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カント 純粋理性批判について

「すべての変化には原因がある」という考え方ですが、どうしてこれはアプリオリな認識なんですか? ”変化”は経験から引き出されるものなのでカント独自のアプリオリの定義には反すると思います

  • dcqkr
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  • Nakay702
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回答No.2

補足とリンクの貼付をありがとうございました。 >「すべての経験から絶対的に独立した認識」が「アプリオリな認識」であるはずですが、ここでの”経験”とは例えばサッカーをした、会社に行ったなどの具体的な体験のことを指しているのであって”変化”、”愛情”、”学習”、”怒り”のような抽象概念の認識や理解については純粋理性批判で定義される”経験”には含まれないということでしょうか ⇒はい、おっしゃるとおりだと思います。カントの認識論は、イギリス経験論から大きな影響を受けていますが、特にその経験論の見方からすれば、抽象概念の認識や理解は純粋理性批判で言う「経験」には含まれないようです。例えば、「愛することや愛されること」は経験できますが、「愛情そのもの」は経験できないという解釈でしょう。 その筋の文献(Wikipedia)によれば、《カントは、認識主体によって構成される世界を「現象界」と呼び、私達に経験できるのはこの「現象界」だけだとします。その上で、人間が決して経験できない世界そのものを「物自体」と呼んで認識能力が扱える範囲外に位置付け、これまでの哲学の誤りは全てこの「現象界」と「物自体」の混同から生じるとして、これまで哲学がぶつかってきた難問の解決を試みていきます。》とあります。 つまり、「物自体」(Ding an sich) は現象しない。「変化、愛情、学習、怒り」などは「物自体」のうちである、という解釈でしょう。極端に単純化すれば、経験できるのは「色や形のあるもののみ」と言えるかも知れません。 別の文献(NHKテレビテキスト)は「ダメ押し」をします。《カントは、認識主体によって構成される世界を「現象界」と呼び、私達に経験できるのはこの「現象界」だけだとします。その上で、人間が決して経験できない世界そのものを「物自体」と呼んで認識能力が扱える範囲外に位置付け、これまでの哲学の誤りは全てこの「現象界」と「物自体」の混同から生じるとして、これまで哲学がぶつかってきた難問の解決を試みていきます。》と。

dcqkr
質問者

お礼

わかりました アプリオリはそのようなものであると理解してこの本を読み進めて行きたいと思います このアプリオリの概念でつまずいてましたがやっと前に進めました この度は誠にありがとうございました

その他の回答 (1)

  • Nakay702
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回答No.1

以下のとおりお答えします。 >「すべての変化には原因がある」という考え方ですが、どうしてこれはアプリオリな認識なんですか? ”変化”は経験から引き出されるものなのでカント独自のアプリオリの定義には反すると思います ⇒お言葉ですが、抽象論と具体的知覚の違いだと思います。 「何かが変化したということは、それを起こさせたものがあるに違いない」と考えることは、いわば思考実験のようなものですから、先験的に認識できるのではないでしょうか。 アプリオリな認識ができないのは、変化や原因そのものでなく、その「具体的な中身の何たるか」ではないかと思います。いかがでしょうか。

dcqkr
質問者

補足

ご回答ありがとうございます 以下が純粋理性批判の書籍の1ページの文章です https://www.dropbox.com/scl/fi/hobtig0w6855pyze93krc/.jpg?rlkey=5r1dzx5pmwzpre0en25tr5b32&dl=0 「すべての経験から絶対的に独立した認識」が「アプリオリな認識」であるはずですが、ここでの”経験”とは例えばサッカーをした、会社に行ったなどの具体的な体験のことを指しているのであって”変化”、”愛情”、”学習”、”怒り”のような抽象概念の認識や理解については純粋理性批判で定義される”経験”には含まれないということでしょうか

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