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ひとは だれから おそわるか

 次の命題を検証するのをたすけてくださいというのが 質問趣旨です。  【命題】:おしえる者は ほんとうには ただ記号(つまり通常は ことば)を伝えるだけである。  これを受け取って おそわる者は 自分の記憶野に尋ね 知解し 当否を判断する。  ゆえに 単なる知識や情報のやり取りでないなら ひとは だれからも おそわることはない。自分で能力を開くのである。  以前には 次の質問で つまり  【Q:人が おしえる・おそわるということは どういう事態か】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4159557.html において おしえる側とおそわる側の互いの間(または 関係)に 《まなぶ》行為があると捉えましたが 変わりつつあります。  おしえてください。つまり ご見解を述べて 考えさせてください。

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noname#117439
noname#117439
回答No.19

オコリザルです。 話がそれてしまっているかもしれませんが、実例の一つです。 >相手の立場や能力に合わせて不本意にも憶えることお強要する試行はあります。その点の不完全さは、つながりを保とうにも自己の不在が大きすぎる場合です。実際の言動ではいじめることになりますね。 これに関してすぐに思いつくのは一人言をいう癖のある子供です。 先生ならその良さに気がついて「自分のしっかりした世界がある。」との評価からアプローチするでしょうが、子供の少ない社会とのかかわりの場であるおもちゃ屋さんに遊びに来る場合においては「自分の世界から抜け出せないでいる」との見地に私は立ちます。そしていじめるというよりも「厳しく」世界を開くきっかけを増やすように、子どもなりの社会性のしきたりを憶え込むように矯正します。結果として友達と仲良くできるようになれば、憶え込んだ内容は過去から現在えと昇華して、混乱を招きやすい「記憶」の問題は解決します。 うっかり親の前で行って、しかめっ面をされたことがあります。 子供に接する大人の気構えとして、終始一貫していて裏表のない、嘘のない姿勢を貫くと、自分自身を忘れるほどにもうろくした大半の大人の目には変な風に映るでしょう。最近は上手になって親にも理解されるようになりましたが、子供優先で駄菓子屋さんみたいな営業方針は一貫しています。 教えること教わることを難しく考えたことはありませんが、教わる姿勢に疑いを持たない子供たちにはそのように接しています。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。  あぁ なるほど。そうなのですか。実際に 《みづからが みづからに おそわる》姿勢が すでに あるから(つまり ゆがんでいないから) その子どもと《対話》とおこなうということですね。    一点 わたしが 自分なら どうするかと考えて 違うと思ったことを 述べます。  その親のことよりも その子どもと こちらの関係が 長続きするかどうかで 違ってくると考えました。つまり 互いに近所に住んでいて 日常に 顔を合わすほどであるなら だいたい わたしも 同じようなことをするかも知れません。  (《独り言》を言うくせのある子どもに限らず それぞれの子どもに いろんな接し方をすると思います)。  ですから 顔見知りでない場合には わたしは 躊躇すると思います。そのあと どうなるかが わたしの手の届くところにないのなら 無理だと思ってしまうと思います。  ★ 教わる姿勢に疑いを持たない子供たち  ☆ 案外 子どもは いくらでも おしえてもらっているわけですが 全部 自分で 自分に おそわっているということかも知れません。つまり ひとから言われたことと その内容を自分でかみしめていくこととは すでに一たん切れていると見たほうが よいのかも知れません。

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noname#117439
noname#117439
回答No.38

オコリザルです。 ちょっとA47を振り返ってみます。 ○ いぢめに抵抗し いぢめられっ子をかばったのは 《〈人格の尊厳〉という理念とは関係ない》 つまり ただの人としての素朴な感情からだ。  ☆ という意味に取られたことは ないのでしょうね? その子がかわいい子だったからの一語に尽きます。 情動として引っ張ってくるような感覚を、惹かれあう感覚に正すなら、行動としてその子を慰めることになります。 ★ 怒りにまかせていた私は人間とはすなわち鬼畜なのだ。私は孤独なのだ。と解釈してしまいました。  ☆ となるのか 飛躍があるように感じますが どうでしょう? それとも こういうことでしょうか?  ○ このように いぢめに抵抗することは ふつうの人間の思いである。それが分からないのは 人間ではない。ゆえに 《鬼畜》だ。  ○ また ひとは みな わたしの思う人間であると思っていたのに そうではなかった。いぢめをとめなかった生徒たちも 消極的に参加しているのだから いぢめを受けた少女のほかは 人間ではない。だから 人間であるわたしは 孤独だ。 私の見解は二番目に集中しています。当時実際にそのように考えましたが、違うところもありまして、 >いぢめをとめなかった生徒たちも 消極的に参加しているのだから これは、当初ありません。 そのような暗黙は罪や悪ではないでしょう。 ところが当事者としての参加のない姿勢なら、羊の群れからどれか一つがイケニエとして今晩のおかずに上がる事があっても群れ全体はそれは日常的なこととして無頓着なら、その家畜としての姿勢は鬼畜と言いうるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ちょっとA47を振り返ってみます。  ☆ ですね。  ★ その子がかわいい子だったからの一語に尽きます。  ☆ これは 分かりました。それだから 先生が primeape 少年とその女生徒との関係を嫉妬したかどうかは もうお任せしましょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >いぢめをとめなかった生徒たちも 消極的に参加しているのだから  これは、当初ありません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですか。でも あとからでも そう考えたほうが いいのではないですか? つまり むしろ  ★☆ そのような暗黙〔のうちに いぢめを放置しておくこと〕は罪や悪につながる。  ☆ のではないでしょうか? このいぢめの場合には 次の《無頓着》ということと同じだと思いますよ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ところが当事者としての参加のない姿勢なら、羊の群れからどれか一つがイケニエとして今晩のおかずに上がる事があっても群れ全体はそれは日常的なこととして無頓着なら、その家畜としての姿勢は鬼畜と言いうるでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん 《鬼畜》という言い方は 欠陥を憎むというときの感情を前面に押し出したかたちだと思われます。そのぶん 規定の仕方が 主観の内に閉じこもるかたちになります。  人間としての自由意志を放棄したのだから 人間ではなく家畜であると言って言えなくはないでしょうけれど 基本的にはやはり 直前のご回答にあったように 《悪のおこない→あやまちの気づき→我れに還る=善の回復》という道筋に沿って 《悪》の問題だと規定するほうが 普通一般だと考えますが どうでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 primeape さん そして みなさんに対しても こちらは締めて あたらしい質問のほうに移っていただこうと思いました。  あちらでも じゅうぶん ご見解を示していただけると存じます。         bragelonne

noname#117439
noname#117439
回答No.37

オコリザルです。 高次元の霊体とは欲望の権化でなく、人間性に備わった善そのものです。人間を神と比べるのでなく普遍的な善性に基づく知性の選択肢です。悪を取り押さえようとする姿勢です。 これに関してヘンテコな煩悩が舞い込みました。 他者の欲望を成就する手助けをするのは善である 自らの欲望の成就を求めるのは悪である。 欲望の哲学は取り合わないのが正気の考えを保つコツですから、絶対間違っているんですが、そのように拒否するのではなく、善を欲望から解放するためのとっかかりになるようなお考えはないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆ 具体的には いくつかの課題がともなわれているかとも思われます。基本的に このように考えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  高次元の霊体とは欲望の権化でなく、人間性に備わった善そのものです。人間を神と比べるのでなく普遍的な善性に基づく知性の選択肢です。悪を取り押さえようとする姿勢です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 一たんこのように得た或る種の言い方で《観想(瞑想)》について わたしたちは その実践においては・またその現場においては 忘れてしまうということではないでしょうか?

bragelonne
質問者

補足

 primeape さん ご回答をありがとうございます。  今回はですね さすがに《高次元の霊体》という表現をお使いになるだけあって わたしが考え捉えたと思う限りでは どうも primeape さんは 人間の思考の次元を超えたところに身を置いて もしそこで考えるとするなら どういうことが言えるか これに取り組んでおられる。そしてそのまま 言葉にしておられる。  ★ 他者の欲望を成就する手助けをするのは善である  ☆ 《善》とは 人間にとって その自然本性のまたその自由の自由な享受を言います。うそがあれば ほんとうには 享受することが出来ません。そのように善を損ねる・また阻む嘘〔という意志決定〕は 善の損傷という意味での《悪》です。  ところで 《欲望》は ただちにそれが善であるか悪であるか決められませんが 善を損傷させる可能性が――けっきょく すべての意志決定にはありますから―― やはりあります。しかも その悪をおこなうというあやまちに気づくとき わたしはわたしであることに還ります。つまり 元の自然本性を回復します。つまり 善を回復し あらためて 自由の享受へと踏み出します。  たとえ悪をおこなったとしても それに気づき善を回復するという道筋 このことを指して  ★ 欲望を成就する手助けをする  ☆ と表現しているはづです。そこに悪があれば そしてあやまつとすれば それに気づくという事態をこそ 取り上げ また 取り立てて言っているはづです。それは 善です。ただし   ★ 他者の〔欲望を・・・〕  ☆ と規定されています。これは どういうことを意味するかと言えば この今の《善》が おそらく 人間の能力や努力の及ばないところのことをも言っておられる。つまり 次元が違うところの善である。つまり われわれ人間は ほんとうには このことに  ★ 手助けする  ☆ かたちでは 関与していない。のではないでしょうか? 事後において振り返って 関与していたみたいだと思ったとしても 事前に意識的にそうするとは 思えないのです。  悪をおこなう可能性をもった決断をおこなって それを実行したあと あやまちに気づき 我れに還り善を回復するという筋道は 自分ひとりによっては 実現し切ることはかなわないと考えます。もしくは その筋道を 事前に たくらむことは 人間にとって 無理であり むしろ 善ではなくなるでしょう。自由の享受は ひとが自由におこなうのですが そうであるにもかかわらず これを成就しうるとは限らない。それゆえにも  ★ 自らの欲望の成就を求めるのは悪である。  ☆ すなわち 《他者の欲望の成就を手助けするという〔回り回っての〕善》を欲することも 《自らの欲望》であると考えられます。  善の損傷→あやまちの気づき→我れに還る=善の回復という筋道は 善です。しかも この方程式を みづからが みづからのはからいによって 実践するというふうには 自然本性が成り立ちが出来ていない。したがって これをわざわざみづから欲するのは 悪である。自然本性にさからうことが 善の損傷であり 悪である。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  欲望の哲学は取り合わないのが正気の考えを保つコツですから、絶対間違っているんですが、そのように拒否するのではなく、善を欲望から解放するためのとっかかりになるようなお考えはないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ それには 上に取り上げた命題は 次元の違ったところから言っているということを知る必要があるのではないでしょうか? つまり  ★ 他者の欲望を成就する手助けをするのは善である  ☆ という見方は出来るけれども それは ひとがみづからの意志のもとに はからうことではないと考えます。微妙な違いをもって ひとは 実際に対処するはづです。  ○ 他者が欲望を成就させようとするとき その《手助けをする》というのではなく そうではなく  (1) まづ その欲望とそれにまつわる他者の意志(あるいは意図なり それを表明しているその表現なり)を こちらは 受け取る。  (2) 受け取ったなら その場を――つまり その相手との交通関係じたいを――引き受ける。  (3) あとは 相手なりその情況の進み具合いなりに応じて こちらの感想を述べたり意見を伝えたりする。  (4) 言いかえると 《欲望の成就の手助けをする》のでもなく 《欲望の内容について批判する》のでも必ずしもなく そして ただちに《欲望をやめさせようとする》のでも必ずしもなく まづは 相手との関係ないしその場を引き受けること ここから 出発すると考えます。

noname#117439
noname#117439
回答No.36

オコリザルです。 新しいネタがないので今回はご返事のみです。 a48のご返事は非常に理知的で了解できました。 自らの子供時代の一種の激しさに触れたので、高ぶっていましたが、それでも理解できるほどの知性あるご返事です。 そこでコメントした高次元の霊体とは欲望の権化でなく、人間性に備わった善そのものです。人間を神と比べるのでなく普遍的な善性に基づく知性の選択肢です。悪を取り押さえようとする姿勢です。 a47に関して、 「嘘のまかり通る現実に自らを売り飛ばす」 これは、それほどの飛躍でも対立すべき極端さでもない筈です。 いろいろな思索で判ったことならば、いじめられっ子とともに闘うのは慈悲でなく愛です。慈悲の正体は愛です。 それは、無償ではありません。 明朗な現金決済です。 現金決済とは、お互いを交わしあう、答えが響く、とでも申しましょうか。 それから、自分で学ぶと、自分を学ぶの、違いを一旦はっきりさせたほうがいいでしょう。これに関して私の見解は、無意識の遠く呼ぶ声にこたえた「自らを疑うことを知らない」の一言です。 もう一つ ★ 怒りにまかせていた私は人間とはすなわち鬼畜なのだ。私は孤独なのだ。と解釈してしまいました。  ☆ となるのか 飛躍があるように感じますが どうでしょう? それとも こういうことでしょうか? 私は幼いころから常に自らを携えてきた。 となるでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。  primeape さんご自身に特有の表現というものもあるというように思いました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  私は幼いころから常に自らを携えてきた。  となるでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《私は孤独なのだ》という規定についてのご説明です。《わたしがわたしである》ことの一貫性をおっしゃっているのだと受け取りました。  おそらく これと同じことを 次のようにも説明されているのではないでしょうか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それから、自分で学ぶと、自分を学ぶの、違いを一旦はっきりさせたほうがいいでしょう。これに関して私の見解は、無意識の遠く呼ぶ声にこたえた「自らを疑うことを知らない」の一言です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  明朗な現金決済です。  現金決済とは、お互いを交わしあう、答えが響く、とでも申しましょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん 一般には このような心の交流を結果として得ることができるような親切は 《無償の愛》と言うと思いますよ。この場合は単純に表現してもよいと思いますよ。どうでしょう?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そこでコメントした高次元の霊体とは欲望の権化でなく、人間性に備わった善そのものです。人間を神と比べるのでなく普遍的な善性に基づく知性の選択肢です。悪を取り押さえようとする姿勢です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 少し首をかしげました。何としても   ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  新興宗教の教祖様の姿勢は子分がほしいからだと高次元の霊体が、その金ずるとしての効用を繰り返しセールスします。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうな《高次元の霊体》ですからね。ちょいと解せません。どうでしょう?

noname#117439
noname#117439
回答No.35

オコリザルです。 喧嘩を売る姿勢です。 たとえばbragelonneさんは「自由」を誰かから教わりましたか。 おそわったならその先生はまさに自由だったからこそ自由を教えることができたのでしょうか。 ただ「俺は自由ではないが世の中には自由もあるのだ」と教える先生は多いんじゃないですか。 信仰を表ざたにする姿勢への私のぬぐいきれない疑いは、自由を満喫しているからこそその自由を分かち合う姿勢と、世の中には自由なるものがあるとする信心から自由について噂話をしているにすぎないのに、教えるかのようにふるまう姿勢です。この違いを神に当てはめると、信仰を語るのがいかに疑わしいかになります。新興宗教の教祖様の姿勢は子分がほしいからだと高次元の霊体が、その金ずるとしての効用を繰り返しセールスします。

bragelonne
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  ★ たとえばbragelonneさんは「自由」を誰かから教わりましたか。  ☆ ひとからおそわるという事実はあるわけですから――つまり たとえば 辞書で《自由》についての説明を読んで知ったという場合にも 辞書を書いた人からおそわるというその単純な《おしえ‐おそわる》の関係はあるわけですから―― 決して そのような社会的な存在であることをないがしろにして言うのではないのですが それでも 究極的な見方をすれば こうなります。  ○ わたしは 《自由》ということばを聞いて それまでの・そしてそのほかの知識や情報とを合わせて 捉えようとしたその過程で 自由の何たるかを知った。  ☆ というふうに 今では 答えます。つまり 《自分からおそわる》という恰好ですね。  ★ ただ「俺は自由ではないが世の中には自由もあるのだ」と教える先生は多いんじゃないですか。  ☆ これは 《自由》にかんするごくふつうの受けとめだと思いますよ。それはそれで いいのではないでしょうか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  信仰を表ざたにする姿勢への私のぬぐいきれない疑いは、自由を満喫しているからこそその自由を分かち合う姿勢と、世の中には自由なるものがあるとする信心から自由について噂話をしているにすぎないのに、教えるかのようにふるまう姿勢です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まづ (1) わたしは 《自由を満喫している》ことはなかったです。ただし わたしは 生活の不自由を感じることは 概して なかったとも言っておかねばならないと思います。  ですから (2) 《その自由を分かち合う姿勢》というのは おもに《経済的に生活の不自由を感じないその自由を 社会一般が 互いに力を合わせて 保ち推し進める姿勢》だと捉えます。言いかえると この《姿勢》から《自由について噂話をしているにすぎない》というのは その姿勢が 哲学にとっては 前提であることだと考えます。自由についての前提事項なのだから 本格的な自由論では まだ なく 《噂話》であるとおっしゃっているのだと考えます。  (3) 《世の中には自由なるものがあるとする信心》――もしこのとおりに受けとめるとすれば その《自由》は 《〈絶対〉としての自由》のことです。《信心》は 非思考ですから この絶対としての自由については 《考える》のではないという意味です。そして この場合の自由論は 一方で 非思考という原点にもとづくからには 《霊――ないし仏性――》の話であり おとぎ話であり《噂話》であるのですが 他方では この《絶対》をもし無いと言いきってしまうと それは 自己矛盾に陥ります。あるか無いか分からない絶対を 無いなら無いと分かってしまったと宣言したことになります。もしくは 自分が 人間であるのに 絶対なる存在になったと――つまり絶対など無いと分かってしまったという絶対なる存在になったと――宣言していることになります。  ですから 全体としてこの場合は 《噂話をしているに過ぎない》という見方とは 別になるはづです。本格的に 自由について 捉えようと――もしくは あえぎつつ 問い求めようと――している段階になると考えます。  (4) 以上のように 一つひとつ解剖し腑分けをしていくことが 《教えるかのようにふるまう姿勢》だと見られ 鼻に突くと言われるのでしたら わたしは さらに鼻に突く話を これからも どしどし おこなっていこうという決意を 新たに深めます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この違いを神に当てはめると、信仰を語るのがいかに疑わしいかになります。新興宗教の教祖様の姿勢は子分がほしいからだと高次元の霊体が、その金ずるとしての効用を繰り返しセールスします。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは (2)の問題を突いておられるのだと考えます。(2)の問題でしか 信仰を考えない場合の愚行であるでしょう。また それを 集団としての宗教にかたちづくること自体が まちがいだと考えます。組織があれば ただちに 自由論が この世間の経済的な利害関係としての自由の問題と次元に狭められます。信仰=非思考ではなくなるのですから   ★ 信仰を語るのがいかに疑わしいかになります。  ☆ ではなくて その場合には 《信仰》はいっさい語っていないということです。

noname#117439
noname#117439
回答No.34

オコリザルです。 私はこのカテでは(本当はいじめているだけですが)時々質問を出して時には教えるようにふるまうこともあります。 ところが私の学びの姿勢がどうであるかというと、 小学校時代通信簿は1と2ばっかりでした。 1なんて本当に取る人はいないと思っている人が多いのですが科目別で半分くらいが1でした。 高校時代学年人数250人中235番で安定していました。 中学校時代の体験から真の実力についてプライドがうずいたので3年生の中頃に進学者向けの全国模試を受けてみました。 全国順位は所詮勉強していないので大したことがありませんが、校内順位は断トツでトップでした。 それでも校内のテストも授業の内容も全くちんぷんかんぷんなんですよね。 学校での学びの姿勢と言えば小学校1年生のころこんなことがありまして。クラスにハーフの子がいていじめられていたんです。その子は女の子で目鼻立ちのくっきりした美人だったので私はいじめられっ子のその子をかばったり慰めたりしました。先生にいじめが知れて問題となった時に唯一実質的にいじめに抵抗した私には先生から「なぜ」と尋ねられました。いじめっ子の言い分はハーフだからということですが私はそれに怒りお覚えまして「そんなのは人格の尊厳に関係がない」とかなり大人っぽい言葉で言い返しました。私は小学一年生でニュースや新聞は見ないし、勉強しないし、大人っぽい言葉も似合いません。ところがそこで私は過ちを犯しまして、先生は「人格の尊厳に関係はない」の言葉に対して「なぜ」を、繰り返し聞いてきたのです。さらに私の言葉に先生が驚いた表情だったのがなおさら誤解を呼びました。幼い私は大人すらそんなことも分からないのだと解釈してしまったのです。今なら先生の立場として私の意見をみんなに知らせる演出をしようとしたり、私自身をよりよく理解しようとした故だったのがわかりますが、怒りにまかせていた私は人間とはすなわち鬼畜なのだ。私は孤独なのだ。と解釈してしましました。そんな学校時代の学びの姿勢がすなはち、ウソのまかり通る現実に自らを売り飛ばすことへの抵抗です。 ところで小学校一年生の「人格の尊厳に関係はない」はどこから出てきたのでしょうか。学んだ経験はありません。その場で学んだともいいうるのですが、むしろ夢の中で学んだともいいえます。 現在は、あまり理解しがたいでしょうが、かなり露骨にこのように学んでいまして、私の教養は現実的な知識に由来していません。夢で聴く風の便りから紡ぐように教養が膨らんでいきます。

bragelonne
質問者

お礼

 一方では この一連の思惟の運びについて 今では 反省をもしておられます。  ★ ところがそこで私は過ちを犯しまして、  ☆ というところですね。そして他方では その思いとしての思想を そのまま 肯定し つづけて保っているともおっしゃっています。  ★ そんな学校時代の学びの姿勢がすなはち、ウソのまかり通る現実に自らを売り飛ばすことへの抵抗です。  ☆ ううーん。その基礎において また その出発点において 同感するところなのですが それらの出来事について分析するところに関しましては まだ はっきりとは受けとめることが出来ていません。率直に申せば 飛躍があるように感じます。  第一点とは 別にということだと思いますが どうでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 primeape さん おはようございます。ご回答をありがとうございます。  ふたつの反応があります。ふたつとも 必ずしも はっきりとしたかたちでは受けとめられていません。  ひとつは――これは はっきりしていると思いますが―― 質問趣旨に合った《ひとは 自分からおそわり 自分でまなぶ》の事例を ご自身の体験として挙げられた点です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ところで小学校一年生の「人格の尊厳に関係はない」はどこから出てきたのでしょうか。学んだ経験はありません。その場で学んだともいいうるのですが、むしろ夢の中で学んだともいいえます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ しかも もう引用を省略しましたが 現在でも そのようであるとおっしゃっている。特異な事例だと思いますが かなり強烈なご体験であり それとして《自己啓発》を促すもののようです。  具体的な事例を挙げてのご回答であると同時に しかも 総論として たぶん 一般的には 扱っていくことになるとは思います。(その種の事例を集めて 一般化した自己教育論として 総合的な視点に立って まとめていくことになるかと存じます。No.44の《分数を理解できる子と出来ない子》の問題とも合わせて そういう方向へ向かうと考えます)。(ここでは 哲学として その基礎を捉え合わせておくという恰好です)。  第二点は primeape少年とその教師との関係の問題です。そこには いぢめをめぐる対処の問題と 広く世間の慣習とも通じるその教師のうその問題とがあります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  いじめっ子の言い分は〔その女生徒が〕ハーフだからということですが 私はそれに怒りを覚えまして 「そんなのは人格の尊厳に関係がない」とかなり大人っぽい言葉で言い返しました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうなんでしょう。この理由説明に 先生が《驚いた表情》を示したのは どうしてか。ひとつに 《〈人格の尊厳〉という言葉を どうして 知っているのか?》という驚きだと思うのですが それでも そのときにも 《なるほど。それは たしかにそうだが・・・》という受けとめを まづは 言いだすでしょうね。  ○ いぢめに抵抗し いぢめられっ子をかばったのは 《〈人格の尊厳〉という理念とは関係ない》 つまり ただの人としての素朴な感情からだ。  ☆ という意味に取られたことは ないのでしょうね?  だとしますと これは 《うそ》の問題ではなく その先生の人格の問題になるかとも思えるのですが? みづからの本心を偽るという意味では やはり ウソの問題ではあるのですが。  たとえば こうです。可能性として挙げるのですが (1) その教師は ただ一人いぢめに抵抗したというprimeape少年に対して その意図を疑った。(2) 《人格の尊厳》という答えを聞いて むしろ ますます疑いを濃くした。つまり 小学一年生が そんなことを知るわけがないと決めつけた。(3) 仮りにここまではよいとしても そのハーフの美少女とprimeape少年との関係に 嫉妬の念を覚えた。この感情に関しては 抑えきれなかった。  ★ 今なら先生の立場として私の意見をみんなに知らせる演出をしようとしたり、私自身をよりよく理解しようとした故だったのがわかりますが、  ☆ と振り返って考えておられることとは別の見方ですが ひととおり 提出しておきます。  でも いづれにしても  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  〔教師は 驚いた表情を隠さず なおも表わし 「なぜ」を、繰り返し聞いてきたので〕 幼い私は大人すらそんなことも分からないのだと解釈してしまったのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そして ただし ここから なぜ  ★ 怒りにまかせていた私は人間とはすなわち鬼畜なのだ。私は孤独なのだ。と解釈してしまいました。  ☆ となるのか 飛躍があるように感じますが どうでしょう? それとも こういうことでしょうか?  ○ このように いぢめに抵抗することは ふつうの人間の思いである。それが分からないのは 人間ではない。ゆえに 《鬼畜》だ。  ○ また ひとは みな わたしの思う人間であると思っていたのに そうではなかった。いぢめをとめなかった生徒たちも 消極的に参加しているのだから いぢめを受けた少女のほかは 人間ではない。だから 人間であるわたしは 孤独だ。  ☆ どうなんでしょう? 

noname#117439
noname#117439
回答No.33

オコリザルです。 誰に言うとも無くです。 a45ではbollfish11 さんと正反対の見地を表明したわけですが、哲学カテ全体を見渡せば、自らを「私」とするその心の内と外とか、bragelonneさんすでに問題を検証するとっかかりをくれています。 采配を振るえる司会者であり進行役のbragelonneさんの見解の基づいて必要ならば「私?は」さらに追記することでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ a45 では bollfish11 さんと正反対の見地を表明したわけですが  ☆ もし 言葉どおりに解釈するとすれば こうなりましょうか?  ○ 片や 《分数という概念が 頭に備わっているかいないか》を問題とする。片や 《思考形式といった潜在能力が備わっていたとしても その能力を 教師たちが ウソのまかり通る社会に売り飛ばした。だから おしえるときには 教師もいい加減であれば 生徒たちも いつも 上の空で聞いている》。  ☆ つまりは 二分の一という分数をおしえ・おそわるにしても 実際の社会では 0.5 づつに分配されるのではなく そうではなく 力関係によって 0.3 と 0.7 とに分けられる。のだから 二分の一が 十分の三や十分の七になると 教室では あたかも おしえているかの実態がある。のではないか。ということでしょうか? これでは 理解が進まないと。  ちょっと 極端な議論であると思うのですが いかがでしょうか?  あるいは 極端に曲げて解釈してしまいましたか?

noname#117439
noname#117439
回答No.32

オコリザルです。 面白そうなのでA44のbollfish11 さんの話に続きます。 >それは理解できる子には、もともと分数を理解できるような概念が備わっているからであり、そうでない子には備わっていないからだ。 内心の問題の取り組みに終始した私の言い分では、これは分数を理解できる潜在性を嘘のまかり通る実社会に売り飛ばした。 と、解釈します。 売った側には言い分もあるでしょう。 それは、「まかり通る故」であり、「自らの体現」でもあるでしょう。 でもとことん心の問題に取り組む私にとっては、あくまでも実社会に自らを身売りした姿勢であり、ウソを肯定した姿勢です。 bollfish11 さん。別に気分を害させるつもりはないんですよ。 小泉元首相の言うとおり人生いろいろです。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    分数を理解できる潜在性を嘘のまかり通る実社会に売り飛ばした。  と、解釈します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まづ  ○ 分数という概念が 頭の中に備わっているというのではなく 分数なら分数という思考形式――これが 《潜在性》ということで いいのですね?――が備わっている。これを開発するかどうかであり それは その本人の努力にかかっている。  ☆ という前提としての内容を わたしは述べたのですが それで よろしいでしょうか?  もしそうであるとすれば 次には   ★ 潜在性(* または 潜在能力)を嘘のまかり通る実社会に売り飛ばした。  ☆ についての解釈ですが   ○ 《売り飛ばす》とはどういうことか?  ○ 誰が売り飛ばすのか?  ☆ が まだ よく分かりませんでした。  ★ それは、〔* 嘘が〕「まかり通る故」であり、「自らの体現」でもあるでしょう。  ☆ 《ウソがまかり通っている》のは 社会の慣習一般のことですよね。《自ら そのウソを常習とする》というのは 子どもたちに対する教師のことですか? その《学校の教師たち》の  ★ あくまでも実社会に自らを身売りした姿勢であり、ウソを肯定した姿勢です。  ☆ ということになるでしょうか?  さて 次の点で 話が飛躍しているように思えるのですが どうなのでしょう?  ○ もし 子どもたちが 自分で自分からおそわるという原則が基本であるならば 教師は――間違ったことをおしえなければ―― 特に 問題になっていないと思うのですが どうでしょう?  ○ おっしゃるところの《うその常習》については 別の問題だと思うのですが どうでしょう?

noname#86347
noname#86347
回答No.31

なぜ同じ教室で同じ先生から教わっているのに分数を理解できる子とそうでない子供がいるのでしょうか? それは理解できる子には、もともと分数を理解できるような概念が備わっているからであり、そうでない子には備わっていないからだ。 と考えるほうが合理的だということでしょうか。

bragelonne
質問者

補足

 bollfish11 さん ご回答をありがとうございます。  ★ 同じ教室で同じ先生から教わっているのに・・・  ☆ あぁ なるほど こういう見方も 身近なところで ありますね。直近では 棋士が 将棋のいろはをおそわるけれども そのほかには いっさい ひとから おそわることなく しかも みづからの能力を 自分で拓いていくといったお話をうかがいました。  ただし 今回は  ★ なぜ・・・分数を理解できる子とそうでない子供がいるのでしょうか?  ☆ の問いかけに対して  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   それは理解できる子には、もともと分数を理解できるような概念が備わっているからであり、そうでない子には備わっていないからだ。  と考えるほうが合理的だということでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 理由の分析の点で プラトニックな(だと たぶん 思います)イデアか何かの問題にからめて 問うておられますね。  たぶん――むろん わたしの考えですが―― ちがうと思います。つまり イデアが もともと あたまの中にあったなどということは 信じたくないです。  たぶん その分数なら分数という概念が そっくり あたまの中に もとからあったというようなことではなく そうではなく 分数なら分数としての思考形式が それとして 開発を待っているかのように そなわっているのではないでしょうか?  また そういう思考形式というのは 昔から 人びとが 経験し 活用してきたことですから その歴史的な蓄積というものは 親から子へと 脳裡においてか遺伝子によってか分かりませんが 受け継がれるのではないでしょうか?  と思うのですが ということは 分数を理解できない子は その思考形式にかんする能力を 自分で 開発しようとしないということになるでしょうか? ちょっと 素人がいい加減な発言をしても行けませんが そういう推理にはなるように思うのですが いかがでしょうか?  ありがとうございました。  * 備わっているものは 《概念》とおっしゃっています。それを 《思考形式》と替えただけで でかいことを言ってしまいました。ま 誰もに備わっているかどうかで 見方も分かれるかに思われますので  訂正もせずに このまま お応えとさせていただきます。ただし その点 ずるい表現の仕方になってしまいましたので おわび致します。澄みませんです。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.30

#41です。#40の文章では、何故質問者さんの論旨からは、私が何も教わらなかったか、それとは反対に、何故その青年から私が教わったかについての説明が無いので、分かりづらい文章に成っているかも知れないので、それに触れておきます。 質問者さんの解説していることは、もしそれに興味のある人間が本気で言語学の教科書を勉強すれば誰でも言うようなことが書いてあるだけですので、その解説を理解したところで、質問さんが言語学の新しい流れをつくりだす可能性は限りなくゼロに近いことが見て取れます。一方、この青年の言ったことは、もしかしたら今まで気が付かなかった何か底知れぬ可能性を孕んでいる。ものを創り出す営みに共通した経験則があります。それは、それが生み出された時は論旨が未熟で、したがって、その論旨は緻密さや洗練さとはほど遠いと言う共通点があることです。それとは対照的に、自分で創り出してきたわけではなく、お勉強をして、人の言ったことを判った気でいる連中にも共通点があります。そう言う連中は、それを創り出した者達が血の涙を流し、石に齧り付きながらその未熟だったアイデアを洗練させてきた結果だけを読んで勉強してきたものですから、そう言う連中の論旨は、大抵の場合緻密で、洗練されています。このような連中は困ったもので、自分の論旨の緻密さ故に、まだ未熟で拙い表現しか出来ないでいる、将来大発展をする可能性を孕んだアイデアや視点を、潰しにかかってきます。まあ、将来横綱になる可能性のある赤ん坊の手を捻って、自分の方が強いと威張っているようなものです。 蛇足に成りますが、この経験則を認識すると、実は次の重要な結論が出てきます。人のやったことをお勉強しようと言うのはなく、何かを創り出すことを目的として研究所を作るには、決して巨大な研究所を作って、研究者達を一堂に集めては駄目だ。さもないと上の例のように、重要なアイデアが潰されてしまうからだ。そのまだ未熟なアイデアを立派に成長せるためには、しばらく研究者が孤立していられるように、研究所を一カ所に集めないで適度の分散させ、互いにルーズにコミニュケーションが出来るようにして置かなければならない。一堂に集めて失敗した例は、例えば政府肝いりで大阪、京都、奈良の境に作ったケイハンナ研究都市や、金に糸目を付けずに巨大な研究所を作ったアメリカのゼネラル・モーターズの中央研究所があります。一方その反対に、各研究所の規模を小さくして成功した例は、研究者達を適度に孤立化させるようにドイツの各地に研究所そ分散させた、マックス・プランク研究所です。この研究所は、ノーベル賞を貰った人の数をそれにつぎ込んだ予算で割った比が、どこの研究所と比べても大きいと言う記録を持っています。 私の言う「教わる」ということは、お勉強をすると言うことではなく、新しい世界を垣間みる機会を手に入れると言うことです。

bragelonne
質問者

お礼

 cyototu さん 見解の相違です。仕方ありません。  経験思想であれば 自由にえらべばよいと すでに 申し上げております。そういう問題でしたか。  自然科学の研究には 設備やその他のために資金が必要です。そうでない社会科学ないし哲学の場合は せいぜいが 書物代だけだとも言える場合があります。  その違いを加味しても 一人ひとりの独立した研究者の ひとりによる研究が 基軸になることは どうも 経験則であるようです。  わたしのあたらしい日本語文法論が これまでの何千・何万という研究者のそれぞれの地道な長年にわたるいとなみの上に ただで 乗っかっているのは 実際です。古文書を相手に 本文校正から始めて 一生を費やしても 研究をするという段階には到らなかった場合さえ あるかも知れません。そういう努力を 足蹴にして 文法の新しい整理をしたのです。そして したことが悪いとは思わない。ただ それだけのことです。  これが 見解の相違です。

  • tohoho2
  • ベストアンサー率23% (16/68)
回答No.29

これは、将棋のプロ棋士が参考になるのではないかな。 プロ棋士になるには、今の制度では、プロ棋士の弟子になる必要があるが、ほとんどの弟子はプロ棋士から将棋を教わらない。弟子が将棋の言葉(ルール)を教わるのは、ほとんどの場合は弟子の親である。プロ棋士が弟子に将棋を教えるときは、あなたは将棋の素質がないので早く別の道を見つけなさいという時だそうだ。したがって、プロ棋士になったものは、だれからも教わったことがない。自分で能力を開くのである。

bragelonne
質問者

お礼

 tohoho2 さん ご回答をありがとうございます。  なるほど。実際に ものごとをおそわるという事実があったとしても 《自分で その能力を開くのである》と言おうとしているのですが  ★ プロ棋士になったものは、〔――自分の親から 将棋の言葉(ルール)を教わる以外は――〕 だれからも教わったことがない。  ☆ という事例が 明確に あるということですね。  まぁ 言語を駆使するのに これをまづ習得するということは おそわる必要があるけれども それは 話の前提となる基礎的なことである。それと同じように 必要最低限の基礎的なことがらを・つまりは 将棋のルールを おそわるけれども それ以外は 事実として おそわらない。それにもかかわらず 能力を開き磨いていくということですね。  これは 分かりやすいですね。《自分で 自分から おそわる》 これが 基本的な自己教育であり 自己形成なのであるとなりましょうか。むろん 世の中から さまざまな情報を得つつであることは 言うまでもないことでしょう。  ありがとうございました。  * もし そういう実例があるのでしたら この質問趣旨については これから しっかり 教育なり哲学なりの分野で 精確な理論化が 望まれることになりますね。

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