってもよいのではないかと思われます。(両者が厳密に対応しているというわけではないと思いますが) 「自我」という語の意味を使い分けていたという点に関しては、当初自我が強いといえば我侭という意味であったのが、後年はそのような意味としては使わなくなったということではないかと思います。 自我という発想が >《わたし》の機能を《意識や思考》に限定的に見ている : とおっしゃっていますが、しかし、では「わたし」とはなんであるのか、という説明が果たして可能なのでしょうか。 >《自我》とは 《わたし》のパーツである。しかもそうだとすれば 要らない。 《エス・無意識》も ただ《逸る気持ち》とでも言えばよいであろうし 《超自我》は《内に省みる心》とでも言えばよい : という意見があっても構わないと思いますが、その主張自体にエス・自我・超自我という構造を覆すだけの【決定的な】論拠は見当たりませんよね。 呼びたいように呼べばよいと思いますが、自分の知らない自分がいる、という認識という点ではなんら変わりないわけでしょう。 キリスト教とイスラム教とどちらが良いかと議論しても意味がないと思うのですが。 (2-2) >しかもわたしは いま起きて来ている欲動を捉え いま現在の情況においていちばんよさそうな選択は 何であるか。これを考えるときに 欲動を抑えるかあるいは時としてそのまま発揮するかなどなどの判断をおこなうのであって この後者の抑えるほうの作用をなぜ《超自我》のはたらきだなどと言ってあたかも別様に独立させなければならないか? : 欲動を感じるわたし 欲動を抑えるわたし これでよいのではないか、ということですね。 それでも構いませんが、ただ長くなるのでエス、超自我と呼べばいいと思うのですが。 (2-3) > 部分的機能は はじめからないのです。(要素はあるので あとは 名前のつけ方の問題になります。そのときには 自我なり超自我なり《あれ( it )》なりと命名されることはありえます)。 : 「部分的機能」というのは、#17お礼欄の > ですから これらも 《わたし》という動態の中にはたらいている部分的機能だということになります。 : というご見解に則って表現したまでです。 元々、エス・自我・超自我は別に部分的機能として分割されているわけではありません。 すべてはエスが始まりです。 やがて自我が芽生え、主に親(特に父親)の(エスに対する)規制によって超自我が芽生えていく、という構図です。 水が雪になり氷になり、といったとしても元々同じものであるのと同じです。 しかし、水・雪・氷と呼ぶこと自体に不都合があるわけではないでしょう。 (3-1) > 過剰な抑圧 あるいは 無意識の内に避けていたしむしろ〔知らず知らずのうちに〕抑えつけていたといったことは ふつうにありますし これを そのように認識して 少しはゆるめようとか いや それでよかったのだとか考えることは ごくふつうのことです。 : 先回述べましたが、不要な人には不要、と申し上げたのはそういう意味です。特に否定はしません。 ただ、「ごくふつう」に認識できなくて苦労している人は案外多いのではないでしょうか。 お断りしたと思いますが、今回の事例はあくまで抑圧の構造をわかりやすくするための極端なものです。 (3-2) >そのとおりの単純な話なのです。自我もエスも超自我も要りません。あるとかえって厄介になります。エスの起きる無意識の場をどうしよう? ゆううつだなといった具合いになって来ます。まやかしの理論に振り回されているのです 人びとは。 : (3-1)にも関連するのですが、また、本質疑の要点でもあるように思うのですが、(本人が気づきづらい事柄としてですが)抑圧されているものがあるゆえに苦しんでいる、という事態は想定しないでしょうか。 なにが、なぜ、どのように抑圧されているのか、というその構図が明確になることによって愁眉を開く、という展開になることは大いにあるような気がするのですけどね。 まあ、しかし、こうなってくると見解の相違としか言いようがないかもしれません。 >個人のわたしの中の部分的な機能の不均衡ないし不全が原因なのではなく――それは 結果として現われるのであって―― 原因はまづは社会の側にあると考えられます。社会力学上のチカラ関係によるしわ寄せから来ていましょう。 : これには大いに同意できますよ。 ただ、何が原因であるか、という以前に、そういった本人にとって納得のできない状況が現に目の前にある、ということが重要です。 前回も少し触れたと思いますが、自我はエス・超自我のみならず(社会)環境を統合する機能を持たされています。 不均衡・不全があるとすれば自我が弱っているために統合しきれていないからなのです。 何が原因かはまた別の問題になるでしょう。 >すべて《わたし》が健全であるゆえに しわ寄せられたゴミの処理工場として 世の中のために少しくがんばっているのです。 : これにも大いに同意できます。 そういう方は世の中におられるはずです。 しかし、そういう方が悩むのは勿体ないはなしです。 また、しわ寄せの対象となる必要も無論ありません。 外界の刺激をどのように咀嚼し、自ら快とするところの(わたしの)エスと、理想を追求しようとする(わたしの)超自我の気に入るような状態に統合していくか、が(わたしの)自我に課せられた責務と言えるように思います。 それらを統合したとき、自我は自らの役目を果たしたことで満足します。 その(むろん、そこそこの)満足が精神の安定へとつながっていくことになります。 ゴミの処理工場 と認識しているうちは、超自我は満足できてもエスは満足できませんから、結果として統合役の自我は突き上げをくらい精神の不安定につながることになります。
お礼
ご回答をありがとうございます。 《わたし》が エス・自我・超自我を覆い包むという見方を否定されてはいない。まづこう受け取りました。 ただし ★ しかし、では「わたし」とはなんであるのか、という説明が果たして可能なのでしょうか。 ☆ と但し書きをもされています。 わたしとは わたしを生きる動態です。それは 自同律なのです。自己同一性なのです。それでよいのですし それ以外の説明はむしろ 自分を離れてわたしを捉えた見方になりましょう。 あとは 三つに区分した機能が 決定論のもとに捉えられているのでなければ おおむね上にそれらを《わたし》が含むといった視点を共有したことになりますから もう対立点はほとんどありません。 * 次の説明に少し反応します。 ★ ~~~~ 元々、エス・自我・超自我は別に部分的機能として分割されているわけではありません。 すべてはエスが始まりです。 やがて自我が芽生え、主に親(特に父親)の(エスに対する)規制によって超自我が芽生えていく、という構図です。 水が雪になり氷になり、といったとしても元々同じものであるのと同じです。 しかし、水・雪・氷と呼ぶこと自体に不都合があるわけではないでしょう。 ~~~~~~~ ☆ わたしはこの人間観には 反対します。 もともと生まれつきの存在の状態として自然本性を想定します。 記憶・知解・意志の三つの行為能力を持った《身体=精神》としてのそれです。 ★ すべてはエスが始まりです。 ☆ こうは考えません。《わたし》が始まりだと見ます。ただしこのわたしは 言わば無条件なる甘えのもとにある――それゆえ 聖なる甘えとも呼んでいますが――と捉えます。 それゆえにこそ 欲求にしたがうままの行動にもなって現われる。それを エスから始まると見ているのだとしても。 あとは 親を初めとする周りの人びとの中で この欲求を――または欲求にしたがうといった振る舞いを――どう見るのか これをまなんで行くはずです。つまりは《わたし》の中身を――その行為能力を――機能させ充実させて行く。 初めに《わたし》が――親との関係において――芽生えたから 聖なる甘えとしての欲求にしたがう行動が始められ 親たちとの交わりをつうじて この欲求行動をみづからの《わたし》の中にしかるべきもしくは自分の考える行為形式として位置づけて行く。 * 極端なことを言えば このように《わたし》がその内実を深めつつ立ち上がって来たとき 内省において――ちなみに一部分で超自我によってということに対応するかも知れませんが―― 欲求にしたがうわがままの行為形式を さらに どういうわけか 徹底させるかのごとく突っ走ることもあり得ます。 周りとのかかわりにおいて そう考えたのかどうか そういう内省力による行動もあり得ると見ます。 つまりは 三つの区分における用語で説明するとしたら 次のようです。 超自我が エスの力を抑えるとき その超自我のはたらきがあるからこそ エスの動きに身をまかせるということも起こるはずです。 エスが《猛威をふるっている》とき そのエス自体の思わく(?)において その力をみづからが弱めるということもあるでしょう。 それらは 《わたし》の動態だからです。《わたし》が生きるという動態だからです。 自我が エスと超自我とを調整するというわけではなく その自我には関係なく わたしの中で 言わば自己秩序作用ないし自己組織化というような動きを見せることもあると考えるわけです。 これらは エスに始まるのではなく そうではなく《わたし》に始まるから起きる動きだと考えます。つまりは エスにせよ超自我にせよ そのはたらきは 決まっていない。言いかえると エスが 超自我のはたらきを内包する場合があり得るし 超自我が エスの動きを余計に促すこともあり得る。 つまりは エスも超自我もそのはたらきの内容が決まっておらず 一部の作用についてそのように規定しているだけだと考えられます。そしてその場合 自我などはどこにもないのです。わたし もしくは 自然本性の自己秩序化ないし自浄作用があって わづかにそれを捉えて自我という名前をつけているとしたとしてもです。 * ★ (3-1)にも関連するのですが、また、本質疑の要点でもあるように思うのですが、(本人が気づきづらい事柄としてですが)抑圧されているものがあるゆえに苦しんでいる、という事態は想定しないでしょうか。 ☆ もしそうだとすれば すべては《わたし》というコップの中の嵐だと捉えられます。あるいは心なる海の表面における嵐だと。 むろん 台風に遭ってその風雨や波に翻弄されることはあり得ます。しかも それだけのことです。エスも自我も超自我も じっさいには関係して来ていません。海を航く知性 これがあるのみです。これをはたらかせるというのみです。 あとは 社会における共生の問題になります。しわ寄せをどのように共同体として分担するか。さらには 予防するには どうしたらよいか。などだと考えます。 エスも超自我ももしそれらがあるとするなら それでも一人ひとりの《わたし》の中にすでに埋め込まれています。やがてその内面のそれぞれの場で お墓を立ててもらって やすらかに眠りに就くことでしょう。要らないからです。 この最後のところは 推論なり根拠の提示がうすいと思いますが たしかにおっしゃるようなかたちでなのかどうなのか 見解の相違という地点にたどり着く場合も あり得るようです。 ★ 呼びたいように呼べばよいと思いますが、自分の知らない自分がいる、という認識という点ではなんら変わりないわけでしょう。 ☆ これなどは 答えることができます。 ★ 自分の知らない自分がいる ☆ というなら それは《わたし》である。という答えです。ですから もうひとりの自分などというような文学的な表現が受けている側面もあるかと思うのですが そしてそのつてで 《自我》と言うとそれによって むしろ《わたし》の把握ないし自覚が確かになされると思ってしまう側面があるかと思うのですが それは 端的に言って《わたし》の分割であり引き裂きであるのではないか? なぜなら そちらからは 《わたし》の実態などは分からないと批判がありましたが こちらから見れば そのように自分を離れて捉えるかたちの《自我》などは ない。もしくはただの観念である。という批判に行き着きます。 つまりは だからこそ――第二の自分がいるかのような表現における自己同一性に身を置くからこそ―― ★ (本人が気づきづらい事柄としてですが)抑圧されているものがあるゆえに苦しんでいる、という事態を想定 ☆ することになるのだと見ます。どうしても 病いがあって欲しい。患者がいて欲しい。というまでの理論の提示になっていないか。これが――もし怒りをまじえるとすると その――物言いの焦点になるでしょう。 根拠はとぼしいです。ただし 事態はどうもそのように振る舞われている。という観察結果なのです。感覚として どうでしょう? (っていうのでは 哲学を何だと思っているのかという叱責を甘んじて受けます)。
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ご回答をありがとうございます。 ★ そもそも、すでに、このように述べておられますから、自我もエス・無意識も超自我も(言葉が違うだけで)その存在は認めていることになります。 ☆ いえいえ そうではなくて 部分機能は 重なるところがあるとは初めから認めています。問題は その部分機能が《決定的に作用する》と見るか否かです。それだけです。 自我という言葉は――ひとこと添え書きですが―― それにしても本体がないですから そして中には《他我》という言葉さえ使っている例も見られるようですから これは はっきりさせて欲しいとは考えます。 たとえば ★ ~~~~~ 赤ん坊時代は誰しもエス100%です。 ・・・ 適度にエスを満足させ、しかし超自我による規制も適度に働いている、というバランスをとった状態で社会的な顔が形作られるわけですが、そのバランス状態を自我と呼びます。 ~~~~~~~ ☆ これについても こう考えます。 ○ ~~~~ 1. 赤ん坊時代から 人は《わたし》として――そして機能としてなら 記憶・知解・意志の三つの行為能力として―― 存在します。これを 自然本性と言います。 2. 赤ん坊は ただし無条件なる甘えのもとにあって その条件において欲求のままに生きています。この状態を称して おそらく《エス100%》というのでしょう。 3. 親とのまじわりや 親との無言のうちでの問答をつうじて 欲求のままに生きるということが どのように《わたし》の内に位置づけられるのかをまなんで行きます。 4. その秩序作用は おもに記憶行為がつかさどります。そしてむしろこの記憶すべき情報の整理整頓などなどの秩序作用は 自己組織化のごとくに それこそ無意識の内にはたらきます。 5. この記憶の秩序化にともなって その情報ないし情報整理をそのまま知解しつつ 徐々に判断力を養っていきます。ごく簡単に言えば 秩序(ないし こころ)に従うか否かの選択です。その判断行為が意志能力です。 6. 記憶・知解そして意志の三つの能力行為が時差をともないつつも 一体性においてあれば 《わたし》は《わたし》であると言えます。 7. この《わたし》の形成とその自己運営の動態 ここにエスも超自我も自我も 用語の表現の問題を別とすれば 介在していません。 8. バランスは ほかの人との関係および交通の問題です。コミュニケーション過程の問題です。内面では すでに大きな海としての心が成り立っています。 ~~~~~~~~~~ ★ #22さんとのやりとりでエディプス・コンプレックスが挙がっているようなので、若干触れてみます。 ☆ 二点の基軸ないし論点ですね。 ★ ひとつは、男児が母親に対する愛着と忌避、父親に対する尊敬と反抗という相互矛盾を乗り越えて、それらを年齢を経るとともに解決し統合していく過程で精神的昇華が得られる、つまり超自我性が育まれていくという構図を示したものです。 ☆ これは 父母という親に対する関係にかぎらず 人との関係において 両価性は現われるでしょう。ただそれだけだとわたしは考えます。基本的な見通しとして言えば 《わたし》とその保持をとおして 互いに勝利のうちに共生しえて行くでしょう。たとえ《錯綜》関係にまで発展したとしてもです。 エディプス・コンプレックスと言っても そういう用語を用いるだけなら まったくかまわないでしょう。問題は 三つの区分のそれぞれの部分機能が 精神疾患の問題をめぐって決定的にはたらくと見るところ ここに――もしそうだとしたら――あります。 ★ また、エディプス王が国内の災厄の原因を調べていくうちに結局自らの行為がその原因であったことを突き止める、という過程が、内面にあるにもかかわらず本人が気づかない無意識にあるものを浮かび上がらせることによって悩みを解決するという分析手法と酷似しているというのが2つめの因子です。 ☆ これも 上と同じように部分機能が 決定的にはたらくかどうかのみを問題にしています。 つまりは オイディプスが自分のもと来た道について自省し反復内省しついにみづからの間違いに気づいた。これだけの問題だという意味です。その過去の事件とその後の経緯について知らなかった。つまり無意識でいた。それだけのことです。 この無意識が それとして・それ独自の場とはたらきをもって 自分やその相手の人生にはたらいたのだという日には 何をか況やとなりますまいか。 そのくだりでわたしは 政治的な動機も 結婚にははたらいているであろうと書きましたが それは 精神分析とはまったく違う要因なのですよね? なんで総合的に全体観として《わたし》を見ないのでしょう? どうしても 片寄っていますよね? つまり リビドーなる無意識が われわれの知らないところで あやつり人形のごとくあやつっていると言いたいのですよね? この仮説は 無意識という大前提を置いているので 吟味検証のしようがないのをいいことにして侵す犯罪に近いと わたしは考えます。 ★ 詳しいことは知りませんが、大なり小なりこのコンプレックスは人間であれば誰もが持っているものでしょう。 ☆ エディプスやエレクトラのコンプレックスが 部分的に誰れにも見られるといった説ならば 無意識という場と機能とは要らないのです。そしてそれが ふつうです。けれども 独自の場と機能があるから 精神分析を精神分析として成立させているのではないですか? やはり決定論になっているでしょう。 つまり 無意識という大前提ゆえに 検証がむつかしい。批判するにも 根拠が薄弱になる。だったら 賛成擁護派が 決定論ではないと宣言しなければおかしい。つまりは 決定論であるようなのですから その仮説は 人間はすべからく無意識領域においてコンプレックス人間であると言っていることになります。どの程度そのほんとうの姿が 実際に現われているかは 人それぞれだと言うに過ぎない。こういう理論を唱えているようなのです。 わたしは この仮説のはびこることに対して何とかしなければいけないと思います。