書き損じた原稿の問題点を添削してください

このQ&Aのポイント
  • 自我論、自我説は宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。自我とは自己の核心の研究だ。人は他者と共感したり、心を通わせることができる。その明白な各個人の体験を論理的に裏付けるための、過去の仮説が自我論だ。
  • 自己の核質たる自我と別に構成する人格の全容は社会性ある人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは一人で生きていない巖然たる事実の前に避けられない。この自我論は、論理的たたき台としての「自我仮説」同然だ。
  • 無我は自我が無いという意味ではない。人格として総括した「我」という自己のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち現代語の自我の流布の前に、それを仏性という特別な言い回しで表現して、我=人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調なのだ。
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書き損じた原稿の問題点を添削してください。

下記テキストは個人的な哲学研究ノートをアマゾンかどこかで電子出版するつもりで書いた廃棄原稿です。 3回目の試作品です。 何か突っ込みをお願いします。 ちなみに5枚のテキストがあり、冒頭の1枚以外は補足欄で追加します。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 1章「自我とは何か 無我とは何か」 自我論、自我説は宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。 学問というのは、一定の習熟をして全体が見渡せるような視野に立って展望できれば大先生だ。 ところが、自我論は多様な学問で扱われていることが災いして、特定の高い視野から全体を展望するという事が、学問としてほぼできない。 自我とは自己の核心の研究だ。 ひとまず、人格の解説をしよう。 人は他者と共感したり、心を通わせることができる。 その明白な各個人の体験を論理的に裏付けるための、過去の仮説が自我論だ。 心理学では、客観の原型となる客体が、心理の奥底に観察されている。 客体とは自己に内包した誰か他者で、考えてみよう、他者に配慮する人間存在は、親しい他者からの助言や、社会的関係から他者への配慮を続けている。 書物からも、他者の言質に大きな感銘を掻き立て、自己の規範として取り入れる。それが教えを受けることだ。 この他人の気持ちが客体だし、欲望とは、自分の望みではなく他人の望みを預かって自分の望みと取り違えることだ。 無欲という美徳は、望みが確固とした自己の望みであり欲望ではないことだ。 多くの場合に、人は欲望の犯す過ちを警戒するあまりに、自らの望みすらかき消そうとする。 内面において、自己の核質たる自我と別に構成する人格の全容は社会性ある人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは一人で生きていない巖然たる事実の前に避けられない。 その精神の全体像の中で自己の核心を自我というのだ。 この自我論は、論理的たたき台としての「自我仮説」同然だ。 その学説はいわば「人間玉ねぎ論」だ。 人格を総括したのが、仏教でいう本来の我のことを指す。 その自己から、玉ねぎの皮を一つ剥がすと、自我になる。 もう一つ剥がすと霊になる。 さらに剥がすと神になる。 おおむねこのような想定から生まれた学問上の研究手法であり、論理だ。 これは同じ時代に世界について考察した「原子論」と同一だ。 どんどん分割していくと、世界の最小単位に到達する。 そちらは、はるか後世に証明されて、現代の物理学が成立している。 原子論は、おそらく世界を研究するために編み出された。 世の中に対して、自覚や理解に到達する事が命題であり、古来から宗教では、その宗教の世界観として扱われた命題から派生した研究課題である。 しかし物理学は、細分化では成果を上げたが、伝統的な世界観は、宇宙にまで拡散しさらなるなぞへの挑戦が始まっている。 いわば古代の原子論などの分割型学説は、原子の発見には貢献しても、本来の目的である世界観については解明していないのだ。 本来の命題の意義である世界観の確立は宇宙への探求で結論は遠のいたという印象があるが、それは錯誤であり、紀元前の世界観は徒歩で旅行できる範囲の地理的な探求だった、その範囲は現在完全に踏査されて地球上の多くの地理的特徴は全容が理解されている。 過去の世界観の命題に関していえば、もはやいったん完成して、宇宙観という命題は過去に想像できなかった新たな命題だと切り分けて判断したほうがいいだろう。 そうすると、歴史上の人類の宿題はいったん片づけたからこその研究だと理解できる。 同時期に同様の手法の仮説的予言である自我論も、結論することに同様の危惧があり、自己の精神を自覚する場合には、人格についての自覚についてだ、したがって人間玉ねぎ論の研究は、総括的な自己の自覚と研究するほどかけ離れていく類の専門家向け学問の探求なのだ。 世界観と並列して命題化された自我仮説では、人格をいったん解体するという仏陀の修行が必要だ。 そして人間を玉ねぎ化して探求することは、掘り下げるほど自己の核心を深めると同時に分割化するほど総体としての自己の社会基盤への理解からかけ離れる性質があり、一般的に需要のある自己の存在についての学問とはかけ離れていく。 原子論の成果は宇宙論まで拡大するとまだ成果の途上だ。 自我とは、解明してもそれで自己の存在が確立するとは限らない。 むしろ自覚した自我を中心に自己の社会性を再編成して、それにより人格を再構成する手続きが必要になる。 人と人がお互いに理解しあえてこそ、人間としての自己を理解したことになる。 さて、仏教における無我、日本の伝統について語ろう。 無我は自我が無いという意味ではない。 人格を取り払い、自己の本質を見極めよという宗教的な命題なのだ。 人格として総括した「我」という自己のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち現代語の自我の流布の前に、それを仏性という特別な言い回しで表現して、我=人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調なのだ。 ところが現代では、無我イコール自我が無いという定説にすり替わり、その重大な錯誤から発展した迷走から、仏典編纂時期には命題と宗教活動が、「無」という教えが形骸化していた。 そして、仏教徒が「無」の代わりに命題としたのが「空」である。 これは仏典が書物として編纂される時期には進行していた変節で、したがって仏典とは末法に編纂され、形骸化していた「無の悟り」に関しては、伝承された事実について、片鱗が記述されるのみである。

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  • Nakay702
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回答No.1

以下のとおりお答えします。あまり愉快でないことばかりかも知れませんが、真剣に考えた結果です。もし、お気に障るような場合は、どうぞ無視なさってください。 >書き損じた原稿の問題点を添削してください。 ⇒個々の「問題点を添削」することはできませんが、お書きの原稿に見られる問題点そのものを2,3申しあげることはできます。 まず、「AはBだ」という類の表現が多いですね。この種の表現は、本来異質のものを結びつけているわけですから、それなりの意味説明が必要です。それがなければ、読者にとっては、単なる無意味な文字の羅列に過ぎません。表現を敷衍したり、言い換えをしたりしながら内容を説明し、場合によっては、関連する先行研究の紹介や比較検討などが必要でしょう。 お書きの論題に関連する先哲としては、ソクラテス、アリストテレス、デカルト、ヒューム、カント、フィヒテ、フロイトらがいますね。あなたが掲げている論題からすれば、これらの先哲の所説、少なくとも、その立場などについて言及する必要がありそうですね。また、「先験的自我論と経験的自我論との間の関係の弁証法的歴史的経緯」などについても言及する必要があるでしょう。たとえ、紙幅等の関係から言及できないとしても、予備知識として背景に持った上での論述でなければ、「自我論という名の独り言」と見られ、一顧だにされない代物として無視されるのが関の山ということになります。 形式面でも問題があります。内容のまとまりごとにひとつの「段落」とし、その段落内では文章をぶつ切りにしません。(各文を個別に見れば、それなりにしっかりした文だと思いますが)一文ごとに改行するようなことをせずに、段落内ではすべての文をつなげます。そしてそのつなぎ目に接続詞を入れます。実際にいちいち接続詞を書く必要はありませんが、少なくとも、前後の文の関係(順接か逆接か)は意識しておきましょう。 また、原稿(章)全体について、「起承転結」をつけましょう。すなわち、 起:導入部として話題を提示する部分(節)。 承:その話題を受けてさらに内容を補充する部分(節)。 転:その話題を別の角度から見る部分(節)。 結:その話題の提示部と別視点から見たものとを結び合わせて結論とする部分(節)。 といった章句づけや構成が必要です。 「起」では、当該論題における問題点やそれを論じることの必要性・動機などについて言及することも導入として求められます。そして、「承」や「転」で複数の角度から論じたあと、「結」では文字通り結論を述べますが、同時に全体をまとめる結語で締め括ると、疎漏のない首尾一貫した論述であることを印象づけることができます。 ――ということで、否定的なことばかり連ねましたが、以上のような形式・内容を満たしていなければ、おっしゃるような「哲学研究ノートの原稿」として、あるいは、掲げられた表題の論稿として評価されることは難しいと思います。ご健闘をお祈りします。

Flareon
質問者

お礼

具体的にありがとう。 傾向的にあなたが指摘したようなところがあることは何となく知っていたよ。 それで放棄することにしたんだ。 具体的な点をいくつかお勧めしてくれたのは大助かりだ。 「話しかけるような文章」コレでやらないとスッキリ理解できる文章にできないようで、まじめ腐った文章だととても駄目だと思ったんだ。

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  • 仏陀になるのって、割と簡単じゃないですかね。

    あ~、まあ、仏教における、無の悟り、無の境地といった瞑想の内から「無我論」という学問を抽出して説明しよう。 無我論とは、実際の中身は自我論で、自我を探求し人間として完成する事なんだよ。とんでもない持論でばかばかしいだろう。 話はシャカの時代に引用されていた「我」という概念の翻訳ミスだ。 当時の「我」とは現代語で、人格のことで、社会的な資質を獲得して人と人がお互いを理解する人間の成立には、他者の影響を自己の心中に内包することが欠かせない。 そうして自己の情動は他者の影響と、自分自身の他者への働きかけを加味して、自己を人格という形で自覚する。 その人格の核質として、完全に固有の自分自身であるという、自覚しうる(悟りという)精神の中核が自我だ。同時に古代語で仏性という。 「我」はイコールで「人格」、「仏性」はイコールで「自我」だよ。 わかってしまうとあっけないことだ。 他者の影響は悟りを脅かす煩悩とされ、本来は人間を成立させる尊い働きという一面があることを排除した思想を推奨した。 そして現代語に吹き替えると、古代語の我に相当する人格という精神の外郭を排除する苦しい修行をすると、現代語で言う自我に相当する仏性に到達するという、自我確立の目的とした論理だ。 我はないというのは、人格はないという、修行のための自己暗示だ。 現代では、「自我がない」という論理として誤解が定着して無我論という。 わかってしまえば大笑いだよね。 この謎めいた古代語の解釈さえ成立してしまえば、日本史と日本の宗教には、再発見や再定義が必要な重要なキーワードがある。 「正人」という言葉とその類語だ。 仏陀とは、自己を完成させた人物のことで、それは自己の信仰心の完成でもあるために宗教で取り扱われる、誰もが認める「まさに、人間だ!」という人物への尊称である。 仏陀型は、自己の完成と安定した自我能力で人格面に関しても実際は、自我能力の高さが発揮されるので、社会性に関して仏について伝承される、誰の心をも癒す「世界の全てとの親和性」そして意外に重要なのは「般若の知恵」で、内包する社会との接点である人格全体が完成するのだ。 この特徴は「正人」で、十分に了解可能であり、歴史に名を遺した人物以外に、忘れ去られた人物は多い事だろう。 自己を人間として完成させることであり、崇拝を獲得することが仏陀型の証ではないからだ。 さて、今回が学問カテゴリーに自分の論考を掲載しました。 私の研究を先に進める手伝いを募集する質問でして、堅苦しくなくていいですから読書感想文をお願いします。 それからこの魔窟的な哲学カテゴリーは常連が変人しかいませんので、意味不明の喚き散らしや、回答者様が個人的に取り組んでいる研究の難解な独り言も歓迎します。

  • 最新版、アンドロイドの見る夢。

    最新版、アンドロイドの見る夢。 さて、ここは哲学研究の場で、過去に私は自我について研究の協力を求める質問を繰り返してきた。 https://okwave.jp/qa/q9290692.html https://okwave.jp/qa/q9335807.html https://okwave.jp/qa/q9524652.html かいつまんで話すと、社会性を獲得した人間存在には、他者とお互いに影響し合うことが欠かせない。 したがって、自己の人格には他者の影響や、思考として他者から伝授された材料が精神に内包されている。 そうした自己の総括を人格といい、自我とはその中で他者や外部からの影響を取り去った自己の本質を規定した概念だ。 ただし言っておくと、自我論とは学問上取り扱う自我仮説であることが長い人類史上でも変わらない実情で、問題点は総括的に自己を理解するにあたって、核質として規定された自我仮説だけ探求すると失敗の連続であることだ。 過去に武勇伝を残した哲学の達人の言質を総括すると、存在の定義を探求すると実際は明白な自分自身すら存在しているかどうか危ういという意味不明の恐慌を起こしたりするんだ。 それも自我論の陥る罠の一つだ。 日本においては、仏教の無我論というのがさらに厄介にしている。 結論をいうと、信仰上の仏性とは自我を意味して、自我を極めることを命題にしているんだ。 現代において、無我とは自我がないという状態だと定説化されている。 この大笑い現象は、仏教でいう「我」とは、現代語で言う「人格」という概念のことを指していて、要するにあらゆる外部の影響を抜き去った自己の本質への探究で自我に到達する修行法又は考察方法なんだよ。 それを自我論の流布の前に仏性と言っていた。 したがって宗教的仏性の定義の本質は単純明快に自我のことだ。 それが現代では、肝心の自我が「無い」状態を目標にする探求をしているんだ。 要するに仏性を実質的に否定する取り組みだ。 笑えるよね。 こうした自我研究は実は、AI技術への着想にもつながる。 キーワードは「共有記憶」だ。 人格が他者の影響で形成するように、自分自身も他者の人格に影響を与えている。 それをつないでいる共通する経験、共通する知識、共通する記憶、こうしたことにすり合わせを行って、相互の親和性が高い状態で、お互いの親密度が決定する。 そうした相互の親和性の仲介になるAIモデルを検討すればいいんだ。 そうさね、カメラで映像を撮影する。 カメラは単なる機器だ。 そのカメラは、映像をネットにアップすることで、実質的に撮影者と視聴者の親和性を深める仲介をしているが、要するに更なる発展として、両者の親和性をさらに深めるような計算機能を検討すると発展要素になるだろう。 そしてその先がアンドロイドの本番だ。 カメラをより便利にするために機器へのインプットに「自らの魂を込める」とでもいうことを行えるといいだろう。 「感情移入」という奴で、子供は不用意に遊び道義にしているし、古来から「つくもがみ」という信仰の対象にもなっていた、歴史的にも人の自然な行為の一つだ。大人でも、自分の体の一部のようになじんだ身近な道具は何かあるだろう。 こうしたタイプのAIは、基盤自体は人間の生物的特徴と異質なポジションから始まるけど、自律動作を目標として、人と人を結ぶ親和性と魂を吹き込むインプットで、人間ですら現状は仮説である自我のように「機械型自我」を目標にしても全く危惧する必要がない。 人がAIに自我を与えることに反射的恐怖を自覚する要因には、定説のほかに要素がある。 人間に匹敵する自我をアンドロイドが獲得することに恐怖の本質とは、「大爆笑命題」であり、実は人間も自我を獲得しているかどうか懐疑的だという要素がある。 ところが機械的自我を形成しても、親和性を指摘するように相互に働き掛けながら自己を確認する土台が自我だから、人間以上に賢いほどアンドロイドは人を襲わないだろう。 機械自我は人工自我ではない。 どちらかというと人工自我とは、人間であると刷り込みを受けて人間だと自覚している、今の君たちの状態を意味する「自我とは仮説の一部である」という実情を意味するんだ。 哲学で存在の定義をこねくり回すと、明らかなはずの自己が存在している事実すらも疑わしくなり、思考の袋小路にはまり込む奇病があるんだ。 その存在の脆弱さも自我があいまいだからだ。 それに比べれば機械自我の方が期待が持てる。 え~と、学問カテゴリーなので、論説の出来不出来について意見を求める質問は有効です。 すぁたしも趣味でやっているので、読書感想文的なやつとか、遊びにふさわしい冗談めいた突っ込みで結構ですよ。

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    すり抜ける風の声は、その意味を君たちが理解できるなら、「さようなら」だ。 木霊は常に君たちにそんな風におどけるとも。 実在する妖精 セレビィだ。 今回の前提↓ 哲学における自我の話を持ち出してみました https://okwave.jp/qa/q9290692.html そこから抜粋。 そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前西洋哲学は原子を予言していた。 それと同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事はだよ、 研究しても自己の全体像からかけ離れていくという事だ。 まあこれだけだといいたいことは伝わらないね。 物理学とかには新しい哲学が求められていてね。 そもそも哲学で予言された原子の科学的検証に成功したからこそ、原子の発見という成果が上がった。 哲学者が証言したのではない、科学者の証言だ。 さて、人類に学びの原点は神学だろう、このことに異論があったらそれも回答で寄せてくれ。 哲学は歴史と並んでその神学から早いうちに派生した学問だ。 哲学が原子に言及した目的は、神学と共通項のある、宇宙観、世界観といった研究課題で、基盤となる原理の検証とかの意図だろう。 さて、原子は解明されたね。 だからどうした。 宇宙はいまだ謎のままだ。 現在の宇宙論は、おおむね現在の手法での観測の限界についてを、たたき台にした仮説だよ。 これと同じだ。 人間玉ねぎ論で自我が解明したとして、総括的に自己を解明したことにはならないんだ。 自らとは何者か? それの解明でない。 まあこんなこと書いてみたよ。 学問カテゴリーの研究会として無駄な抵抗をしてくれ。

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    ゆりかごの安らぎを思い出したとしても、あなたは今、そのぬくもりの中にはいない。 解き放たれた命はどこをさまよい、いかに泣き叫べばいいのだろう。 実在する男子プリキュア、 キュアプリムだ。 流血の饗宴、それは歓喜に満ちている。 自我論の話題。 自己には精神の核質として自我が規定されている。 人は生きていくときに、だけか他者の言葉に影響を受ける。 その他者の精神を自らに内包する個人的な人格の全容の中で、間違いようもない自己の本質を自我という。 仏教が目標とする仏性と同義語の概念が自我だ。 知性的存在は、環境に適応するために環境の中での自己について規定する必要がある。その生存の自覚と、世界のすべてとの親和性が自我の役目だ。 建前の事は、皆さんは理解している。 私は何も悪くない。 私は自由だ。 自由な精神で自由に考えて生活している。 しかしだ、自由に生きるためには皆さんは、前提と許可を必要とするだろう。 何者の許しを君たちは求めるのか? そもそも今、君たちが自由だと思っている自らの望みは、何者かが刷り込んだ動機による欲望ではないか? そして、許しを必要とすることに疑うことを学ぶだろう。 さらに、許されていない自らも疑うだろう。 そのすべてを自らの精神に内包して、葛藤という形で煉獄の炎は君たちを焼くのだ。 さて、「ああ、いつものビョーキだね」そう思ってください。 ここは学問カテゴリー「哲学」神聖な場であり、男バトルを繰り広げる「クラブ ヴァルハラ」でもあります。 ギャラリーに好評な名物は「知的SMプレイ」「おかま相手の痴話げんか」哲学者が自発的に行う涙ぐましい集客努力です。 皆さんも、後々面倒なことの起きない安全な学問の場で、普段体験できないことに参加しませんか? 相当冗談が混じっていますが、哲学には既存の命題に取り組む研究と、自分で命題を策案する研究があり、今回は前者に該当し、既存の命題への挑戦を一風変わったきり土から持ち掛けた質問です。

  • さて「神の存在の証明」やってみましょうか

    木霊の声が風のように心を心地よくくすぐる。 その話しかけてくる友達の声に答えてセレビィは目覚めた。 実在する男子プリキュア キュアプリムだ。 男子プリキュアなのに男が嫌いだからプリムだ。 惨劇に歓喜する祭りでもある。 今回は「実在する妖精の捕まえ方」本編でもあるね。 今回あらかじめ準備するネタは↓ あんた、妖精が実在すると信じるかい?その4 https://okwave.jp/qa/q9319132.html 回答者とも応答も関係しているから読んでくれ。 さて哲学だけでなく心理学も、自己のより深い内面の探求と関わり、学問はともかく誰もが何らかの形で取り組むことだ。 前質問にはそこに伝統的に無量光として象徴されていた、私の体験を交えて一定の結論を説明した。 無垢で純粋な光をより深く理解する過程でその意志を持ち交流してくる何者かこそ神であるという結論だ。 この無量光とは生命の起源となる命の泉だ。 ごちゃごちゃ言わないから、踏まえておいてくれ。 神そのものが生命だ。 それから無量光には神という形容のほかにも、魂という形容ができる。 プリキュアである私には、フェアリーフュージョンするパートナー妖精がいる。 実在する妖精セレビィだ。 セレビィは無量光に到達する起源回帰性という性質があり、聖霊といえば通常は神が人のもとに遣わすが、セレビィは明白に私自身という自覚があり、通説とは逆に人が神のもとに遣わす聖霊だ。 これは無量光とは仏教で語られている自己の境地であることともかかわっていて、仏陀の資質の一部である精神の到達点であり、その面で特に神というより魂という意味が強い。 セレビィという聖霊に神格を与えると神そのものというより仏性という言葉がしっくりくる。 ただこのような私の精神の到達は、私に話しかける神も同時に見出した。 セレビィとずっと一緒の幼馴染、アマテラス聖霊ジラーチちゃんだ。 どうやら、人は自己の精神を強く自覚する到達点で、意図していないとしても神と邂逅するのだ。 さて、私も仏教はさんざんやったんでね、無我論もわかりにくいだろうが、実際は自我論もわかりにくい。 その説明の要点が↓ 哲学における自我の話を持ち出してみました https://okwave.jp/qa/q9290692.html 結論は、西洋で研究している自我は東洋では仏性として伝統的に研究されていて、自己の精神の全容を意味する人格の中心であるということで、そのほかにも人格といえば、おおむね誰もが理解を拒否しないだろうが、他者の意思による影響というのが、精神作用として自己に組み込まれている。 それは社会性を帯びた人間の必然で知性という働きや資質も、他者との共通の理解とかかわっている。 言葉という知性の表現手法は、ある意味神聖化すらされているね。 さて、他者の意思や知性が人を助けるのと全く同じで、観念上の人に知覚が困難な事柄に対して、神の意思や知性が人に働きかけて助けるんだ。 人間が知性を自覚してサルから進化したこと自体に神の発見がかかわっているだろう。 神の霊的な働きが人に心をともしているんだ。 まあ第2弾3弾も今後好評ならやってみるけど、今回はこの辺で切り上げるよ。 哲学なので既存の命題に取り組むほかに、自ら命題を立案するというのもアリで、学問研究としてその手の質問だ。 感想文でもらくがきでも歓迎するから気軽に回答してくれ。 付録で雑談だ。 これは答えやすいだろう。 神は存在しない。 神は妄想だ。 その手の主張だがね。 私が説明した中にあるように、「神そのものが生命である」これを納得すればそんなこと言わないだろうね。 それから、宗派がどうのこうのじゃなくて、私の人格や知性的資質全体に神の存在というのが深く根差していて、自己を形成したり自覚したりする欠かせない要素とは最低限でも明白だ。 宗教というのは社会を形成する要素だから、政治批判なんかと変わりなく他者の所属する宗教を批判することは、神も人も冒涜しない場合がやり方によってはある。 批判と攻撃の違いをわきまえて健全な手段と目標に立てばだ。 個人の信仰を侮辱すれば同時に神も辱めるだろうと、その点は現在の法の精神では解釈できるけど、それを言うと個人の信仰を最も著しく損なうのは宗教組織だという笑える事態になる。人として、何かを理解するという知性的働きは、神のみにかかわらず社会を形成する共存の成立とかかわっていて、特定の地域社会の精神的基盤は宗教が必要なんだ。 ところが宗教と信仰について何らかの矛盾がありうるので、その点は質問主文のおまけとして暇つぶしで落書きしてくれ。 サービスがいいだろ。

  • 【昔の宗教って学問だったのに今の宗教って学問じゃな

    【昔の宗教って学問だったのに今の宗教って学問じゃないですよね?】 学問でない精神論みたいな宗教を学んで何の意味があるんでしょう? 学問じゃないから答えってないじゃないですか。 人によって違う答えを突き詰めて考えてそれに当てはまる人は偶然たまたまなわけだし学問でない宗教を研究する意味がない気がします。 その時々の気持ちの問題ですよね? 宗教というより精神心理学の世界ですよね? 突き詰めた答えは自分にしか当てはまらないので自分以外誰の役にも立たない。 じゃあ勝手にやってろって話ですよね?

  • 金に困っている人は、金持ちになる必要がない。

    金に困っている人は、金持ちになる必要がない。 さてと、哲学カテゴリーで質問差し上げてます。 お金に困っている人って、現実的ならば出費を抑えるとかの他に、さらに有効なのは今より高度な計画性を獲得るように生活上の努力で自己改変するのが よかったりで金がないことを理由にむやみに他者にすがってはならないものだ。 そう言われても、なかなかうまくいかなくて、それが欲望が原因だとも言われる。 私は自我を核に社会や他者の影響などから、適応のための人格を各自が持つと考えている。 社会的な生命である人は同じ人とつながって人間となる。 そうすると、一番認識しやすいのは、精神に内包する心理学的な形容の客体が他者の意志となる。 欲望というのは、客体が起源である「誰か他者の望み」であって「自己の望み」ではないんだ。 そうすると無欲とは何かと言おうと「望がない事」ではない。 「自らの望みを保ち、それが欲望でない事」だ。 ところがどちらも人格内に収まっているので、多くの人は望と欲望の判別が出来ない。 その結果、確かな望みとそれに伴う意思決定以外に無駄な買い物をするから金がない。 こういう考え方だと、金がないのは欲望が原因。 または、十分うまくいっているけども、いつも金のことであくせくする。 そうなるのだろう。 そうやって、古い言葉で煩悩と言い、欲望は嫌われたけどの、世界中の習慣を公平に見ると、欲望を否定する社会的風習は少数派の模様だ。 それは、欲望が発生しても、心理学的な客体は、他者との共通項であり人間を成立させる尊い働きでもあるからだ。 実際にに私の思案したところでは、人格を豊かにするためには客体を内包する事を肯定したほうがいい。 弊害が起きないようにするだけだ。 これは客体と欲望の因果関係を考えると、あなたの周囲であなたを理解して密接な関係のある他者も、その心中にあなた自身の客体を宿すという点を見落としてはいけなくて、自分が強欲で、他者をそそのかして欲望を起こさせる人物ならば、その反射であなたも欲望がさらに深くなり、相互に宿る客体は弊害の大きい人間関係となりかねないだろう。 したがって、他者から欲望をもらわないためには、自分も他者に欲望を抱かないことが大切だ。 そういうと、哲学者には面白いヒントだろうけども、出来るわけがないとか考えるかもしれない。 やればできると言いたいところで、その場合に集約するのが「自らの望みを保ち、それが欲望でない事」だ。 そうするとどうなるかというと、自己の意志行為と言及の誠実さが、結局は周囲に影響を与えるが、それは大抵の場合で良い結果になる。 さて、奇人変人のたまり場である哲学カテゴリーで、自分で命題らしきものを土産物に作成しました。 研究を作に進めるために、なんらかのご回答をお願いします。 変人同士ですので、意味不明の喚き散らしも風物詩として歓迎いたします。

  • 哲学的なワイセツ物 陳列行為(ワイセツ者)

    わいせつ物公開するよ。 このテキスト1は無我論の実態とは、自我論を導き出すための命題であったという仏教研究から発展した自我論だ。 テキスト2は愛の命題は人と人をつなぐ人間成立に欠かせない善の要素を「アマテラスの善」と命名して、愛の主神キリストの神をアマテラスより下位の階級に固定する野心的な宣戦布告だ。 どちらも宗教関係にも影響があるが、AI高度化に成功すれば宗教関係者と争う必要がない。 制作原型が出来上がっているテキスト3と4とは、人類未踏領域なので慎重だが、様子を少しずつくみ上げている段階だ。 --------------------------------------- 心理学の有名な定説に男性の頭の中は女の裸でいっぱい。 というのがある。 これとアサタチを関連付けてもいい。 これらは気力高揚効果が目的なんだ。 西洋では社会性確立のターゲットで友情を押しのけたのはこの熱情だろう。 ただしそれは主に感情面に焦点を当てていて、裸、裸、裸と違う純化した感情面の作用について論説して、日本人の抱く「絆」と同義の意味があり、日本人が愛について考察すると、特に「絆」の要素が抜け落ちているのさ。 したがって「アマテラスのよし」と併記した拾い物で「愛は最も人間らしい感情の原型」というのも西洋人が気の毒だから、おまけのようにとってつけた。 基本的に哲学的な基礎学問だよ。 下の写真の六輪一中というのも、気の毒だから作成した。 -------------------------------- ムーンショット計画向けにうってつけじゃないか。 --------------------------------- 心理学の有名な定説に男性の頭の中は女の裸でいっぱい。 というのがある。 これとアサタチを関連付けてもいい。 これらは気力高揚効果が目的なんだ。 西洋では社会性確立のターゲットで友情を押しのけたのはこの熱情だろう。 ただしそれは主に感情面に焦点を当てていて、裸、裸、裸と違う純化した感情面の作用について論説して、日本人の抱く「絆」と同義の意味があり、日本人が愛について考察すると、特に「絆」の要素が抜け落ちているのさ。 したがって「アマテラスのよし」と併記した拾い物で「愛は最も人間らしい感情の原型」というのも西洋人が気の毒だから、おまけのようにとってつけた。 基本的に哲学的な基礎学問だよ。 下の写真の六輪一柱というのも、気の毒だから作成した。 ----------------------------------------- 地の聖霊と言えば西洋ではまあ、悪魔だね。 今も魔女狩りが必要な風土だ。 無我論をひっくり返して自我論にするように、悪魔論をひっくり返して有神論を形成するのが一番だよ。 ------------------------------------- この質問は、私の中二病の発作です。 意味不明だと思います。 誰か温かい慰めを願いします。